或いは潭月、或いは水底の鼈

馬田ふらい

遺書

==========


 俺は両親を知らない。物心付いた頃には養護施設にいたからだ。絵本やマンガで生きものは両親から産まれると知ったのは5才くらいのときで、その後、俺はいつからここにいるのか、お父さんお母さんはどこかなどの疑問が浮かぶようになった。

 好奇心のままに「なんでなんで」と職員の腕を揺すったが、その度に職員は苦い顔を見せ、胸の名札ワッペンをちらっと見てから、決まって

「そうねえ、あなたのお名前は?」

「けんご!」

「おー、よく言えました」

 と頭を撫でて誤魔化すのだ。そしてその頃、俺はまんまと誤魔化されていた。


 俺が自分の特異な体質を自覚したのは7才のときだ。

 小学校に入るとその日に「遊ぼ」と言ってきた子がいた。今までひとりでブロック遊びばかりしていたものだから初めて誰かと一緒だということにおれはたいそう喜び、わっわきゃっきゃと俺を受け入れてくれる皆と跳ね回った。日暮れにはさよならに寄せて

「明日もまた遊ぼうね」

 なんて、さも友達になったかのように約束を交わした。

 ところが翌日俺が「おはよう」と声を掛けても俺のことを忘れたのかと疑うほど曖昧な返事をしただけで、結局その日遊ぶことはなかった。

 それからも、前の日に俺と会った人間はその翌日には俺のことを忘れているらしかった。ずっと三人部屋で生活してきた仲間も、誰一人俺のことを覚えていなかった。

 もしや俺は誰にも覚えてもらえないのではという不安は、少年期に特有の恐怖心の増幅効果も相まって俺を驚懼きょうくさせた。

 いつも誤魔化していた職員のところへ、落ちていた「こうき」くんのワッペンを胸に貼り付け、いつもの質問をした。職員は俺のワッペンをちらりと見て、

「そうねえ、あなたのお名前は?」

「……こうき」

「おー、よく言えました」

 と頭を撫でた。


 もう、俺は誤魔化されなかった。おれは自分の体質に気づいたのだ。


 それは、「誰の印象にも残らない」というものである。


 それからは、どう施設の子も、職員さんも、あのでっぷりとした施設長さんも俺のことなんて忘れてしまって、初めからいないのも同然なんだ、俺はずっとひとりぼっちなんだ、と幼かった自分は大きすぎる絶望を受け入れたふりをして、他人と関わろうするのを止めた。ひとりで本を読んでいるだけで幸せだと必死で思い込んだ。しかし、そんな無理やりな自己暗示の効果も薄く、ときどき同じ施設の子に仲良くなろうと声を掛けた。無論、その時は仲が良くても翌日には忘れ去られていて、その残酷な現実を思い出し一体何度嗚咽したかはわからない。


 俺が12歳になるころには既に俺の心は枯れていた。酸性雨に打たれて緑を失った森林の荒涼たる心象が俺を呑み込んでいた。死にたいと思うことも多かったが、自死する元気すらなく、威張り腐っている己が生に抗うことが出来なかった。

 俺は毎日、新聞と文庫本だけを読んで暮らしていた。


 そんなときに9才の女の子が一人、施設に加わった。職員は、彼女の名前は「あん」だと言った。容姿端麗で栗色のボブヘアーが良く似合っておりキュッと結んだ唇は瑞々しい。小柄で、肌は向こう側が透けそうな程に淡い白であるから、両目を閉じて微笑する彼女の姿には薄氷のようにちょっとした事でヒビがはいって割れてしまいそうな、しかしそれゆえに美しいはかなさが伴っていた。いかにも夏の季節は苦手そうであった。


 職員は紹介を続けた。

「あんちゃんは生まれつき目が見えなくて耳が聞こえない、さらに口もきけないので、あんちゃんと遊ぶときはそのことに注意をして、優しくしてあげてくださいね」

 直後に誰かが「あぁ……」と落胆する声を洩らしたのを、俺は聞き逃さなかった。


 あんが盲聾唖だと告げられた施設の子はなんとなく彼女との隔たりを感じたのか誰も進んで近づこうとはしなかった。


 やがて彼女はひとりになった——施設で、ひとりでいる人間が二人に増えた。


「新しく入ったあの子、親御さんは大切に育てようとしたんだけど三重苦だとコミュニケーションもほとんど不可能だったみたいで、普通の子よりお金もかかるしで、弟くんが産まれてからはいよいよ構うことが難しくなって、こっちに預けてきたらしいわ。やっぱり、不憫よねえ」

 職員の雑談が耳に入った。


 あんは壁伝いに歩くものだから、彼女は必然的に部屋の隅を拠点としていた俺の隣に座ることが多かった。

 あんはブロックの形状を手のひら全体を使って確かめたあと、慎重に組み立てていく。俺は、最初は何も気に止めなかったが、文庫一冊を読み終えてからふと彼女に向くと、驚くことに、ブロックはカメの形をしていた。目も見えないのに、昔、カメでも飼っていたのだろうかと不思議がっていると、あんは最後であろう一欠片をカメの甲に嵌めるところだった。

しかし、

 ガシャッ!

 あんはバランスを崩して倒れた。カメはバラバラになった。元々白いあんの肌はさらに血が引いて青みがかってさえいる。

 俺は喫驚して、周りの人を呼ぼうとしたが、誰もいない。見渡すが、扇風機の首振り以外は時が死んでいた。いよいよ怖くなって、俺はあんの肩を何度も叩いた。聞こえない耳に何度も呼びかけた。


 すぐにあんは意識を取り戻した。俺は台所に行きコップに水と塩少しを入れて、あんの頭を上げて薄い塩水を少しずつ飲ませた。熱中症だと思ったからである。

 塩水を飲ませながら、あんの柔らかな唇を見ている自分に気がついて、気恥ずかしくなって顔を逸らす。その弾みでコップの塩水があんの顔に飛んだ。しまった、と思った。幸い、あんはコップの水をもうほとんど飲み干していた。

 慌てて台所からタオルを持ってきてあんの顔を拭く。こんなふうに、誰かのために動いたのはもしかしたら初めてかもしれない。そう思うと何だか今俺の手の中にいる少女が——たとえ俺のことを憶えられなくても——とても愛おしく感じた。すると、俺の心の動きに応えるように、あんは俺の顔に手を伸ばして俺の存在を確かめるように優しく頬を撫でた。俺は泣いていた。

初めて自分が誰かに認められたような気がして、涙を流したのだ。


 俺はあんの「世話」を始めたのはこの時からだ。

目覚ましの聞こえないあんを毎朝起こしに行く。食事のときはあんの手を取ってフォークを刺してやったり、コップの位置を教えたりする。自由時間はなるべく彼女を見守る。歩くときは手を握って導いてやる。お風呂はサポートできないが、寝る前には歯ブラシに歯磨き粉をつけてやる。

たとえ、見られなくても、聞かれなくても、話がなくても、俺はあんが何よりも愛おしかった。あんの肌に触れたいと、あんに触れられたいと思った。あんと離れるのが惜しかった。

要するに、俺の「世話」はほとんど下心によるものと言ってよかったが、心の荒んだ俺にとってこれは唯一の生きがいだった。


 あんはの認識は可能なようで、コップに水を入れて飲むこともできた。両親の努力の賜物といったところだろう。


 あるとき、俺が彼女の肌に触れると彼女は微笑を浮かべた。俺は目を白黒させた。俺の心に何か温かいものが流れ込んできた。その微笑は、完全に心を許した人へ向けられるものだった!

 俺はあんの肩に手を置いた。

(お前、俺のこと覚えているのか?)

 心の中で問いかけると、あんは嬉しそうに首を縦に振った。

 俺が初めて自分を知ってもらえたというのにどれほど感激したかは言うまでもない。


 次第に俺とあんは親しくなった。他に行く場所のない俺たちはいつも部屋の隅っこに並んで座っている。食堂でも隣同士だった。肌を通して、俺はあんの気持ちが分かるようになり、あんもまた俺のことを分かるようになった。

 言葉を飛び越えて心が直接通じているような感じがした。俺はあんが寒がったら毛布を渡し、あんはそれに笑顔で応じた。

 当然寝室は別々の部屋である。俺たちは消灯時間ギリギリまで一緒にいた。手を繋いで。


 相変わらず職員もルームメイトも、俺の名前を覚えてはくれなかった。しかしそれでもよかった。俺たちの世界の中にはには俺たちのみが存在し、俺たち以外は不必要な気さえしたのだ。


 そうして、俺は17歳、あんは14歳になった。この施設では基本三人部屋だが、俺は高校三年生ということで三人部屋を飛び出し一人部屋を確保した。

 あんは、さらに美しくなった。小柄なのは変わらないが、顔つきはもう大人と言ってよかった。胸は膨らみかけだが確実に成長をしている。締まったくびれ。柔らかに、しかし弛まなずしなやかに伸びた両脚。されどその身体全体としての均整が取れている。やはりそのはかなさは健在で、あまり考えたくはないが「佳人薄命」という単語が脳裏をぎる。

 この年から、あんが施設長のところに呼び出されるようになった。俺は障害を乗り越えるための訓練でもしているのだろうと思っていた。


 この年の冬のことである。

 その施設では、全員が食堂に集って夕食をとる。ずっと俺の隣に座るのはあんだった。しかしこのところ、あんはあまり俺と関わらないようにしていたようで、俺はひとり、目の前の食事に集中する日が続いていた。俺はなんとなく不安になって、とうとう無理やりあんの隣の席を奪った。俺があんの肩を叩くと、あんの表情が翳った。


(俺、何かしたか?)


 あんは首を横に振った。


(俺のことが気に入らないのか?)


 あんは強く否定した。


(……何かあったのか?)


 あんの身体が一瞬、引き攣った。その後弱々しく首を横に揺らした。

 俺はそれ以上何も聞かなかった。


 その日の夜は何故か眠れなかった。掛け布団の静電気の影響かもしれない。それでも寒さには敵わずバチバチと身体にまとわりつく火花を払っていたが、いよいよ耐えられなくなって掛け布団を剥がした。暗闇の中でバチバチバチッと蒼い閃光が走った。

 その時、部屋のドアがガンガンガンと連打された。時計は午前2時を示している。流石に恐ろしく、少し様子見をしていたが音はますます強くなるので堪らず俺は恐る恐るとドアノブを捻った。瞬間、何かが飛び込んできて俺にのしかかり、ぎゅうっと抱きしめてきた。それがあんであることは暗闇の中でも容易にわかった。あんが細かく震えていること、そして生の体温を感じた。


 俺はしばらく呆然とあんの顔を見つめていたが、若い少女が青年に跨るという構図がいかに厄介であるかに気付き、慌ててあんの抱擁から逃れドアを閉めた。明かりを付けると、浮かび上がってきた彼女は薄いシーツを被っただけで、案の定裸に近い格好だった。俺は彼女を俺のベッドに横たえて羽毛布団を掛けた。あんはいつもは開かない目を大きく開いて、壁伝いに走ってきたのか息を荒らげていた。顔は青ざめており、どうやら誰かから逃げてきたらしいことが窺えた。


 とりあえずあんをベッドに横たえてから、劣情をおさえるため消灯し、トイレも兼ねて一旦部屋を出た。いつも廊下には見回りの職員がいる。こんな真夜中に立ち歩く人間が呼び止められるのは当然だった。


「おい、ちょっとキミ」


 部屋を出てすぐ、図体の大きい見回りが俺の方に走ったきた。懐中電灯を持っていたとはいえ彼の顔はよく見えなかったが、低めの渋い、聞き覚えのある声だった。


「今何時だと思っているんだ」


「すいません。急に尿意を催したもので」


「本当だな?」


「本当です」


「誰かの部屋に忍び込もうとか、そう言った不純な動機ではないんだな?」


「滅相もないです。それより、早く行かせてください。爆発します」


「……まあいい。今後は消灯前に済ましておくように」


 小太りの見回りは俺を解放して、別の方向へ走り出した。


「それと、女子が一人部屋に戻ってないそうだから、見つけたら報告してくれ」


 彼がそう発したとき、俺は少し小走りだった。


 部屋に戻ったとき、バチッと蒼い光が走った。あんが寝返りをうったのだ。彼女がよく眠れていると知って俺は安堵した。

 人間、落ち着くと見落としていた何かに気づくものだ。


さっきの見回りの声、聞き覚えがあると思ったら施設長の声にそっくりだ。


いや、よく考えたら体型もまるで施設長だ。


ということは、さっきのは施設長ではなかったか?


しかしなぜ施設長がわざわざ見回りに?


女子が一人消えたと聞いたが、これはなかなか大事件ではなかろうか。


普通、もっと大人数で捜索しないだろうか。


そもそもその女子というのはあんのことかもしれない。


 また、バチッと静電気が光った。


 あんはなぜ裸で、顔面蒼白で、俺の部屋に飛び込んできたのだろうか。

俺はこの頃、あんが施設長の元に通っていること、それくらいからあんが素っ気なくなったことを思いだした。

 なんとなく、きな臭い。不安になってあんの肩に触れた。その途端、ビリビリという電撃のようなものと共に、俺の脳にイメージが侵入してきた。


(大きいベッドに二人)


(肢体をさらけ出した少女と体が大きく初老であろう男)


(舐め回すような視線が肌を撫でる)


(口の中を出入りする食べ物でない何か)


(さらに喉もとまで流れ込む苦いもの)


(吐き出そうとすると頬を叩かれた。その拍子で飲み込んだ)


(無理矢理に拡げられた滑やかな両腿)


(苦痛に満ちた表情。眉が歪んでいるのが分かる)


(滴る血は粘ついている)


(迫り来る、身体の中に覚える明らかな違和感)


(激痛。恐怖。嫌悪。絶望。そんな心を苦しめるものから逃れようとすると、心地よく、悪しき感情が覗き込む)


(嬌声!悲鳴の中に垣間見えた)


 そこに音も映像もない。しかし次々と流れ込んでくる不快極まりないイメージに俺の頭が朦朧とする。これは恐らく今晩のダイジェストだ。


 あんの脳内再生は続く。


(罪悪。ただ一人、顔も見たことのない愛しい人への、罪の感情。私の心をくびり殺そうとする、悪魔)


(ただ温かさがほしい)


(羞恥ゆえに拒んでいたあの人の、全てを赦してくれるような温もりがほしい!)


(私は泣いていた。色々なものがこんがらがって、もはや何によっての涙か分からない。あるいはそれ以外の不純な体液かもしれない)


(耐えきれなくなって、男が息に睡気が混じるのを感じると、私はいつものようにドアに向かって壁伝いに歩いた)


(今日は珍しく鍵がかかっていなかった)

(会いたい)

(会いたい)

(会いたい!)

(きっと、いつも、一日の終わりに繋いだ手を離した場所があの人の部屋だ)

(壁の凹凸)

(これがドアだ)

(懸命に叩く)

(執拗に叩く)

(ただ、あの人の温もりがほしい。)

(パッとドアが開き、私は中に流れ込んだ……)

 あんのイメージはここで終わった。


 俺は思わずあんを抱きしめた。あんが愛おしくて堪らなかったのだ。

 またかつ、俺は憤りを感じていた。その対象は醜悪で卑劣な施設長というよりもむしろこの世界に満ちる、俺たちを苦しめる不平等や理不尽であった。

 しかし同時に俺は欲情していたのかもしれない。ああいうイメージは童貞の俺には厳しかった。

鋼をも融かしてしまいそうなほど血を熱くしているのは、俺の熱意か怒りか、はたまた劣情か?ともかく何か別のことに意識を向けなければと思った。もっと、大事なことはなんだ。

 あんの悲劇。

 あんへの愛情。

俺はあんを救いたい。

 この夜、俺はあんを連れて施設から出ることを決心した。


 俺があんを起こした。あんの肩に手を当て、


(今から施設を出るぞ)


 と伝えると、あんは怪訝な顔をした。

(俺はお前が傷つくのを見たくないんだ)


 そう伝えると、あんはハッと驚いた顔をして、口元を震わせた。あんの涙がこぼれる前に、俺はあんの毛布を捲った。


 あんが凍えないように俺の灰色のジャージを着せたが、少し大きすぎたらしい。着心地が悪くないだろうか、と俺は心配したが、俺の服に袖を通すあんは満面の笑みだった。

 俺はなけなしの金122700円をポケットに入れた。荷物になるとは思ったが、凍死しないように防寒具をナップサックに入れた。着替えを探していたときに、あんが来る前に夢中になっていた新聞が大量に見つかったのでバッサバッサと折りたたんでそれもナップサックに詰めた。


外の見回りの人数はさっきと変わっていないようだった。失踪したのが裸の、それも自分が抱いた女子なら迂闊に報告出来やしない。

もし施設長が俺とあんが共に行動していると知っていたならば、と考えた。あの廊下で、俺は施設長にどんな目で見られたのだろう。この時ばかりは自分の特異体質に感謝した。


 俺たちは監視の目を潜って外に出た。

 門は閉まっていた。当然か。

 俺は何とかよじ登れるが、あんが怪我をしないか不安だ。しかし他に外へ通じてそうな場所はない。仕方なく、俺はあんを肩車して門を越えさせた。防犯カメラにはバッチリ映ってしまっただろう。


 俺はあんの手を引いて夜の闇の中を駆けた。住宅街にもう光はない。番犬も、虫取りカゴも、アロエも、家々の前に並ぶ自転車も眠っていた。俺はその間を走っていく。

 なるべく遠くへ行かねばと俺は思っていた。捕獲される危険もあったが、それよりも今は不幸な世界から抜け出したかったのだ。

 住宅地を抜けると突然小川が現れた。川と言ってもコンクリートで深く護岸工事をされているもので、せせらぎなんて呼ばれる風流な水音も聞こえず自然らしさは皆無だった。俺たちがその流れを越えると、公園に入った。

 ホテルに泊まれるような金は持ち出していないので、ここで一夜を明かすつもりだ。


 闇は時間と空間を引き延ばす。

 真っ暗闇に落ちた公園は普通よりも広々と感じられた。

 スズムシはとっくにだんまりだが、フクロウは「ホゥホゥホッホゥ」と時計のような精密さで鳴いていおり、木々の小さな騒ぎと相まって闇をより暗く、深くする。

 夜風の冴えるような冷たさにあんがクシャミをした。

 バーベキュー場の近くは落ち葉がまだ残っており、さらに人もいなかった。俺たちはそこで闇夜を越えることにした。

 落ち葉のベッド、なんて言葉が幼い頃読んだ絵本に飽きるくらいに出てきたが、なるほど土の上に座るよりも幾分か暖かかった。とはいえ、直に寝転べばもう潤いを失った枯葉はバリバリと砕け散って意味をなさなくなるので、新聞紙を俺とあんの身長分だけ敷いて、さらに掛け布団の代わりにも新聞紙を被った。

 ごろんと仰向けになると、視界には木の枝の輪郭と、雲の影、冬の傾いた月と飛行機の点滅以外何も無い空が見える。都会の空気は汚いから今まで星を見たことがない。

 この深く、遠い闇の中には俺たちの知らない輝きが何万、何億と隠れているのか、と思えば、俺とあんのギャップはなんとなく小さいものであるように感じた。俺たちは、あんよりもほんの少しだけ世界が広く感じて、しかしその少しの差によってあんは勝手に隔たりを感じられたり、憐憫の情を抱かれたりするのか。

 俺はあんの方に向いた。あんはずっと見えない目で俺のことを見ていたようで、目と目が合うと微笑した。俺はあんと手を絡ませた。

 あんはどうして俺を受け入れてくれたのか。いや、受け入れることがと言った方が正しいか。俺は誰にも覚えてもらえない宿命にある。俺は誰にも見つけられない、と言い換えてもいいかもしれない。それをあんは見つけたのだ。モノは見えないが、俺の存在や俺の心といった、あん以外の人間には認識されないものを見ている。もしかしたら、あんは見えない、聞こえないのではなくて、俺たちが見えないものを見、聞こえない声を聞いているのみかもしれない。


(月が、きれいね)


 ハッと、俺はあんの方を見た。盲のあんにもなぜか月は見えていたのだ。月明かりに透かされて彼女の透明感のある素肌からは白く輝く粒子のようなものが飛び散っていた。彼女の姿は幻想的な光で充ちていた。唇はまだ潤いを保ち、弱い光の陰翳いんえいによって艶やかに映えている。


 俺は誘われるように、あんの方へ顔をゆっくりと近づけ、目を閉じ、唇どうしの、点からやがて面へと、じんわりと広がる吸着の感触を愉しんだ。俺が離れようとするとあんは俺に付いていこうと顔を動かし、さらには俺の首に手を回し、舌を伸ばし、唇を割った。俺もそれに応える。舌どうしがからまりあう。互いに、舌を相手の頬のあたりで唾液を掬いとるように動かす。ときどき歯を舐める。

 十分、二十分経つと感覚はピリピリと心地よく麻痺し始める。脳がとろりと流動性を持ち始める。


 彼女が見えるのは俺だけ。俺を認めるのは彼女だけ。完全な補完関係。俺と彼女以外存在しない、完全形の世界。

 悦楽。

 恍惚。

 ……破滅。


 唇を離したとき、彼女の目は潤んでいた。瞼の裏の大瀛たいえいはたちまち洪水となり地面の新聞紙を濡らした。俺はあんを抱き締めた。苦悩や苦痛をしまいこんできたその身体つきは成長したといってもまだか細かった。俺は彼女を両腕の中に収めたまま、眠りについた。


 日は昇れど、まだ高くはない。寝不足であるが、さすがに施設長も警察を呼んだはずだから急いで場所を移す必要があった。公園を出て、さらに遠く、遠くへ逃げる。

 幾つもの河川を越え、幾つもの市を跨ぎ、寒さに耐えながら野宿し、また朝が来ると歩き出した。ところが、日を経るごとに財布は軽くなり、どれだけ節約しても5日目にはもう資金が底が見えてきた。

 行き着く町の掲示板に「さがしています」という文言もんごんを添えてあんの顔写真が載っている(俺の写真はないようだ)ことも俺を焦らせた。それでも、努めてあんには悟られないようにしていた。


 8日目の昼、俺たちはある山の麓の村にたどり着いた。歩いていると、一面田んぼの風景の中に時おり民家が現れる。東側は一列に大きな山々が聳え、村の中心には一本、流れの強い川が通っている。山脈はまた県境でもあるため、俺はこの山を越えれば警察の管轄が変わり時間稼ぎにはなるだろうと考えていた。

 財布の中身はあと520円。二人で一食が関の山だ。俺は村の門戸を叩いて周ったが、相手にしてくれる優しい人は少なく、いたとしても台所にむかったきりで帰ってこなかった。これは俺の体質の所為だ。仕方なく俺は村の唯一の商店でおにぎり4つを買い、あんと二人で分けて食べた。

 おにぎりを頬張るあんは相変わらず美しかった。その光景に幸せを感じつつも、俺はある一種の恐怖心を抱いていた。


 それは旅の途中で芽生えたものだ。

 毎晩の蕩けるようなキスの中で、微かに脳裏に浮かぶ「破滅」という言葉。それが俺の心に陰を落としていた。彼女との時間は確かに魅力的で完全な時間だ。しかしあくまで閉鎖的かつ排他的なこの共依存関係が、俺には人間的堕落のように思えて仕方がなかった。俺は、いや俺たち二人は個人としての精神の健康を手に入れて孤立が解消され、からの承認欲求や劣等感、嫉妬など人間を醜くさせているものを心に保つ必要がなくなり、俺は世界のうちの1人から俺とあんの二人だけの世界の中のへと補正されつつある。しかし俺の中に占めていた、醜悪で卑劣なこれらの負の感情があんと出会い、愛し、薄れていくことで却って俺は人間性を喪失してしまいそうな危機感を覚えていた。

 俺を苦しめていた負の感情はまた同時に俺を人間たらしめていたのだと思うと、ますます俺はこの女が恐ろしくなった。

 可及的速やかに俺は彼女との関係を断たなければ俺たちは人間に戻れない、無根拠で不透明な幸福の世界の暗渠でせせらぐデカダンスに飲み込まれ、そのまま溺死してしまう。

 それは、わかっている。

 ただ、俺は唯一向けられた愛を、唯一人に捧げた愛を、唯一の理解者を、この幸福を、どうしてやすやすと手放すことができようか!ともに過ごした5年間を、どうして無碍にできようか。

 彼女は、俺のこの精神の不安定に気づけないだろうし、理解もできないだろう。

 屈託のないあんの笑顔は、俺を心を優しく温めるとともに心の底に毒として溜まって俺を傷つけてもいたのだ。


 冬の日暮れは早い。

 俺はあんの冷たい手を引いて古く朽ちかけた橋までたどり着き、欄干にもたれて月を眺めてた。満月だ。俺は満月というものを初めて見たかもしれない。


(きれいな月ね)


 あんが川底を覗いて言った。俺は不思議に思って尋ねた。


(月が昇るのは空だよ?)


(違うの。こっちにも月が浮かんでる)


 あんがそう言うので俺も欄干から慎重に顔を出した。橋はかなりの高さがあり落下すると命に関わるからだ。なるほど、あんは川の淀みに映った月影を見たらしかった。白く大きく輝く潭月は波に揺れて存在が定まらないという不安定さを孕み、この上なく美しく感じられた。

 あんは、欄干にかけた俺の手に自分の手を被せた。俺は手のひらを上に向けて、指を絡ませた。どちらの手も乾燥して赤くなっていた。


(私、目は見えないし耳も聞こえないけど、なぜか月だけは視えるの。多分、私が感知できるのが月の反射光だけなんだと思う。そういう意味では、アナタは月に似てるかも。何も見えない、夜の世界の中にパッとアナタが現れた。そのときの感動というか驚きというか……私の世界には私以外にも誰かがいるんだ!ひとりじゃないんだ!と、私は喜んだの。確か私が倒れてアナタに介抱してもらったときだった)


 あんはこちらを向いた。


(結局、私、今まで出会った人の中で視えたのは、アナタだけなの)


 俺はドキリとした。あんも俺と同じようなことを思っていたのだと興奮して、考えるより先に俺はあんの肩を抱き寄せた。あんはあっ、と少し驚いたがすぐに頬を赤らめて頭を俺の肩に置いた。二人の接触面は凍えた身体を芯まで温かくしてくれる。胸がトクンと鳴った。そして俺たちはごく自然な流れでキスをした。唇を離したとき、


(抱き締めすぎ……痛い)


 とあんが抗議した。無意識の内に俺はほとんど覆いかぶさるようにあんを両腕の中に収めていた。


(ご、ごめん……)


 俺が慌てて緩めると、


(でも、嬉しかった。ありがとう)


 とあんは微笑んだ。


 ああ、また胸が痛くなった。


 吹き流れてきた雲が月を隠してしまって、川面に映る潭月も見えなくなった。

 俺とあんは先に進もうとした。途端、

 バキッという音がして、俺が振り返ると、さっきまであんの持っていた手すりの一部が割れて、あんを川底に引きずり込もうとしていた。あんはもう身体の半分も橋の外側に投げ出されている。俺は急いで手を伸ばした。間に合え、届けと祈りながら。


 ガラガラガラガラ!


 文字通り木っ端微塵になった木片はバラバラと川へ沈んでいく。割れた部分はかなり腐食が進んでいたようでいかにも脆そうな断面を剥き出しにしていた。月は薄雲に被られて弱々しく光っている。俺の息は荒くなっていた。それでもなんとかあんの腕を掴んでいた。


 俺があんを引き上げようとしたとき、俺の中のもう一人の人間が恐ろしいことを提案した。


(手を離してしまえ)


 馬鹿な!当然、それは赦されることではない。


(手を離してしまえ)


 俺はその囁きを振り払おうとした。

 ところがソイツはまだ続ける。


(確かに俺はあんといれば幸せだろうし、あんも幸せになれるかもしれない)


(しかし俺たちが閉鎖的な愛の牢獄の中で盲信するそれは、果たして本当になのか)


(断言しよう。そいつは欺瞞だ)


(根拠と外形のない存在は虚実とそう変わらない)


(それを、例えば俺とあんが心の奥の方で繋がっていると言ったようなまるで実体の伴わない絵空事を根拠にする行為自体が既に欺瞞である)


(そこから発生したものが全くの無意味であることは言うに及ばない)


(よく聞け)


(今から俺が出来ることは三つだ)


(一つはあんを連れて施設に戻ること)


(しかし、施設に戻ったときにあんと隔離されるのは免れない)


(その上、あんの身の上に何が起こるのか予想ができない)


(一つはあんを連れてこの山脈を越えること)


(しかし、食料と資金が十分でないにもかかわらずそれを敢行するのは現実的ではない)


(まして仮に越境できたとしても資金難の問題は解決しない。これは現状の保留に過ぎない)


 川底から冷たい風が吹き上がってくる。


(そして、一つはここであんの手を離すことだ)


(俺があんを愛しているのはよく知っている)


(しかし、これ以上俺があんにしてあげられることはあるか)


(なにせ資金がない。また俺もあんも、働くことは極めて困難ではないか)


(俺とあんだけの持続不可能な小世界に留まり続けることは破滅を受け入れることにほかならない)


(そうであるならば、あんの手をここで離して、関係を断つべきではないか)


 いよいよ俺は決断をしなければいけないのだ。ずっと目を合わせないようにしていた事実を受け入れないといけない。これ以上、俺たちは共にいられないのだ。

 雲の後ろにいた月がまた顔を出した。

「……ごめん」

 あんはその声が聞こえない。

俺はゆっくりと指の力を抜いていく。スルスルとあんが滑り落ちていく。あんの体が離れていく。あんが、俺から離れていく。

そしてあんは完全に空中に放り出された。

しかしあんは未だに美しく微笑んでいた!


 光に満ちた潭月の中に、あんは吸い込まれ、静かな水しぶきをたてて飲み込まれた。


 俺は河川敷まで走った。しかし月の映る川の中にはもうあんの姿はなかった。ただ川底にすっぽんが眠っているばかりであった。俺の頬は涙で濡れていた。


==========

これはもう三十年も昔の話だ。俺の体質は相変わらずだが、それでもなんとか人として生きてきた。

 あんは未だに消息不明だ。俺は本来逮捕されるべきなのだが、防犯カメラに映っていてもなお俺はあん以外には記憶されないようで、自白をしても取り扱ってくれなかった。あの高さから落下し、あの極寒の季節の川に沈んだとなればあんは多分助からないだろう。自分の選択とはいえ、俺はあんへの罪の意識を拭えない。俺は神にも赦されなかったのだ。


 俺はあの時間まで確かに美しいものを——愛と呼ばれていた何かを見ていたはずである。しかしそれは実は醜く恐ろしいものだったのかもしれない。或いは潭月か、或いは水底の鼈だったのかは分からない。また或いはその両方であったかもしれない。結局のところ何が本当なのかはわからずじまいである。どうであれ、真実など俺にはもう、どうでもいいことである。


 あくまでこれはであるから誰かに遺すべき物なのだが、生憎俺は託す相手を知らない。生まれつきの病のせいである。ただ、どうしてか俺は己の生き様を、艱難辛苦を誰かに知ってもらいたくて堪らない。伝えたくて堪らない。人の心に、自分の存在を深く刻みつけたくて堪らないのだ。


(中途、文字が滲んでいる箇所があった)


 従って俺はこの遺書を小瓶に詰めてあの川に流すつもりだ。俺自身の認識はされなくとも、この文面上ならば恐らくこの手紙を拾ったあなたに俺の存在を理解してもらえると思ったのだ。これは俺の生涯の願いであった。つまりは、忌々しいこの病、そしてこの世の不条理に対するささやかな反抗のつもりで筆を執った。

しかし、書いているうちにあんの儚げで美しい姿を、すぐに壊れてしまいそうな笑みが目に浮かんだ。

書いている最中の夢の中にはいつも幸せそうなあんが現れた。

そして、あんを愛していた自分はまだ生きているんだと思い知った。

あのとき、断つと決めた想いがまだ俺の中で生きていたのだ。

だからこそ、俺はこれを「遺書」にした。いい加減、あんに縛られていてはいけないと思ったのだ。


 別にこの遺書は破り捨ててくれても構わないが、よければ元の小瓶に戻して流してくれれば幸いである。

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