5

 次の日、鮫島は目の下に大きな隈を携えて登校してきた。それで席に着くなり机に突っ伏した。

「大丈夫か?」

 僕が近づいて声を掛けると、鮫島はゆっくりと首だけを回して僕を見上げ、力なく絞り出すような声を上げた。

「ああ。だが授業中は起きてられそうにないな」

「昨日は寝てないのか?」

 今にも目を瞑りそうな鮫島は、微かにあごを引いて頷く。

「律のことが心配でな。家には帰ったんだが、結局一睡もできなかったよ」

「そうか……」

 僕は鮫島のあまりに痛々しい様子に絶句した。これ以上どう声を掛けたらいいのか分からず、月並みな励まし文句は無意味に思えた。

 この日を境にして、鮫島は一週間近く学校を休んだ。担任によると熱が出たから学校を休むと連絡を受けたそうだが、仮に熱が出たのは事実だったにしても、それだけが休む原因とも思えなかった。心配になって何度か電話をしても繋がらず、メールを送ってみても返事はなかった。それで美恵子さんは鮫島の見舞いに行くことを提案してきたが、僕はあまり気が乗らなかった。こういう時は自分の中で整理がつくまで敢えてそっとしておくのが筋だと思った。いや、単に僕は傷心の鮫島にどう声を掛ければいいのか分からなかっただけなのかもしれない。それは突き詰めて考えれば、僕の鮫島に対する恐怖心の表れなのだろう。

 一週間が過ぎて久し振りに登校してきた鮫島を見た時、僕は素直にそれを喜んだ。だが彼は自分の席に鞄を置くなり反転して、着席する僕を見下ろすと無言で睨みつけてきた。僕には訳が分からなかった。

 鮫島は突然僕の胸倉を掴んで引っ張り上げるようにして席から無理やり立たせると、教室の壁に向かって、いくつもの机と椅子を押し倒しながら叩き付けた。僕は壁に打ち付けられた痛みで、肺が圧迫されて息苦しく感じた。鮫島はそのまま顔を寄せると、呟くように、しかし力強い調子で言った。

「知ってたんだな、お前」

 目を見開いた鮫島の顔が迫り、僕は壁に背中を押し付けられたまま、体を突き上げられた。首が絞めつけられて息ができなかった。僕は鮫島の異様な形相と、鋼のような腕力に恐怖した。だから必死になって鮫島の腕を払おうと試みた。しかし酸素が足らずにしびれ始めた僕の両手は思うように力が入らず、だらしなく垂れ下がるだけだった。

「なんの、ことだよ」

 意識が朦朧とする中、なんとかそれだけを口にした。しかし胸倉を掴む腕の力は緩むことなく、それどころかさらに強く絞め上げられるのを感じた。その時だった。なぜか急に首周りの圧迫感が消え去った。酸欠で視界がはっきりとしなかったが、僕の胸倉に当てられた鮫島の腕を掴む美恵子さんの姿がぼんやりと映っていた。

「何をなさっているのですか?」

 それは責めるような口調だった。美恵子さんは目を細め、鮫島を睨みつけていた。こんな表情の美恵子さんを見るのは初めてだった。鮫島は美恵子さんを一瞥すると、形勢不利だと思ったからなのか、僕の胸倉に掛けられた手を完全に離した。

 僕は喉の違和感とひどいめまいを覚え、咳をしながらその場に崩れた。見上げると、鮫島はなおも僕から視線を外していなかった。

「鮫島さん、理由も話さず暴力に訴えかけるのが正しいこととは思われません」

 鮫島は美恵子さんを見ようともせず、掴まれたままだった腕を乱暴に振り払った。たいした力を入れていなかったせいか、美恵子さんの手はすぐに外された。すると鮫島は、僕を見下ろしたままこう告げた。

「なぜ、言わなかった」

 歯軋りをさせた鮫島は、両手を強く握り締めているせいか、それとも極度の興奮のためなのか、拳を小刻みに震わせていた。僕はこの時点で鮫島の言わんとしていることについて、大方の予想をつけていた。しかしそのことを口にする気になれない僕は鮫島から目を逸らせた。

「なぜ言わなかった!」

 鮫島は語気を荒げて同じ言葉を繰り返した。僕は鮫島を直視することができなかった。

「悟史さん、なぜ目を背けるのですか? 何か言いたいことがあるのでしたら、口にしないと相手には伝わりませんよ」

 見るに見兼ねたからなのか、美恵子さんまでもが僕を責めるような言い方をした。僕は呼吸を整えると、観念して鮫島を見据えた。

「三週間前の日曜日に、僕が失踪前の律ちゃんと会っていたって話だろう? どうしてお前がそのことを知っているんだ?」

 鮫島はいっそう険悪な顔をして、僕を睨みつけてきた。その表情には殺意が見て取れた。

「よくもそんな白々しい口を利けたもんだな、悟史。そうだよ、お前はあの日律に会っていながら、俺にそのことを一言だって話そうとはしなかった。俺に協力するとか抜かして善人面しやがって、偽善者め」

「鮫島、僕の質問に答えてくれ。誰からそのことを聞いたんだ? 美恵子さんが話せるはずないんだ」

 僕はあまりに危機的な状況に陥ると、むしろ冷静さを取り戻すタイプらしい。激昂する鮫島を周囲の反応と比較することで、僕は鮫島の姿が滑稽にすら見え始めていた。

 朝のHR(ホームルーム)前の教室でまばらに散らばっている生徒達は、皆一様に傍観者だった。気になるが関わり合いたくはない、そんな感情に支配された場の雰囲気から生じる距離感が、僕と彼らとの間を隔てていた。だが当事者である僕も、基本的には彼らと同じだ。できることならこれ以上事を荒立てたくはない。

 しかし鮫島は僕の態度に明らかな苛立ちを見せた。

「そんなことはどうでもいいことだ。重要なのはお前が律に会ったことを俺に一言も話さなかったという事実だ」

 鮫島は僕の質問に答える気がないようだった。僕は言葉に気を使いながらの返答を心掛ける。

「仮に律ちゃんのことを話していたとしても、捜索の助けにはならないんだよ。彼女は行き先の手掛かりを一言だって話さなかったんだからね」

 鮫島は眉をひそめる。

「律のことならどんなにささいな情報でも俺が知りたがっていたことくらい、お前は知っているはずだ。それなのにお前は話さなかった。話したところでなんら問題がなかったにも関わらずだ」

「それは……」

 僕は口を噤んだ。うまく説明できそうになかった。

「悟史、俺はな、昔からお前のそういうところが嫌いだったんだ。お前はいつも自分で勝手な判断をして物事を隠そうとする。だがそれは相手に対して気を使っているからじゃない。お前自身の保身のためなんだ。そうだろう?」

 僕は俯いた。鮫島に何を言ったらいいのかが分からなかった。確かに僕は今のような鮫島を見たくなかったから、律ちゃんのことを話さなかった。それを僕の保身だと思われても、実際仕方のないことなのかもしれなかった。

 そもそも僕は臆病な人間だ。何か事を荒立てた時、状況に応じて適切な対応を取れる自信がないのだ。

「悟史さん、私のロックを外して下さい。私が説明します」

 美恵子さんは僕と鮫島との間に割って入って来ると、そんなことを口にした。僕は先程から美恵子さんの行動を意外に感じていた。僕が鮫島に対して対応できないと判断して動いているだけなのだろうが、まるで僕に対して感傷的な気持ちになって助け舟を出しているかのように感じられた。この時程美恵子さんを心強く思えたことはなかった。

 鮫島に背を向けて僕を見下ろす美恵子さんに対して、座り込んだままの僕は無言で頷いた。すると美恵子さんは回れ右をして、今度は鮫島と正対する格好になった。

「差支えがないようでしたら、私が悟史さんの代弁を務めさせて頂きます」

 美恵子さんのこの発言を聞いて、鮫島はいかにも不快そうに目を細めると鼻で笑った。

「差支えだったら、悟史が話さないという時点で大アリなんだがな。まあ、いいさ。悟史は今のうちに逃げ口上でも考えておくんだろ?」

 この鮫島の皮肉に対して、美恵子さんは何の反応も示さなかった。それは理解できなかったせいか、それとも反応する必要がないと判断したためなのか、僕には分からなかった。

「それではお答えします。八日前にあたる五月四日の日曜日正午過ぎ、悟史さんは散歩の途上におきまして、確かに律ちゃんと偶然お会いしたということです。ただその時の律ちゃんは、通常では考えられない状態にありました。第三者によるプログラム《指示》を実行していたのだと推測できますが、指示を行った人物の特定はおろか、プログラムの意図自体もはっきりしておりません。悟史さんのお話によりますと、律ちゃんはまず『自分が消える』という主旨の発言をなさったそうです」

 鮫島は消えるという言葉を聞いた途端、血相を変えて目を見開き、僕を凝視した。

「ちょっと待て、悟史。お前は律がSOSを発信してたっていうのに、それを俺に伝えてくれなかったのか?」

 僕は気まずさを感じたが、気の利いた言葉は見つからなかった。美恵子さんはそんな僕に代わって口を開く。

「いえ、『消える』というメッセージは律ちゃんが発したものではなく、律ちゃんに指示を与えたプログラムによるものなのです。ですから悟史さんは……」

「どっちだって同じことだ!」

 美恵子さんが答えるのを遮って、鮫島は獣の咆哮にも似た叫び声を上げた。僕はその声の大きさに驚き、一瞬肩を震わせた。

 ただならぬ鮫島の様子に、落ち着き払っていた生徒達の間も騒然となった。雑多な声の合間から、「担任呼んでくるか?」と話しているのが聞こえた。さすがにまずいと思った僕は、壁に寄りかかりながらも立ち上がる。

「あの時お前にこの話をしていたら捜索なんて落ち着いてできなかっただろう? 僕はその点を考慮したんだよ」

 鮫島は憎々しげに僕を睨みつけた。

「それでも知っていることを話すのは当たり前だろうが! まったく、今までお前のような奴を友達だと思っていた俺が馬鹿だったよ」

 鮫島は吐き捨てるように言い放つと、僕と美恵子さんから背を向け、廊下に通じる引き戸の方へ歩いていった。

「どこへ行くんだ? 話はまだ終わってないぞ」

 僕がそう声を掛けると鮫島は歩みを止めたが、こちらに振り返ることなく口を開いた。

「これ以上お前の阿房面は見たくないんだよ。それに何を話したところで律が帰って来るわけじゃない。それが現実だ。俺にとって律は全てだったんだ。それを失った今、俺はもう終わりだ。全てが終わりなんだ」

 鮫島の声の調子は次第に怒りから嘆きへと変わっていった。僕はこんな鮫島の姿を見たくなかったからこそ、今まではぐらかそうとしてしまった。しかしどちらにしても、いずれはこうなったのだ。僕は自分の臆病さを愚かしく思った。

 鮫島が教室を出て行くと、教室内の緊張が緩むのを感じた。皆が安堵しているのだ。担任の来る時間が近かったため、生徒たちは散らばった椅子と机を整えつつ、そのまま席着した。僕も自分の席に戻った。ただ他の生徒達とは対照的に、部外者でない僕の心中は、決して穏やかなものではなかった。

「お役に立てなくて申し訳ありません」

 美恵子さんは僕にそう耳打ちすると、右斜め前方の自分の席に着席した。しばらくすると担任が来た。いつものように出欠を取り、鮫島を欠席扱いにした。僕はもう鮫島に対して何もしてやれないと感じた。

 一時間目が終わって休み時間に入るとすぐに、美恵子さんが僕の席の前まで来た。

「先程鮫島さんから私宛にメールが届きました」

「そう」

 僕は気のない返事をした。まさか美恵子さんを通して仲直りがしたいだなんて主旨でもないだろうし、多少の恐怖心も手伝って、僕はメールの内容を聞くことに戸惑いを感じていた。

「僕も聞いていいの?」

「はい。むしろ悟史さん宛ての内容なのですが」

「そうですか。でもどうして僕の端末に送らなかったのでしょう?」

「それは分かりません。内容を読み上げましょうか?」

「はい、そうですね」

 そう言いつつ、僕は周囲を見回した。廊下にでも出ているのか、席に着いている生徒の姿はなかった。教室の突き当たりで四、五人が集まって立ち話をしているのは見えるが、ここから離れているし、第一誰も僕らに注目している様子もなかった。

「それではメールの全文を読み上げます」

「はい」

「メール文の音声変換、再生モードを起動します。『さっきは言いそびれたが、昨日警察から連絡を受けた。それは律の失踪した日、つまり五月四日に悟史が公園の前であいつと立ち話をしていたという目撃情報だ。悟史はどうして俺がこのことを知っているのか気になっていたみたいだから、美恵子さんの方から悟史に伝えてやって欲しい。用件はそれだけだ。俺はこれから先も律を探し続けようと思っている』内容は以上です。再生モードを終了します」

 目を瞑って美恵子さんが朗読するメールを聞いていた僕は、さすがに自分のうかつさを思い知らされた気がした。僕はあの日、律ちゃんとかなり長い間立ち話をしていた。僕と律ちゃんとでは体格差がかなりあるし、あの時は仲が良いといった雰囲気でもなかった。要するに僕らを見て不審に思う人なんていくらでもいただろうし、通報されていたって何ら不思議ではないのだ。警察に届け出を出していた鮫島の元に連絡が行くのだって時間の問題に過ぎなかったのかもしれない。そう考えてみると、早いうちに洗いざらい打ち明けてしまった方が良かったとすら思えてくる。しかし僕が打ち明けなかったのには理由があった。僕はまだあの時の律ちゃんを制御していたプログラムの詳細について、鮫島には話していない。律ちゃんが普通の状態でなかったからこそ、話そうにも話せなかったのだ。そしてその理由の中には、僕が律ちゃんの発言に対して少なからず感化を受けているという事実は否定しようがなかった。

「メールの内容は以上ですが、どうでしょうか」

「どうって?」

「いえ、鮫島さんに何か伝えたいことがあれば、その内容も含めて返信しようかと思ったのですが」

「別にないよ。それに何かあれば自分の端末を使うからいいよ」

「そうですか、分かりました」

 美恵子さんは頷きながらそう答えると、自分の席に戻っていった。やがて休み時間の終わりを告げるチャイムの音が、教室内のスピーカーから聞こえた。僕は授業の用意を手早く済ませてしまうと、後は何をするでもなく、教師が来るまでの間、ただじっと俯いていた。

 放課後、美恵子さんは仲の良い女子達から茶道部の集まりに誘われたと僕に告げた。

「だって美恵子さんは部員じゃないでしょ?」

「はい、でも人数が足らないので来て欲しいということです」

 美恵子さんはこれも大切な学習だと言っていた。部活の後は買い物をして帰るから少し遅くなるという話だったので、僕は先に帰宅することになった。

 自室で机の前に座り、何をするでもなく時間を潰す。考えてみれば美恵子さんが家に来て以来、こうやって家の中で一人の時間を過ごすのも久し振りに思えた。もっとも、美恵子さんが外出して一人で家にいることなんていくらでもあったが、今日は気持ちの上で何かが違っていた。鮫島とのことがあったせいかもしれない。美恵子さんが来る前のような気分だった。母さんが亡くなって以来、胸にぽっかりと穴が開いたままだった子供時代の感覚が、おりのように僕の心を覆うようだった。

 僕はズボンのポケットから何気なく携帯端末を取り出してぼんやりと眺めた。新着メールは特になかった。それからしばらくして、思いついたように新規メールの作成に取り掛かった。鮫島に対して何らかの謝罪ができないかと考えたからだ。しかし送信してみて初めて鮫島が受信拒否をしていることに気が付き、僕は少なからず落胆した。やはり僕は彼と絶交したらしい。気落ちした僕はそのままベッドに寝転がり、美恵子さんの帰宅を待った。しかし赤みを帯びた日差しが次第に弱まって部屋の中が何も見えなくなっても、美恵子さんは帰宅しなかった。

 僕は仰向けのまま端末の画面に表示されている現在時刻を伸ばした腕の先から見た。時刻は二十時三十分、いくらなんでも遅過ぎだった。僕はそのまま電話に切り換えて、美恵子さん自身に設定されている番号を掛けた。こうすることで僕は彼女がどこにいても容易に連絡を取ることができる。しかし可笑しなことに、端末の画面には『接続できません』というエラーメッセージが表示されるだけだった。僕はさすがに不審に思った。ベッドから起き上がると上着を羽織って外へ出る。五月も終わりだというのに、夜はまだ肌寒かった。

 ドアに鍵を掛けるのももどかしく感じた僕は、施錠を済ますとすぐに通路を走り抜け、エレベーターホールに立ち寄ってエレベーターの階数表示が遠いことを確認すると、マンションの端に設置された非常階段を駆け下りていった。実際はあまり変わらないのかもしれないが、全速力で走ればエレベーターを使うよりも幾分速い気がした。

 とりあえず僕は美恵子さんがよく買い物で行くスーパーへ向かった。その間少し前に二人で歩いた道を通った。なぜかその時の記憶が脳裏をよぎる。星がきれいだなどと僕が呟いた時に見た美恵子さんの横顔、それは美しいと形容しても過言ではなかった。人よりも人らしい彼女の姿に、僕はあの時確かに魅入られていたのだ。

 スーパーの自動ドアを潜って中を見回す。店内には仕事帰りのサラリーマンと思しきスーツ姿の人達が目に付いた。時間帯のせいか主婦の姿は見当たらず、ましてセーラー服を着た学生がいるはずもなかった。僕は人並みを掻き分けて外に出ると、そのまま走って学校へ向かった。

 息が切れ始めて呼吸が苦しくなった頃、ようやくグラウンドを照らす無数のライトと、その洩れ出た光をぼんやりと反射する白壁の校舎が目に映った。今日は野球部員が遅くまでグラウンドを使用しているらしかった。僕は正門を通り抜けると、校舎を外壁伝いに歩いた。

 ライトに照らされてバッドを振るう野球部員達を横目に、僕は広々とした玄関口に着いた。本棚のように整然と並べられた下駄箱の列から早速美恵子さんの靴を確認する。しかし美恵子さんの下駄箱には白い上履きが入っているだけで靴がなかった。それは美恵子さんが既に学校の外へ出た後だということを示していた。僕は校舎の中にも何気なく目を向ける。廊下の照明は消されていて、校舎の奥は真っ暗だった。ただ非常灯のうっすらとした光だけがあたかも霊魂のように浮遊して見えた。

 これから茶道部の部室に寄ってみても良かった。もし部員が一人でも残っていれば美恵子さんの行き先に関する何らかの手掛かりが掴めるかもしれないと思ったからだ。しかし僕は部室の場所を知らなかった。探すには時間が掛かるだろうし、校舎の大半が消灯した後も活動している可能性も低かった。何より美恵子さんがそこにいないことははっきりしているのだ。

 外へ出よう、僕はそう結論付けた。そしてライトで不自然な程明るいグラウンドへ引き返した。

 それからしばらく探し回った後、僕は最後に交番へ赴いた。それは美恵子さんの捜索願いを出すためだった。交番には警官が一人、机を前にして座っていた。僕がロボットの行方不明者が出た旨を伝えると、警官は訝しげな視線を向けた。とは言え何か言うわけでもなく、視線を下に向けると書類入れと思しき机の引き出しから数枚の用紙を取り出した。

「ここに君の名前、御内の住所、年齢、家族構成、それからこっちの書類には行方不明者の名前、特に欄はないけど端の方に覚えていたら型番と製造年月日を記入して」

 僕はボールペンを手渡されると、机の端を借りて数枚の書類に手をつけた。ある程度の記入が終わると、警官は印鑑の捺印を求めた。しかしその時の僕は印鑑を持っていなかった。正直にその旨を伝えると、警官は一瞬困ったように眉をしかめたが、とりあえずサインでもいいと言った。

 それにしてもこういった前時代的な手続きに、僕は心底うんざりしていた。今更ながら公園で苛立っていた鮫島の気持ちが良く分かった。たかぶる気持ちを少しでも紛らわせようと思い、僕は警官に次のことを尋ねた。

「どうして今時データ化しないで手書きなんですか?」

 警官はこの質問に対して少なからず不快な表情を浮かべた。それは内情について何も知らない僕を責めているようにも見えた。

「いや、後でデータ化はするよ。でも元となる原本は手書きじゃなきゃいけないんだ」

「なんでですか?」

「そういうものなんだよ。あ、そうそう、近いうちに君の親御さんにも来て欲しいんだが」

「え? 両親を連れて来るのですか?」

「ああ、まあお父さんでもお母さんでもどちらでも構わないから、時間の空いている時にこちらへ来てはもらえないかな? 君はまだ未成年だからね、親権者の承諾が必要なんだよ」

「そうですか、分かりました」

 無難な返事を返した僕は交番を後にした。父を連れてくるのはなかなか難しいことのように思えたが、敢えて口にはしなかった。そもそも今回のことを父になんて説明をしたらいいのだろうかと、僕はそのことが頭をもたげた。

 父はロボット依存症だ。ロボットに対する過度な愛着から、ロボットの風俗に入り浸り、その度に母を泣かせてきた。母の亡くなった後、仕事との両立を図るためか、父は高額な美恵子さんを突然購入した。それは母がいなくて寂しがっている僕のことを想ってか、それとも自己の欲求を満たすためなのか、あるいはその両方か、僕にはよく分からなかった。いずれにしても美恵子さんのことが父の精神状態に尋常ならざるダメージを与えることは疑いようがなかった。それで正直気が重かった。しかし他に行く当てもないのに、家に帰らないわけにもいかないだろう。

 僕はそのままとぼとぼと歩いて家路を辿ると、玄関前に差し掛かったところで、通路側に備え付けられた窓から明かりが洩れ出ているのが見えた。もしかしたら美恵子さんが帰っているのかもしれないと淡い期待に胸を膨らませつつ、僕はドアノブに手を掛けるとすぐに引いた。鍵の掛かっていないドアは難なく開く。

 しかし玄関口には父の脱ぎ捨てられた革靴があるだけで、美恵子さんの靴はどこにも見当たらなかった。僕は落胆を覚えたが、努めて表情には出さず、リビングへ向かった。

 父はテーブルにつまみの『さきいか』を器に移さず袋のまま広げ、五百ミリリットルの缶ビールを片手にテレビを見ていた。音量が大きいせいか、テレビの中で芸人の叫ぶ声がいやに大きく、耳を刺激した。

「ん? 美恵子は一緒じゃないのか?」

 父は硬直した僕を横目で流し見てから、テレビに視線を戻すと頬を緩ませた。

「てっきりお前と一緒だと思って待ってたんだよ。ほら、飯の用意してないだろ?」

 今度はテレビから目を離さずに、父は言った。台所の方に目を向けると、当たり前のことだが夕飯の用意はできていなかった。

「美恵子はどうした? まだ買い物か?」

 事の重大さに気付いていない父は、芸人のしぐさに顔を歪ませながらも軽い態度で問い掛けてきた。僕は言葉に詰まって俯いた。美恵子さんがいなくなったことを父に話した時、父がどんな態度に出るのかを考えると、恐ろしくて何も言い出せなかった。

「ん? どうした」

 父は僕の様子が不自然なことに気がついたのだろう。『さきいか』を口の中で何度も咀嚼しながら僕を見た。しかしその表情はまだそれほど深刻さに満ちたものではなかった。

「別に……」

 僕は父の視線から逃れるように明後日の方を向く。父がその態度から気を悪くすることは見るまでもないことだった。

「おい、悟史、口に出さなきゃ分からないだろ? そうやって顔を背けるのはお前の悪いクセだよ。そもそも相手に対して失礼な態度だ。この先社会に出ればお前のような奴は仕事をもらえないんだぞ?」

 父はいやに説教めいたことを言った。父の倫理観について僕がどうこう言うつもりはなかったが、美恵子さんのことについて話す気にはなれなかった。言ってしまえば父がどんな反応を示すかは目に見えていたからだ。

 だが、隠し通せるような内容でもなかった。どうせいづれ知られることだったら、これ以上事態が深刻になる前に言うべきなのかもしれない。僕は鮫島との一件をバネにすることで意を決した。顔を上げ、しっかりと父を見据える。

「それが、いないんだ」

「いない? 何が」

「美恵子さんが帰って来ないんだ」

「何?」

 父はその時奇妙な顔をした。左目だけを細め、口を半分だけ開けた。驚きと怒りと恐怖がないまぜになったような、たとえようのない表情をしていた。

「今まで探してたんだ。でも見つからなくて、さ」

 僕はそこまで言って言葉を詰まらせた。父の様子が僕の想像をはるかに超えて異様なものに見えたからだ。

「で、お前はどうしてここにいる?」

「えっ?」

「何でのこのこ家に帰ってんだって訊いてんだよ!」 

 父は張り裂けんばかりの大声を上げた。僕はその時たじろいで、後ろに一歩後退るつもりでいた。しかし父はその暇すら与えなかった。

 父が叫んだ瞬間、頬に違和感を覚えた僕は、首が九十度、意図しない方向に捻じ曲がっていた。そして僕の意志とは関係なく、体は宙を舞った。食器棚にぶつかった僕は棚の取っ手に背中を強く打ちつけたらしく、鈍い痛みを感じた。幸い観音開きの棚が開いて中の食器が落下してくることはなかったものの、棚の中で揺れ動いた食器のいくつかが割れる音は背後で聞こえた。

 父は背中の痛みに耐え切れず、芋虫のようにうずくまる僕を見下ろしていたが、何を思ったのか、突然右足で僕のわき腹を踏み潰した。例えようのない激痛が僕を貫く。体中が悲鳴を上げ、全身に異様な痺れが走った。それから父は二、三発腹を蹴り上げると、気が済んだとばかりにしゃがみ込み、苦痛に歪む僕の顔を満足そうに眺めていた。

「美恵子はどこだ? 本当は知ってるんだろ?」

 父は目を細めたままで眉だけを吊り上げると、穏やかな口調でそう言った。しかし僕は痛みと痺れ、それに込み上げてくる吐き気のせいで声を出せる状態ではなかった。ただ意味もなく咳き込み、口からはよだれが垂れた。

「知ってるんだろう?」

 父は僕の髪を左手で鷲掴みにすると、上方に引き上げた。髪を引き抜かれそうな痛みが加わり、僕は気が狂いそうだった。

「あ、痛っ、痛い、痛い」

 僕はそれだけを口にした。いや、正確に言うならばそれしか口にはできなかった。しかもそれはほとんど僕の意志など介していない。痛みに耐えかねた僕の体から発せられた生理的な防衛本能、それは生命活動の維持を第三者によって否定された時に感じる動物的本能、物事の理を超越した原始的な恐怖感だった。

「う、あ、あ」

 僕の口からは言葉にならない声が洩れ出るだけだった。父は顔を歪めたかと思うと、突然左手を離した。それは急なことだったので僕は頭を支えることができず、側頭部を床に強く打ちつけ、声ならぬ声を発した。

 父は頭を抱え込むようにして椅子に座ると、体を丸めてうずくまった。

「いない? 嘘だろ、そんなわけがあるか」

 父は床に向かってそう呟き、聞き取れない程小さな声で口を動かし続けた。その時父の姿は視界の中で歪み、水の中で溶かした絵の具のように捻じ曲がった。それは僕の目に涙が溜まっているからだった。僕はなぜかこの涙の理由を考え始めた。

 これは単純に痛みのせい? それとも父に殴られたのが悔しかったから? あるいは美恵子さんがいなくなったことで苦しむ父を見て、僕自身も同じ気持ちになったから?

 答えの出ない問いを繰り返していた僕は、現実の苦痛から逃れるかのように、やがて意識を失っていた。


 目を開くと、僕は電灯をつけただけの薄暗い自室の真ん中に、なぜか一人で突っ立っていた。背後で荒い息遣いが聞こえたので振り返ると、頬を上気させ、息を切らせた美恵子さんが、開いたドアの戸口寄りかかるようにして立っていた。美恵子さんは満面の笑みを浮かべると、突然声を張り上げて、弾むような声音で言った。

「悟史さん! 私、人間になれたんです」

「えっ?」

 僕が戸惑ったままその場に立ち竦んでいると、美恵子さんは部屋に入り、数歩歩いて僕の目の前に立つと、腕を回して背後で組合わせ、肌を密着させてきた。その時、美恵子さんから女性的な香りが漂ってきて鼻腔をくすぐった。僕は困惑と共に心臓の高鳴りを覚えた。

「ほら、こうすると暖かいでしょう? 人間だから、こうしてギュッとすると暖かいんです。トクン、トクンって、心臓の音も聞こえるでしょう?」

「……本当だ」

 美恵子さんの鼓動と体温は、密着した体を通して伝わってきた。なぜだろう? こうしていると全身の力が抜けていくようで、とても落ち着いた。まるで母親のかいなに抱かれているような、そんな気がした。僕は心地よさで次第に眠くなってきて、そのまま静かに瞳を閉じた。


 目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。耳鳴りのように木霊していた自動車のエンジン音が遠のくと、後には絶え間なく時を刻む壁掛け時計の秒針の音だけが聞こえた。それはさながら心臓の鼓動が脈打つ感覚にも似ていて、僕が生きていることを現実のものとして実感させた。

 僕はわずかに首を傾けると、父が座っていた食卓の椅子に視線を移した。椅子は僕と同じように乱暴な扱いでも受けたのか、無造作に転がっていた。父の姿はなかった。家にいるのかどうかさえ分からなかった。

 次第に意識がはっきりとしてきて、妙な鼻の詰まりに気が付いた僕は、手で鼻の下あたりを触れた。すると何かカサカサとした感触の乾いた物質が、鼻の下から口の周り、さらには顎にまで付着しているのが分かった。物質の一部を指でつまみ上げてみる。砂のようなザラつき、暗くて色までは判別できないが、それは経験から乾燥した僕の血液であることが分かった。恐らく殴られた時に鼻血が出たのだろう。気が動転していて、僕はそんなことにも気が付けなかったらしい。血の塊で塞がった鼻は不快だったが、とりあえず止血効果があるので放っておくとして、僕は口から息を吸い込んでみた。口で吸う息は浄化をせずに喉を通るため、雑菌が繁殖しやすいというが、実際空気に含まれた微細なゴミが喉に付着するせいか、むせ返るような不快感を覚えた。

 僕は立ち上がると、わずかな視界を頼りに手探りで物の位置を確認しながら、洗面所へ向かった。歩くと脇腹に違和感を覚えはしたが、触れない限りどうということもないようだった。洗面所に辿り着いた僕は、洗面台に備え付けられた照明を点けた。白色灯が頭上で瞬くと、正面の鏡に映し出された自分の半身を見せた。

 それは思った以上に悲惨な状態だった。左頬は赤く腫れ上がり、鼻から洩れた血は顔中を覆っていた。とにかく僕は洗面台の蛇口をひねり、顔に付着した血を全て洗い落とした。幾分ましにはなったものの、まるで試合後のボクサーのように腫れ上がってしまった左頬はどうしようもなかった。

 応急処置のために救急グッズを収納している引き出しから湿布を取り出し、適当な大きさに切ると左頬に貼り付けた。とりあえずはこれでいいだろう。

 疲れ切っていた僕は自室に入るなり、ベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。その時脇腹に鈍い痛みを感じたため、寝返りを打って仰向けになろうと考えた。しかし実際に体を動かしてみると、思わず声を上げてしまいそうになる程の激痛が体中を駆け巡ったため、僕は慌てて寝返りを断念した。ただそのままの姿勢では寝付けそうになかったので、僕は一旦シーツの上に手を付くと、両足を曲げながらゆっくりと体を起こした。そのまま体全体を横倒しにする形で反転させると、なんとか上体をひねらずに仰向けの姿勢を取ることができた。そうして僕は眠れることへの安堵感からか、ベッドに沈み込むようなイメージで、意識の深層へと消えていった。

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