∞. カコイマミライ

第∞話 終点〈シュウテン〉

「東京、東京です。ご乗車ありがとうございました。中央線、山手線、京浜東北線――」


 新幹線からホームに降り立つと落ち着いた声音の女性アナウンスが耳に入ってきた。年配女性アナウンサーを彷彿とさせるその声には魅惑的な何かが含まれていて、エロティックなお姉さんを瞬時に想像するのもかたくない。


 そんなアナウンスを全身に浴びながら、Uターンラッシュによってすし詰め状態に成り果てているホームをひたすら歩く。


『んー、宿題しなきゃ。模試の対策も少ししておきたいなぁ』


 三日ぶりの関東。西日本から東日本への大移動と持田の声が非日常から日常への逆戻りを大仰に告げているような気がした。


 結局、岡山からの新幹線では自由席に座り、女性陣三人は新横浜で降りた。約三時間の移動中、俺たちの空気が異様な重苦しさに包まれていたのは言うまでもない。持田とは改札で再開してから新横浜に到着する直前まで一言も言葉を交わさなかったし、上浮穴は俺が声を掛けてもどこかよそよそしい態度になってしまっていた。東雲は東雲で普段通りの元気溌剌はつらつとした様子だったけれど、俺としてはもはや神様と会話をしているということに意識が引っ張られて普通でいられなかった。そのせいもあってか、三人が新横浜で下車してからはこの上なく気持ちが軽くなったのはここだけの話。


 とにもかくにも、なぜ俺だけ東京までやって来たのか。それは左手にぶら下がっているお土産が原因だ。


 上浮穴かみうけなの兄にして俺の天敵であり爽やかイケメンの俳優感丸出し大学生、瀬奈せなさんに頼まれていたお土産がこの紙袋の中に詰まっている。それも愛媛土産ではなく岡山土産だ。今回の旅行の移動手段として選ばれたのが飛行機ではなく、当然綾タカでもなく鉄道だったのはこの白桃ゼリーを岡山で買うためだったらしい。……いや、ネットで取り寄せたら解決するだろ、とツッコみたかったけれどわざわざ切符の手配をしてくれた手前、そんなことは絶対に言えない。そもそも費用としては新幹線のほうがお安いですしね、本音はこれなんだけどカモフラージュのためにお土産を頼んでおくか、とかマジで考えてそうだな、あの人。


 瀬奈せなさんの用事を考慮して東京まで出向いたわけだけれど、相変わらずの大要塞東京駅っぷりに心が折れかけている。大阪旅行の際に苦しめられた梅田駅もそうだけれど、なんなの? 巨大ターミナルは迷路にしないといけない縛りでもあるの?


 そんなことも考えながらようやく改札を抜け、じっくりと周囲を見渡すと見知った姿が視界に飛び込んできた。


 疲弊しきった体から何とか声を絞り出し、瀬奈さん、と軽く叫ぶ。


「お! 松前くん! お帰りーお帰りー!」


 目は死んでいるのに口元は白い歯を見せながら微笑んでいて、作り笑い感が満載だった。瀬奈さんも俺のほうへと歩みより、真正面で立ち止まって言葉を続ける。


「いやー、お疲れ! 旅行は楽しめた?」


「ええ、まぁ。同級生と旅行なんてほぼ初体験でしたけど、楽しめましたよ」


 さらっと口から出たこの言葉は本心だ。料理や景色、目にしたものすべてが思い出として脳内で鮮やかに色づいているし、同伴したメンバーにも一切の不満はなかった。


 ふむふむと頷きながら、それはよかったと呟く瀬奈せなさん。満足したのだろうか、顔の動きを止めて俺の左手にぶらさっがている紙袋をじーっと凝視している。


「で」


 ありの動きを観察する小学生のような目つきでただ一点を見つめながら、瀬奈さんは話題の転換を試みている。流れに抗う必要もないだろう、と俺も紙袋を差し出した。


「これ、頼まれてた白桃ゼリーです」


「おお、ちゃんと覚えてたんだな。サンキューサンキュー!」


 実のところ、覚えていたのは上浮穴であって俺じゃないんだよなぁ。岡山駅で上浮穴からお土産のことを指摘されていなかったら俺は今、瀬奈さんからどんな仕打ちを受けていただろうか。想像するだけでも子犬並みに震える。


 そんなこちら側の裏事情も当然知ることなく、瀬奈さんは紙袋の中を覗いて大きく目を見開いた。これこれー! と絵に描いたような喜び方をする瀬奈さんが心なしか単純な人間のように思える。そんなわけがないのに。


 とにもかくにも俺の任務はこれで終わりだ。早急に帰宅! 定時帰宅! とかホワイト社員よろしく微かに後ずさったけれど、帰る前に一応報告しておくかと口を開いた。


「それと、かみ……妹さんのことですけど――」


 瀬奈さんに語り掛けている最中。ちょうどそのときそれは突然姿を現した。


 視界の端から侵入してきた女の子が俺の続きの言葉を奪う。


「おわっ! 松前くん!? うそー、懐かしー!」


 周囲の喧噪や瀬奈さんに対する意識が完全に消え失せた。世界がブラックアウトし、彼女だけが光り輝いているような感覚に陥る。


 俺のほうへ駆け足で迫ってくる少女。茶色がかった黒髪は無秩序に舞い、あどけなさを残した童顔にはニッコリ笑顔が浮かんでいる。高めのヒールを履き、細めのパンツとお洒落な紺色Tシャツを纏っていてスタイルの良さが際立っていた。それらすべてが俺の記憶の中で消えることを決して許さなかった姿だ。勿論、名前も忘れるはずがない。中学時代の同級生で唯一、俺の中に残っている名前。


「……長津ながつ


 この先の人生において二度と会うことがないと思っていた。そもそもこの世に存在しているのかどうかさえも半信半疑だったのだから。


「ん? 友達?」


 純真無垢な瀬奈さんの声音を聞いて、どこかへ飛んでしまっていた冷静さをなんとか引きずり込む。


「いや、まぁ、その……昔の同級生です」


「へぇ、同級生……そか」


 今この瞬間の俺は一体どんな表情をしているのだろう。神妙な面持ちなのか、呆けたまぬけ顔なのか。全く想像できないけれど瀬奈せなさんの反応には少し拍子抜けした。


「じゃ、俺、まだ用事残ってるから行くわ! また、なんかあったらPINEするから楽しみに待っててな?」


「いや、出来ればもう何もあってほしくないですね。ただ、旅行は楽しかったですし。誘っていただいてありがとうございました」


 おう、じゃあな、と踵を返して右手を揺らしながら瀬奈さんは優雅に去っていった。


 入れ替わるようにして俺の目の前に長津が現れる。


「松前くん! 本当に久しぶりだね。私のこと、覚えてる?」


「お、おう。覚えてるもなにも……ビビった」


 くりりんとした大きな瞳を向けられて少し怯んでしまった。


「なにそれ、どういう反応なのかいまいち分かんないなー。私は一目見て松前くんって分かったのに!」


 長津は俺の腹のあたりを肘でうりうりーっと擦り付けてくる。久しぶりに遭遇した男に対しても容赦なく距離を詰めてくる感じ……中学時代のときと何も変わっていない。


 男の思考回路を常に読み、相手に合わせた最適解を繰り出し続ける。媚びるときは媚びて引くときは引く、長津のお家芸と言っても差し支えないレベルで完成されているだろう。


 長津の言動の裏側は計算で塗り固められている。それを知っていたからこそ、夕暮れ時の教室で見た衝撃的な光景は今まで脳内から消えずに残っていた。一人で涙を流す長津の姿は彼女の心情がそのまま溢れ出たかのようで、そこには一切の計算染みた思惑を感じなかったのだから。


 とにもかくにも目の前に長津加奈が立っている。俺からしてみればこの状況は異常事態だ。


 長津の泣き顔を目撃した翌日から、隙あらば彼女のことであれこれと思考を巡らすようになっていた。部外者が無理やりに解決させようとするのは危険だとかそれでも見て見ぬふりはあり得ないだとか、ゴールのない螺旋階段を永遠に昇り降りしている気分で一週間を過ごした。結局、打開策なんて閃くこともなく援助の態勢、すなわち相談しやすい雰囲気を作るために日頃から挨拶程度は交わそうと、その程度の結論しか出なかったのだ。


 最低限それぐらいのことはやろうと、週明けの気だるさを明るい心持ちに変えて登校した。


 そして、その日。担任が長津加奈の転校をクラス全員に告げた。


 まともな言葉を残すことなく長津は消え、もはや一生会うことはないだろうと悟ったのだ。


「松前くん? まさきくーん?」


 気づけば俺は放心していた。東京駅の改札付近は人口減少なんて嘘のように人が行き交っている。長津の訝しむ視線を感じて、俺は慌てて言い繕った。


「いや、まじで久しぶりすぎるな。もう二度と会うこともないと思ってたし、そもそも中学の同級生に話しかけられるような人間じゃないと思ってたわ、俺」


「へへっ。たしかに松前くんって、クラスの人とかに話しかけられてもするするとかわしてた気がする。無気力系男子とかそんな感じ」


 下から覗くようにして、上目遣いで微笑む長津。少しだけ前屈みになっているせいでTシャツの胸元がかなりけしからんことになっている。


「無気力系男子はちょっと違うな、回避ステータス高め系男子だ。まじで逃げ腰上等」


 長津は、あははっと大仰に笑い声を上げた。俺の肩をパンっパンっと軽くたたきながら口を開く。


「そういうの変わってないなぁ。松前くんの言葉って私、結構好きだったんだよねー!」


 あぁはいはい、と適当にあしらった。こういう発言は男子の心を多少なりとも揺らすのだろうが、今の俺には震度一ほどの揺れも感じない。長津のような関数電卓系女子でさえなければ俺の心もぐらぐらしていた可能性はあるけれど。


 じとーっとした視線を意識的に作って長津の顔を見ていると、長津は微笑みを維持したまま言葉を続けた。


「特にさ、あの日にかけてくれた一言……本当に嬉しかったよ」


 前傾姿勢から元の状態に戻し、先ほどとは打って変わって神妙な面持ちを浮かべる長津。真っすぐな視線からは道化どうけた雰囲気が感じられない。


「いや、あれはそういうんじゃなくて……」


 俺は咄嗟に目を逸らした。


 いつでも話を聞くから、なんて言葉は長津のためにかけたもののように見えてそのじつ、俺の自己満足でしかなかったはずだ。長津に感謝されることなんて俺は一切できていない。


「松前くんがどう思ってたとかどうでもいいんだよ。私は嬉しかったんだから!」


 長津は俺の思索を一蹴いっしゅうし、なまめかしく光る唇を微かに尖らした。投げかけられた短文はまるで俺の本音を見透かしたうえで構成されたもののように感じる。


「お、おう。それならまぁ……よかった」


 長津はうんっと軽く微笑みスマホの画面を一瞥いちべつした。それと同時に、あ! っと何かを思い出しかのようにわざとらしく声を上げる。


「ごめん、彼氏待たせてるからそろそろ行くね!」


 俺の返事を待つことなく歩み始め、ばいばーいっと手を振っている。コツコツコツとヒールの音が響き、それもやがて周りの喧噪にかき消されて長津はあっという間に遠ざかっていった。


 長津が転校してから俺は、自分の能力に見合わないような無駄なことはしないように避けてきた。どれだけ考えて、思い悩んで出した結論も誰のためにもならないのであれば最初から考えるだけ無駄だ。そうやって思考範囲をせばめていた。


 長津にかけた言葉も無駄なものだと常に思っていた。けれど、それはどうやら違っていたらしい。


 相手の考えることなんて自分の考えることの範囲外に存在する。


 相手がどう思うかを自分勝手に想像したうえで逃げるのか逃げないのかを思考する、そんなものに一体どれほどの意味があるのだろうか。


 東雲が言っていた俺の望むものは当分の間、見つかりそうにない。



    *     *     *



 あの事故からもう少しで一年。現状なんて何一つ変わりはしない。


『えへへっ、松前くんとデートかぁ。どの下着を履いていこうかなぁ』


 そんな声が聞こえてくるのは日常茶飯事だ。








    *   あとがき   *


 おはようございます、こんにちは、こんばんは、荘屋まなかです。

 あとがきという形でこちらに言葉を綴らせていただきますが、まずはここまで読んでくださった読者の方々に感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

 カクヨムさんに登録させていただいたのは2016年の春なのですが、活動することなく放置していました。それはもう提督さんの嫁自慢並みに。ちょっと何言ってるのか自分のでもよく分からないですけど、結局2017年の夏になってようやく処女作という形で本作を公開した次第です。

 予定というものは必ず狂います。リアル世界の研究室の教授もよく仰ってますが、短いスパンでPDCAサイクルを回さなければ意味がありません。三塁コーチャーだったのかと疑ってしまうほどに腕をぶんぶん振り回すので脳内にこべりついているのですが、あんなに大きく振り回さなくていいよなぁ、マジおお振り。

 当初想定していた文字数は二十万字程度でしたが、執筆途中で気づきました。あれ、これ百万字コースじゃないの? と。vs生徒会の部活創設編、梅雨の持田家訪問編、闇鍋囲う夏休み合宿編、などなどイベントは考えていたもののすべて遮断し、キリのいい場面で終わりへ向かわせた結果『俺たちの戦いはこれからだ』エンドになってしまったこと、深くお詫び申し上げます。

 文章としてのシンパシー・テレパシーの世界は終わりましたが、彼と彼女らの日常は絶えず続いています。持田ちゃんの声を聞きながら東雲ちゃんの発言にツッコミ、上浮穴ちゃんの罵倒を受ける、そんな松前咲夜の生活を読者の方々に想像していただけたら生みの親としてこの上なく幸せです。

 本作の執筆経験を次回以降の作品に活かしたいと思いますが、詳しくは近況ノートのほうに書き残しておこうと思います。

 約三か月間、お付き合い頂きありがとうございました。それではこの辺で。


荘屋まなか

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