6
朝、僕は父が仕度をするをする物音で目を覚ました。食器の音、ドアを開け閉めする音、トイレの流水音などが洪水のように聞こえた。最後に玄関口のドアが閉まる音と鍵の掛かる音が室内に響き渡ると、僕はようやく
先に着替えを済ませ、教科書を入れ替えた鞄は玄関口に置いておく。そのまま側の洗面所で顔を洗い、台所から食パンを取り出して口に入れると、コップになみなみと注いだ水で一息に流し込んだ。その時ふとリビングの方に目を
簡単に歯磨きを済ますと、僕は鞄の肩紐(バンド)を右肩に掛け、玄関のドアを開けた。施錠をしてから通路を歩き出した僕は、思い出したように頬に触れた。朝の仕度に集中することでごまかしていた僕は、昨日のケガについて考えるのを故意に避けてきた。今は歩いているだけなので、ケガのことが無性に気になった。頬の腫れは触った感触でも分かるほど腫れていた。しかしみっともないので湿布はエレベーターが来る前に剥がし、鞄の中に丸めて入れた。
本当は何も律儀に学校へ行く必要なんてなかったのかもしれない。実際ケガをしているのだから、休む理由がないとも言えないだろう。ただ僕は、自分が家にいることを想像した時、とてもじゃないが精神的に堪えられそうになかった。きっと一人でいれば様々なことを思い出すだろう。鮫島のこと、美恵子さんのこと、父のこと。その時々に取った僕自身の行動が正しかったのかどうか、僕は考えずにはいられないだろう。そして僕は軽率な判断を下してきたという後悔の念から逃れることはできない。だから僕は自分の考えが深みに嵌るのを避けるために外へ出た。学校に行って気を紛らわせていれば、家にいる時ほどマイナス思考に捕らわれる心配はないだろう。もっとも、鮫島が言っていた通りで、物事を正面から捉えて行動しないこの卑怯な性分こそ、一番自己嫌悪を催す短所なのは分かっている。しかし僕は鮫島のように一日中美恵子さんを探し回ろうという気にはなれない。昨日あれだけ探して何の手掛かりも得られなかったのだから、これ以上探しても無意味だろうと頭で考えてしまうのだ。僕は鮫島ほど感情のままに動ける性格じゃない。そのことがあいつの気に障ったとしても、そう簡単に性格なんて変えられるものでもないだろう。ともかく今日は学校に間に合いそうなら登校して、昨日美恵子さんと最後に会っていたはずの茶道部員に事情を聞いてみる。それが現状においてもっとも建設的な考えであると、僕には思えた。
学校に着いた僕は席に着くと、何気なく周囲を見回してみた。ホームルームの時間が近いせいか、生徒は皆着席していた。右斜め前方に当たる美恵子さんの席は勿論のこと、ある程度予想していたとはいえ、前にある鮫島の席までもが空席だった。これで鮫島との絶交状態を回復する機会は、あいつの家へ無理に押しかけでもしない限り、永久に失われたことになる。
それからすぐに担任が来てホームルームが始まった。担任はいつも通りに出欠をとったが、さして空席に注目している様子はなかった。
その日の放課後、僕は教室で談笑している中に入るのはためらわれたので、廊下でしばらく待ち伏せをして、茶道部員の米田さんが廊下に一人で出てきたところを引き止めようと思い立って声を掛けた。
「あのー、すみません」
それは自分でも情けないと思えるほどおずおずとした調子だった。慣れないことをする時、僕はいつもこんな風になってしまう。米田さんは初め、自分が声を掛けられたと思わなかったのか、振り返ろうとすらしなかったが、周囲に誰もいないことに気が付いたらしく、立ち止まって僕を見た。
「私?」
彼女は少なからず訝しげな視線を僕に向けた。同じクラスなので面識はあるものの、面と向かって話したことはなかった。
「何?」
それは素っ気無い態度ではあったものの、話を聞いてくれそうな様子だったので、僕は早速切り出すことにした。
「あの、昨日のことなんですが、美恵子さんは部活が終わったら下校したんですよね?」
「茶道部の活動のこと?」
「はい」
米田さんはクセなのかもしれないが、髪を掻き上げる仕草をした。
「あの子、先に帰ったよ」
「はい?」
「だから『夕飯の仕度がある』とかで先に帰ったんだって。ロボットだからしょうがないのかもしれないけど、ちょっと感じ悪いよねってみんなで話してたんだ。それであの子、今日は休みだったみたいだけどどうかしたの?」
「ええ、まあ……」
僕は言葉に詰まってあいまいな返答しかできなかった。軽々しく話すような内容ではなかったし、下手に話して妙な勘繰り(僕が美恵子さんに対して何かおかしな命令をしたとか)をされても都合が悪かった。
僕が米田さんから微妙に目を逸らすと、彼女は目を細めて僕を凝視した。
「まあ、いいや。大体想像つくし。それよりそれ、どうしたの?」
そう言って米田さんは僕の顔を指差した。それは自分では見えないので自覚がなかったが、腫れた頬のことを言っているようだった。
「これは、ちょっと親父に……」
「殴られた?」
「はい」
「そう」
米田さんは一人で何かを納得したらしく、微かにだが首を縦に振った。
「それじゃ、私はこれから部活だから」
言うが早いか、僕に背を向けた米田さんはその場から離れていった。大体想像がつくと言った彼女はまだ何か知っているようにも思えたが、訊くタイミングを完全に逸してしまった。それでも美恵子さんが買い物のために先に帰ったという事実だけは裏づけが取れた。美恵子さんは一人で下校している途中で何者かに襲われたのかもしれないし、もしそうだとしたら自害プログラムが作動していないとも限らないだろう。
僕はそのまま足早に学校を出た。たとえ無駄だと分かっていても、どうしようもなく高まってくる不安な気持ちを紛らわすには、結局当てもなく探し回るのが一番だった。鮫島との違いがあるとすれば、僕がそのために学校を休むことはないだろうし、日が暮れてまで探す気はないので家に帰るということだった。
自分の中で結論を出した僕は、とりあえず帰り道としていつも通っている住宅街の裏通りを避けて、比較的人通りの多い大通りに出た。目の前にはほとんどこの場所でしか見ない歩道橋が、両側二車線の道路を跨ぐようにして聳え立ち、その先には強い西日が僕の目を貫くように差していた。僕は歩き出そうと視線を歩道に戻した時、目の前に見知った人物がいることに気が付き、その場で動けなくなった。
それは奇妙な光景だった。そこにはクラスメイトの相田がいた。しかし彼が着ているのは学生服ではなかった。どちらかと言えば作業着のようだった。長袖、長ズボン、つばの付いた帽子と黄土色一色に身を包んだ相田は、アイドリングをかけたまま横付けに停車している軽トラックの助手席に乗り込もうとしていた。僕は軽トラックの荷台に目を向けた。
そこにはブルーシートがかけてあって中がよく見えなかったが、何かが大量に積んであるらしく、シートは盛り上がった中身のせいでかなり張っていた。よく見ると、シートの端から妙なものが飛び出していることを僕は発見した。それは人の肌にしてはしわがなく、ツヤを故意に消したような、不自然に太陽光を反射する片足だった。僕はこの独特の色ツヤをした肌を知っていた。それは間違いなくロボットの足だった。
ドアの端を掴み、登るように地面を蹴って軽トラックに乗り込んだ相田は、すぐに助手席側のドアを閉めた。それと同時に軽トラックは勢いよく黒煙を吐き出し、咆哮にも似た耳障りなエンジン音を上げながら走り去っていった。僕はとっさに追いかけたが車の速度に追いつくはずもなく、曲がり角を右折した所ですぐに見失ってしまった。
僕は
僕はしばらく放心したように歩いていたが、次第に冷静さを取り戻すに従って、様々な疑問が浮かび上がってきた。
まずトラックの荷台に載せてロボットを搬送するという行為だが、僕には異常としか思えなかった。肌を剥き出しにしたままの状態で積み上げるだなんて、あれでは粗大ゴミの扱いと変わりがない。膨大に蓄積された情報、それを守るために搭載された自害プログラムと様々な権利、美恵子さんが言う所の特殊な商品であるはずのロボットをあのように扱っていいはずがない。第一、あれは犯罪ではないのだろうか? 「犯罪」というキーワードに行き着いた時、僕は『失踪事件』との関連性を疑った。もしあのような形で美恵子さんが拉致されたのだとしたら、そう考えると僕は憤りで気が触れそうだった。
それからもう一つの疑問は、平然とトラックに乗り込んでいた相田のことだ。一瞬のことではあったものの、作業着らしい服装を確認することはできた。考えるまでもないことだが、相田は間違いなく荷台のロボットをどうにかする集団の関係者なのだろう。僕はすぐにでもこの件を相田に問い
美恵子さんに関する手掛かりを何も見つけられないまま家に帰った僕は、ストレスのせいだろうか、ひどく神経に障る腹痛を覚えた。自室のベッドに仰向けで横たわって目を閉じる。それでも照明の光が妙に気になった僕は、左腕をかざしてまぶたの上に乗せた。部屋の中が何も見えなくなってしまうせいもあるし、いちいち立ち上がって照明のスイッチを消しに行く気にはなれなかった。
しばらくしてからふと、夕飯は台所にあるレトルト食品でいいかなどと無意識に考えていた僕は、それに気が付いてみて自分が可笑しかった。意気消沈しているはずなのに、僕はこんな時でも生きることを必死に考えている。それは動物的本能のなせる
しかし自分を茶化して余裕を保てるのも、考えようによっては一つの才能ではないだろうか。実際気持ちが昂ぶって絶望感に打ちひしがれてしまうより、自分を茶化してでも冷静な判断力を保てる方が建設的に思えた。鮫島が僕のこういった所を嫌うのは分かるし、僕自身も決して好きにはなれないのだが、結局僕は自分の心が動きやすい方を選択するのだと思う。こんな僕は果たして冷たい人間だろうか? だがもし仮に僕が鮫島のように自らの心を絶望へと追いやってしまったら、きっと何もできなくなるだろう。苦しくて苦しくて堪らない、そんな気持ちで一杯になった僕は、きっと現実から目を背けるだろう。それだけは嫌だった。僕は鮫島の言う通りで逃げるばかりの弱い人間でしかないが、それでも自分の身の回りで起きた出来事を最後まで見届けたいと思っていた。たとえ距離を取っていたとしても、僕にとってはそれが現実から目を背けないでいられる唯一の方法だった。
次の日、セットした目覚まし時計で起きた僕は、早めに身支度を済ませて家を出た。父は昨日帰宅しなかったため、朝の仕度で鉢合わせてバツの悪い思いをすることもなかったのは
始業のチャイムより三十分以上も早く学校に着いた僕は、正門の前で相田を待つことにした。思った通り、登校する生徒の数はまばらだった。校門前で相田を捕まえて、僕はすぐにでも昨日のことを問い質してやろうと考えていた。しかし十分以上が経過して多くの生徒が僕の前を通過していっても、相田の姿は見えなかった。生徒の顔はよく目を凝らしてみていたから、見落とすはずがなかった。そう思ってさらに待っていたが、結局二十分が経過しても相田は現れなかった。洪水のように向かってくる生徒達は、校門前で立ち尽くす僕の姿を見て訝しげな視線を送っていた。もっともそれは思い過ごしかもしれなかったが、そんなことを気にし始めたのも、ここにいることで相田に会えるという可能性を僕が疑い始めたからに違いなかった。
僕は
僕は自分の席に鞄を置くと、息を切らせながらも窓際に位置する相田の席の前まで行った。相田は気が付いていないのか、机の上に開かれた文庫本を閉じようともせず、視線はページへ注がれたままだった。
「相田」
僕がそう呼び掛けると、相田は左のページを摘み上げていた指先の動きを止め、上目遣いに僕を見やった。
「やっと来たか。そろそろだとは思っていたんだがね」
そう言って相田は紐をかけた文庫本を閉じ、机の
「何が聞きたい? 答えられることなら何でも答えるよ」
その声は奇妙に思えるほど明瞭で、目元を細めて口の両端を吊り上げた、何の悪意さえないかのようなその微笑が僕に向けられた時、昨日の彼に対する怪しげなイメージは容易に払拭された気がした。僕は本題に触れにくさを感じて、先に手近な不満を吐露した。
「なんで僕より先に来てるんだ。僕はお前を校門前で待ってたんだぞ」
相田は面白がるような様子で顔を背けると鼻を鳴らし、窓から外を見下ろしたまま「知ってるよ」と口ずさむ調子で言った。
僕は訳が分からず眉根を寄せると、相田はそんな僕の様子にすら面白さを見出しているらしく、顔を戻すと楽しそうに口を開いた。
「なに、たいしたことじゃないんだよ。僕が君より幾分早く登校しているというだけさ。僕はいつも七時前後には学校に着く。つまり門が開くのを待っていることの方が多いくらいなんだ。君はそれより遅い時間に登校して来たからね、いくら門前で僕を待っていた所で会うことはないんだよ」
僕はさらに眉根を寄せると首を傾けて相田を見下ろした。相田の返答が新たな疑問を浮上させたからだ。
「なんでそんなに早く登校する必要があるんだ?」
相田は僕から目を逸らすと、つまらなそうに口を開く。
「別に。早く登校することに意味なんてないよ。僕は運動部に所属してないから朝練があるわけでもないしね。ただ早く学校に来れば遅刻しそうになって焦る心配もないだろう? 僕は何事にも煩わされるのが嫌でね、理由があるとすればそれだけだよ。まあ、一人でいる時間が苦痛じゃないせいもあるかな。僕はこうやって本を読んでいる時間が好きでね。こうしていれば時間なんてあっという間に過ぎるし、君達の話し声も小鳥のさえずりのようで意外と気にはならないものだよ。どんな言葉でもそうだけど、心に届かなければどうということはないんだ。だから僕は喧騒に満ちた教室の中でも充実した時間を過ごすことができるというわけさ」
そう言うと相田は、先程机の傍に伏せておいた文庫本を手に取ってちらつかせた。その時見えた表紙には、アンドレ・ジッド『未完の告白』と書かれていた。読書に
相田は文庫本を机の引き出しにしまい込むと、僕を見上げて目を細め、ゆっくりと口を開き始めた。
「この取るに足らない、つまらない社会の中で、唯一僕の知的好奇心を駆り立ててくれるもの、それは変人の魂だけだ」
「変人の魂?」
僕は意味が飲み込めず、相田の言葉をただ反芻した。
「まあ、言い換えれば葛藤する人の心とでも言ったところか。葛藤し続ける人の精神状態は、常識を
僕は何か相田のペースに乗せられている気がした。早く昨日のことを聞き出したいのに、口を挟むタイミングがうまく掴めず、内心の焦りは膨らむばかりだった。相田は僕の様子を見て察したかのように微笑を浮かべると、次のことを言った。
「君の知りたいことだったら、時間のある放課後にでもちゃんと話すよ。
それより君はどう思う? 押し並べて現代人は魅力に欠けているとは思わないか? 極度に特化された商業主義は、いつの間にか人間をも商品に変えてしまったからね。実際僕らは大分規格品らしくなったよ。形の悪い粗悪品は生産ラインから外され、平均的で魅力のない商品だけが合格品として市場に流されたからね。結果、質の高い社会を構築することには成功したかもしれないが、画一化されてしまったことに対する潜在的な不満は、僕らの中で醸成し続ける結果ともなった。自覚の有無なんて問う必要はない。なぜなら僕らはこの社会という名の檻に閉じ込められたカナリアも同然の立場なのだからね」
僕は相田の発言に対して、理解がまるでついていかないのを感じた。そもそも何を言おうとしているのか、全くその論点を掴めそうにはなかった。困惑する僕を尻目に、相田は続ける。
「さて、対外的には自由と平等を声高に主張する理想的な社会の構築に成功したわけだが、対内的には鳴くことを止めたカナリア達を秩序の中で管理し、体系化していく作業が行われたに過ぎない。僕らは管理されている状態を自由だと思い込み、理不尽な秩序によって類別されることを当たり前のように平等だと捉えている。だがね、これほど卑屈な
僕はもはや相田の話に口を挟む気がなくなっていた。ただ彼の言葉に耳を傾けようと意識するだけだった。
「少し長くなったが、要するに僕はそんな社会の矛盾を受け入れられないが故に葛藤する人の心を変人の魂と呼んでいるんだ。社会とは所詮この矛盾を受け入れることでしか成り立ち得ないものだが、そうした社会に付き従うことは、画一化された魂、つまり俗人の魂となることに他ならない。それは見るに堪えないものだよ。かわいそうに、変えなくてはいけない憎むべき社会によって心を不具にされてしまったカナリアは、もう管理されることなしでは存在し得なくなってしまった」
相田は口を閉じると悲しそうに俯いた。僕はもう何も言う気になれなくなっていた。相田は僕を見ることなく、そのままの姿勢で呟く。
「勝手な話に付き合わせてしまって悪かったね。色々と聞きたいこともあるだろうけれど、もう席に着いた方が賢明だよ」
僕はそう言われてはっとなって周囲を見回す。生徒はいつの間にか全員着席していた。振り返って教壇の上にある壁掛け時計を見ると、既に時刻は八時をとうに回っていた。僕は慌てて自分の席に着く。それからすぐに前方の扉が開いて、担任が教壇に上がった。間一髪だった。僕は座りながら、いつの間に始業を告げるチャイムが鳴ったのかと訝しんだ。しかし生徒が皆席に着いているということは、僕がチャイムを聞いていなかったというだけなのだろう。僕が相田の話に集中していたということだろうか? 理解できないのに集中していたというのも妙な話だが、それだけ僕が相田の話術に取り込まれていたのかもしれない。
一時間目の授業が終わると、僕は再度相田の席へ飛びつくように向かった。相田はゆっくりとした手つきで教科書とノートを揃えて引き出しにしまっていた。相田は視線だけを僕に向けると、まだ僕が何も口にしていないのに次のことを言った。
「時間、全然ないだろう? 五分じゃたいした話もできないよ。できれば放課後まで待ってくれないか? 君が了承すればだけど、おもしろい所にも招待するよ。その時じっくりと話そう」
「でも、早くしないと、僕には時間がないんだ。だって……」
相田は僕の話を遮って口を開く。
「君のロボットの居場所かい? 言っておくが僕は知らないよ」
「えっ?」
僕は驚いて相田を凝視する。唯一の手掛かりに裏切られた気がした。
「まあ、でも心当たりくらいはあるかな? いずれにしても君が闇雲に探すよりは幾分ましだとは思うよ」
相田は補足するようにそんなことを言った。それにしてもどうして相田は、美恵子さんを僕が探していると知っていたのだろうか。僕がそう尋ねると、相田は平然とした様子で答えた。
「別に知っていたわけじゃない。学校に来てないからね。もしかしたらと思って探りを入れてみただけさ」
「そうか……」
僕は時間が差し迫っていたこともあって、席に戻った。正直、相田の話をこれ以上聞くことに意味があるのか、僕には分からなかった。しかし僕がこれから探し回ったところで、何の成果も得られないというのも道理だった。今はたとえささいなことでも構わないから情報が欲しかった僕は、結局放課後まで相田を待つことにした。
「それじゃあ行こうか」
机の横に掛けられた鞄の取っ手を掴むと、相田は教科書の類をしまい込んでから立ち上がり、目の前で立ち竦む僕にそう言った。
「どこへ?」
「少し遠い所。電車を使うからたいしてかからないけどね」
相田は逆手に持った鞄を肩に掛けるようにして、歩きながら言った。
「それは、お前が昨日トラックで向かっていた先か?」
僕がそう尋ねると、相田は後ろで歩く僕に首を向けて苦笑した。
「やっぱり見られていたのか。もしかしたらとは思っていたんだが」
「見られてまずかったか?」
僕がそう言うと、相田は
「いいや、主任には既に君のことを紹介してあるからね。問題ないよ」
「主任?」
僕が口を挟むと、相田は前を向いて僕を見ずに声を上げる。
「その件については現地に着く頃にでも話すよ。順を追って話したいからね」
僕は返答を返さずに黙って付いて行くと、校門を出たあたりで、相田は独り言のように夕日になりつつある、オレンジ色の入り混じった空を見上げると口を開いた。
「朝に話したことの続きだけどね、僕にとって変人とみなされる人には一応定義があるんだ」
一呼吸置いてから、再度相田は空に話しかける。
「矛盾の拮抗、僕はそれを変人の魂と呼んだ。矛盾を放棄して社会の中に埋没しない限り、その人は変人だと言える。
もっとも、変人は何も潜在的に優れた、何か人を超越した才能を持った人のことを指しているわけじゃない。いたって普通の人だよ。ただ彼らが違うのは、拮抗した矛盾から逃げ出さず、それどころかその先に何があるのかを追求し続ける、そんな姿勢にあるんだ」
相田は横目でちらりと僕を見ると、すぐにまた視線を赤くなった空に戻した。
「人はね、矛盾を伴った物事をそのままの形で受け入れるのを嫌う生き物なんだ。性善説と性悪説の対立なんてのはいい例かな? 人は生まれながらに善か悪か、どちらに属するのが人の本性なのかっていう話なんだけど、答えは実に明瞭さ。生まれてきたばかりの赤ちゃんに直接聞いてみればいい。君は良い人か、悪い人かってね。まあ、それは冗談にしても、生まれたての赤ちゃんを善人だの悪人だのという人はそんなにいないだろう。中には顔が良い悪いでそんなことを言い出す人もいるかもしれないけど、それにしたって実は僕らが勝手に設けた基準に従った判断だったりする。赤ちゃんにはそもそも基準がない。善と悪なんてことは誰かが教えなければ一生知ることもないだろう。善も悪もない、それが答えさ。だけど、おかしなことに誰もそんな矛盾した事実を受け入れようとはしないんだ。人は白か黒かをはっきりしないと気が済まないらしい。なぜならそうしなくては、僕らは社会という名の共通認識をもてないからだ。それは国や民族によって異なっていて、文化や慣習と呼ばれたりもする。白も黒もないことに無理矢理色付けをすると、当然そのコミュニティー同士での対立も生じるだろう。それが文化の対立、ひどくなると紛争や戦争と呼ばれるものに発展したりもする。でもね、馬鹿な話だと思わないか? 本当はあらゆる物事に白も黒もないんだから、そもそも対立する必要なんて何もないはずじゃないか」
相田は駅前に着くと立ち止まり、振り返って僕を見た。その表情は、何か悲しげなものに見えた。
「変人っていうのはね、白も黒もない真実を、ありのままに受け入れられる、そういった立場に立てる人のことを言うんだ。それは必ずしも本人がそう意識しているわけじゃなくて、中には無意識のうちにそういった立場にに立っている人もいる。悟史、君もまたそういう人だ。矛盾を抱えながら、君はそれを社会の基準に依存することなく、自分の頭で答えを見つけ出そうとしている」
僕は突然自分のことに話を振られたので、どう反応していいのか分からずに焦った。夕日に照らされた相田の表情は、やけに
「それはいくらなんでも買い被りじゃないのか? 僕は毎日をその日暮らしに生きているただの中学生だぜ?」
相田は僕の反応を見て微笑した。
「言っただろう? 変人っていうのは普通の人だって。ただ物事に対する姿勢が異なっているだけさ。君は美恵子というあのロボットを愛していながら、鮫島のように取り乱してはいない。それは君が思考を放棄していないからだ。君は無意識であるかもしれないが、白と黒といったように、物事を社会の基準に合わせて整理していない。君は君独自の基準によって答えを見出そうと考え続けている。それは特筆すべきことだよ」
相田は何の躊躇もなく、僕が美恵子さんを愛していると断言した。それはとんでもない話だった。僕は美恵子さんのことを恋愛対象として意識したことなどなかった。いや、なかったはずだ。一瞬脳裏には一昨日の夢の光景が甦ったが、僕は頭を振ってそれを否定した。
「どうしてお前は僕が美恵子さんを愛しているだなんて言えるんだ? 僕にはお前の言っていることが分からない」
僕は俯いて地面を見つめた。なぜだろうか、相田を直視できなかった。アスファルトで固められた平面の大地には、小石が一粒転がっていた。
「言えるよ。君は美恵子を愛しているね。だが一方で君は鮫島のように魅入られてしまうことを拒んでもいる。なぜなら君はロボットに心がないことを意識しているからだ。つまり心のないロボットを愛せるはずがないと理屈では考えているからだ」
僕は相田を見てはいなかった。だが相田はそれを気にも留めてないのか、先を続ける。
「君はそんな二律背反とした考えを抱き続けている。矛盾を矛盾のままに受け入れ、混沌とした闇の中にありながらも思考を続けている。だから君の思考は何者にも犯されることはない。常識という名の定義に捕らわれない君の心は、それ故に純粋だ。
悟史、僕はそんな君の姿勢に
僕は顔を上げ、相田を見据えた。相田の陶酔したような物言いが気に障ったのだ。
「相田、お前はどうなんだ? 僕なんかよりもお前の方がその変人なんじゃないのか?」
僕が
「僕は思いもよらない回答を導き出す君の思考に対してスリルを感じているだけさ。それに、僕は思考を放棄した人間だ」
僕らは並んで駅の改札を通った。改札とは言っても、昔のように切符は必要ない。第一、切符を入れる機械も設置されてはいない。ただ天井には専用のカメラが取り付けられていて、カメラが下を通り抜けた人を自動で認識する。そうして数値化された僕らの情報は鉄道会社に送信される。月末には僕の銀行口座から自動で引き落とされるか、そういった手続きをしていない人には自宅に請求が届くだろう。
「僕が君の分も払うよ」
相田は携帯端末を取り出して、改札付近で流されている料金情報のデータを取得すると、僕の請求分を彼が払うように操作しているようだった。相田は端末から目を離さずに口を開く。
「君の登録している名前って、この『凡人』って奴か?」
「ああ」
「なんでまた『凡人』なんだ?」
「別に理由はないよ。ただの学生だからだよ」
「何言ってんだ。君はむしろ『変人』だろ?」
そう言いながらも情報の送信を終えたのか、相田は端末をポケットの中にねじ込むように入れた。僕は相田の力強い態度に
「すまないな。ローカル線だからリニアじゃないんだ」
地下鉄特有の薄暗い駅の構内で電車を待っていると、相田は前を向いたままそう言った。下を覗くと、旧世紀の写真に写っているものと全く同じ、砂利に
「別に構わないよ。だって、たいして時間はかからないんだろ?」
「揺れるぜ」
「まあね」
相田は本当に申し訳ないと思っているらしく、目を瞑ってため息を吐いていた。家から学校までの近辺でしか乗り物を利用しない僕にとって旧世紀の電車はむしろ珍しく、悪い気はしなかった。リニア、即ちリニア・モーター・カーは高額のため、主に首都圏の一部と専用の長距離区間以外では採用されていなかった。旧世紀の電車は揺れることに加えて騒音も大きく、中で会話をするには多少なりとも大声を出さなくてはならない。リニアはそれに比べて音は静かで揺れもほとんどない。相田は恐らく会話がしづらいことを気にしているのだろう。だが僕はそんなことよりも、先程から気になっていた疑問を思い切って口にしようと決心した。
「なあ、相田」
相田は慌てたように目を見開いて僕を見た。それは僕に声を掛けられるとは思ってもいなかったといった様子だった。僕は初めて見る相田の焦った表情が、今までとひどいギャップがあって可笑しかった。
「お前の話を聞いていて、ずっと疑問に感じていたことなんだけどさ、どうして『変人』という言葉を使うんだ?」
「どうしてって?」
相田は訝しげな表情を浮かべて眉をひそめる。
「いや、これは僕の印象なんだけど、『変人』って言葉は普通の人より能力が劣っている感じがするんだ。なんていうか、悪口に使われそうなニュアンスだと思う。それで相田の言う『変人』というのは、どちらかと言えば『天才』に近いニュアンスなんじゃないかと思ったんだけどさ」
僕はそこで言葉を切った。相田がひどくつまらなさそうに目を細めたからだ。
「同じじゃないかな」
「えっ?」
「『天才』でも『変人』でも、意味の上では大差ないんじゃないか?」
「そう、なのか?」
僕はよく分からずに聞き返す。相田は話すのも億劫といった調子で重い口を開く。
「天才って呼ばれる人達は、大抵の場合、一風変わった人が多いだろう? 彼らもそういう意味では変人なんだよ。さっきの話に当てはめて考えると、これは要するにコミュニティーの中での問題に過ぎないんだ。何でもいいんだが、例えばノーベル物理学賞を授与された人は天才だと言われても違和感ないだろ? でも受賞する前はどうだ? もし研究者とか教授とかの肩書きがあれば変人とは呼ばれないだろうが、天才というのも少しオーバーな気がする。じゃあ、もっと
僕はなるほどなと思った。今度はなんとか理解が及んだせいか、僕は相田の洞察力に素直に感心できた。
「だったらもし僕が将来世界的に評価される偉業を成し遂げたとしても、相田は僕を変人と呼ぶわけだね」
「その時の君が今と変わっていなければね。人は本質的には同じだと僕は今話したが、本質は変わらなくても姿勢は結構変わりやすいもんだぜ。君がもし将来大金持ちになったとして、『金が人生だ』なんて言い出したら、僕はきっと君を変人だなんて呼ばなくなるだろうね。君はその時、昔の悩みは全て解決したから成功しただなんてことを言い出すかもしれないが、僕に言わせればそれは嘘だね。悩みを解決したんじゃなくて放棄しただけさ。そもそも物事の矛盾に解決の糸口なんて存在しないんだよ。大切なのは矛盾を咀嚼して、自分なりの考えを紡ぎ出すことだ。それは答えじゃないから解決にはならない。でもそれがその人だけのパーソナルな人格になる」
「パーソナル?」
「他人と違う意見を持つってことさ。他人の意見に依存しない自分だけの意見を持って、初めて人は変人と呼ぶにふさわしい人になったと言えるんだよ」
相田の言っていることは少し入り組んできたせいか、僕の頭で理解できたかどうかが怪しくなってきた。
「じゃあ変人だった人が急に変人じゃなくなったりするわけか?」
「あるいはその逆もある。例えば犯罪に巻き込まれたのがきっかけで、普通のサラリーマンだった人が突然司法制度に疑問を投げかける、とかね。つまりキーワードは『考える』ってことかな。考えることによって誰もが変人になれるわけだ。あ、電車が来たようだね」
相田は左ポケットから取り出した携帯端末を見ながらそう言った。恐らく端末の画面には駅から受けたリアルタイムで表示される発着情報でも表示されているのだろう。周囲には僕の見る限り、発着を確認できる物音一つ聞こえなかった。僕も鞄の前ポケットに収納していた自分の端末を取り出して復帰させるボタンを押す。真っ暗だった画面に文字が表示され、早速受信した発着情報を表示するかという確認画面が映し出された。僕はイエスの『Y』を押す。画面は即座に切り換わり、後二十秒で電車が来るという点滅した赤い文字と、電車のデフォルメされたイラストがこの駅に近づくのを視認できた。
「ああ、ホントだ」
僕が独り言のようにそう呟くと同時に、旧世紀の電車特有の警笛音が狭い駅構内全体を包み込むように響き渡った。電車の先頭はあっという間に僕らを通過し、同時に甲高いブレーキ音が耳を刺すように聞こえた。エンジンの駆動音と空気の吹き出る音が僕らの周囲を包み込み、電車は停車した。
「……うるさいな」
僕はそう呟いたが、相田には騒音で掻き消されて聞こえなかったらしく、彼は何の反応も示さなかった。
僕らは車内に入って周囲を見回す。利用客の少ない路線だからか、帰宅客の多いはずの時間帯でありながら、客の数はまばらだった。
僕らは隣り合って席に着いた。扉が閉じると電車は発車する。エンジン音と線路上を走る規則的なステップ音、それと共に僕らも微かな縦揺れを体感する。重力が僕らを左に引き寄せ、速度が安定すると、しなったバネを離したかのように元の位置に戻された。
電車は少し進むと地上に出た。真っ暗だった窓から突然夕日が鋭く差し込み、僕は思わず目を細めた。だが次第に目が慣れてくると、夕日は車内を淡いオレンジの光で美しく彩っていることが分かった。車内に設置された金属製のパイプや網棚は焦点を絞ったように線と点によってオレンジの光を強く反射させていた。僕はオレンジ色に満たされた古い車内の幻想的な光景に、タイムスリップしたかのような風情を感じた。
その時隣りで相田は何か呟いたようだったが、口の動きが見えただけで何も聞き取れなかった。
「何だ?」
相田は僕の言葉に反応したのか、顔を上げて向かいの夕日を食い入るように見つめたが、僕を見ようとはしなかった。
「なあ、悟史、お前はどうして最大のロボット市場がこの日本なのか、考えたことはあるか?」
相田はやはり呟くように夕日を見たままそう言った。しかし今度は少し声を大きくしたせいか、聞き取ることはできた。
「いや、でも前にその話を聞いたことはあるよ」
そう、過去に様子の可笑しかった律ちゃんから僕は、ロボットが世界中で受け入れられたわけではないという話を聞いていた。相田は微かに頷くと目を細めて口を開く。
「僕らはね、特殊なんだ。特殊な文化圏に生きている。少なくとも僕はそう捉えている」
相田はそこで口を噤んだ。何を言いたいのか僕にはまるで分からなかった。そのことを聞くために口を開こうと思った矢先、相田は話を再開した。
「ロボットには、人間の根源を脅かしかねない恐るべき性質が、元々備わっている。それがなんだか分かるか?」
僕は相田の質問に対して全く検討がつかなかったため、口を噤んでいた。相田はしばらくすると、僕を見ないまま口を開いた。
「インディビジュアル(個人【individual】)の否定だよ。ロボットは人格を否定するんだ」
電車はトンネルに入った。蛍光灯だけの白くて淡い光の中で、反響する走行音はすさまじい轟音となって僕の耳を襲った。その時なぜか、悲しげな表情を浮かべた相田の横顔は、とても痛々しげなものに見えた。トンネルを抜けると、相田はすぐさま口を開く。
「個人主義こそが人間の根元であると考える西欧文化圏の人々にとって、これは由々しき問題だった。意識のない者が人の世話をする、そんな関係が成り立った時、人間は、自らの存在意義(レーゾン・デートル)を見失うんだよ。それは心の中に誰しもが持っている恐怖のイメージを具現化したものに他ならないんだ」
相田はそこで口を噤んだ。僕は相田の話にまるで実感が湧かなかった。だが相田の様子は尋常ではなく、噛み締めた唇を震わし、まぶたを細かく痙攣させている。僕にはそんな相田の姿こそが恐怖におびえている者のように見えた。僕はロボットに対して恐怖など感じたことはない。美恵子さんにはむしろ冷たく冷え切った家庭を暖かくしてくれたとすら思っている。
「でも僕はロボットに対してそんな風に思ったことはないぞ」
「それはそうさ」
相田は僕が発した問いに対して、口角を吊り上げながら即答した。そしてすぐ次のように言った。
「僕らは憧れているからね、意識を否定する存在というものに対して。少なくとも僕らはそういった文化圏の中で生きているんだ」
相田はそこでまた一呼吸置くように口を閉じた。僕には相田の話し方が妙に回りくどいものに感じられた。それはこれまでの
「僕ら日本人にとって、最も重要なものはインディビジュアルなどではない。重要なものは僕らと対になるように存在する社会そのものであり、その秩序の維持こそが、僕らに与えられた宿命なんだよ」
「宿命……」
人の運命について突然語り始めた相田に対して、僕は愕然とした。いったい何の話を始めたのだろうか。
「秩序の維持に適した人材とは、自己を中心とした思考をせず、それ故に反抗する意識を持たず、ただひたすら社会に対して従順であるとされる、そんな人間像のことを言う」
「それじゃあ、まるで……」
僕が最後まで言い切る前に、相田は僕の意志を察したかのように、その言葉を遮った。
「そうだ、それはロボットと何一つ変わらない、そんな存在のことを言う」
「そんな馬鹿な話があってたまるか――」
僕は吐き出すように言葉を紡いだ。
「だがそれが真実だ。僕ら日本人はロボットに憧れているんだ。だからロボットは日本社会の根底にまで入り込み、これだけの大きな市場を形成するに至ったんだよ。僕らはロボットに人の真似をさせていたと思いきや、実は僕らがロボットに近づこうとしていたんだ。そのために僕らは認知科学を利用して人らしいプログラムを付加していった。あたかもそこに理想の人間像があるかのようにね」
「嘘だろ……」
僕は洩れ出る吐息のようにそれだけを口にした。相田を見ているのかどうかさえ危うく思えるほど、僕の心は動揺していた。
「残念ながら嘘じゃない。そしてこれは一種の信仰なんだよ。悟史、どうか落ち着いて聞いて欲しい。僕らはロボットを信仰の対象として見ているんだ」
信仰? 信仰とはどういうことだろうか。僕が美恵子さんを信仰しているとでも言うのだろうか。僕の頭はひどく混乱していた。落ち着くことなんて無理な相談だった。
「悟史、僕は日本に宗教がないとは思えないんだ。僕らは古来より究極の秩序を信仰の対象としてきた。それは自己を抑制し、僕らの存在そのものを否定していしまう恐るべき信仰なんだよ。それを僕は『無』への信仰と呼んでいる。それは日本人が古来より持ち続けた日本特有のニヒリズムに対する信仰だ。そしてこれは同時に死を意味する信仰でもある。自己意識の否定、その究極は死そのものなんだ。僕らはロボットを通して、死という最終的な自己否定をも信奉しているんだよ」
相田は僕を見た。その表情は言うことは全て言い尽くしたとばかりに穏やかな微笑すら浮かべていた。
「君だからこんなことを話したんだぜ、悟史。君なら自己を破壊することなく、独自の回答を導き出せるはずだ。僕はそう信じているよ」
僕は相田の態度とは裏腹に、気が気ではなかった。ロボットが自己否定の象徴だなんて、僕は考えたこともなかったのだ。相田は黙ったままの僕を気遣ってか、補足するように次のことを言った。
「一応例えを言おうか。そうだね、昔の武士が『死んで詫びる』と言って切腹しただろ? あれなんかは命令に対する自己抑制が足りなかったばかりに組織の社会秩序を乱してしまったのだと解釈できる。その結果、自己否定の果てにある死を欲することにより、社会の秩序は清算され、何事もなかったかのように修復される。僕らは昔からそう考えてきたんだ。実際は彼が死のうが別に彼の所属する組織や戦況がどうなるというわけでもないんだけどね。それがこの考え方の信仰たる由縁だよ」
僕は何も反応を返すことはできなかった。相田は続ける。
「自己意識を完全に排した世界でのみ、僕らは秩序ある社会の営みを享受することができる。それが日本人の深層心理に
相田は拳を握り締め、憎々しげにそう吐き捨てた。僕は相田の話についてゆけず、その様子をただ傍観するしかなかった。
「残念なことに、僕らの生きる社会は、いまだにこの不合理な信仰の中にある。それが僕には許せないんだ」
相田の話はそこで終わったようだ。彼は俯き、自分の足元を睨むように見つめていた。
「ところで、相田」
僕は自分の内的な混乱を抑えつつも、相田に声を掛けた。相田は何も反応しなかったが、僕は続ける。
「その許せない社会を前にして、どうしてお前は自分のことを思考を放棄した人間だなんて称したんだ? お前は負けたのか? この社会に」
「それは……」
相田は見下ろす僕を見ようとしてか、俯いたままの首だけをこちらに向けると、微かな声を発した。それは車内での聞き取りが困難なほど弱々しく掠れた声だった。
「負けたわけじゃないんだ。ただ、僕もまた日本で生まれ、日本で育った日本人だから、これ以上考察を深めたくなかったんだよ。それだけだ」
相田はそう言った。それはこれまでの発言と全く矛盾していると僕には思えた。
「分からないよ、相田。どうしてお前はせっかく深めてきた考察を自ら放棄したんだ?」
僕ははっきり答えようとしない相田に対して、再度同じ質問をぶつけた。すると相田は口元に皮肉な微笑を浮かべた。
「分からないか、悟史。どんなにこの社会の秩序が馬鹿げたものであっても、僕らはその中でのみ生きることを許されているんだ。そうであれば、従うしかないじゃないか」
「お前らしくないな」
相田は顔を上げて僕を見据えた。
「無謀と勇気を混同するなよ。僕の見出した結論だけは、例え君にでも言えない。それがどれほど危うい発言か、僕自身がよく心得ているからだ」
僕は相田の見出した結論がどんなものか知る由もなかったが、弱腰なその態度には不信感を覚えた。
「何がお前をそんなにおびえさせているんだ?」
相田はこの質問に対して真面目に答える気はないようだった。ただ人事のように次のことだけ言った。
「それだけこの社会が封建的だってことだよ」
僕らは揃って駅のホームに降り立った。プラットホームから見渡せる駅前の光景は信じ難いものだった。ずいぶん前に敷いたらしいアスファルトの地面はひび割れ、その間からは一メートル近い雑草が伸び放題だった。シャッターの閉まった店らしき建物が点々と見え、照明は道路に設置された太陽光発電タイプのわずかな外灯だけが、夜闇に瞬くろうそくのように頼りなく辺りを照らしていた。
「お前、毎日こんな所に来てるのか?」
「まあな」
相田は特に気に掛ける様子もなく、改札口へ通じる階段を軽い足取りで登り始めた。僕は慌てて後に続く。
「それにしても、ここはどこなんだ? 過疎化しているのか?」
僕は驚くほど殺風景で、今にも消え入りそうな非常灯に照らされただけの駅構内を見回しながら呟いた。
「聞いた話では、ここは三十年程前に財政難を理由に放棄されたそうだ。過疎化し始めたのはそれより二十年も前だ。その理由はいくらでも考えられる。都市部への人材流出、それに伴う若年層の激減、財政難による公共、医療、福祉サービスの低下、それによるさらなる人口低下と税収の悪化。他にも理由はあるだろうが、この町は結果的に廃棄され、名称も地図上から抹消された。日本各地にはこのような場所がひそやかに点在している。ニュースや学校の教科書では取り上げられることもないから、君が知らないのも無理ないよ。君は東京を離れたことがないんだろう?」
「ああ」
僕はそう答えながら、先を行く相田に
「ここは地図上に記載されていないが、地理的に言えば千葉県のとある海沿いの町だ。かつては漁業で栄えたというが、今では見る影もないな。魚なんて釣れやしないし、仮に釣れたとしても汚染レベルが高すぎて食い物にはならない。命の保障はできないよ」
相田は駅を出てしばらく歩くと、何か棒のような物体が立っている場所で足を止めた。よく見るとバス停のようだった。
「こんなところにバスなんて来るのか?」
相田は振り返って僕を見ると微笑を浮かべた。
「ああ。町は死んでも交通の便はそれほど悪くないんだよ、僕らのような人間がいるからね。ただ長いことインフラ整備されていないから、道路がでこぼこなんだ。バスが揺れてしまうのは勘弁して欲しい」
相田は済まなそうに言ったが、正直車内が揺れるのは苦痛だった。今の時点でも先程の電車で軽い吐き気を催していたからだ。僕は力なくうなだれた。
「腹、空いてるのか?」
相田は何を勘違いしたのか、俯く僕に向かってそんなことを口にした。
「店はないんだが自販機は揃ってるんだよ。ほら、そこの角を曲がった先に弁当の自販機なんかもあってね。実にニーズに合わせた商売さ」
相田が右手を挙げて指差した先を僕は何気なく見やった。シャッターの閉まった建築物同士の間から、自販機の発する白い光が、壁に反射することで洩れ出ていた。
「別に、食欲はない」
僕が端的にそう答えると、相田は声を上げて笑った。
「そうか、僕もだよ。最近はあまり食べることに喜びを見い出せなくてね。つくづく君とは気が合うね」
僕は相田と違って電車で酔ったために食べたくないというだけの話だったが、口には出さなかった。
そんな他愛のない会話をしていると、それほど待たずにバスは到着した。料金は相田が払ってくれるということだった。僕らはバスの後方に位置する、二人分座れる席に腰を下ろした。バスのエンジンによって痙攣するように揺れる車内は、僕の胃に心地よいものとは言えなかった。
「さて、そろそろ話そうかな」
相田は僕と対照的に涼しい顔をして、独り言のように前を向いたままそう言った。
「なあ、相田」
僕が声を掛けると相田は狐につままれたような顔をして、こちらに顔を向けた。僕はこの苦痛を伴う乗り継ぎに文句の一つでも言いたい気分だった。
「この間僕が見たように、トラックには乗せてもらえないのか?」
「トラック?」
相田は何のことだか分からないといった様子で問い返してきた。
「さっき学校で話しただろう? 僕はお前が昨日軽トラックに乗り込む所を見たんだよ」
相田は何の話か分かったようで、相槌を打つように頷いた。
「ああ、あれは別にいつも乗せてもらっているわけじゃないんだ。たまたま回収のために近くを通ったって連絡が入ったから拾ってもらったんだよ」
「回収?」
僕が聞き返すと、少し考えるように間を置いてから相田は口を開く。
「まあそろそろ着く頃なので、これから順を追って話そうかと思っていたんだが、まず僕らが向かう先は『最終処分場』と呼ばれている」
「最終処分場?」
「ああ。僕らが通称『墓場』と呼んでいる所だ」
バスは唸るようなエンジン音を上げて走り出す。相田は僕が落ち着いているかどうかを確認するように目配せをしてから口を開いた。
「この辺りは一般人から見れば大分怪しげな職場の巣窟だ。だが決してイリーガルというわけじゃない。国は僕らのような存在を正式に認可しているからだ。なぜだと思う? そうせざるを得ない事情があるからさ」
僕はふと窓の外に目を向けた。そこには太陽光を利用して半永久的に点灯し続ける外灯の下に、廃墟と
「ロボットは当たり前のように現代社会に浸透している。これは誰しも否定しない事実だろう。しかしそこには何も問題がなかったわけじゃないんだ。実際は問題だらけだったんだよ。その矛盾の矛先がこの墓場に体現されているのさ」
「体現?」
「人々の実らなかった思いがこの墓場には詰まっている。ロボットに対する不満や怒りがこの場所を形作っているんだ」
僕には相田の言うことが抽象的過ぎて分からなかった。僕が眉をひそめて相田を見ていると、彼は口を開いた。
「悟史、僕は君と同じようにロボットとのトラブルによって悲しい過去を持った多くの人達の一人だ。何のことを言っているか分かるかい? 僕はね、君が母親を失ったのと同じように、両親を失ったんだ。ロボットが存在しているばかりにね」
相田は突然僕の母のことを口にした。どうして相田が僕の過去を知っているのだろうか。
「どうしてお前が僕の母のことを知っているんだ?」
相田は僕の発言を聞いて肩をすくめた。
「わるいが、君の過去は個人的に調べさせてもらったよ。そのことは済まなかったと思っているが、僕らはそれ故に共感し合えるはずだ」
僕は相田のこの発言にはさすがに不快感を覚えた。ネットワークに精通した人間にとって、公的機関に登録された個人情報を調べるのはそう難しいことではない。相田も何らかの方法で僕の情報にアクセスしたのだろうが、何の臆面もなく本人を前にしてそれを開示する彼の心性を疑った。
「勝手に人のことを調べておいて、何が共感だ。第一、僕の過去とこれから行く墓場といったい何の関係があるっていうんだ?」
「それが大アリなんだよ」
凄みを利かせたつもりで言った僕の言葉にも全く動じない相田は口元に笑みすら浮かべて即答した。
「墓場で働く人達のほとんどは、過去にロボットとの間で苦い経験を味わった人たちばかりでね。国はそんな人達が暴動を起こしたりしないよう、この場を提供しているんだ。僕はネットサーフィンを繰り返した結果、このアルバイトの募集告知に行き着いたんだが、あの時は本当に心が打ち震えたものだよ。僕にこそふさわしい仕事だと思ってね」
「お前、これから働きに行くのか?」
「そうさ。君は見学だと主任には伝えてある。君の大切なロボットの手掛かりをじっくり探しておくといい」
相田はそう言ったのを最後に、背もたれに寄りかかって目を閉じると、眠るように口を噤んだ。僕は相田から目を離し、周囲を見回す。相田と話をしていた間にバスは何度か停車したらしい。相田の言っていた通り、労働者らしい風体の人達がいつの間にかバスに乗っていた。昨日僕が見た相田の服装はやはり作業服だったらしい。あの時見たのと同じ服装の人達がちらほら見かけられた。年齢には大分ばらつきが見られたが、相田と同じくらいの若い人が多いようだった。それからバスは何度か停車し、立つ人が出るほどの満席になった。それなのに労働者達は互いに目を合わせることもなく、皆一様にしかめ面をしていた。相田の話が間違っていなければ、互いが互いの悲しい過去に触れたくないとでも言ったところだろうか。
僕がそうやって考察に耽っていると、突然日差しのように強い光が車内を照らした。僕は慌てて窓際で眠る相田越しに身を乗り出して窓の外を見た。学校のグラウンドに設置された照明と同じもののようだったが、規模が違っていた。何十台もの巨大な白色灯が高い塀からこちらを照らしていた。塀は工事現場に見られるような簡素な造りをしていたが、高さが半端ではなかった。恐らく二十メートル以上あり、横幅も百メートル近いのではないだろうか。
塀の中心に位置する、入り口のような扉が見える地点でバスは停車した。驚いたことに扉の左右には肩ひも付きのライフル銃で武装した警備兵がいた。
「着いたようだね」
相田はいつの間にか僕と同じように、窓から入り口付近を見下ろしていた。僕の後方では乗客が一斉にバスを降りているらしく、不規則な足音が聞こえた。しかし僕は下車の件とは違うことを質問する。
「どうして兵隊なんかがいるんだ?」
相田は僕を見て微笑を浮かべた。
「何、警備会社の雇われ兵だろ? そんなにおびえることはないよ。それに銃は僕らにではなく部外者を威嚇するためにあるんだ。関係者である僕らが撃たれる危険性なんて万に一つもないよ。それどころか、中にいる時に僕らの安全性が確保されていると考えるべきさ」
余程僕は恐怖におびえた顔をしていたのだろう。相田は気を落ち着かせるためなのか、おどけた調子でそう言った。
「さて、そろそろ僕らも降りようか」
車内に足音が聞こえなくなると、人がいなくなったのを確認したのか、相田は僕にそう告げた。それは非常に軽い調子だったが、あたかも僕には死刑宣告のように聞こえた。日本では四十年程前に法改正がなされて、銃のライセンスを所持する警備員に対しては銃の携帯が許可された。警備兵という俗称で呼ばれる彼らはそれほど一般的でなく、日常生活でこういった兵士を見かけることはまずなかった。僕は足が自然と震えるのが自分でも分かったが、なんとか立ち上がってバスを降りる相田の後に続いた。
入り口で僕らは一列に並ばせられた。
「何、すぐだよ」
前で並ぶ相田は振り返ってそんなことを言った。相田は気休めのつもりで言ったのだろうが、僕には何の気休めとも感じられなかった。
「次」
順番が近づくと、作業服を着た作業員らしき男が声を上げ、携帯端末を利用したID認証を行っている様子が確認できた。
「おい、君」
向かって左側にいた警備兵の一人が僕に声を掛けた。僕は心臓が飛び出るんじゃないかと思ったが、なんとか首を回して兵士を見た。
「君、ここの人間か?」
警備兵は訝しげな表情で僕を眺め入るように見回した。僕は緊張のために固まって動きが取れず、声も出せなかった。
「そいつ、僕の連れなんです」
相田は後ろを向いて警備兵にそう声を掛けた。しかし警備兵はそれだけで引き下がろうとはしなかった。
「そこの鞄を開けてくれるかな?」
一応紳士的に話しかけてきてはいたが、肩から提げられたライフル銃の銃口がちらつき、この場からすぐにでも逃げ出したいという僕の衝動は無闇に掻き立てられた。
僕はぎこちない手付きではあったが、なんとか通学用鞄のロックを外して中身を見せる。中には教科書やノートの類しか入ってはいない。
「ああ、ありがとう。もういいよ」
警備兵は一瞬覗いただけでそう言うと、持ち場らしい扉の左側にすぐさま戻っていった。そうこうしているうちに、順番は前に並ぶ相田の番になっていた。若者というわけではないだろうが、作業員はまだ若さを感じさせる目付きをしていた。何かそう思わせる鋭さがあった。僕の番になると、男は端末を近付けた。短いピッという電子音が聞こえた。男は端末を見るとにんまりと顔を露骨に緩ませ、第一印象とのあまりの違いに僕を当惑させた。
「君が見学で来た子かあ」
男は僕を見ながら肩を叩いてきた。それは緊張を緩ませるためのジェスチャーだったのかもしれないが、僕の警戒心は余計に煽られた。
「君さ、ここで働く気ないの?」
男は耳打ちするように声を潜めて顔を近付けながら言った。僕はそのづけづけとした物言いに不快感を抱かないわけにはいかなかった。
「まだ、仕事内容も見てませんから、何とも言えません」
男は僕がなんとかそれだけ答えるのを見ると、さらに頬を緩ませて口の端を大きく吊り上げた。それはなんとも形容し難い不愉快な笑顔だった。
「そうだよなあ。まあ今日はゆっくり見て考えといてよ」
「はあ」
男は僕から離れていった。すぐ先には相田が待っていた。僕は今の男の薄気味悪い馴れ馴れしさのことを早速話すと、相田は困ったように眉根をひそめた。
「君がここで働くと、あいつが得するんだよ」
「えっ?」
「特別な事情があるってさっき言っただろう? 君や僕のように不幸な体験をしてきた人には国から補助金が出るのさ」
「補助金……」
「不幸な人間は優先して働かせてあげないといけないってことだよ。悟史、ロボットが日本の労働者の仕事を十パーセントも奪ってしまったって事実は知ってるか?」
「ああ」
「国はその事実に対しては体裁だけでも取り
相田はそう言って目を細めると歩き出した。外から見られることを憂慮してなのか、扉まで一メートル程の通路が続き、その奥は簡素であるものの、ドアノブ式でスチール製の扉によって仕切られていた。相田は慣れた手つきでノブを回して押し開ける。するとそこには僕の想像を逸脱した異常な世界が広がっていた。
「どうだ? すごいだろ」
相田はそう言って僕の返答を待っている様子だった。しかし僕はそれに答えられる余裕がなかった。それは絶え間ない隆起によって
四方を囲んだ高い塀から降り注がれる照明の反射が、積んである彼らの肌を白く発光させていた。背中に光が当たる者もいれば、腹や頭を光らせている者もいた。衣服はぼろきれのように彼らを包んではいたが、中には裸体を無残に露出させている者も少なくはなかった。この時、僕の中の現実が音を立てて崩れるのを感じた。そのせいなのだろう。人間の持つ適応能力は、僕を次第にこれが現実なのだと思わせようとしていた。落ち着いていくほど、僕の中にあったはずの現実は狂っていった。
「悟史」
相田が声を掛けてきた。それは何ら動揺の気配すら感じられないフラットな調子の声だった。僕は夢の世界でたゆたうように、あいまいな意識のまま、相田の声がする方向へと首を向けた。相田は笑っていた。いったい何に笑い掛けているというのだろうか。
「これ、何に見える? 僕は初めてこれを見た時感動したんだ。想像していた以上の景色に胸躍ったよ。君は戦争がどんなものか考えたことはあるかい? 僕にはここに積まれている山こそが戦争と同質のものに思えるんだ。正確には戦争の結果だけどね。戦争は人が人じゃなくなる。皆水の入った風船みたいなもので、風船を割ったときの破裂音に興奮しているだけなんじゃないかと思えるくらい、人は人を殺していく。後に残るのはこの山だ。ここには血と腐敗こそないが、それ以外の視覚情報は非常に近いんじゃないかと思う」
相田は口を閉じて目を細める。思考のうまく働かない僕は、ただ呆然と相田を見ている他なかった。しばらくすると、相田はこう言った。
「国際社会が今期待を寄せているのが、ここに広がるゴミの山さ。もっとも、ここに積まれているのはその残骸だがね」
薄笑いを浮かべた相田は人の形をした者達の中に入っていった。踏み潰して山のてっぺんへと登ってゆく。僕がゆっくり相田に近づくと、それを確認するように相田は口を開いた。
「全く新しい兵器、意志のない人間達が社会の隅々まで入り込み、反体制派勢力を恐怖によって黙らせる。それが恐らく国際社会がこれからやろうと計画していることなんだと思う。ここはその仲介地点になっているのさ」
相田は屈み込んで倒れた人の形をした物を首の後ろから掴んで引き上げた。苦しい表情を浮かべてはいないが、それは死んでいるからではない。初めから生きてなどいないからだ。相田は僕を睨むように見据えた。
「これを見ろよ」
相田は物体の半身を持ち上げて、左脇腹を僕に見せた。そこにはすっぽりと穴が開いていて真っ暗だった。相田は目を細める。
「大きな穴だろう? 最近こういったロボットの投棄が多いんだ。この穴には、本当は主要基盤がびっしりと詰まっている。ロボットの脳とも言えるものがね。どうやら盗まれたようだが、しかし妙な話だと思わないか? 焼き焦げた基盤なんて持っていって何の価値があるんだろうね」
思考のうまく働かない僕は穴をじっと見つめていたが、焼き焦げたという相田の言葉が、美恵子さんとの話を僕に思い出させた。ロボットには情報漏えいを防ぐために基盤を焼いて自害する機能が備わっていると、確か美恵子さんは僕にそう説明していた。僕は意識的にその穴をもう一度よく見つめる。するとその中には鋭利な刃物によって切り取った断面が見えるものの、焦げた跡などどこにもないことが分かった。
「気が付いたか?」
相田は僕の様子を見てその変化を読み取ったのか、その場に似つかわしくない陽気な声を上げた。
「体の中に焦げ跡一つないんだよ。可笑しいだろ? ロボットは危機を察知すると内部を破壊するはずなんだ。それはかなり精度の高いプログラムのはずだよ。失敗するだなんて僕には信じられないね。要するに考えられることは一つしかない。プログラムの発動を止めるためのパスコードが存在するんだ」
「パスコード?」
僕の返答に相田は大きく頷く。
「ああ。恐らく例外的な措置として、このプログラムを止める方法がプログラムの中に初めから仕込まれていたってことさ」
「そんな……、何のためにそんなことをする必要があるんだ? 第一、商品価値が落ちるんじゃないのか?」
僕は美恵子さんや律ちゃんが自分達を商品だと考えていたことを思い出しながらそう発言した。相田は僕を見下したように笑った。
「商品ね、でもそれは日本市場という極めて限定された商売での話だろう? 自殺プログラムはそもそもロボットを日本企業に生産させるための口実だったのかもしれないぜ。この国ではまだ戦争という言葉に対して過剰に反感を抱く人達が多いからな。カモフラージュが必要だったのさ」
相田の話は飛躍しているせいか、僕にはよく理解できなかった。彼の言う商品価値とはどうやら僕の考えているロボット市場のものとは違うらしい。相田は補足するように先を続ける。
「だがこれではっきりしたことがある。最近基盤の盗難が増加してきた背景には、ロボットが世界市場においてその価値を認められてきたからだ。だがそれは日本でしか需要のなかった生活を手助けするためのロボットではない。海外ではこの国のように秩序に対する信仰がないから、ロボットに対して特別な価値を見い出すことはなかったんだ。合理的に考えればロボットより人を雇う方が社会が安定することを知っているんだよ。よって必然的にそれは別の市場を意味する。つまりブラックマーケットさ。世界は今の段階になって兵器としてのロボットを必要とし始めたんだ」
「兵器……」
僕の頭は情報を処理し切れず、ただ相田の言葉を反芻することしかできなかった。相田は勝ち誇ったように空に向かってせせら笑った。
「そうさ。兵器市場が動き出したんだ。止まらないよ、この流れは、絶対にね。これで僕らもやっと夢から覚める。この忌々しい鉄クズを社会から放逐してやるんだ」
相田は彼の前で、あたかも斬首刑に処されつつあるように山から突き出た少女の頭を突然踏み潰した。僕が制止の声を上げる間もなく、頭に全体重をかけた相田は、笑顔を浮かべながら少女を鉄クズへと変えた。肌が破れ、金属片が飛び出してゆく少女の顔を見ながら、僕の頭の中では律ちゃんの言葉が神の啓示のように木霊していた。
(来るべき未来を回避できなかったから、律は消えてしまうんだ。他の機械と同じように打ち捨てられて鉄の塊になるんだ)
鉄の塊、そう鉄の塊だ。僕の目の前には山程の鉄の塊がある。どうして? 何のために? 相田はこんな所で何をやっているんだ?
整理のつかない僕の思考回路は、相田の残虐な笑みを目の当たりにして、混乱を来たし始めていた。僕は首に両手を当てる。なぜだろう? 水槽の中で酸素の足らなくなった魚が水面に空気を求めるように、僕は天を仰ぎ見て空気を求めた。息が苦しい。息がうまく吸えない。
「どうした?」
相田が不審がった声を僕に投げかける。しかし僕はそれに答えることができない。満月が見える。照明によって
目が覚めると、僕は病室にいた。そこはなつかしい母さんの匂いがした。僕の目線の先にはベッドが見えた。僕の目はベッドと同じ高さにあった。見上げると、ベッドから起き上がった母さんが、窓から外を眺めていた。母さんは何かを呟いていた。僕は耳を澄ましてよく聞こうとした。
「あの人はどうして私を見ないの? ロボットなんて人間じゃないのに。どうして? 何で私を捨てようとするの? 私が何したっていうの? どうして私をこんなに苦しめるの?」
母さんは僕から目を逸らしたまま、俯いて肩を震わせていた。僕は辛そうな母さんを見て悲しくなってきた。そっと近づいて背伸びをして、ベッドから下げられた母さんの左腕に抱きついた。でも母さんは、いつものように僕を見て抱きしめてはくれなかった。
「あの人を苦しめてやりたい。こんなに私を苦しめたあの人を、もっと苦しめてやりたい。もっと、もっと何かしないと、もっと――」
母さんの横顔が見えた。でもそれは僕の知っているはずの母さんの顔じゃなかった。目を見開いて
母さんはベッドの横にある窓を思い切り開けた。身を切るような冷たい風が室内に吹き込んで、僕は体を抱え込んだ。体が震えていた。耳が痛かった。でも僕は母さんから目を逸らさなかった。母さんは包帯だらけの右腕を窓枠に掛けたと思ったら、身を乗り出して、急に消えてしまった。母さんが消えてしまった。
「お母さん、どこ?」
僕は誰もいないベッドに恐る恐る声を掛ける。もしかしたら母さんはどこかに隠れているかもしれないと思ったからだ。でも母さんは返事をしなかった。シーツの乱された
しばらくすると、廊下では慌しい足音と、男の人が何か叫んでいるのが聞こえた。
時計の秒針が規則正しく耳を打った。目を開く。真っ暗だった。僕は横たわっていた自分の体を起き上がらせて、ズボンから携帯端末を取り出した。画面のライトを最大にして、照明代わりに辺りを照らす。室内は大分広いようだった。真っ直ぐに並ぶ無数のロッカーが遠くまで見渡せた。今度は近くを照らしてみる。自販機と簡素な丸テーブルにパイプ椅子、それから僕の横たわる付近には黒いソファーが並んでいた。僕はいつの間にかこのソファーに寝かされていたらしい。
ライトを消して俯いていた僕は、記憶を辿ろうと試みる。どうしても夢で見た病院の情景がちらついてうまく思い出さない。確か息が苦しくなって月を見ていた。それから僕は気を失ったのだろうか?
しばらくじっとしていると足音が聞こえた。僕は本能的に警戒して音のする方に身構えたが、杞憂だった。室内のスイッチが押されたのか、周囲は急に明るくなった。眩しくて僕は思わず目を瞑った。
「起きたみたいだな」
相田の声が聞こえた。僕は目を慣らすようにゆっくりと開けて相田を見据えた。僕が気を失っている間に着替えたのか、相田は昨日見たのと同じ作業服を着込んでいた。
「何をしてたんだ?」
僕は自分でも驚くほど掠れた声で相田に問いかけた。相田は目を吊り上げて口を開く。
「何って、残業だよ。君を待っているくらいだったら働いた方がいいからね。ここ出来高なんだよ。働けば働くほど給料が良くなるんだ。暇だったら働く方を僕は選ぶね。ん、泣いているのか」
相田は眉をひそめて訝しげな視線を向ける。言われて初めて気が付いた僕は、右手を上げて頬に触れた。自分でも驚くほど頬が濡れていた。
「夢の中で泣いていたみたいだ」
僕が素直にそう答えると、相田は口の端を吊り上げて笑った。
「怖い夢でも見てたか?」
「まあ、そんなとこ」
僕はあいまいな返答を返しながら立ち上がった。もう何日も眠っていたかのように、体の動きは自分でも驚くほどぎこちなかった。
「喉、渇いただろ?」
そう言った相田から、缶に入った日本茶を手渡された。僕は実感が湧かず、首を傾げながらも缶のフタを開けて一口飲んでみた。すると自分の喉が渇き切っていることが分かった。そのまま僕は缶を持ち上げ、喉を鳴らしながら一息に飲み干した。
「脱水症状は本当に怖いからね。十分に気をつけないといけない」
相田は僕に向かってはいたが、独り言のようにそう呟いた。経験者のような物言いだと僕は思った。
「脱水症状になったことでもあるのか?」
「まあね。集中して働きすぎたら、自分の体調管理を見誤ったことがあったんだよ。それじゃあそろそろ帰るか」
相田は平然とそう言い放ったが、窓から外を覗いても明かりは消えているし、足音一つ聞こえなかった。
「他の人達は?」
「帰ったよ」
「バス出てるのか?」
「バスはない。でも歩いたって三十分もあれば駅には着くよ」
「電車は?」
「終電の一つ前に間に合うかな? まあ問題ないよ」
僕は左手に持ったままだった端末を持ち上げて、画面に時間を表示させた。時刻は午後十一時三分だった。
僕らはロッカー兼休憩室を後にして、廊下を通じて隣接している事務室へ挨拶をしに向かった。相田が主任と呼んでいる四十代半ばと思しき男性は、表計算ソフトを表示したディスプレイと格闘していた。無精ひげを生やした主任は僕を見ると手を止めて柔和な笑顔を浮かべた。
「体調は?」
「大丈夫です」
「全く倒れられたと聞いた時には焦ったけど良かったよ。俺の監督不行き届きなんてことになったらたまんないからね。まあ今度もう一度来てよ。仕事もちゃんと説明するからさ」
「……はい」
僕が気のない返事で答えると、主任は僕の隣りにいた相田に目を向けた。
「お前がまた変なことを言ったんじゃないのか? 仕事教えるだけでいいんだからな」
相田は責めるような調子で文句を言う主任を目にしても表情一つ変えなかった。
「それじゃあ僕らはそろそろ電車なくなるんで帰ります」
「ああ、そうか。じゃあ気をつけてな」
「はい」
僕達は事務室を出て、扉の前を相変わらず警備している二人の守衛に会釈すると歩道に出た。外灯の乏しい外は暗く、あの夢のように冷えていた。
「悪かったな」
相田は突然そんなことを言った。僕が相田を見ると、彼は前を向いたままだった。
「責任感じているんだよ、僕なりにね。僕も恐らくは君と同じPTRSDを抱えているんだよ。だから配慮が足りなかったと痛感しているんだ」
PTRSD、ロボットを主因とする心的外傷後ストレス障害と訳されるその病気はPTSDの日本版とも言えるものであり、ちょうど十五年前に初の患者が認定されて以来、今では生活習慣病と並んで国民病の一つと
近年急激に患者数の増加したこの病気に関して、リベラルな一部のネットメディアはロボットが社会に与えた悪影響だと訴えていたが、産業界の反応は冷ややかなものだった。この前も確か経済技術産業省の大臣が退任に追い込まれるスキャンダルがあったばかりだ。大臣はPTRSDの患者が急増した背景に対して「昔より日本人の心が弱くなったからいけない」といった主旨の発言をして、PTRSD患者の組織するNPOや後援団体から猛反発を受けた。心が強い弱いの問題ではないから、この抗議は的を射たものだが、それだけこの病に対して国民の関心が高く、皆神経を尖らせているということ表れなのだろう。
「たまにロボットに対する憎しみの感情を抑えることができなくなる時があってね、ああやって爆発すると暴言を吐いたりしてしまうんだ」
相田は歩きながら、やはり僕を見ないで話した。僕はこの相田の発言には根本的な矛盾があるように思えてならなかった。もし相田の病がロボットに関係しているのであれば、彼がこんな職場に来るのはなぜなのだろうか? 僕がそう尋ねると、相田は少し間を置いてから、真顔のまま口を開いた。
「一つは単純に金になるからだ。仕事がただでさえ少ないこの時代での特権はおおいに活用すべきだからね。それでもう一つの理由だが、それは認識していたいからだ、この現実をね」
「現実の認識? でもそのせいで病が悪化してしまっては元も子もないんじゃないのか?」
相田は横目でちらりと僕を見てから口を開く。
「いつだったか、僕は自分がリアリストだと確か君に言ったよね?」
「ああ、一ヶ月くらい前だったかな?」
「そういうことなんだよ。僕は物事を認識することから自らを遠ざけるのが嫌なんだ。たとえ症状が悪化しようが、ロボットのいる現実を認識することが、過去と今とを繋げることでもあるんだよ。僕と言う一人の自己を捉えるために、それを分断してしまうわけにはいかないんだ」
自己を捉える、僕にはその意味するところをうまく理解することができなかったが、相田にとってはとても大切なことなのだろう。相田は表情を変えずに目だけ細めると、口を開いた。
「そういえばまだ僕の過去を話してなかったね」
「いいって。具合が悪くなるんじゃないのか?」
「まあ僕が話したいんだ。聞いてくれよ」
「ああ、分かった」
僕は病が悪化することを気にして遠慮するつもりだったが、相田の熱意に押されて話を聞くことになった。
「僕の父親は世渡りがとても下手な人でね、当時いろんな職を転々としていたんだ。それでやっと腰を据えられる仕事を見つけた。母も僕もその時は喜んだよ。でもね、その仕事も結局三年しか続かなかったんだ」
「なぜだ? だって腰を据えてたんだろ?」
「ああ。だが会社の方針でね、父親の働いていた職場ではその年、ロボットの採用が決定したんだ。これは後から父親の日記を読んで知ったことだが、当時の上司からはこう言われていたらしい。『ロボットは確かに高額だが、君の人件費一年分で埋め合わせることができる。君はその次の年にも同じだけの費用がかかるが、ロボットはわずかな光熱費だけで半永久的に君の代わりが務まるんだよ』ってね。父親は大分悩んでいたようだけど、結局自主退職したよ。次の仕事の当てなんてないのにね」
相田は目を細め、遠くを見るような目つきをした。
「僕は昔から妙に勘がよくてね。今でも父親の不満に不安の入り混じった、あの何とも言えない悲しい顔が忘れられないよ。あの日、僕は父親のそんな顔を見て、なぜか家に居たくなかったんだ。遊びたくもないのに公園に行って、日が暮れても帰らなかった。ただずっとベンチに座って空を眺めてたっけな。時計なんて持ってなかったから時間は分からなかったけど、辺りは真っ暗だったからね。大分遅い時間だったんだと思う。それでやっと帰る気になった僕は家路を辿ると、何やらサイレンが聞こえてきて妙に騒がしかった。家の前は人だらけで、赤い光がぐるぐる回っていて、なんだかお祭りみたいでね。人波を掻き分けて我が家を見上げたんだ。すると、僕の家が真っ赤だったんだよね。どうやら父親が火を放ったらしい。僕が家に帰りたくない日に限って、なぜかそんなことが起こったんだ。幸い鎮火出来て全焼は
相田は自分の過去をまるで他人事のように話した。それが彼の傷の深さを物語っているように思えた。もしもっと感情を込めて話したならば、彼自身がその感情に振り回されてしまって話どころではなくなるだろう。
腹の空いていた僕らは行きで買わなかった自販機に立ち寄って弁当を二つ購入した。その時僕は自分の財布を取り出したが、相田は相変わらず僕が金を払うことを拒否した。二人で並んで無人駅のベンチに腰掛けて弁当を開けた。弁当はうまくもまずくもなかったが、急を要する僕の胃は何でも構わないらしく、僕はそれをありがたく頬張った。
「そういえば、君の目的は果たせなかったな」
相田は弁当を食べる手を止め、思い出したようにぽつりと言った。
「目的?」
僕は口の中の食べ物が出ないよう気をつけながら問い返す。
「ああ。美恵子とかいうロボットを探しに来たんじゃないのか?」
相田は首を回して僕を見る。言われてみれば、確かに僕は何でもいいから手掛かりが欲しくてここに来たということを、いつの間にか忘れていた。しかし僕はあの時どんな所に行くのかも知らされていなかったのだから、探すかどうかなどということは考えられるはずもなかった。僕は口の中の飯を飲み込んでから口を開く。
「別に、ただ何か手掛かりが掴めればと思っていただけだよ。それにあの処分場に美恵子さんがいたとしても意味がないじゃないか」
「意味がない?」
相田は意外そうに目を見開いて僕を見据えた。
「ああ。だってあそこに運ばれてくるのは基盤が盗まれているか、あるいは既に自害した後のロボットなんだろう? 僕は美恵子さんの遺体を引き取りに来たんじゃない。僕は生きている美恵子さんに会いたいだけなんだよ」
相田は前に向き直り、「……そうか」と小さな声で呟いた。
「僕にとっては同じなんだけどね。ロボットは初めから生きてなんていないんだからさ」
僕を怒らせたくなかったのだろう。相田は誰に言うでもなくぽつりとそう言うと、弁当の玉子焼きを一つつまんで頬張った。
電車が来るまでは後五分ほどあった。
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