第50話 知新〈チシン〉

「衝撃的すぎてこの世界がもはや夢なんじゃないかとさえ思えてくるな。神様と喋ってるわけだし」


 俺の言葉を聞いた東雲は、ふふっと軽く吹き出しながら微笑みを浮かべた。


「残ってる話は、はるるんとれなれなの記憶のこととテレパシーを消す方法ぐらいかな」


「え、テレパシー消せるのか」


 素っ頓狂な声が漏れてしまった。テレパシーを消すということは、俺の死が再び現実になるということだろうか。


「消せるよ? さくやんとはるるんがそれぞれ最も望むもの、それを自分の力で手に入れることができれば現象は発動しなくなる」


「望むもの……金とかそういう話じゃないのか?」


 欲しいものなんて自問自答すればいくらでも出てくる。アイドルのライブ映像Blu-rayボックス、最新タブレット、最高級オフィスチェア、挙げていけばきりがない。


 けれど、東雲の言う『望むもの』はこういう物体として存在するものではないように感じられる。


「お金、それも望むものとしてはなかなか上位のほうだけど、最もではないからね。そういう目に見える物じゃなくて精神とか環境とかそういう感じのやつだよ」


 ヒントはここまで、と両手の人差し指でバツ印を作って唇に当てる東雲。いわゆるお口……ミルフィーユ? マユシーだっけ? まぁいいや。


「そういう実体のない曖昧なもの、それを手に入れたらテレパシーは消える……そうなると今度こそ俺は死んでしまうのか?」


「心配しなくてもそうはならないよ。言った通りさくやんは不運すぎた。生き延びるっていうぐらいの幸運を味わっても許されるんだから」


 東雲の優し気な声音と自然な笑みが俺の心持こころもちを少しだけ軽くした。


 今さら東雲の言葉に疑いを向けるのはナンセンスだ。テレパシーの解消によって俺の命が抹消されることはない、それも本当なのだろう。


 これまでは遮光版によって光が遮られていたけれど、東雲の言葉によってその遮光版は九十度回転した。進むべき道、やらなければならないこと、そういったものが光の筋となって俺の道しるべになっている。


「東雲……ありがとう」


 言うつもりのなかった言葉。それが勝手に口から出てきてしまったのは心の奥底で微かに思っていたことだからだろう。東雲の気まぐれによって生かされている、そんな気味悪い状況に立たされて怒りも湧いてきたけれど、それと同時に生きていることの安堵感も感じていた。


 ちゃらーらーらちゃらーらーらーと軽快なオルゴール音が鳴り響き、男性のアナウンスが始まる。


「ご乗車ありがとうございます。まもなく、終点、岡山に着きます。到着ホーム八番乗り場で、お出口右側です。乗り換え、ご案内いたします。新幹線――」


 松山を出て約三時間半、長かったようで意外と短かった。岡山から松山へ向かったいきの電車よりは明らかに早く着いた感じがする。


 テレパシーをかき消す方法、俺が望むもの、持田が望むもの、断片的なワードを繰り返し繰り返し反芻はんすうしながら降りる準備を始めた。


「さくやん、最後に一つだけ」


 座ったままの東雲が上目遣いで俺のほうを向いている。ん? と呟いて視線だけで続きを促した。東雲は一度まばたきをして、はらりと金色の前髪が揺れる。


「今まで話してきた怪奇現象に関係する内容はこれから先もテレパシーではるるんに伝わることはないから。それと、わたしが神様ってこともさくやんが何で生きてるのかも伏せたまま、はるるんとれなれなのあの事故の記憶だけ元に戻しておいたから……頑張ってね」


 言い終わるとすぐに東雲は立ち上がって、回転させていた椅子をくるんっとひっくり返す。


 俺は呆然と立ち尽くし、絶句した。そんな様子もつゆ知らないという感じで持田の声が響いてくる。


『なに、今の……嘘……何これ……』


 事故の日から今までしきりに避けていた事態が、ついに起きてしまったようだ。


 あの事故を持田のせいだなんて思わせるわけにはいかないと、常に注意していた。持田が転落しかけていたときに俺は持田の手を勝手に掴んだ、それは俺の判断でやったことだ。


 これほどまでに重たい事情であっても持田であればサラッと受け流してくれる、そんな都合のいい考えはただの妄想でしかない。


 知ってしまった以上、気に病まないわけがないのだ。


 それが直感で分かってしまうのは、持田へ寄せる信頼が今の俺に足りていないからだろう。適当な微笑であしらってくれる、そう思えるだけの信頼感を俺はまだ持ち合わせていない。


 事故の真相については何としても気付かれないようにしようと細心の注意を払っていた。結果こうして無残にも筒抜けになり、不甲斐なさによって身体が自己嫌悪の海に沈んでいく。


『……わたし、とんでもないことを』


 持田の声は心なしか震えている気がした。表情は見えないのに聞こえてくる声だけで目の前に持田の幻影が形作られる。神妙な面持おももちの幻影は俺の心臓をきゅっと締め付けた。


 右手のひらに熱を感じてちらっと見遣ると、爪の食い込んだあとがくっきりと浮かんでいる。


 電車が停車した。車内の男性アナウンスとホームからの女性アナウンスがない交ぜになる。


『何で松前くん、生きてるの? 何でわたしの手なんて……取ったりしたの』


 持田の声は止まらない。一フレーズ、一フレーズが内臓に直接ドライアイスを擦り付けてくるようだ。


 前を歩く東雲。その後ろ姿を眺めながら電車から降りた。ひどく重みを感じる足を踏み出して、階段へと向かう。


 気づけば早足になっていた。東雲はエスカレータを使って上の改札口へと向かうようだ。それを横目に確認して、俺は階段をこれでもかという程に全力で駆け上がった。


『松前くんが電車に撥ねられたって教えてくれたとき、それ以上のことは何も聞かなかったけど』


 階段の途中で盛大につまづいた。焦る気持ちが足元を狂わせているようだけれど、無理やりに態勢を整えてひたすら段を飛び越える。


『わたしを……助けてくれたんだね』


 階段を完全に昇り終え、一息つく間も惜しんで重みのある荷物をぶんぶんと振り回しながら俺は走った。


 ゴールデンウィークを楽しむ親子連れやカップル、その他もろもろの人々で岡山駅内は喧噪に包まれている。そんな空間の中でも持田の声は俺の脳内ではっきりと反響していた。


『あのとき、松前くんは私の手を掴んでくれた』


 大きめの売店が横目に入ったのと同時に、真正面の新幹線改札口を視界にとらえる。


 改札は出入りする人で混雑していた。その中でも見慣れた服装、見慣れた風貌の女の子が二人で立っているのを瞬間的に確認する。


 東雲は俺の後ろをついてきているのだろうか。振り向くこともせず足を前に踏み出し続けた。


『だから……今度はわたしも――』


 持田の言葉は最後まで続くことなく途中で切れた。俺の目の前には改札。それを挟んで向かい側の広場には持田と上浮穴が立っている。


 二人と俺の距離はテレパシー範囲外のギリギリ、およそ十メートル。俺は東雲を待つこともせず、改札を抜けた。


 息が上がっているのを整えながら一歩、また一歩と二人に近づく。その間にも俺の視線はあちらこちらに行ったり来たりを繰り返していた。それもやがて不自然なことに気づき、真っすぐと二人の表情を見遣みやる。


 俯きながら視線を横に逸らしている上浮穴。口角が下がっているのに加えて、艶やかな黒髪が顔にかかっていた。立っているだけで誰もかれもが振り向いてしまいそうなほどに美しく、少しでも触れてしまえば粉々に散乱して儚く消えてしまいそうな存在。その立ち姿は心なしかうれいているような雰囲気が感じられる。左手が不自然だなと思ってよく見ると、持田の背中をさすってるように見えた。


 そして。その横で。


 持田の頬には一筋、光る透明な線が見えた。


 こぼれないように必死に耐えて、それでも溢れてしまった水分を目元だけ拭ったのだろうか。下瞼したまぶたのあたりがほんのわずかに赤く腫れている。潤んだ瞳は俺のほうを真っすぐ向いていて、一切泳がない。


 二人の前にようやく到着しようかと、それぐらい近づいたときに上浮穴が俺のほうへと歩き始めた。やがて、俺の横を通り過ぎるような軌道に入る。すれ違いざま、俺の肩に軽くぽんっと手を当てて無言のまま、俺とは反対方向に歩いて行ってしまった。


 肩に残る上浮穴の熱は、温かみのある優しさが含まれている気がする。


 とにもかくにも約四時間半ぶりの再会、ようやく持田の真正面までたどり着いた。先に口を開いたのは持田で、その声は上擦うわずった高音に成り果てている。


「手を握りたい」


 ボソッと呟かれた弱弱しい声音。それとは裏腹に強く光を宿した水分たっぷりの瞳。


 俺は眼を逸らしたくなる衝動を必死に抑え込んだ。体がじわりと熱を帯びて、鳥肌が立ったことも分かってしまう程に皮膚が異常をきたしている。


 唐突に吐き出された持田の言葉は、ドシッと音を立てて俺の目の前に落ちた。視線を足元へ向けると、ここまで辛うじて握りしめていた荷物が地面にへたり込んでいる。


 何の脈略もない持田の言葉は先ほど途切れたテレパシーの続きだろうか。それに対してどのように解釈すればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか、正解と不正解を探ろうとしたけれどそんな思考の流れを全力で断ち切った。


 熟考して出てくる言葉は計算結果の羅列でしかない。本心以外を口にするぐらいなら無言でいよう。たとえそれが不誠実であっても。


「持田……」


「松前くんの……ばか」


 言葉が出てこない俺とは対照的に、持田は柔らか素材の白いトレーナで目元をくいっと拭いながら呟く。軽い罵りの言葉であっても持田の口から出ることは珍しいなと驚きつつ、その中に悪意は含まれていないような気がしてなんとなく可笑おかしかった。


 確率が収束するなんて虚言だ。これは死の瞬間に脳内を過った言葉であり、今も変わらずそう思っている。


 物心がついたころから運のない人間。そんな烙印らくいんを押されて、それでもなお面倒ごとには関わらないという信条を貫きながらなんとか生活してきた。結果、最終的に死に、生き返ったかと思えばテレパシーに見舞われ、同級生の女の子の兄から謎の依頼を受けて愛媛旅行。不運はどこまで俺の環境をかき乱せば気が済むのだろう。


 反芻はんすうする。俺は確率の収束論なんて信じない。


 けれど。


 それでもこの先、生きてさえいれば幸運なことだって少なからず起きるのかもしれないと、そう思い始めたのも事実だ。


 期待を、望みを、一切捨てて不運を嘆くぐらいなら未来の微かな光に夢を見て今できることをやる、テレパシーの解消に全力を注ぐ、それが俺の進む道なのだろう。


 俺の姿は持田の潤んだ瞳にどのように映っているのだろうか。


 ぼやけてなければいいなと、かすかにおもった。

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