番外編

彼の話

 ふとしたら少女のように見える、華奢な身体。

 パーマをかけたような見事な癖毛は、背中にまで届いており、ますます少女らしい。

 母親譲りの整った顔立ち、大きく見開かれた闇色の瞳には、窓の外で囀る小鳥が映っている。


「おはよう、今日もいい天気だね」


 その言葉に返事をしてくれる人間が、彼の周りには居なかった。

 彼の父は実業家で、そのほとんどを海外で過ごしている、らしい。何しろ物心ついてから、一度も顔を見たことがなかったので、彼にはいまいち実感がなく、また興味もなかった。

 彼の母は、月に二、三度ほど顔を見るので、彼も覚えていた。

 女優、奄美悠。

 彼の母は芸能人で、いわゆる大御所女優という立ち位置にいた。

 演技の巧稚がどうこう、というよりは、そのさっぱりとした人生観やあけすけな物言い、そして機転の回る性格、といった彼女自身のキャラクターを買われて、テレビに出ることが多いようだった。

 彼の母は、世間一般では子供はおろか、結婚さえまだしていない、ということになっていて、だから彼は表に出ることすら許されず、一人で家に閉じ込められるようにして生活していた。

 だから彼は朝の挨拶を、小鳥に向かってすることにしていた。


 もちろん、彼の身の回りの世話をしてくれる人間がいなかったわけではない。

 何も知らない子供が、食事の準備や排泄の始末、着替えや入浴などを一人で行えるはずがない。

 そういうのを受け持っていた、ベビーシッターが彼の家に通ってきていたはずなのだが、彼はそういった人間の事を覚えていなかった。

 何しろ、彼の境遇ときたら、貴族の私生児もかくやというほどに秘匿されていたので、その世話をする人間は、そういう秘密事を守るための特別な人員なのであった。

 高い給金を受け取る代わりに、何も覚えて帰らないし、何も口出ししない。

 そういった、潔癖症なまでの徹底ぶり故に、彼の記憶にさえ、その足跡を残すことはなかったのだった。


 というのは、一つの側面にすぎなかった。




「粟島さん」

「……は、はい」

「あはは、そんなに緊張しないでくださいよ」


 彼に話しかけられた時、粟島は身を引き攣らせるように反応した。

 彼は微笑むような形に表情を変えて見せた。

 それは年齢にそぐわない、気を使った作り笑いであるように粟島は思った。

 母親譲りの整った顔を傾げながら、大きな二つの闇色の瞳が値踏みするように見定めているように思えて、粟島は背筋が粟立つのを感じた。


「聞きたいことがあるんですが」


 そう言って彼は『どうぶつずかん』と書かれた本を粟島に向けて開いた。

 それは彼の年齢に相応しいような幼い子供向けの本で、粟島は小さく安堵の息を吐いて答えた。


「私の知っていることならお答えしますよ」

「僕の母は、どうして家に帰ってこないんでしょうね?」


『どうぶつずかん』なんかと何も関係ないじゃない―――!

 粟島は悲鳴をあげそうになった自分の喉を、なんとか押さえ込んだ。

 彼の母は、彼が住んでいるマンション以外に自分の邸宅を持っていて、ここは本宅ではない、ということを粟島は知っていたが、口には出せなかった。

 その様子を彼はしばらくじっと見つめたあと、図鑑の一角を指差した。


「見てください。カンガルーは子供をポケットに入れて運ぶらしいです。これは、子供を守るためだそうです」

「お、お母様は、お忙しい方ですからね」


 声が裏返りそうになるのを必死で抑えるようにして、粟島はそれだけ言った。

 余計なことを言わないように。

 そうあらねばならないとわかっていたのに、つい、余計なことを口にしてしまう。


「それに、お母様はあなたのことを大切に思っていますよ」

「嘘だね」


 ほとんどかぶせるようにして、彼はそう呟いた。

 粟島は心臓が跳ねるのを自覚した。

 息を詰まらせるようにして黙り込む粟島を無視するようにして、彼は一人で何かを考え始めた。


「……いや、嘘、でもないのか。『粟島さんは、母が僕のことを大切に思っているとは思っていない』。うん、これが正確だな」


 そんなことを、粟島の目の前で口にする。

 まるで、粟島のことなど興味がないかのように。


「あ、あの―――わ、私は、その」

「うん? なんですか?」


 取り繕おうとして、何か口に出そうとした粟島に、彼の眼が向けられる。

 闇色の瞳。

 どこまでも底なしの、何もかも吸い込んでしまいそうな、奈落のような瞳を。




 そう。彼は見ていた。

 粟島の顔を、ではない。

 粟島が伝えようと思うこと、或いは、伝えたくないと思っていること。

 それが彼には、ぼんやりと浮かぶようにして見えるのだった。


「さっきのは良くなかったな。怖がらせちゃった……心を読んでいることを気取られてはいけません、しかし、相手を気遣った反応をしましょう、か。うん」


 コミュニケーション技法の本を、流し読みするような速度でめくりながら、彼は一人で呟いていた。


「次は失敗しないように頑張ろう」


 そんな事を呑気に考えながら。




「……私は無理です。あの子、ふと気がつくと私のことをじっと見ているんです。実験用のネズミが、餌を食べるところを眺めるような、冷たい視線で、私のことを観察しているんです」


 身を掻き抱くようにして、小刻みに震えながら契約の更新を拒否されたことが何度あったろうか。

 子守のプロをして、そう言わしめるような、魔性を感じさせるような雰囲気が、彼にはあった。

 とかく、人間らしくない。

 不気味な、ロボットを相手にしているようだ。

 幼少の頃から、まともに人間と話したことのない彼が、コミュニケーションを不得手としているのは当たり前のことなのだったが、なまじまともに受け答えできる知性を持っているがため、ますます気味の悪い印象を与えてしまうのだった。

 そういうわけで、新たな人員が入れ替わり立ち替わり、彼の世話をしていたのだった。

 誰か一人の記憶が残るはずもない。

 記憶が残るほど、長続きした人間がいなかった、とも言う。




 そう、幸か不幸か、彼は非常に才ある子供であった。

 世話役に絵本を読み聞かせてもらうのを切欠に、あっという間に文字を覚え、言葉を理解し、読書に耽溺した。

 文字通り、溺れるように本を欲した彼の部屋は、さながら本の海のようになっていた。

 どれだけ片付けても、次の日には本棚から引っ張り出された無数の本で床が埋め尽くされていた。

 子供の悪戯で済めばそれでよかったのだろうが、彼はただ、鬼気迫る表情で読書を続けていただけで、本の海ができるのは、その結果でしかなかった。

 幼い子どもが、目を血走らせるようにして、ものすごい速度で本を読む様は、彼を『気持ち悪い』と感じる使用人たちに確信を抱かせるのに十分であった。

 なぜそうまでも読書に必死になったのか。


「うーん。どうして怖がられるのかな。次は失敗しないように頑張ろう」


 彼はただ飢えていた。

 ただただ飢えていて、自分が何に飢えているのかを知らなかった。




「香取です! よろしくおねがいします! 好きなものは子供とピーマンです!」


 そんな彼が一番初めに覚えていた『個人』は、香取というベビーシッターだった。


「おはよう。今日からよろしくお願いします香取さん。ところでこれは、なんですか」

「ピーマンだったものです!」


 胸を張ってそう答える香取の前には、皿の上に乗せられた黒色の炭があった。

 彼は台所に椅子を引っ張っていって、椅子を踏み台にしてそれを流しに捨てた。


「初日ですし、自己紹介も兼ねて一緒に朝食を食べませんか? 今日は僕が作りますので」

「あ! それ私が言わなきゃいけなかったやつだ!」


 けらけらと笑いながらそう言う香取は、食卓についたまま、彼を手伝おうという素振りさえ見せなかった。


 7歳で既に自分の家のことはほぼなんでも一人でこなせるようになった彼は、ベビーシッターなど必要ない、と考えていたが、彼の母親はそう思わなかったらしい。

 香取は今まで来てくれていたベビーシッターの中でもダントツに仕事ぶりが悪く、要領も悪く、頭も悪かったが、彼にとってはちょうど都合のいい存在だった。


「香取さん。僕は自分のことは自分でできますので、どうかお気遣いなく。そこでゴロゴロしていてください」

「嘘? ラッキー! ありがとうお坊っちゃま! チョロいぜ〜!」


 香取はそう言うと、毛足の長いカーペットにごろりと転がり、あっというまに寝入ってしまった。

 今まで来ていたベビーシッター達などは、とかく彼と関わっている時間を無くしたい、とばかりに家中を駆け回り、仕事を探しているような様子であったのに。

 彼は寝息を立てる香取を闇色の瞳でじっと見つめていた。


「(この人は、本気だ)」


 そう思った。

 仕事をするつもりはまるでなく、彼の提案に裏があると勘繰ったりすることもなく、仕事中に寝ることも厭わない。


「(本気、じゃないか。うーん、こういうの、なんていうんだったか……ああ、そうだ。彼女は僕に、取り繕わない)」


 彼の母親は、母親として。

 ベビーシッター達は、彼の一時的な保護者として。

 そういう役割として、彼に接していた。

 だから、彼にとって、こんなに自分を取り繕わない人間は生まれて初めての存在だった。

 彼はきっと、それを好ましいと思った。




「香取さん。一晩考えたんですが、さすがに寝るのは良くないと思います」

「あ、やっぱり? そうだよねー……でも、家のことは全部お坊っちゃま一人でできるんでしょ?」

「はい。ですから、香取さんには僕の世話をしていただきたいです」

「あはは、自分で自分の世話を頼む子供って! ウケる。具体的には何をすればいいの?」


 ラフな口調を隠す気のない香取に、ずばりそう問われて、彼は一瞬だけ言葉に詰まった。


「話し相手になってください」


 しかしそれは本当に一瞬だけで、口からは勝手に言葉がこぼれていた。


「あはは、オッケーオッケー。そんなんでいいなら、いくらでも。んじゃ、何のおはなしします?」


 どうして話し相手になってくれ、なんて言ってしまったのか、自分でもわからなかったが、自分から言いだしておいて邪険にするわけにもいくまい。

 そういうことは良くない、と本に書いてあった。

 だから彼は、本から目を外して、香取の方に向き直った。


「……香取さんはどうして、こんな仕事をしてるんですか?」

「お坊っちゃま。大人はお金を稼がなきゃ生きていけんのですよ」


 よよ、と泣き崩れるような身振りをしながら、香取はそう答えた。

 彼はそれを嘘だと思ったが、同時に香取が嘘を繕うつもりがないこともわかっていた。


「(僕が嘘とわかっているだろうことを、彼女自身が一番理解している……あ、なるほど。これが『冗談』か)」

「お坊っちゃま?」


 黙り込んだ彼を覗き込むようにして、香取が近づいて来た。

 彼は過去の失敗を生かして、思ったことをそのまま口に出す事はしないようにしていたのだった。


「ああ、すいません。少し考え事をしていました」

「話し中に考え事しちゃダメー」


 香取はそう言うと、ひたいを彼のひたいに軽くぶつけて来た。

 その意図は彼にはわからなかったが、不快ではないな、と彼は思った。


「以後気をつけます」

「よろしい!」


 香取は満足そうに微笑むと、離れていった。


「にしても、お坊っちゃまって子供らしくないですよねえ。何か、欲しいものとか、やりたい事ってないの?」

「欲しいものはないですね。やりたい事はあります」


 彼は、今度は即答した。

 香取は目を煌かせながら尋ねてくる。


「なになに! 教えて教えて」

「一度でいいから、外に出てみたい」

「……そっか。そうですよね」


 香取は少し口ごもってから、そう言った。


「大丈夫! それなら、私がいつか叶えてあげますよ!」

「本当ですか?」

「ホントホント!」


 彼は、自分の立場ではそれは叶うまいということを知っていた。

 それでも、香取が本気で彼の願いを叶えてくれようとしている事は、伝わっていた。

 軽い調子の台詞だったが、それは本気だった。

 本気で、彼をこの家の外に連れ出そうとしていた。







 果たして、その願いはすぐ叶うことになる。

 余りにもあっけなく。


「よーし、今日は外に行きますよ、お坊っちゃま!」

「え?」


 それはあの問答からたった二週間後のことだった。

 いつもよりも気合の入った格好の(パンツルックのスーツだ)香取は、彼の顔を見るなりそう言った。


「無理だよ。お母さんに怒られるよ」

「大丈夫ですって! お坊っちゃまのお世話は私に任されてるんですから! どーんと来い、ですよ!」


 どーん、と口にしながら、香取は自分の胸を叩いて見せた。


「でも……」

「さあ、お坊っちゃま」


 言い淀む彼に、香取は手を伸ばした。

 彼がその手を、拒む理由はなかった。


 外には黒く光る車が控えていて、彼は香取に導かれるまま、後部座席に乗り込んだ。

 後部座席には、体格のいい男が既に一人座っていた。

 男と香取に挟まれるように車のシートに腰掛けると、車は音もなく発進した。


「この人は?」


 彼が尋ねると、香取は微笑んだ。


「お坊っちゃまの知ってる人ですよ」

「えっ」


 それは香取が家に来てから初めての嘘だった。

 思わず香取の顔を見ようとした彼の腹を、座ったままの香取は、強かに殴りつけた。


「ぐ、ぇっ」


 攻撃の圧力に、堪らず嘔吐くように声を漏らしてしまう。

 太い腕が彼の背中から手を回し、彼の口に何かを噛ませ、ぐるぐる巻きに縛りつけた。

 何が起こっているのかわからないまま、彼は声をあげる術を奪われた。


「随分信頼されたもんだな」


 野太い声で男がそう呟いた。


「まあ、私にかかればこんなもんですね!」


 香取は、まったく普段通りの口調で、得意げにそう答えた。

 ここに来て、彼はようやく気づいた。

 自分は、誘拐されているのだと。




 手足をテープでぐるぐる巻きにされ、コンクリートの床に転がされた彼は、ただただ呆然とした表情で、自分を見下ろす大人たちを見ていた。


「んだァその眼は!」


 それが癇に障ったのか、男の一人が声を荒げて床を踏み鳴らす。

 暴力の気配に、彼は身を竦ませた。


「ハイハイ。そこまでー。あんまり脅かしちゃかわいそうでしょう?」


 手を叩き、呑気な口調で香取がそういって、男を諌める。

 男が文句も言わずに引き下がるのを見て、彼は、


「(香取さんは、脅されて協力せざるを得なかったわけじゃないんだ。本当に、僕を攫うつもりだったんだ……)」


 そんなことを考えていた。

 初めてまともに会話できた相手による、初めての裏切り。

 それは、彼にとっては何よりも悲しいことで。


「はッ、ガキが。そうだよ、お前たちはそうやってビビって泣いてりゃいいんだ」


 知らずのうちに、涙が流れていた。

 恐怖はなかった。

 ただただ、香取という、かけがえのない会話相手が、失われてしまったことを、彼は悲しんでいた。


「これから、お坊っちゃまのお母様に電話をかけます」


 香取は、彼を見下ろしながらそう宣言した。

 その声は相変わらず、まったく普段通りの香取のものだった。

 悪夢を見ているように、まるで現実感がない。

 だから彼は、ぼんやりと香取の説明に耳を傾けていた。


「私が合図したら、口枷を外してあげますから。お母様に助けを求めてくださいね。わかったら頷いてください」


 彼がどうしていいのか迷っていると、香取のつま先が彼の鳩尾に軽く突き刺さった。


「ぐ、うぅ」

「わかりましたか?」


 彼は頷いた。

 香取は満足そうに微笑むと、安物のパイプ椅子に腰かけた。

 男の一人が、携帯電話を取り出す。

 ジャックに端子を差し込み、電話をかけはじめた。


「もしもし。奄美さん。突然ですが―――あなたのお子さんをこちらで預かっておりましてね」

「……私に子供なんていませんが」


 その場の人間全員に聞こえるよう、スピーカーから音声が流れる。

 それはテレビでよく聞く声。

 女優、奄美悠の声だった。


「いやだなあ、奄美サン。わかってるんですよ。そうだ。声を聞けば思い出せるかもしれませんね」


 電話越しに男が顎をしゃくると、香取が彼の口枷を外した。

 彼は叫ぶ。


「た、たすけて……たすけて、お母さん!!!」


 言われた通りに、助けを求めて。

 一縷の望みと、絶望の予感を胸に。


「……本当に、何の話ですか? 私に子供なんていないことは知ってるでしょ?」


 呆れたような、苛ついているような声色。

 それを聞いて、彼は思った。


「(やっぱり)」


 疑いは、疑いのままであって欲しかった。

 そうでないと言われない間は、そうでない可能性が残っているのだから。

 しかし、それは既に、明らかになってしまった。


「(僕は、母さんには、邪魔だったんだ)」


 彼が静かに絶望の淵に沈んでいることとは関係なく、事態は進んで行く。

 奄美悠の返答に、恐れの感情が含まれていないことに気づいた電話口の男は、語気を強める。


「全部こっちはわかってんだよ、あんたの隠し子のことは! ヤッたんだろ? 実業家の……あれ」


 突然、男が口篭った。

 こういった、暴力的な交渉事に長けているはずの男が、汗をかきながら黙り込む。

 電話の向こうから呆れた気配が漂い、ぶつりという音とともに通話は切られてしまった。


「おい! 何やってる!」

「……違う! このガキの父親、なんて名前だったか……思い出せねェんだよ!」

「あァ? 奄美悠の恋人だろ? そりゃおめェ、わかってるじゃねえか! ホラ、あの……」


 馬鹿にしたような調子だった男も、途端に口籠ってしまう。

 額に冷や汗が浮かび、顔色がみるみる蒼白になる。


「何だ、これ……何が起きてる? このガキは・・・・・……誰だ・・?」


 そして、彼のことを、まるで幽霊でも眺めるかのように見つめる。


「幻術だ」


 舌打ちと共に、香取が呻いた。

 男たちに緊張が走り、場の空気が凍りついたように冷たくなるのを、彼は感じた。


「ガキは罠……! 本物の子供だと思い込まされていた! クソ! だとしたら、狙いは」

「そんなことはどうでもいい! とっととズラかるぞ!」

「ガキは? バラすか?」

「やめろ!! どんな呪いが詰め込まれてるかわかったもんじゃない!」


 事態の中心だったはずの彼は、既に男たちにとってどうでもいいものになっていた。

 フィクションめいた単語を使って、大真面目に話し合う男たちは、何かの喜劇のようですらあった。

 そして、慌ただしく荷物を纏め、彼を置き去りに逃げていこうとする男たちが、一斉に動きを止めた。


「いや、幻術は全然違うだろ。幻術だったらもっとこう、モヤモヤ〜っとした感じがある」


 いつの間にか、居た。

 黒い詰襟の学生服に身を包んだ、長身の少年だった。

 服の上からでも、鍛えられた身体であることが見てとれる、引き締まった身体つきに、まだどこか幼さの残る風貌に似つかない、鋭い目付き。

 手には何故か「止まれ」の交通標識がついた白棒をもっている。

 その標識に従うようにして、全員が動きを止めてしまっていた。


「まあ、とりあえず全員寝てもらう」


 少年はコンクリートの床に止まれの標識を突き立てると、どこからともなくもう一本の白棒を取り出した。

 その棒には、60と書かれた標識が付いている。


「最低速度―――60km/h」


 少年がバットのように白棒をスイングして、動きを止めたままの男の頭を叩くと、男は面白いほど綺麗にすっ飛んでいって、壁に激突した。

 いくら鍛えているとはいえ、人間の膂力で、成人男性をボールのように撃ち飛ばすことはできはしまい。

 明らかに異様な光景を、少年は鼻歌交じりに生み出していた。


「何者だ、お前……! こんな幻術まで使って、何故我々を狙う!」


 最後に残った香取を殴ろうとした少年は、突然動き出し、構えを取った香取を見て、面倒そうに頭を掻いた。


「効きづらいんだよな、お前みたいな奴には。悪人は交通法規を守らない」

「質問に答えろ!」


 油断なく構える香取に対して、少年はどうでも良さそうに欠伸をした。


「幻術じゃねえっつってんだろ。これはただの余波だよ。ある人間が消滅したせいで、それに伴う人間の関係が連鎖的に消失している。その子供の場合、個人としての存在が逆行的に消失することはないが、誰かの子供であった、という価値は失われるわけだ」


 まるでどこかで聞いたものをそっくり真似するような口ぶりで、少年はそう答えた。

 その言葉の意味を考えようとして、一瞬香取の意識が目の前の少年から外れる。

 その瞬間には、少年は踏み込んでいた。

 恐ろしい速度で詰め寄り、横薙ぎに白棒を振るう。

 回避は間に合わない。

 香取は舌打ちして、膝と腕で急所を防御したものの、棒が触れた瞬間、冗談のように吹き飛ばされた。


 彼は、ただそれを呆然と見ていた。

 少年の視線が自分に向いたのを見て、身を震わせようとして、改めて、自分の身体がまったく動かないことを自覚した。

 少年がしかめ面で彼に近づいてきた。


「うわひでえ。こんなぐるぐる巻きにしなくてもいいだろに。解くときのこと考えてねえのかこのバカ共は」


 自分も同様に棒で殴られて吹っ飛ばされるのだと思っていた彼は、少年が自分の身体を拘束するテープを剥ぎ取り終えてようやく、自分が助けられたのだと気がついた。

 テープを解いたにもかかわらず、硬直したままの彼を見て、少年は小さく笑った。


「あー悪い。解き忘れてた」


 少年が腕を振ると、床に突き刺さっていた標識が跡形もなく消え去った。

 それと同時に身体が動くようになって、彼はふにゃりと床に崩れた。


「ありがとうございます」


 何が起こったのかわからないが、彼は少年に礼を言った。

 それを聞いて、少年は目を瞑り、首を振った。


「ああ、いや、そういうのはやめとけ」

「え?」

「俺も、お前を攫いに来たんだ」


 バツの悪そうに少年がそう言う姿を見て、彼は笑みの形に顔を歪めた。


「カンガルーは、子供を腹に入れて運ぶんだ。四六時中一緒に見守るため。それほど子供を大切に思ってる」

「は?」

「でも僕はそうじゃない。お母さんは僕のことなんてどうでもいいと思ってる。僕を攫っても無駄なんですよ」


 少年は腕を組んで、笑ってみせる彼を見た。

そしてその笑顔を否定するように、言い切る


「お前の母親のことは知らん。必要なのはお前だ」


 それだけ言うと、まるで米袋でも担ぐようにして彼を軽々と肩に持ち上げた。


「まあそう悪いようにはしないから。ちょっと来てくれ」


 彼に拒否権はなかった。

 しかし、拒否するつもりも、きっとなかった。




 彼を担いだまま、少年は団地をぐるぐると歩き回っていた。

 昼下がりの団地には、何故か人ひとり見当たらず、彼を担いで歩く少年を見咎める者は誰もいなかった。

 団地の階段を上り、廊下を歩いて、逆側の階段を降りる。

 一つの棟の周りを、三回回る。

 棟と棟の狭い隙間を、すり抜けるようにして進む。

 明らかに無駄と思える道のりを、足取りも変えず、無言で進む少年。


「何やってるんですか?」

「順路だ」


 彼が尋ねると、少年はそれだけ答えて口を塞いだ。

 それ以上聴くだけ無駄なのだ、ということを理解して、彼は質問をやめた。


 そうして歩くこと十数分。

 三又の分かれ道の真ん中を進むと、明らかに団地の空気とは違う、妙に開けた空き地にたどり着いた。

 空き地の草は丁寧に刈り込まれ、人の手が入っていることが見てとれる。

 四方を壁に囲まれたその空き地の真ん中には、屋根と滑車の付いた古い井戸があった。

 少年は肩に担いだ彼を下ろすと、井戸を指差した。


「あれを見てきてくれ」

「どういうこと?」

「あれを見て、どう思ったかを教えて欲しい」


 要領を得ない少年の要求に、彼は訳も分からぬまま、とりあえず頷いた。

 縁に手をかけて、彼は井戸の中を覗き込んだ。

 どこまでも暗い井戸の底には、何も見えない。

 果たして、この奥に水が湧いているかどうかも分からなかった。


「おーい」


 彼はなんとなく、そう呼びかけた。

 おーいという残響が返ってきたように思えた。

 ほとんど何も考えずに、彼は続けて井戸に問いかけた。


「誰かいますか?」

「すごい。よく気づいたね」


 唐突に耳元で囁かれて、彼は身を竦ませた。

 聞いたこともない、柔らかい声に、背筋がぞっと冷え込んだ。

 慌てたせいか、縁に付いた手が滑る。

 手をつこうと伸ばした先は、井戸の中で。


「わ、あーーーー!」


 彼はどうしようもなく、落ちていった。







 そこは洪水だった。

 溢れているのは水でなく情報だった。

 人が、人に伝える情報。

 コミュニケーションによって伝えられるもの。或いは、伝えられないもの。それら全てが、彼の目の前を行き交っていた。

 手を伸ばせば、それを理解することができた。

 不安。心配。おい、このガキ死んでんじゃねえだろな?


「死んでないよ」

「うお!」


 そう言いながら彼は目を開いた。

 側で誰かが叫び声をあげる。


「びっくりするじゃねぇか。ったく」


 彼の側にいたのは、くすんだ灰色の髪。灰色のシャツ。射殺すような眼光の男だった。

 ブツブツと文句を言う男からは、しかしその態度とは裏腹に安堵が伝わってきた。


「目が覚めたか」


 おざなりなノックと共に、部屋に入ってきたのは学生服の少年だった。


「……えっと。なんだか何もわかんないんですけど、ここどこですか。あの井戸はなんだったんですか」

「は? おい『標識』。お前何も説明しないで『井戸』に連れてったのか?」

「『庭師』の見立てだ。間違いない」

「お前な、少しは自分の頭で考えろよ。マニュアル人間が」


 何考えてんだこのアホは。信じられねえ。説明くらいしてから連れてこい。

 灰色の男が、『標識』と呼ばれた少年にそう伝えたい、ということが彼には手に取るように……否、手に取って理解できた。


「……おいガキ。てめえ何使ってやがる」


 灰色の男が、ライターに火をつけた。

 火の粉が男の周りに舞って、急に男が何を伝えたいと思っているかが分からなくなった。


「使う……何を? 僕は……」

「惚けてんじゃねェぞ。俺に魔法使ったろ、今」

「読心系、でもないな。んー、結構な大魔法じゃないか? これ」


 いきり立つ灰色の男を尻目に、少年は宙を見つめて腕組みをしている。


「魔法って……魔法?」

「魔法だよ。『井戸』に見初められたんだろ? 何使ってんだお前」


 確かに、あの井戸に落ちてから、どこか妙な感覚がある。

『これ』は魔法なのか?

 彼は自分の両手を見つめた。

 別段変わりない、自分の手。

 しかし、その手を伸ばせば、摑み取れる。

 灰色の男が自分を警戒していることがわかる。

 自分に向けられたものは勿論、他人が他人に向けたものであっても、彼にはそこに含まれる意図を手に取るように理解することができるようになっていた。

 それは、例えるなら、


「手紙を、見てるように思います。人が他人に宛てたものも、こっそり見れるような」

「……情報収奪。いや、情報掌握魔法、か?」

「手紙か。じゃあお前は『郵便屋』だな」


 灰色の男はそう言って彼を指差した。


「『郵便屋』?」

「お前の呼び名だよ。万書館はチームだ。役割で名前を呼びあう。俺は『焼失』。こいつは『標識』」

「いいじゃないか、『郵便屋』。俺は標識。よろしく」


 彼は……『郵便屋』は。

 そう名付けられたことが、何故かとても誇らしいことであるように思えた。


「……よろしくお願いします。『焼失』と『標識』」

「おう。わかんねえことがあったらなんでも聞け」


 ぶっきらぼうにそう言ってのける焼失に、郵便屋は尋ねた。


「はい、あの……『万書館』って何ですか?」

「そっから説明してねえのかよ!!!」


 焼失は叫んだ。

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魔法使いの終わらない夏 不死の彼女が望むもの 遠野 小路 @piyorat

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