エピローグ/ネクストステージ(下)

 肉が床を蹴る湿ったような音と共に、数瞬前まで床に転がって呆けていたはずの女が浅黒い肌の男の眼前にまで迫り、腕を振りかぶっていた。

 その腕は、脚は、先程までよりも明らかに肥大化している。

 肉の魔女による肉体の変性――

 使い捨ての端末による捨て身の一撃は、男が言葉を継ぐよりも速い。

 人間の反応速度を凌駕した抜き手が炸裂し、盛大に血が飛び散った。


「とりあえずで一人使うなよ。人の命を何だと思ってんだ」


 名無しの男は姿勢も、浮かべた表情も変えることなく、ただ立っているだけ。

 しかし突撃した女の肥大化した腕は、車に轢かれたかのようにひしゃげていた。

 女はそれに構うことなく、大きく体を捻り、残った腕を振りかぶる。


「かけがえのない大切な、大切なものだよ」


 渾身の二撃目、喉を狙った抜き手も男には届かない。

 その体のすこし手前にまるで透明な仕切りでもあるかのように、指先が、腕が、飛び散った血肉が弾かれていた。

 女自身の異常な身体能力による攻撃、そのエネルギーの全てが跳ね返されている。

 損傷を無視して三撃目を放とうとして身を捻った女は、バランスを失ったコマのように倒れた。

 肉の操作だけでは補えない、失血による活動の限界が来たのだった。


「あー、は人じゃないってか」


 両腕が爆ぜたように散った女を、眉を潜めて見やる男。

 死体となった身体から静かに血が広がっていく。

 肉の魔女は無表情のまま、名無しの男から視線を離さない。


だけじゃない。も」


 肉の魔女は首を傾げ、主を守らんと立つ配下に視線を向ける。

 釣られて男がそっちに視線を向けた時には、すでに配下の男は駆け出している。

 無拍子、或いは『黒白』と呼ばれる古武術の技術。

 完全に不意をついた一撃で、配下の男は先程と同じように自分の腕を砕き、血を失ってその場に倒れた。

 いつの間にか、地下中を埋め尽くしていた肉のオブジェ――『人の算盤』の身体中に、眼が生えていた。

 それら全ての視線は、名無しの男に油断なく向けられている。


「そして君もだ」

「そうそう。そういう奴だったよ、てめーは」


 降参するジェスチャーのように、男は両手を挙げて見せる。

 その掌にはそれぞれ、黒と白の碁石が埋め込まれていた。


「結界の魔道具……天仙道」

「そ。つーわけで物理攻撃は効かねー」


 瞬間、『人の算盤』から数多の触腕が生え、男に向かった。

 射出された肉の槍は全て結界に防がれ、床に落ちた。


「本当だね」

「てめーの魔法は肉体の変質。触れないなら通じない」

「それは触れれば通じるということかな?」


 床に落ちた触腕の一つ、女の死骸の上に落ちたそれが脈動する。

 床に広がっていた血溜まりがぶるりと震え、目的を持って動き出す。

 男の足元、結界の内部に浸透していた血が蛇のようにとぐろを巻いて男の脚を登る。


「うえっ!? キッショ!」

「『どこからどこまで私だろう。髪の端から爪の先』」


 男の身体に肉の魔女が『触れ』た。

 魔女の詠唱と共に、肉体変性の魔法が起こり、男の身体を変質させる。


「なに……?」


 

 何も起こらない。

 触れた肉体の全てを掌握し、粘土細工のように自在に捏ねるはずの魔法が効かない――否。

 術者本人にだけわかる感触で言うならば、


「『肉の魔女』つっても、未来のてめーには勝てねえんだな」

「君は私ではない」

「あ? そりゃそうだよ。この身体を設計したのが未来のてめーって話だ」


 男はぶつぶつ文句を言いながら腕を数回軽く振る。

 脚に巻き付いた血の蛇がばらばらに切断されて床に落ちた。


「信じられないね」

「だろうな。これは未来の情報だし」


 男の言葉を受け、魔女は自分の言葉を思い出す。

 


「それで? 魔法が効かないからって、君を殺す手段ならいくらでもある」


 肉の魔女は片手を上げて指を鳴らした。

『人の算盤』が蠢き、繋がり、一つの大きな天幕のように伸びていく。

 そして、肉の天幕が二人を覆う。


「このまま覆っているだけで君は低酸素で死ぬ。飢えて死ぬ。抜け出そうと結界で

 斬ったとて、斬られた先から肉を生やすことなんて造作もない」

「そうだろうな」

「死にたくないなら信じてもらえる努力をしたら? それくらいの備えはしているでしょう」


 暗闇の中でも効く眼を持つ肉の魔女だけが、男のことを一方的に視ることができる。

 しかし、絶対的な死を告げられたはずの男の表情には、未だ不安や怯えといった気配がない。


「てめーは俺を殺せない」

「何故そう言い切れるのかな」

「俺は『イトシノフエ』を知っている」


 男がそう言った瞬間、肉の天幕から無数の肉の槍が生えた。

 その全てが結界によって防がれ、破裂する。

 自らの攻撃の勢いで肉の天幕は裂け、再び地下室の明かりが二人を照らす。

 男の目の前には髪を逆立て、射殺すような視線で睨む少女が迫り、眼前で結界に阻まれていた。

 その表情には、《時計塔》の首魁たる大魔法使い、『肉の魔女』としての余裕などまるでない。

 激情に振り回される少女のようでも、怒りに狂った猛獣のようでもあった。


「……どこで聞いた、それを。お前」

「さあ、どうだかな」

「どこで聞いたと聞いている!!!!!」


 落雷のような破裂音。

 男を打ち据えんと振るわれた肉の大鞭による音だった。

 物理攻撃は効かない、と豪語した男の言葉の通り、その一撃もまた防がれる。

 男は爆ぜる大鞭をちらと見て、大きくため息を吐いてみせる。


「ワガママって歳でもねーだろ。ガキの見た目だと脳までガキになったのか?」

「お前、それが……どれだけ、私が、それを!」

「知ってるよ。だから口にしてんだ。

 お前は俺を殺せない。唯一の手がかりを失うわけにはいかねーだろ?」


 脳から情報も吸えないしな、と付け加えて、男はくく、と笑ってみせた。

 そして、飛び散った肉の破片の中に埋もれていた、血まみれの男の服を着る。

 ゆっくりとした着替えの最中も、魔女は息を荒く吐き、爛々と輝く怒りに塗れた両目で男を見ていた。

 男は床に落ちていたまだ形を残している眼球を拾い上げると、魔女に向かって掲げて見せる。


「死にたくねーなら黙って見てろよ、。それがてめーの望みでもあるんだからな」


 そう言って、男は眼球をポケットにしまい、魔女の肩をぽんと叩くと、歩いて部屋から出ていった。

 魔女は男が出ていった後も一人立ち尽くしたまま動かなかった。

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