7

 美恵子さんがいなくなってから、いつの間にか半年もの月日が流れた。その間、僕の年齢は一つ足されて十六となっていた。僕にとっての日常はただ淡々と過ぎ去っていった。しかしそんな僕の生活とは対照的に、ロボットを巡る情勢の変化は急激なものだった。

 アメリカはロボットの国内販売を全面的に禁止し、軍事目的でのみその利用を許可した。数千から数万体規模のロボットを所有するいくつもの派遣会社が政情不安定地域での事業展開を始め、莫大な収益が見込まれるとされた。これら新興企業の社員はオペレーターとしてロボットに指示を送る人材がほとんどで、一社あたり数人から多くても十数人に過ぎず、指示はオンラインで遠隔地から出すため死亡リスクもない。これは改めて兵員という死亡リスクの高い人件費のコストカットが企業にとっていかに効果的であるかという好例となった。兼ねてから懸念されていたAIの暴走による民間人への誤射等の問題も、少なくとも表向きは確認されていない。これによりフランスやイギリスはもとよりロシアや中国までもがロボットへの対応を軟化させつつあり、アメリカはこれが新たなテクノロジーの進歩だとうたっている。僕はこれらの情報をインターネットによってなんとか収集することができた。国内の報道だけでは海外におけるロボットの実態を把握することは難しく、一部英語のニュースサイトを辞書とにらめっこしながら訳したりもした。

 翻って日本国内におけるロボット市場は厳しい状況に置かれていた。兵器としてのロボットというイメージが予想以上に悪い印象となり、いわゆるファッションやステータスとしてロボットを所有していた中~高所得者層がロボットを手放したためだというのが経済評論家達の大筋の見解だった。一方でテレビなどでよく言われたことは、市場が飽和状態であるため、飽きやすい日本人の気質がロボット離れを引き起こしたという見解だが、それだけが原因でないことは明らかだった。(それなのに、テレビはそのことばかり強調して報道するので、僕は非常に違和感を感じていた。)

 それに加えて国内有数の大手ロボット製造メーカーの下請けに当たる企業が独自の販売ルートを通じてロボット本体を始め、主要基盤や設計図までもをひそかに輸出していた事実が発覚し、これがロボットの印象をさらに悪化させた。しかもこれはほんの二週間前に判明したことだが、この輸出に際し、政府が極秘裏に認可していたということまでが明らかになった。野党はこれが紛争当事国への輸出も含まれているため、「防衛装備移転三原則」(旧「武器輸出三原則」)を破る愚行だとして攻勢を強めており、総辞職は時間の問題だと与党内でも囁かれ始めていると、これは昨日のニュース番組で見たことだ。この問題が発覚した当初、メーカー側は、ロボットは単体での殺傷能力はないに等しく、平和利用が目的の輸出であるため、これは兵器の輸出には当たらないとの見解に終始一貫していた。しかし輸出先が紛争当事国を含むことが既に判明しており、今となっては言い逃れも苦しい抗弁でしかなかった。

 それで半年後の今日、十二月二十四日の夜、町中がクリスマス・イブで景気づいている中、僕はいつものように一人でスーパーの惣菜を買いに行った。美恵子さんがいなくなって以来、料理のできない僕はこうやってなんとか食いつないでいるといった生活が続いていた。スーパーに入って惣菜コーナーを覗いた僕は心の中で舌打ちする。時間を見計らって来たはずなのに、惣菜が半額はおろか十パーセント引きにすらなっていなかったからだ。

 しばらくその場に立ち竦んで思案に暮れていると、僕は突然肩を叩かれた。内心飛び上がるほど驚いたが平静を装って振り返る。するとそこにはうちの中学の制服を着てはいるが、全く見覚えのない女生徒が立っていた。

「石倉悟史さんですよね?」

「え? うん、そうだけど」

「良かったぁ」

 僕の戸惑いをよそに、少女は突然えくぼが見えるほどの満面の笑みを浮かべた。

「違っていたらどうしようって思ってたんです」

「はあ」

「夕飯のお買い物ですか?」

 少女は僕の背後にある惣菜コーナーを覗き込むようにして言った。

「うん」

「すみませんがお食事は後にして下さいませんか?」

「は? なんで?」

「今は急を要するんです。一緒に来てください」

 少女は言うが早いか僕の左手首を掴み、小走りに走り出した。僕は前のめりに倒れそうになりながらも、なんとか歩幅を整えようとして不自然に靴の底を床に打ちつけてしまい、足音が店内に響いた。買い物客の主婦達の責めるような視線が一斉に僕達に注がれ、いたたまれない恥ずかしさを感じた。

「ちょっと待って、カゴ置かないと」

 入り口付近に積み上げてある買い物カゴを見て、僕は少女に訴えた。しかし少女は聞こえていないのか、振り返る様子もなく、それどころか走る速度を上げているようにすら感じられた。僕は仕方なく右手に持ったカゴを放り出した。カゴは店内の床を大きな音を立ててバウンドした。近くに従業員が見えたが、恐ろしくてとてもじゃないが顔を見られなかった。

 スーパーを出ると少女は手を離して振り返った。

「早くついてきてくれないと、恥ずかしいじゃないですか」

 少女は赤らめた頬を膨らませて突然不平を言い出したが、僕の手をいきなり掴んで走り出した彼女にそんな言葉を投げかけられるいわれはない。

「恥ずかしかったのはむしろ僕の方なんだけど」

 別に対抗しているわけではないが、少なからず腹が立っていた僕もまた、少女に対して文句を言った。すると少女は何を勘違いしたのか口に手を当てて目を見開きながら「そうなんですかぁ?」と感嘆(?)の声を上げた。正直訳が分からない。

「あのさ」

 僕は少女を見据える。少女は緊張のせいなのか、その場で硬直していた。僕は一息つくと、単刀直入に尋ねる。

「君は誰?」

「えっ?」

 少女は予想していない問いだったせいか、思考が止まったように呆然と焦点の合わない視線を泳がせていたが、何を思ったのか急に笑い声を上げた。

「あははははは。そ、そうですよね。知っているわけがないですよね、私のこと」

「うん」

「へへへ、勘違い、勘違い」

 少女は自分の頭を軽く小突くと、改めて僕を見据えた。

「私は律、鮫島律っていいます」

 少女は微笑を浮かべてそう言ったが、今度は僕が驚く番だった。

「律? 律って、あの鮫島の妹の律ちゃん?」

 僕は改めて目の前にいる少女を見た。身長は僕より低いものの、一五○センチ以上はあるだろうし、うちの学校の制服を着ていることから考えても、年齢は僕と同じかあるいは一つか二つ下だろう。髪は律ちゃんの特長とも言えるツインテールではなく、白いリボンで束ねたポニーテールだった。身長が僕よりもはるかに低く、小学生でツインテールの律ちゃんとは明らかに別人だった。

「あのさ、失礼だけど君はロボットじゃないよね?」

 僕は律と名乗る少女がロボットでは不可能な動きと表情をしていることに気がついていた。しかし小さい頃に見た大塚さんの変貌ぶりを思い出すと、そう聞かずにはいられなかった。それに表情や動きを強化した最新機種だってこともあり得る。

 少女は眉根を寄せてあからさまに不快な表情を見せると、僕を指差した。

「それ、心外ですよ。心が傷つきます」

「あ、やっぱり違うよね、ごめん」

 僕は顔の前に突き出された指から逃れようとして、のけぞった姿勢のまま謝った。少女はそんな僕を見て、指から順に腕を下ろすと俯いて深いため息をついた。

「でも、まあしょうがないんです。知らなくて当然です。私、家では隠れているようなものですから」

「え? どういうこと?」

 少女は顔を上げ、はにかむように微笑を浮かべた。

「私のことはいいんです。それより家までついてきて頂けませんか? 会わせたい方がいるんです」

 少女は僕に背を向けると歩き出した。僕は断る理由もないし、とりあえず鮫島の家まで行ってみようと思ったが、やはりペースが速く、ついていくのは少々きつかった。

「あの、もうちょっとペースは落とせないの?」

「悪いですが、それは無理です。さっきも言いましたよね? 時間ないんです」

 少女は僕を見ず、まるで競歩の選手のような歩き方でどんどん進んでいった。僕は少し小走りになりながら、彼女の横について口を開く。

「君さ、本当に歩くの速いね」

 少女は僕の発言を聞くなり眉根を寄せ、横目で僕を見た。

「あの、名前教えましたよね?」

「うん」

「『律』でいいですから、名前で呼んで下さい。『君』って呼び方は禁止です。今後一切使わないで下さい」

「なんで?」

 少女は立ち止まると僕に顔を向け、悲しそうにその顔を歪ませた。

「だって、他人行儀じゃないですか。なんか寂しいですよ」

「でもさっき会ったばかりだと思うけど……」

 僕はこの問いを掛けたことを後悔して途中で切り上げた。律が泣きそうな顔で僕を見ていたからだ。

「寂しいこと言うんですね、悟史さんは。会って話しました。名前も言いました。ですからもう他人ではないんです」

「ごめん、悪かった」

「どうして謝るんですか?」

「いや、だって、さ」

 律の声には涙が混じっていたので、僕は正直焦った。なんて傷つきやすい娘なんだろうか。律は服の袖で目元を拭く仕草をした。俯いているために暗くて顔はよく見えなかったが、やはり泣いているのだろう。僕は自分がとんでもない悪人になったような気がした。

「気にしないで下さい。いつものことです」

 しばらくすると律は本当に気にしていないといった調子の声でそう言って、視線を正面に戻すと、早歩きを再開した。気丈なのだろうか。

「あ、見てください悟史さん。この欄干の上、実は歩けるんですよ」

 鮫島の家に行く途中にある、住宅街の中に掛けられた橋に差し掛かった時、律は突然大きな声を上げて欄干の上に飛び乗った。確かに欄干の上は平らだったが、ほとんど足の幅しかない上に、右手は川だ。バランスを崩しても川に落ちないという保障はない。殊に冬の川は水温が低い。下手をすれば落ちてショック死する確率だってゼロではないだろう。

「律、危ないよ」

「大丈夫ですよぉ」

 律は愉快で堪らないといった具合で満面の笑みを浮かべながら後ろで歩く僕を見ると、まるで酔っ払いのような危うい足取りで欄干の上を歩き出した。それを見ているこっちは気が気ではなかった。寿命が縮む思いというのはこういう時のことを言うのだとすら思った。

 律は欄干の端に着くと、跳ねて地面に着地した。そのまま振り返って僕を見た律の表情は、やはり笑顔のままだった。

「遅いですよ、早く来てください」

「ああ、うん」

 僕は歩くペースを速めながらも、この律と名乗る少女に対して奇妙な印象を抱かないわけにはいかなかった。橋の周囲は等間隔おきに電灯が設置されてはいたが、それほど明るくはない。律はそんな薄暗い夜道でもはっきりそれと分かるほどの満面の笑顔を僕に向けた。それは以前相田が言っていた秩序の中における自己抑制の影響を全く受けていないかのように、僕には見受けられた。しかも彼女はさっきまで泣いていたのだ。いくらなんでも機転が利きすぎている気がした。あまりにも極端な躁と欝、もしかしたら彼女は何らかの精神疾患を抱えているのかもしれない。

「な、何ですか?」

 僕が律を見つめていたせいか、彼女は焦った様子でそう問いかけてきた。その不自然な調子に、僕は自らの考察の正しさにより深い確信を覚えた。

「いや、何でもないよ」

「そうですか……」

 律はなぜか残念そうに俯くと、前を向いて歩き出した。鮫島の家まではあと少しだった。

「着いたね」

 僕は家の前で立ち止まった律の隣りに立つと、彼女に向かってそう言った。「はい」という律の返事を聞いてから僕は続ける。

「失礼だとは思うけど、本当に君はこの家の人なの? 僕は鮫島の家に何度か来てるけど、君に会ったことはないんだ」

 律はまたあの悲しそうな表情を僕に向けた。

「はい、この家の人ですよ。悟史さんが私のことを知らなくても、私は悟史さんのことを知っています。私は鮫島家の人間で、人間・・の方の律なんです」

「人間の……」

 僕は律の言ったことを反芻するように呟いた。人間の律とはいったいどういうことだろうか。鮫島は一度も本当の妹がいるなんて話をしたことがなかった。

「そっちじゃありません」

 僕が正面玄関に向かおうとすると、律はそれを制して、庭を周回するように歩き出した。僕は律に従って家と塀との間にある、人一人が何とか入れるくらいの狭い隙間を通って庭の裏手に回った。そこは近隣から見られないようにするためなのか、より一層塀が高くなっていて、その頂上付近に取り付けてある簡易電灯がこの狭い範囲内を照らした。僕は庭の狭さもあり、妙に圧迫感を感じた。

「ここです」

 塀に向けていた視線を律に戻すと、彼女はポケットから取り出したのか、猫の人形がくっついた鍵束から小さめの鍵を正面のドアノブに差し込んでいた。そのドアはよく見ると頑丈そうな造りをしていた。黒い塗装が施された上から鈍い光沢が見えるドアだった。スチール製だろうか。温かみを感じさせる家の白壁とはミスマッチに思えた。

「どうぞ」

 ドアを開けた律は僕を招き入れるようにドアを押さえながらそう言った。僕は恐る恐る部屋に入ろうと歩を進めた。しかしそれは部屋ではなく下り階段だったため、僕は危うく転びそうになった。

「これは?」

 僕は律に振り返って問い掛けると、彼女は特に何の表情も浮かべずに答えた。

「地下室なんです。もともとは自宅の物置だったものをパパが研究室に改築した部屋なのですが、最近は兄がロボットをかくまう部屋として使っていました」

「律はここに住んでいるの?」

 律はこの問いに対して微かに微笑を浮かべた。

「いえ、私はこの家には住んでいません」

「鮫島家の人間なのに?」

「はい。でも勘違いしないで下さい。別に追い出されたとかではないんです。私が望んだことですから。鍵もここと玄関の鍵を両方持っていますし、たまにですが帰ることもあります」

「そう……」

 何か複雑な事情があるようなので、僕はそれ以上立ち入ったことを聞こうとは思わなかった。だがそれにしても妙な話だった。事故で子供を失った両親が子供そっくりのロボットを購入することはよくある話だが、子供がいるのに同じ名前のロボットを所有するというのはどういうことなのだろうか。第一戸籍上そんなことが許されるのか。

「あの、ロボットの方の律は変なことを言っていませんでしたか?」

「え?」

 僕が思案に暮れて俯いていると、上から律が声を掛けてきた。僕は顔を上げて律を見る。彼女は開けたドアに寄りかかっていた。

「あの子、父がここで改良したロボットなんです。だからきっと悟史さんにおかしなことを言ったんじゃないかと思って……」

「ああ、うん」

 僕は神妙な顔付きで問い掛ける律から目を逸らしてあいまいな返答を返した。律ちゃんの話した妙な話を彼女にする気にはならなかった。そんなことより僕は「改良」と彼女が言ったことが気に掛かっていた。

「ロボットって改良できるの?」

「えっ? あ、はい、できますよ。ただ資格が必要ですが」

 律は意外そうな声を上げた。恐らく僕が知らないとは思わなかったのだろう。彼女は続ける。

「パパはいわゆるロボット技師なんです。ですからこの奥はその作業を行うための部屋になっています」

 以前相田はロボットの主要基盤の盗難のことで自害プログラムを作動させないために何らかのパスコードが存在するのではないかと言っていたが、こういった技術職こそが実は抜け道だったのではないだろうか。

「そのお父さんは自害プログラムを止めたりできるの?」

 律は僕の問いに対して頷いた。

「だから、この奥はそのための部屋なんです。部屋の中にいる限り、自害プログラムの作動を抑えることができます。自害プログラムのスイッチとなる、ロボットがセンターと送受信する電波を遮断できる構造になっているからです。ただそこでパパができることはプログラムの書き換えではなく書き加えること、それにAIとは直接関係のない外装や処理能力強化のための一部内装の換装だけです。それ以外のことをしたら、たとえこの部屋の中であっても自害プログラムが作動して壊れてしまいます」

「ああ、そう」

 やはり自害プログラムを完全に止めることができるという考えは、僕の早とちりに過ぎなかったのだろうか。しかしロボットの内部にアクセスができると分かっただけでも僕には驚きだった。

「いったいどうやってアクセスするの?」

 律は困ったようにはにかみながら、両手を出して振る仕草をした。

「私は知りませんって。それにパパのやるようなことはそうそう誰にでもできるようなことではないと思いますし。それより早く奥の部屋に入って下さい。悟史さんをお待ちになっている方がいらっしゃいますから」

「ああ、分かった」

 律は本当に知らない様子だったから、僕はこれ以上彼女を問い詰めようとは思わなかった。だいたい僕がロボットへのアクセスコードを知ったところで何ができるわけでもない。ただ僕は失踪事件の真相に少しでも近づきたいと思っただけだ。

 もっとも素人考えで分かることと言えば、基盤の盗難者が技術者か何かで、恐らくはこの奥にあるような特殊な部屋でロボットへアクセスし、さらに相田の言っていたロボットに仕込まれたプログラムによって自害プログラムを完全に止めたのではないかと推測できるだけだ。それ以上の詮索が真実への手掛かりになるとも思えなかった。

 ともかく今は律の言う通り、この奥で待つという人に会うことが先決だろう。本当にそんな人がいるのかと俄かに信じ難いが、それは階段を降りていけばすぐにでも分かることだ。

 僕は部屋までの距離が短いせいか、段差が妙に高い階段を慎重に下っていった。下の階まで辿り着くと、そこにはまた扉があった。金属製の頑丈そうな扉には見たところ、取っ手のようなものはなかった。また、扉には英語で "No, dust. Keep this room clean." と書かれた白いプレートが貼られていた。要するに精密機械に埃は大敵ということだろう。

「すいません、シャワー出しますね」

 後ろで律の声が聞こえた。僕が何のことかと問い質す間もなく、上からモーターの唸るような音と共に大量の風と微細な粉のようなものが降ってきた。

「これは?」

 モーターが止まって静かになってから、僕は後ろにいる律に尋ねた。彼女は壁面を開けて何やら操作をしていた。律は壁面から顔を離して僕を見ると、困ったように眉根を寄せた。

「説明し忘れていてごめんなさい。今のは体に付着した埃を除去する装置です。ロボットを組み上げるような時は埃が入ってしまうと大変ですから。今日はそういうことではないんですが、部屋に埃が入るとパパに叱られてしまいますので」

 律はそう言ってから再度壁面に目を向け、手を伸ばした。

「これから指紋認証で扉を開けます。古いタイプのシステムですが、声紋認証に比べて誤認がなく、確実なセキュリティーです。家族でしか使わない部屋ですからこれで十分なんです」

 律は説明しながらパネルの中に手を差し入れた。ピッと電子音が鳴り響くと同時に扉がゆっくりと上に上がっていった。

 中の照明が自動で点灯するらしく、扉が開くのを待っていると、真っ暗で何も見えなかった室内から、眩いほどの光が洩れ出てきた。扉が完全に開くと、入り口は明かりで満たされた。

 中はそれほど広くないようだったが、用途不明な機材がたくさん並んでいるために視界が悪く、部屋全体を見渡すことはできなかった。

「こっちです」

 律が先頭に立って部屋の奥へと誘導した。僕は招かれるままについていくと、あまりにも意外な人物がそこにいることに気が付いた。

「……美恵子さん?」

 僕は目の前に広がる光景が信じられず、夢か幻でも見ているのではないかと思いながら、口から洩れ出る吐息のように微かな声でその名を呼んだ。美恵子さんは昔から一切変わらない柔和な微笑を僕に向けた。

「はい。お久し振りですね、悟史さん」

 僕はその懐かしい声を聞いて、自分では意識することなく美恵子さんに近寄り、その体を抱いた。後ろに律がいることを気にする精神的な余裕はなかった。ただずっと会いたくても会えなかった人がいとおしくて、胸の詰まるような想いに我を忘れた僕は、その存在が触れられることを確かめるように、力一杯抱きしめていた。たとえ擬似的であっても柔らかい肌の質感と体温が僕の肌を伝った。美恵子さんもまた僕の背中に手を回した。彼女を抱きしめた快楽に酔い、打ち震えていた僕は、彼女の行動がプログラムによるものであって感情ではないと頭で分かっていても、心がそれを認めようとしなかった。

「本当はもっと早く会わせたかったんですが、こんなに遅くなってしまって、本当にごめんなさい」

 背後から辛そうな律の声が天井の低い地下室内を反響した。僕はその声の調子があまりにも苦しそうだったことに違和感を覚えた。美恵子さんは勿論そんな律の微細な変化に気付く様子もなく、微笑を浮かべたまま右手を僕の頭に当てて撫でようとしてきたので、僕は左手で美恵子さんの手を優しく払い退けると、上半身を反転させて律を見た。

「どうして? 美恵子さんに会えて僕は本当に嬉しいんだ。遅かっただなんて、そんなことないよ。過ぎてしまった時間は戻ってこないけど、家族の絆はこれからの生活の中できっと築き直していけると思うから」

「だって……」

 律は僕の言葉を聞くなり顔を背けた。それはまるで何か見てはいけないものを見てしまった時のような、不自然な首の動きだった。

「そんな幸せそうな顔を私に見せないで下さい。余計に罪悪感を感じて何も言えなくなりそうですから……」

「律、いったい君は何を言ってるんだ?」

 僕は美恵子さんに背を向けて、しっかりと律を見据えた。律は顔を背けたまま苦しげに目を細め、唇を戦慄わななかせていた。

「私、悟史さんが悲しむ顔を見たくないんです。でもそれは私の我儘わがままなんです。避けることなんてできないのに、全てが穏やかに過ぎていくような、そんな夢を見ているから、それがきっといけないんです」

 律の発言はあまりに抽象的で、僕はまるで要点を掴めなかった。だからそのまま口を閉じてしまった律に対して発言の意図を問い質そうと口を開きかけた時、背後から聞こえた美恵子さんの声が僕の口を押しとどめた。

「律さん、説明し辛いようでしたら私が――」

「私が説明するって言ったでしょう? 黙っててよ!」

 律が突然金切り声を上げ、美恵子さんの言葉を遮った。僕は律のあまりにヒステリックな叫び声に対して驚きを隠せなかった。律は興奮しているせいなのか息を切らし、美恵子さんを睨みつけていた。

「はい、分かりました」

 美恵子さんは取り乱した律を見ても臆することなく平然と答えた。それは心のない美恵子さんにとっては当たり前の反応だが、律の態度とあまりに対照的で奇妙な応対に見えた。律は赤くなった目元を袖で拭うと僕を見据えた。その表情は何か決意で満ちているようにも見えた。律はそのままゆっくりと口を開く。

「悟史さんはロボット狩りのこと、何も知らないのですか?」

「ロボット狩り?」

 何やら物騒なその語句に対して、僕は全く聞き覚えがなかった。律は僕の反応を見て眉をひそめる。

「SNSの中では東京近辺の話題として結構有名です。半年前から急増したロボットを集団で連れ去る事件のことですが、全く御存知ありませんでしたか?」

「それってテレビで失踪事件として紹介されていた報道のこと?」

 律は無言で頷く。

「ちょうど半年と少し前、兄のロボットも被害にいました。あの子はもう日本にはいないと思います」

「……うん、そうかもしれないね」

 僕は鮫島と美恵子さんとで律ちゃんを探し回った時のことを思い出していた。あれだけ探しても律ちゃんの手掛かりは何一つ掴めなかった。それに加えて相田の言っていた、国際市場において兵器としてロボットの価値が高騰してきたという話。二つを総合して考えれば、国境を越えて活動するプロの窃盗集団のような存在が暗躍していたと考えても、決して論理の飛躍ではないだろう。

「悟史さんはSNS、おやりにはならないのですか?」

「うん、まあね。ID持ってないからログインできないせいもあるんだけど、根本的に苦手なんだよね。なんというか情報が錯綜しているっていうか……」

 SNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスは、もう一世紀以上も続く古いネットワークコミュニティーの一種だが、未だに多くのユーザーを抱える一大市場であることに変わりはない。ネットワークそのものが擬似的な社会を構築しているという観点から、ユーザーの一人一人が社会の構成員であるという共通認識を持っているという特徴がある。それは単に情報を取得するという以上に情報の共有(シェア)による仲間意識を育てることが主眼に置かれているようだ。そのため、書物のように有用かつ洗練された情報を取得したい僕のような人間にとっては不向きだ。友達の輪の中に入って、大抵は根も葉もない噂話等を延々と続けているというイメージで、羅列され続ける情報の中にいること自体が楽しめる人でなければ、そもそも苦痛の種でしかない。しかしそんな一見無駄話と思えるような情報の渦の中に決して他では知りえない貴重な情報が埋もれているのも事実だ。ただそれはパズルの断片のような情報であったり、矛盾するものであることも多く、情報の選別と取捨選択に優れた人でなければ、情報の渦に呑まれるだけで何一つ有用な情報なんて得られないだろう。

 律は僕の困った様子を見たせいか、微かに笑みを浮かべた。

「始めたいのでしたら、私が招待しましょうか?」

「いや、いいよ。遠慮しとく」

 僕は大仰に左手を挙げて振った。それが律には可笑しいらしく、「楽しいのに」と僕をからかうように言った。ちなみにSNSの世界に入るのに個別のIDが要求されるのは万国共通だが、その取得方法はサービスによって異なっている。現在アメリカで二十年程前に立ち上げられた世界最大規模のSNS "Galactic Community《ギャラクティック・コミュニティー》" (GC)はIDの取得に関して個人情報を入力するだけで入会できるため、基本的に自由だと言える。だがこのSNSは日本であまり人気がない。その代わりに日本では百年以上前から、利用者から招待を受けることでサービスを始めるSNSが人気である。いわゆる友達の友達は友達といったことなのだろうが、一方で鼠算式に友達が膨れ上がっていくという構造を持つ危険性は早くから指摘されていた。これはどんな友達かを把握するのを困難なものにして、かえって秩序を危うくしていると言う側面がある。しかし日本人はなぜかコミュニケーションに一定の制限を設けたサービスの方が安心感があるらしく、ほとんど儀礼的でしかないこの手続きは未だに主流である。この事実は相田の言っていた、自己否定によって構築される秩序の実態と言えるかもしれない。自己がないからサービスの安全性に依存してそれに疑問を抱くこともなく、それどころか自由でなく一定のルールに従うことで入会できるシステムにむしろ安心感を抱くという不可思議な共通認識による信仰。 ただこれは少々乱暴な見解かもしれない。

「私、このSNSが趣味で、いろんな所に顔を出すんですが、そこで真偽しんぎこそ分かりませんが、いろんな方からいろんなことを知ったんです。それでロボット狩りの危険性も早くから噂になっていて、ここで知り合ったたくさんの友達が『恋人をさらわれた』とか『友達を奪われた』って表現していました。みんなロボットを完全に擬人化していますから、結構重度のロボット依存症なんだろうと思います。あと家からロボットを出すなって言う人もいましたし、それでも空き巣に入られたなんて人もいました。私、初めは半信半疑だったのですが、兄のロボットが誘拐されたのを聞いて、この噂にとても現実感を覚えました。それで頻繁にこの手の話に顔を出すと、都内で多いとか、最新機種が狙われやすいとかって事を知りました。それで一番びっくりしたのはうちの学校に誘拐犯の一人が潜伏してるっていう情報でした。その方は自分のロボットがさらわれた時に、犯人の写真をばれないように撮ったって言うんです。結構危ない橋を渡ったらしいですが、その画像データからその人の個人情報をなんとか取得したらしくて、真実を明らかにして欲しいと学校の名前だけおおやけにしたんです。私は個人的にその方と連絡を取り合って、私が犯人と同じ学校の生徒だと言うと、暗号化した写真のデータを送って下さいました。暗号化しているとはいえ、こういった個人を中傷するような遣り取りは、法に触れてしまう危険な行為の一つです。でもその方は真相が明らかになることをそれだけ望んでいたのだろうと思います。

 私はなんとか画像の暗号を解除して犯人の顔を覚えておきました。それで登校中に同じ顔の人を早速探しました。そうしたら拍子抜けするほどすぐに見つかったんです。私は気付かれないように後ろから付いて行くと、その人が三年生で、さらに兄とも悟史さんとも同じクラスの人であることが分かりました。私その時は本当に心臓がばくばく言ってました。それで私、思い切って職員室に潜入して、悟史さんのクラスの電子名簿を、電源の入ったままだったパソコンから検索しました。そうしたらその人の名前が相田瞬一あいだしゅんいちって名前であることが分かりました。それから私は――」

「ち、ちょっと待って」

「えっ? あ、はい。なんでしょうか」

「いや、とにかくちょっと待ってくれよ……」

「はい、あの、大丈夫ですか?」

 心配そうに声を掛ける律から目を離し、僕は部屋の壁に寄りかかると、両手で頭を抱え込んだ。あまりに突拍子もない話だったので、動揺のあまり頭が働かなくなった気がした。相田瞬一? 何で相田の名前が出てくるのだろうか。あいつは確かに可笑しな所でバイトをしているが、それも国の認可が下りていると言っていたし、ロボットは全て投棄された、いわば粗大ゴミのようなものではなかったのだろうか? それともそれは単に僕がそう思い込んでいただけで、相田が嘘をついていた? 僕は鮫島が不登校になってからのここ半年間、相田に対して鮫島と同等か、あるいはそれ以上の友情を感じてすらいた。それは相田が両親の話をする時に見せた真剣な眼差しが信用できる人間だと僕に思わせたからだった。しかしそんなことは僕の思い込みに過ぎず、信じたくないことだが、僕は相田に騙されていたということだろうか。はっきり確かめるべきだったのかもしれないが、僕はあまり気が進まず、あれ以来、相田とあの場所に行ってはいなかった。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

 律は僕に近寄り、俯く僕に屈んで声を掛けてきた。僕はそれに答えられる状態じゃなかった。律のためらうようなため息が耳元で聞こえた。

「あの、悟史さん、あの相田という方とよく一緒にいましたよね?」

「……ああ」

 僕はまるで臨終の寸前に頷いたような、ひどくか細い声を上げた。それは発言している僕自身が本当に自分の声かと疑うほど、しわがれた老人のような声だった。

「別に責めているわけじゃありませんが、そのせいもあるんですよ。私、悟史さんを早く美恵子さんに会わせてあげたかったんです。でもまさかロボット誘拐犯と悟史さんが友達だなんて思ってもいませんでしたから……」

「それ、本当に確かな情報なのかい?」

 僕は両手を頭から離して顔を上げ、しっかりと律を見据えてから言った。律は僕と顔が近過ぎたせいか、驚いたように目を見開くと、「あ、ごめんなさい」と言いながら後退った。胸に手を当てて俯いている律にもう一度声を掛ける。

「別にいいから。それでさ、実際どうなの?」

 僕がそう尋ねると、律はなぜだか悲しそうに眉根を寄せてから顔を上げ、気のなさそうな様子で口を開いた。

「そんなに相田って人のことが気になりますか? まあ、別に構わないですけど。それで情報の信憑性ですが、そうですね、確かだと思いますよ。私、前にあの相田って人の後をつけていったことがあるんです」

「それって犯罪じゃないの?」

「人聞き悪いですね、捜査ですよ、捜査。何しろ相手は素人捜査とはいえ、ロボット誘拐犯の嫌疑がかかってるんですよ? むしろ私の身を案じて欲しいくらいです」

「ああ、うん悪かったよ。それでどうだったの?」

 相田が危険人物だと思えない僕は、律の恐怖にどうしても実感が湧かず、また先が早く聞きたかったこともあり、いかにもあしらうような発言になった。恐らくそれが気に障ったのだろう、律は思い切り眉を吊り上げると、僕を睨みつけた。

「あの、本当に悪いって思ってるんですか? そんな態度をとるんでしたら私、話しませんよ」

「いや、だから怖かったってことだろ? 悪かったって。この通りだからさ」

 僕は両手を合わせて頭を下げた。しかし律が口を開く様子はなく、僕も少なからず腹が立ってきたので次のように言った。

「えっと、土下座でもすればいいのか?」

 律は僕の発言を聞くと俯いて思い切りため息を吐き出した。それから顔を上げて僕を見据えたその表情は、眉根を寄せてはいたものの、もう睨んではいなかった。

「そういうことを言っているんじゃありません。でももういいです、話します」

 律は一息つくと再度口を開く。

「あの相田って人、真っ直ぐ家に帰らなかったんです。老朽化した電車に乗ってどこかに行くようでした。私、ちょっと怖かったんでそれ以上はついていってないんですが」

「ああ、そのことは多分知ってるよ。あいつバイトに行ったんだよ」

 律は訝しげな視線を僕に向ける。

「あんな古い電車、都市部はほとんど通りませんよ? そんな所にまともな仕事なんてあるんですか?」

「うん、まあ機械の解体作業みたいな仕事らしいよ」

 僕はあいまいにそう答えた。最終処分場のことを説明しだすと話がややこしくなりそうだったからだ。律は目を細める。

「機械ってロボットじゃないんですか?」

「はは、まさか」

 僕は律の発言を笑い飛ばしたつもりだった。しかし律はそんな僕を見てこう言った。

「悟史さんって嘘が下手ですね。目が笑ってませんよ」

 僕は律の発言を聞いた瞬間、顔が強張るのが自分でも分かった。律は続ける。

「別に話したくないっていうんでしたらいいですけど、きっと悟史さんはあの相田って人に騙されてるんですよ。私には分かります」

「な、何でそんなことが言えるんだよ。相田のしているバイトは国も認可してるって話なんだぞ」

 律はそれを聞いて漁夫の利を得たとばかりに不敵な笑みを浮かべた。

「だったら余計怪しいですよ。国は早くから密かにロボットに関する政策転換を計っていたって噂もあるんですよ? ロボット市場を縮小させようと試行錯誤していたらしいです」

「何でそんなことを?」

 僕がそう尋ねると、律は首を傾げた。

「さあ? 何か外圧でもかかったんじゃないですか? 今でも国会でもめてる日本企業のロボット技術供与疑惑問題、この件をリークしたのも外圧の一環だって話もあります。日本のロボット市場には実際これまでにないほどの衝撃がありましたし、国民の間でロボットに対するきな臭い印象が浸透しましたから。あれを境にロボット関連企業の株価も急落しましたしね」

「いったいどこがそんな外圧をかけてきたっていうんだ?」

 僕は情報通らしい律に圧倒されたせいか、まくし立てるように質問した。律はそんな僕の質問にも特に動揺することなく答える。

「あいまいに言えば国際社会、でも私見ではやっぱりアメリカなんじゃないかと思いますよ? 実際はイギリス、ドイツ、フランスも水面下で動いていたとは思いますが、やはりあの事件は衝撃的でしたから」

「あの事件……?」

「一時期結構騒がれてましたよね。ロボットによる連続発砲事件のことです。兄もあの時は色々言っていましたが、実際はあれ、やらせなんですよ。知ってました?」

「えっ?」

「やっぱり知りませんでしたか。要するにあんな事件、アメリカでは起きてないんですよ。これはSNSに集まるロボット愛好家達の間では有名な話です。日本で撮影されたんじゃないかっていう噂もあるくらいなんですよ。だって人型ロボット自体があっちではほとんど普及してませんから。アメリカで人気なのは牛みたいな四つ足とタイヤ式ですよ。日本のロボットとは全然違う変なのばかりです。

 それで事件当日撮影したっていう防犯カメラの映像に関してなんですが、細かい部分は結構モザイクで隠して誤魔化していますが、一つだけ画面の中心でやけに鮮明に見える部分があるんです。悟史さんは気が付きましたか?」

「まさか、それって手付きの――」

 僕の発言を遮って律が口を開く。

「そう、手首の動きです。やっぱり美恵子さんが説明していましたか。本来なら専門家でも見逃しそうなことなんですが、ロボットならほぼ百パーセント気が付くように計算して作られた映像なんですよ、あれは」

「そんな……」

「あれが私の知る限りでは公になった最初の外圧なのですが、あの映像、ロボットに無知な政治家や企業家に対する脅しだったんじゃないかって話もあります。驚くほど似てるんですよ。今のお年寄りが子供の頃に流行はやったらしい殺伐としたロボット映画に。あんな映像を見せられて、ロボットからもっともらしい解説を聞かされたら、イマジネーションを掻き立てられてしまうのも無理ないですよね」

「……イマジネーションって?」

 僕は目を細め、戦々恐々としながらも尋ねると、律は対照的に意気揚々とした調子で答える。

「世界の終末劇ですよ。突然ロボットが暴れ出して人類を滅ぼしてしまうっていう。実際はそんなことがあるわけないんですけど、お年を召した方が信じ込んでしまうといくら説明しても信じてもらえず、収拾がつかないってことも多いらしいですから。こんなことになったらとんでもないって思いますよね、普通。まあ、そんな老人たちの危惧もあながち冗談ってわけでもないんですけど」

「は? だって今そんなことあるわけないって言ったばかりじゃないか」

 僕がそう言うと律は微笑を浮かべた。

「ええ、言いました。でもこれは実際起きてみないと何とも言えないことですから。きっとこれから農業従事者の補充とか適当な理由をつけて大量のロボットが途上国に輸出されるだろうと思います」

「は? 何で?」

 律は人差し指を立てて神妙な顔付きをした。

「だってビジネスチャンスじゃないですか。一次産品の供給国になることを反発している国って結構多いんですよ。そういう国に借金してでもなんとか買ってもらうんです。国の規制も緩くなってきたこの機会に銃火器もロボット用にアレンジしてセット販売なんてことをしたら、最高のビジネスになるとは思いませんか?」

「え、でもそれじゃあ世界が大変なことになるんじゃないの?」

 律は僕の問いを聞いてニヤリと笑った。

「悟史さん、アダム・スミスをご存知ですか? グローバリゼーションには神の見えざる手が働いているんですよ。皆がどんなに無茶な商売に手を染めても、神様は良い具合に世界秩序を調整してくれるらしいんです。つまり皆が利潤を追求すれば対立が起きるでしょうが、結局は潰し合って良いバランスで丸く収まっていくってことなんです。仮にこれから先、ロボット同士の戦争が起きたって同じことです。互いが潰し合って全部壊れてしまうだけ。後には兵器屋さんの懐に大金が入ることで経済が回るって寸法です。今でも世界はそんな考えの下で動いているんですよ。おもしろいですよね?」

「おもしろいってどういう意味だよ」

 僕は律の物言いに薄ら寒いものを感じながらもそう問いかける。律は眉を吊り上げて笑った。

「言った通りですよ。私達は科学の進歩を人間の進化だと手放しに喜んでいますが、テクノロジーの進歩って極端な利潤追求による多大な犠牲の上に成り立っているんですよ? 輝かしい進歩の裏で今までにいったいどれだけの悲劇が繰り返されてきたのでしょう? 銃の誕生からダイナマイトの発明、化学兵器、核兵器、そしてこれから世界を席巻するであろうロボット兵。もう人類は千年以上もこんな調子なんです。信じられますか? 人間はなんて愚かなんだろうってことを考え出したら、これはもう喜劇でしかないんです。笑い飛ばすしかないんですよ」

 科学の進歩が犠牲の上で成り立っている。僕はそれが地球環境の犠牲という観点でしか考えたことはなかった。しかし実際には人間の命すらその代償として払わされていたということだろうか。律の発言の寒々しさは、十才の律ちゃんが僕に語った話と同じくらい、僕を戦慄させた。

 僕はしばらく律を見つめたまま硬直していた。それが律に対する恐怖のせいなのか、それとも彼女の話した世界の成り立ちにおびえているのか、自分でもどちらか分からなかった。律は呆然として自分を見つめている僕に気が付いたのだろう。目を見開いて口を押さえると、突然「ごめんなさい!」と大声を上げた。

「私、話し出すと自分でも止まらなくなってしまって、思いつくままに喋ってしまうんです。私、何か悟史さんを傷つけるようなことは言いませんでしたか?」

「いや、傷ついたっていうより話のスケールの大きさに驚いただけだよ」

 僕は本心からそう思っていたので、その通りに言った。

「本当にそれだけなのですか?」

「うん」

 僕の返答を聞くなり、律はそっと胸を撫で下ろすようにして、口に当てていた手を下ろした。

「実はさっきの話、ほとんどがパパの受け売りなんです。パパって変わった人ですから、私なんかにもこういった話を熱心にするんです。変な人ですよね」

 律は同意を求めるかのように、上目遣いに僕を見た。しかし僕は無個性的な自分の父親を思い浮かべると、たとえ変わり者であっても自分の考えを熱心に話す律の父親を責める気にはなれなかった。

「良いお父さんじゃないか」

「本当にそう思われますか?」

「うん」

「そうですか。今までそんな風に言われたことはなかったんで驚きです」

 律はそう言うと嬉しそうにはにかんだ。律は父親が本当に好きなんだろうと僕は思った。それにしても鮫島からこの手の話を一切聞いていないことが、僕は気になっていた。

「あのさ、君のお兄さんからは律の言ってたような話、全然聞いたことがないんだけどなんでだろう?」

 律は僕の発言を聞くなり表情を曇らせた。

「兄は、単純に興味がないんだろうと思います。そういえば結果的に兄が溺愛していたあの子もパパはそういうつもりで作ったわけじゃなかったんです」

「あの子って、ロボットの方の君のこと?」

「はい。あの子は十才の頃の私をモデルにして作られました。もとは市販のロボットだったものを改造しています。パパにとってはホームビデオを残すような感覚だったのだろうと思います。でもあの子は家庭の中にあった何かを狂わせてしまいました。初めは双子のようで喜んでいた私も、あの子が次第に疎ましく感じるようになっていきました。私は心も体も成長していきましたが、あの子は十才のままでした。ある日パパがあの子の体を私の年齢と同じものに変えようと提案しました。でもそれに反対したのは兄でした。兄はあの子に対して並々ならぬ愛着を示していました。結局パパは兄の反対を押し切ってまであの子をどうにかしようとは思いませんでした。それどころか兄はあろうことか、父に頼んで外見は変えずに内部の部品だけを最新のものと取り替えました。するとあの子は過去の私を完全に模倣した、私よりも私らしい存在となっていきました。私はそれを見ていると、過去が現在を見つめているようで吐き気を催し、次第にあの子と生活を共にすることが苦痛で堪えられなくなりました。パパにそのことを相談すると、この家ができる前に住んでいたマンションに住んだらどうかと提案されました。賃貸に出していたそのマンションの一室は前の住人が出て行った後で、ちょうどその時空き家になっていました。私は二つ返事でパパの申し出を受け入れました。母は反対しましたが、私はそれを押し切って家を出たんです」

 律は淡々とした調子で自らの境遇を語った。僕はそれを聞いて、ロボットの律ちゃんが平穏な家庭に与えた打撃の深刻さを考えないわけにはいかなかった。特に淡々と他人事のように話す律が、かえって彼女の傷の深さを物語っているようで痛々しかった。

「でもさ、今ならロボットの君はいなくなったんだよね。家には帰るの?」

 律は僕から目を逸らすと俯いてため息をついた。

「正直悩んでるんです。パパは無理に帰ってくることはないって言ってますし、私も今更家に帰ってもぎくしゃくしそうなので。それに、兄もあんな調子ですから」

 律はそう言って天井を眺めるように見上げた。きっとこの天井の先には鮫島の部屋があるのだろう。

「そういえば鮫島、学校にも来ないけど大丈夫なの?」

 律は僕を見て苦笑いを浮かべた。

「ちょっと他人ひとに言えるような状態じゃないですね」

「あの、律さん」

 律の声を遮るように、僕の背後で美恵子さんが口を開いた。僕らは反射的に美恵子さんの方へ顔を向ける。

「差し出がましいようですが、お話の軸がずれているように思えます。時間もありませんし、もっと簡潔にお願いします」

 律は部屋に掛けられた壁掛け時計に目を遣ると、「そうね、悪かったわ」と気のない返事で答えた。

「どういうこと?」

 僕が律にそう尋ねても、彼女は僕から目を逸らすようにして「順を追って話します」としか言わなかった。律は僕を見据えて一度深呼吸をすると、口を開いた。

「あの、話を戻しますね。私、あの相田って人の家までついていったこともあるのですが、裏庭で変な物を見つけたんです」

 突然相田のことに話が変わったので、僕は意識を切り換えるのに戸惑った。そういえば律が相田をストーキングしていたという所から話が脱線していったのだと思い返した。

「あの、大丈夫ですか?」

 僕が律を見ないで難しい顔をしていたせいだろう。律は心配そうに声を掛けてきた。

「いや、会話の内容を思い出していただけだよ」

「すみません、話すのが下手で」

「いいから、それで庭で何か見つけたんだよね?」

「はい。私、あの人が家に入った後でこっそり庭の裏手に回ったんです。そうしたらロボットの頭が転がっているのを見つけたんです」

「えっ? 頭?」

「はい。首から上だけの頭がいくつも並んでいたんです。中には頭の上に包丁が突き刺さっているものもありました。私はそれを見てあの相田って人がロボット誘拐犯に違いないって確信したんです」

「頭……」

 僕はあの最終処分場で気を失う前に、相田がロボットの頭を踏み潰した光景をまざまざと思い出した。あの時焼きついた生々しい記憶がリアルに甦り、僕は嘔吐感に襲われて両手を口に当てると腰を曲げた。

「え? あの、どうかしたのですか?」

 律の焦った声が耳に届く。僕はなんとか息を整えて顔を上げた。

「いや、大丈夫。なんともないよ」

 僕の声を聞くと、律は安心したように息をついた。

「また私、変なことを言ったんじゃないかと思って……」

「大丈夫だよ」

 僕はそう言いながらも、相田のロボットに対する異常さを考えた。両親が心中したことで、あいつは確かにロボットに対して相当の恨みを抱いているのだろう。だが本来恨むべきは父親の代わりとして仕事に就いたロボットに対してなのだから、それを全てのロボットに置き換えて直接的な行為によって無差別に表現するのはお門違いのようにも思えたが、僕も思い出したくないような行為を目の当たりにしたわけだし、恐らくその執念深さは本物なのだろう。あいつならやりかねない、僕は今の話を聞いてそう感じた。

「確かに律の言う通りなのかもしれない。相田は怪しいよ」

「そうですよね」

 律はやっと自分の意見が認められたせいか、嬉しそうに微笑を浮かべた。

「だから私、誘拐犯と繋がりがあるかも知れない悟史さんには美恵子さんのことを話しにくかったんです。それに三ヶ月くらい前からロボット狩りが急増して、都内に限らずものすごい数の被害が出ていたんです」

「……全然知らなかった」

「はい、表向きのメディアでは全く取り上げられていないことですから。ひどい話では家の窓や壁を壊されて空き巣に入られたなんて話も聞きました」

「え? ロボットを盗むためにそこまでするの?」

 律は僕の驚いた声に対して大きく頷く。

「はい。だから私、今まで美恵子さんのことを明かさなかったんです。誘拐犯につけられるんじゃないかってことも心配で……」

「でも美恵子さんは無事だったんだね」

「はい。前にも少し触れましたが、この部屋はロボットが発する特有の波長を遮断できる構造になっていますから、そう簡単には見つからないと思います」

「でも用心に越したことはないと?」

 律は申し訳なさそうに頭を下げる。

「はい、本当にごめんなさい。私、あの勇気がなくって」

「いいよ、今日こうして会えたんだしさ」

 僕は律を安心させる意味もあって、嬉しい気持ちを込めてそう言った。しかし律は安心するどころか、余計に表情を曇らせると俯いてしまった。

「どうしたの?」

 律は微動だにせず、そのまましばらくじっとしていたが、次第にぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

「二日前からなんです。ロボット狩りの被害がぱったりとなくなってしまいました。その日はSNSの皆も用心していたんですが、すぐにその理由が分かりました」

 律はまた口を噤んだ。

「私が話しましょうか?」

 美恵子さんは律の傍まで来ると、屈んで声を掛けた。律は美恵子さんに顔を向けて微かに頷き、「ごめんなさい、お願いします」と蚊の鳴くような声で言った。美恵子さんは姿勢を正すとしっかりと僕を見据えた。

「地球の固有震動波を利用した外部からのアクセスにより、自害プログラムの強制発動が確認されました」

「え? どういうことですか?」

 美恵子さんは微かに目を細めると次のように言った。

「つまり私の命は日付の変わるまでのあと一時間ということです」

「な、何を言って――」

 僕は突然の宣告に狼狽し、息が詰まって視界が揺らぐのを感じた。律に目を向ける。すると律は僕の視線に気付いたのか、溜めていたものを振り絞るように声を上げた。

「色々と試したんです。でもどうにもならなかったんです。美恵子さんは殺されてしまうんです」

 律は嗚咽おえつの混じった声でそう言うと、顔を覆い、声を上げて泣き出した。僕は二人を相互に見て後退る。

「いったいどうして……、誰がそんなことを? 何のために?」

 僕の動揺にも何ら揺らぐことなく、発言を純粋に質問と判断した美恵子さんは口を開く。

「申し訳御座いません。私の力では偽装を見破ることができず、発信元を特定することはできませんでした。ただ送られてきたプログラムから一部解読できた型番等の記載内容から察するに、日本で生産された全てのロボットに対して同様のプログラムが送られたことを推察することができます」

 僕は訳が分からなかった。膝を突き、美恵子さんを見上げる。

「はは、全て、全てだって? そんなの可笑しいじゃないか。それじゃあ会社で雇ってるロボットはどうなっちまうんだ? 社会がメチャクチャになっちまうぞ」

 美恵子さんはその場に棒立ちのまま平然と口を開く。

「一般企業は、零細企業や自営業も含め、半年程前から国がロボットを採用しないよう通達を出しています。また、並行して回収作業も行っていたようです。この部屋にも、有線回線のパソコンを通じて届いたメールに、恐らく何らかの手違いだとは思いますが、『ロボットの回収に関するお願い』と言う書類が届いています」

「嘘だろ、嘘だって言ってくれよ」

 僕は震える声でそう言うと頭を抱え、その場にうずくまった。ただ時間だけは残酷に過ぎ去っていった。

「そろそろですね」

 美恵子さんの声を聞いてはっとした僕は顔を上げて壁掛け時計を見る。時間はあと五分で深夜零時を回る頃だった。美恵子さんの言っていたことが本当なら、日付が変わるその時を境に彼女の自害プログラムは作動する。僕は膝を突いたまま美恵子さんの腰を両手で掴み、彼女を見上げた。

「そうだ、予備電源を取り外そうよ。そうすればきっと自害プログラムは止められるよ」

「それは不可能です」

 僕を見下ろす美恵子さんは、僕の提案を即座に一蹴した。

「どうして? やってみないと分からないじゃないか」

 なおも主張し続ける僕に対して美恵子さんは残酷に言葉を紡ぐ。

「そういうことがないよう、予備電源は基盤と一体化させるという規格統一がなされています。つまり予備電源を取り外すということは、基盤を破壊することと同義なのです」

「そんな……」

 僕は絶望の淵に叩き落された気がした。本当に、もうどうすることもできないのだろうか? いや、ある。

「そうだ、パスコードだよ。相田が言ってたんだ。パスコードで自害プログラムが回避できるって」

 美恵子さんは眉一つ動かさないで僕を見下ろしたまま口を開く。

「それは私も律さんからそういう噂があるとお聞きしました。しかしどうやらそれは私のような古い型のロボットには適用されないようなのです。ですから今回の件は残ってしまった古い型のロボットを一掃する必要があるのだろうと推察できます」

「……なんだよ、それ」

 僕にはもはや何も言う言葉がなかった。すると美恵子さんは最後通告のように言葉を発する。

「時間です。念のためですが、私から離れて下さい。設計上問題はないと思われますが、万が一軽い火傷やけどを負うこともあるかもしれませんから」

「嫌だ、離れたくない!」

 僕は立ち上がり、美恵子さんを力の限り抱きしめた。僕は声を張り上げる。

「美恵子さんがいなかったこの半年間は本当に辛かったんだ。寂しいのはもう嫌だ。僕を一人にしないでよ!」

「悟史さんはお一人ではありません。お父様も、それにお友達だっていらっしゃいます。そうですね、寿命が来たとお考え下さい。人間には必ず別れの時が来ます。私は人間ではありませんが、そのように捉えて頂ければ納得できるのではないかと――」

「納得なんてできるわけないだろ! 人間だって別れる時は辛いんだよ!」

 美恵子さんはきょとんとして僕を見据えると眉根を寄せた。

「そうなのですか? 困りましたね。ともかく私がこの四年間に蓄積してきたデータは全て消去されてしまいますが、そのほとんどはセンターの方に送られていますので大丈夫です。決して無駄ではありません」

 僕は何も答えない。ただ美恵子さんに抱きついたままじっとしていた。

「ごめんなさい」

 美恵子さんは僕の耳元でそう囁くと、体を突然大きく前に出して止まり、すぐ後ろに引き下がった。僕の両手はその反動で容易に外され、体は部屋の後方に突き飛ばされた。その瞬間、電気がショートした時に聞こえる乾いた破裂音が僕の耳を打った。そして焦げ臭い匂いと煙が部屋中に充満した。

「美恵子さん!」

 僕がそう叫んだのと同時に部屋の上方、つまり外から老若男女の阿鼻叫喚とした叫び声が四方の壁で減衰しながらも室内で大きく反響して、あたかも地の底からの呻き声のように聞こえた。美恵子さんは手足を奇妙な方向に曲げた状態のまま仰向けに倒れ込んでいた。僕は訳もなく美恵子さんの姿勢を正したいという衝動に駆られ、屈んで右手を伸ばした。

「あっつ!」

 僕はあまりの熱さに右手を引っ込めて身を引いた。美恵子さんはかなりの熱を発していた。彼女が僕を離そうとしたのも無理はなかった。

「あの、お亡くなりになってしまいましたね」

 律が僕の後方で、上から声を投げかける。僕は何も答えない。振り返りもしない。

「でもきっと悟史さんの中で、美恵子さんは生き続けるのだと思います」

 まるで他人事のように淡々と語りかける律に対して、僕は怒りの情を抑え切れなかった。彼女に振り返り、思い切り睨みつける。しかし予想に反して、律は目元を赤く腫らし、頬には幾重もの涙が伝った跡が照明に反射して光り、眉根を寄せて僕を見るその表情は、悲しみに満ちたものだった。

 律は僕を見ると怯えたように目を伏せて後退った。

「ごめん、なんでもないよ」

 僕はすぐに表情を和らげようと努めた。しかし消沈した面持ちまで変えることはできなかった。

「あの、外に出ませんか? 夜風はとても気持ちがいいと思いますから」

 律は僕の前で屈むと右手を差し伸べた。

「悪い」

 僕は落胆による衝撃があまりに大き過ぎたせいか、体にうまく力が入らなかった。僕は律の手を両手で掴むと、彼女に体を預けるようにして立ち上がる。

 そのまま僕は律の肩を借りながら寄り添うようにして、空いた左手でパネルを操作した律が、地下室の扉を開けた。

「そういえば美香、大丈夫かなぁ」

「えっ?」

 階段を登りながら、律は突然そんなことを口にした。律は僕が問いかけると、ばつが悪そうに微笑を浮かべた。

「いえ、友達のことを考えていたのですが、つい口から声が出てしまって。えっと、美香っていうのは私のクラスメイトなんですが、彼女、弘樹ひろきっていうロボットの彼氏がいて、『一生彼と生きていく』みたいなことを私に言ってましたから、ちょっと心配なんです」

「そう」

 律は前を向いて、また呟くように口を開く。

「美香、それで変なことを言ってました」

「変なこと?」

「はい」

 律は僕の問いに返事をしながらドアノブに手を掛けると、なぜか前を向いてじっとドアを見つめたまま硬直してしまった。

「どうしたの?」

 僕が堪らずに声を掛けると、律はこちらに顔を向けて、安心させるように微笑を浮かべた。

「いえ、声、聞こえませんでしたか?」

「声?」

「ええ、さっきもわずかに何か聞こえたような気はしたんですが……」

 僕は頷く。

「うん、確かに声のようなものは聞こえたけど、それがどうかしたの?」

「はい、まあ、開ければ分かることですよね」

 律は呟くようにそう言って一人納得したように頷くと、ノブをひねって裏庭へと通じるドアを押し開けた。その瞬間、プラスティックとゴムが燃えた時に出る有害なガスの臭いが鼻を突くと共に、女性の泣く声、男性の叫びとも呻きともつかないわめき声、子供の大声で泣き叫ぶ声、あまりにもたくさんの声が僕らの耳を打った。僕らはあまりの異臭に鼻を摘み、耳を打つ異様な声のために口を閉じ、庭を回ってすぐさま道路に出た。するとそこには現実を逸脱した光景が広がっていた。

 目の前には地面に座り込んで泣き叫ぶ、二十代と思しきロングヘアの女性がいた。彼女は手をだらりとぶら下げたまま、公衆の面前でも構うことなく空に向かって大きく口を開いて泣き続けていた。その傍らには恐らくロボットだと思われるやはり二十代くらいの男性がうつ伏せになって倒れていた。そのすぐ横では小さな女の子が両手で顔を覆ったまま泣き続けている。その傍らには膝を突いて目を閉じた四十代くらいの女性が俯いていた。彼女は母親の代わりをしていたロボットだったのだろうか?

 さらに家から向かって右側の数メートル程離れた所では膝を突いたまま抱き合う男女の姿があった。十代後半くらいの、まだ幼さの残る童顔の女性が、眼鏡を掛けた二十代後半と思しき男性の首に両腕を巻くようにしていた。しかしハーフコートを着込んだ男性は女性を見ずに俯き、右手をコートのポケットに突っ込んだまま、何やらぶつぶつと呟いていた。声が小さい上に離れているため、口の動いていることくらいしか僕には分からなかった。

 また、そのさらに後方では白い乗用車が立ち往生を食っていた。事情を理解していないのか、運転手は苛立ったようにクラクションを断続的に鳴らし続けている。僕は辺りが血のように赤い光に包まれていることが気になって、家から向かって左側に視線を移した。するとそれは十数メートル離れた所で停車した数台のパトカーが発する赤いライトのせいであることが分かった。数人の警官がパトカーから外に出ており、無線に食いつくように腰を曲げ、何やら怒鳴っているのが微かに聞こえた。距離があるために何を言っているのかまでは聞き取れなかった。ただひどく興奮しているのが声の調子から分かった。今日のことは末端の警察官には伝わっていなかったということだろうか。

 僕は充満するプラスティックの焦げる臭いに胃が裏返りそうでひどい吐き気を覚え、空いている左手で腹をさすった。僕はこの異様な光景を、そうしてただ呆然と眺めることしかできなかった。混乱した頭のせいで、どう動いて何から手を付けたらいいのかがまるで分からない有様だった。

 しかし可笑しなことは律がまるで動揺していないことだった。僕の右胸に体を預けるようにして顔をうずめた律は僕を見上げて微笑すら浮かべていた。さっき僕に見せた悲しい顔は嘘だったのだろうか?

「かわいそうに、皆さんお亡くなりになってしまったんですね」

 律は他人事のようにそう言った。確かに他人事には違いなかったが、美恵子さんを失ったばかりの僕には他のロボットの死とはいえ、他人事とは思えなかった。律はこんな状況を前にしても驚く程冷静で、紅潮させた頬を僕に見せたまま話し続ける。

「さっきの話ですけど、美香は私にロボットは依代よりしろだなんてことを言ってたんです。変ですよね」

「依代……?」

 僕には律の発言の意図がまるで掴めなかった。律はそんな僕の疑問に答えるように付け加える。

「ロボットには魂、つまり心が宿っているんだって美香は言い張るんですよ」

「……心?」

 僕の脳裏にはなぜか美恵子さんとスーパーに行く途上の光景が過ぎった。僕の横で端正な顔立ちをした美恵子さんが微笑むのを思い浮かべると心がうずいた。あの時美恵子さんは確か意識がないと言っていた。あんな繊細な表情を浮かべているのに意識がないだなんて……。僕は美恵子さんを見て頭のどこかで悲しく思っていた自分の気持ちを思い返していた。律はそんな僕の心を余所よそに続ける。

「私、これはもう駄目だ、ロボット依存症の末期症状だなぁって思いました。正直、付いていけないんです。ロボットに熱を上げ過ぎると、ロボットと人間の違いすら分からなくなって、自分を見失って、盲目的な愛に身を投じるようになるんですよね、依存症の人って」

 そうだ、僕だって美恵子さんのことで未だに思い煩っている。それは彼女を盲目的に愛しているせいなのかもしれない。僕もまた律の友人と同じロボット依存症なのだろうか?

「だから私、美香のことはさっぱり理解できないんですが、彼女のようにロボットを愛してしまう人のことをずっと考えていたんです。ねぇ、悟史さん、ロボットを愛するって、その人がロボットになるってことですよね? だって恋をするとみんな相手のことを真似したくなるでしょう? 相手の好きな食べ物を食べてみたり、相手が好む服を着てみたり、趣味も相手に合わせて変わったり。これってみんな相手に近づきたい、恋の相手と同化したいって願望ですよね? じゃあロボットと同化するってどういうことでしょう? ロボットには好きな食べ物も、服も、趣味も何にもありません。だって当然ですよね? 心がないんですから。そんな存在と同化しようだなんて思うから、みんなロボット依存症だなんて変な病気になるんですよ。だってロボットは心がないですから、いくら愛したって何も返してくれないんですよ? きっとみんな心の底に欲求不満が溜まって可笑しくなってしまうんです。早くそんな不健康で悪い夢なんて忘れてしまいましょうよ。ねぇ、悟史さん、私はずっと人だけを愛し続けてきたんですよ」

 律はそう言って僕の胸に顔を埋めて息を吐いたようだった。胸の辺りに湿った熱い空気が肌に当たるのを感じたからだ。僕は律の態度を不謹慎に思った。僕は律から顔を背けて空を見上げた。空には無数の星々が僕を見下ろしていた。その広大な景色を目に映してでもいなければ、僕は窒息してしまいそうな気がした。

 律は自分を見てくれないことを不快に思ったのだろう。僕の袖を引いた。その時、武道の試合の時に選手が発する雄叫おたけびのような、妙な叫び声が突然辺りに響き渡り、耳を強く刺激した。僕らは反射的に声のした右側に視線を向ける。すると先程から一人で何かぶつぶつと呟いていたハーフコートを着た眼鏡の男性が、膝を突いたまま両手を使って逆手に持ったコンバットナイフを振り上げているのが見えた。それは一瞬のことだった。ナイフは吸い込まれるように男性の心臓に当たる左胸付近を貫いた。激しい痙攣と共にすぐに逆流した血液が男性の口から噴き出し、幾度となく咳き込んだ男性は、そのまま抱きつく女性に倒れ込む。しかし恐らく自害したロボットであるために硬直して動かない女性は男性を支えることができず、そのまま二人で地面にもつれ合ったまま倒れ込んだ。するとすぐに大量の血液が彼らの周囲を赤く染め上げて血溜まりを作った。

「いやああああああ!」

 僕を突き飛ばすように体を離した律が、悲鳴を上げたまま頭を抱え込むようにして膝を突いた。開き切った眼球からは洪水のような涙が頬を伝っていた。

 僕はそんな律を見て不自然に思った。さっき律は自分で僕に言ったばかりではなかっただろうか? ロボットを愛した人がロボットとの同化を求めると。彼は今、その究極の形を僕らに指し示したのではないだろうか? 今になってそんなにひどく動揺する君という存在はいったい何なのだろう? 所詮君はロボットの死を壊れた機械程度にしか思っていなかったのだ。それはとてつもなく残念なことに思えた。

 その時、僕は神経が麻痺してしまったせいかもしれないが、なぜだかひどく冷静だった。もう一度空を見上げる。美しい星々が僕に祝福を与えてくれているかのようだった。僕は視界をもっと星で覆いつくしたいと思った。首を曲げられるだけ曲げて、背中を仰け反らせるだけ仰け反らせていった。しかしそうするうちに星ではないものが目に映った。

 それは鮫島の家だった。家は地面にくっ付いてぶら下がって見えた。二階に目を遣ると、二階の窓は大きく開け放たれ、そこには半年振りに見る鮫島の姿があった。鮫島は逆さまのまま大きく口を開き、顔を両手で鷲掴みにしていた。焦点の合わない目はどこを見ているのかさえ分からない。僕は彼を見て、なぜかひどく動揺した。鮫島の視線の先が果てしなく遠い気がしたのだ。

 この町を、社会を、世界を通り越し、何かこの世ならざる真理を見据えている、そんな風に思えてならなかった。

(お前はいったい何を見ているんだ?)

 僕は鮫島に向かって手を伸ばした。その時彼を通して僕は、目に見えない救いに浴したい、もしかするとそう強く願っていたのかもしれない……。

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