第六話「名残」
洗面台の前で髪を乾かしながら、名残はぼうっと考えていた。
『きっと今よりは自分の名前を好きになれる筈だから』
あれ以来、栗原の言葉は名残の頭の中をぐるぐると駆け回って、母親に名前の意味を訪ねるよう催促してくる。それは名残にとっても本意だったが、しかし、長年避け続けてきた自身の名前についての話題を今更になって口に出すことが彼女にはまるで禁忌を犯すようにさえ思われて、その気持ちとは裏腹になんとも腰が引けていた。
深い溜息を吐きながら、名残はドライヤーのスイッチを切った。顔を上げ、鏡に映る自分と対峙すれば、自分が自分じゃなくなっていくような不思議な感覚に囚われる。名残が彼女を見つめているように、彼女もまた、鏡の向こう側から名残のことをじっと見つめていた。
伸ばした手の、指先がゆっくりと近付いていって、だけど、ガラスの厚さの分だけ彼女には届かない。
「名残」
呼び掛けるように名前を唱える。反射したそれは本来あるべき場所へ帰るように、するりと名残の中に入っていった。
「変な名前」
呟いて、苦笑する。
どうしたってヘンテコで、けれど、だからこそ、他の誰のものでもなかった。その音も、響きも、名残は自分のものだと実感する。与えられて、染み込んで、馴染んで、固まって、それでもずっと嫌いだったのに、今ではすっかり癒着してしまっていて離れない。
そんなプレゼントをくれたのは誰でもない両親だ。だから、聞かなくちゃいけないし、知らなくちゃいけない。昔も今も、そして明日からも、私が私であるために。
最後に強か頬を張り、にっと勝気な笑顔を作れば、名残は洗面所を後にした。
リビングへ戻ると、名残の母親はキッチンで食器を洗っていた。身に付けている淡い水色のエプロンは名残が小学生の時に家庭科の授業で作ったもので、裁縫には所々、粗が見える。玉結びもロクにできていないので、名残はいつも失敗作を見せつけられているようであまりいい気分ではなかった。
名残はテーブルの椅子引いて腰を下ろすと、しばらくはそのまま黙って母親の姿をじっと見つめていたが、作業が中断したのを見計らい、意を決して声を掛けた。
「ねえ、話があるのだけれど」
「あら、なにかしら。ええと、そうね、少し待っていて」
言って、名残の母親はきゅっと水道を止めると、ハンドタオルで手を拭いてから、背中に手を回してエプロンを外した。それを一旦ハンガーに掛けると、リビングの方までやってきて名残の対面へと腰を下ろした。
二人の瞳がじっと対峙する。
すう、と息を吸い込んでから、名残はとうとう口火を切った。
「お母さん。なんで、私は名残という名前なの?」
ついぞ口にすることのなかったその質問は、まるで、ずっと練習してきたかのようにするりと虚空へ躍り出た。
一瞬の静寂。
すると、名残の母親は「あらあら」と言って可笑しそうに微笑んだ。その柔和な笑顔に、名残の身体からは一気に力が抜けてしまう。
「なあに、いきなり。そんなの、お母さんとお父さんが一生懸命考えて付けたからに決まっているじゃない。いったい何を言い出すのかしら、この子は」
「そうじゃなくて、私が訊きたいのは名前の由来の方なのよ、お母さん。名残、なんて変な名前に込められた意味を、今の私は知りたいの」
「あなた今まで、そんなこと一度たりとも言ったことはなかったじゃない。小学生の時にだって、あれだけ嫌がっていたのに、一体どうしたって言うのよ」
変な子ねえ。
その言い方に名残は少しむっとした顔を作ったが、しかし、すぐにきっかけとなった同級生のことを思い出して表情を和らげた。
穏やかに微笑みながら、名残は心底嬉しそうに言った。
「最近ね、初めて名前を褒められたの。クラスの子よ。しかも男の子。髪がさらさらで、少し大人っぽい雰囲気のある、とても頭の良い人。少し背は低いけれどね」
「そう、それはとっても嬉しいことね。その人はなんて?」
「綺麗な名前だって、たったそれだけよ。たったそれだけだったけれど、私には涙が出るほど嬉しかったわ。それで、彼の言う綺麗がどういうものなのか知りたくなったの。ねえ、私にはわかるわ。あの人はきっと、わたしの名前に込められた意味を知っているんでしょう?」
瞳の奥をきらきらと輝かせながら、名残は前のめりになって訊く。彼女の母親はこくんと頷いてみせた。
「そうね、きっと。でも、なら、その子に訊けばよかったじゃない」
「ううん。自分が言っても、それは偽物ではないけれど、本物に似ているだけに過ぎないから、だからきちんと名付けてくれた人に訊きなさいって、そう言ってくれたの。ね、とても良い人でしょう?」
まるで自分が偉いとでも言うように、腰に手を当てて胸を張る名残。彼女の母親はそんな娘の姿を見て、とても満足そうに頬を緩めた。
名残が学校の、ましてや友達の話をするだなんて、今日は地球滅亡の日だったかしら?
そんな冗談を心の内で言って、しかし喜ばずにはいられなかったのだろう、泣き笑いのような表情を浮かべながら
「そう、そうなのね。ええ、その人は本当に、とても良い人ね。あなたのことをきちんと分かってくれる人がいて、私は心の底から嬉しいわ」
やっぱりそうなのね!と名残は机を叩いて身を乗り出した。友達を褒められて、同調を貰って、どうやら興奮しているらしい。そんな彼女を
「ねえ、名残」
「なあに? お母さん」
「『名残』という漢字はね、あなた、もともと当て字だって知っていた? 『名残』の語源は『
名残の母親は電話の隣にあるメモ帳を一枚びりびりと引き破り、ペン立てからHBの鉛筆を取って席へ戻ってきた。
細く、けれど力強いしなやかな指がさらさらと鉛筆を走らせる。か、か、と小気味良い音がテーブルの上に響いて、そうすると、二つの漢字が出来上がった。
余波
名残は「よは?」と間抜けな声を上げた。
「これで『なごり』と読むのよ」
名残はへえ!と大きな声を出すと、続きを待ちきれないとばかりに鼻息を荒くさせ、続きを催促した。「この字には、どんな意味があるの?」
訊かれて、名残の母親は少し考えるような素振りを見せる。
今から語られるのは、自分の名前の本当の意味。娘に当てられた母親からの、あるいは両親からのメッセージ。それに込められた願いと想い。
身を乗り出して待つ名残の姿は、まるでプレゼントを目前にした子供のように無垢だった。
名残の母親は優しい声音で、
「寄せては返す波にだって、そこへ置いていくものがあるけれど、それは決して、波が捨てていったわけではないのよ。ただ流されて、そこへやってきたというだけの話」
自分の名前の話をする母親の表情がとても綺麗で、名残はしばらくの間、見惚れていたことに気付かなかった。そこでふと我に返り、聞き逃してはならないと紡がれる言葉に耳を傾ける。
波、という言葉を聞いて、名残の頭の中には小さな沖が出来上がっていた。そこでは陳腐な色の海が静かに水面を揺らしていて、さらさらとした貝殻のぶつかる音が聞こえてくるようだった。
「余波というのはね、名残。風が収まっても残っているさざなみのことを始めは言ったのよ。それと、波に流されて海辺に流れ着いたものもそう呼んだらしいわ」
「それって海藻とかでしょう?」
「別に海藻とは限らないじゃない。私は生まれてきたあなたの髪が岩場にへばりつくわかめに似ていたから名残と名付けたわけではないのよ?」
話に水を差したことを若干後悔しつつ、名残は素直に謝辞を述べると、今度は静かに聞き入った。母親は続けた。
「あなたは私達の余波で、人の余波で、そして世界の余波なの。波に流されることは決して悪いことではないわ。波が風を呼んでいるわけではないでしょう? 逆なのよ。風に流されてできるのが波なの。そこに大した差異などないと、あるいは、あなたは言うかもしれないけれど」
「そんなことはないわ。風に揺られて、波はできるんだもの」
「そうね、風に流されるのは波にとって当たり前のこと。だから、あなたがどんなに風に吹かれたって、どんなに波に流されたって、自分らしさを見失わなければ自らを恥じる必要なんてないの。どれだけ煽られたって、あなたはあなたでいればいい。ねえ、名残、私の言っていることがわかる?」
微笑んで、名残の母親は問う。
名残はこくこくと頻りに頷きながら、自身の名前をぽつりと呟いた。ただの音でしかなかったそれが初めて、じんと身体に溶け込んでいくような響きを伴わせる。自分の名前を呼ばれていると、呼び掛けられていると、初めてそう思えた気がした。
名残は声を詰まらせながら、何度も頷いた。
「ええ、ええ。よく、わかるわ。お母さん」
ずっとコンプレックスだった。
奇異な視線を向けられて、幾度となく揶揄われて、その度に自分の名前が嫌いになっていった。いつの間にか名前を見ることも、呼ばれることさえ煩わしくなった。成人したら本気で改名しようと思ったこともあった。
それらの傷が全て過去になっていくように思えて、名残は少しだけ寂しくなる。深く刺さり、鈍く痛みを生じさせていた棘がすっぽりと抜けたような気分だった。疼痛は止んで、代わりに、どこか甘く柔らかい痛みが心臓の裏側を突いていた。名残には、それがとても愛おしく感じられた。
ぱた、と机の上にひとつ雫が落ちて、それが自身の涙だと理解すれば、もう我慢なんてできるわけもなかった。名残は久しぶりに、母親の前で声を出して泣いた。ひっく、と情けない嗚咽が漏れて、だけど、少しも恥ずかしくはなかった。名残は「ごめんなさい」と言った。
名残の母親はそんな彼女の震える手に自身の手を重ねると、「馬鹿ねえ」と呆れたように、けれど嬉しそうな顔で言った。
「何を謝る必要があるのよ。あなたはいつだって名残よ。もちろん、名前の話ではないわ。あなたの存在のこと」
「存在?」
「ええ。あなたは名残で、それは私達が付けたあなたの名前ではあるけれど、それと同時に、あなたというひとつの存在の証なの。それは私の中にもあるし、きっと、お父さんの中にもあった」
そこまで言うと、名残の母親は「あっ」と声を上げた。
「なあに?」
「あなた、まさか、お父さんがこの世に残していったものだから、とか思っていたんじゃないでしょうね!」
「まったく、何を言っているのかしら、お母さんったら。私の名前は、私が私らしくあるための支柱のようなものよ。とても大事なものなの。そんな間違いをされては悲しいわ!」
名残が身振り手振りにそう言うと、母親は「あなたって娘は」と言って呆れたように笑った。
「名残、こっちへ来なさい」
「なあに?」
「髪が跳ねているわ。また乱暴に乾かしたんでしょう? おいで。梳いてあげるわ」
子供扱いしないでちょうだい!
そう言いつつも自室から櫛を取ってきた名残の頬は、どこか嬉しそうに朱に染まっていた。お願いするわ、と言って彼女は母親に櫛を手渡した。
私が私らしく、あるための。
自分の言葉をふと反芻して、名残はにんまりと微笑んだ。
強い風が吹いても、高い波が押し寄せても、きっと大丈夫だと思った。
終業式を終えて、ホームルームが始まるまでの空き時間、名残はいつものように教室のベランダで栗原との談笑に興じていた。明日から夏休みが始まると思うと、嬉しい反面、どこか気の抜けるような気分になる。まだ受験を意識するような時期でもなく、どうせ怠惰な休暇になるだろうと、襲ってくる気怠さに億劫さえ覚えた。
「そういえば、ずっと疑問に思っていたことがあるの」
ふと思い出したようにそう言った名残に、栗原はなんだい?と言葉を返した。
「栗原くんは何故、私の名前の意味について知っていたの?」
名残の質問に、栗原はふらふらと視線を泳がせると、あー、と間延びした声を出した後、観念したかのようにぽつりと呟いた。
「調べたからだよ」
その返答に名残は感嘆の声を上げる。
「名残、なんて言葉を調べる機会があったの? やっぱり、栗原くんは勉強熱心ね。尊敬するわ」
純粋な気持ちを口にした名残だったが、どうしたことか、栗原はそれきり口を噤んでしまった。不思議に思った名残が呼び掛けると、栗原はどこか不本意そうな顔をする。名残には栗原が何か言い淀んでいるように見えた。
「……それは、どっち?」
仄かに頬を染めながら言った栗原の言っていることが理解できず、名残はこてんと首を傾げる。吐かれた溜息の出所がどこなのか、彼女にはわからなった。
前言撤回、と栗原は呆れたように言った。
「天然が一番、タチが悪いや」
名残 歩隅カナエ @pillow
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