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「ただいま」

「おかえりなさい」

 エレベーターを降りて渡り廊下から通路に出た僕は、玄関ドアを開けて美恵子さんと帰宅の挨拶を交わした。美恵子さんは洗面所から雑巾を持って出てきたので、僕が洗面所を覗くと、どうやら洗面台の上に備え付けられている棚を、踏み台に上って水拭きしていたらしかった。美恵子さんは再び踏み台に上ると左手で棚の端を掴んで体を支え、しきりに右手を動かしている。

「そんなことまでしなくてもいいのに」

 背伸びまでして懸命に拭き掃除をする美恵子さんの背中を見上げて、僕は思わずそう呟いた。美恵子さんは特に手を休める様子もなく、視線は棚を見上げたまま、口だけを動かす。

「結構汚れているんですよ。それに、仕事がない時は自分で探すようプログラムされていますから」

「そう」

 僕は美恵子さんに少し休んで欲しかった。あまりせわしく動かれると見ているこっちが落ち着かないからだ。しかし考えるまでもないことだが、体力を気にする必要のないロボットが休む意味などない。だから僕はそれ以上何も言わず、美恵子さんの様子を眺めていた。

 しばらくすると美恵子さんは踏み台を下りて僕を見た。

「何か御用ですか?」

「うん。でも後でいいよ。これから買い物でしょう?」

 美恵子さんは困ったように眉根を寄せた。

「はい、申し訳ありません。確かにそろそろ買い物に出ますので、お話は帰った後にして頂けると助かります」

「うん、テレビでも見て待ってるよ」

 僕はリビングを移動して、食卓の上に置かれたリモコンを手に取ると電源ボタンを押した。大型のモニターが人の姿を映し出した。僕はテレビと真向かいの席についてその様子を眺める。

「それにしてもよくお分かりになりましたね」

 財布と買い物バッグを自室から持ってきた美恵子さんが背後から声をかけた。僕はテレビから目を逸らし、上半身だけを曲げて背もたれに肘をつくと美恵子さんを見上げた。

「そりゃあ分かりますよ。だいたいこのくらいの日暮れ時ですからね。なんとなく察しが付きます」

「そういったものでしょうか」

「そんなもんです。別に覚えているわけではないんですけどね。人間って積み重ねで自然と気が付くことは意外と多いですよ」

 僕が多少自慢げに話すと美恵子さんは心底感心したらしく、感嘆の声を上げた。

「すばらしい能力ですね」

「そうかもしれません」

 僕はねじった体を元に戻してテレビを見た。

「それでは行ってきますね」

「はい」

 玄関で靴を履く時に地面を擦る音がすると、ドアの蝶番ちょうつがいが金切り声を上げた。部屋に入った冷えた夜風が体に当たったかと思うと、外気に押されたドアは乱暴に打ち付けられた。僕はテレビに注意を向けた。

 番組はさほど興味のない刑事ドラマの再放送だった。僕はリモコンを片手にチャンネルを変える。すると偶然にも興味深い番組を見つけて手を止めた。それは月に一度くらいの頻度でやっている対談形式の政治番組だった。特徴的なのは日本の番組でありながらゲストのほとんどはアメリカの政治家で、その中でも戦略的な視点を持ち、何らかの形で対外政策に関与したことのある大物が多いことだった。

『……特に紛争地帯においては大きな効果を期待できるでしょう』

 スーツを着込んだ白髪のアメリカ人が自信満々といった様子で、両手を開くジェスチャーをしながらそんなことを言ったようだ。英語を聞き取れない僕は画面下部に見える帯状の字幕に目を通すことで内容を理解できた。

『しかしアメリカ国民はそのような政策を支持するでしょうか。年々増大する国防予算に対して黙っていないのでは?』

 質問する初老の日本人はお世辞にも流暢とは言えない英語でそう語りかけているようだった。英語そのものに問題はないのだろうが、単語の端々がきっちり切れた日本語なまり特有の発音なのが少し気に掛かった。白髪のアメリカ人は質問を聞きながら何度も小さく頷いていた。質問を聞き終えると眉を吊り上げて口を開いた。

『ホワイトハウスがこの政策を進めているのには十分な理由があります。それはアメリカの介入によって実現した、中東地域における暫定自治を含む現地政府による統治能力が危機的な状況にあることを早急に解決しなければならないためです。アメリカはこれらの国々において自由な市場を形成するためにも、民主主義政府を下支えしていく必要があります。しかしNATO加盟国の多くは台頭する反体制派勢力や頻発するテロ行為に対しての具体的な攻撃作戦に懸念を表明しています。これは市街戦を想定しているため、兵の死亡リスクが極めて高いからです。しかし現地における兵の不足が情報不足を招き、活動の制限を余儀なくされるのは危険なことです。現在テロリストの多くが潜伏している山岳地帯での活動はリスクが大き過ぎるため、この地域での作戦行動は地固めの十分でない現地政府と連携しなくては、とても立ち行く状況ではないのが現状です』

『現地政府の統治能力が危機的な状況にあるのならば、こうした地域において大規模な爆撃作戦の必要性が再び浮上する可能性はあるのでしょうか? またそうであるのなら、その際の情報は信用に足るものであると言えるでしょうか? つまり誤爆による民間人への被害を想定していらっしゃるのかという問題なのですが……』

『たとえ暫定自治がなされている地域であっても、テロ組織が健在である限り、爆撃作戦そのものを否定するのが妥当とは思いません。状況をどう判断するかは現地での指揮官に委ねられますが、私から言えるのは彼らが常に最善を尽くしているということだけです。つまり作戦の是非を問題視する前に、テロリストを野放しにすることがどれだけ世界を危険に晒すことになるかを考えるべきです』

 この回答に対して初老の日本人は納得できないのか眉根を寄せ、身を乗り出した。

『効果は上がっていると思われますか?』

 この質問に対して白髪のアメリカ人はわずかに口角を吊り上げると相手を見据えた。

『効果はあります。しかし解決とまでは言えないでしょう。解決には各国の現地政府が恒久的な統治権を確立し、その中で民主主義を根付かせることでテロリストの育成を抑制させるしかないのです。これは長い戦いになるが、世界の危機に対して誰かが対抗しなくてはならない。そのために我々が立ち止まるわけにはいかないのです。軍の再編を計り、状況を変えていくためにも、これから行われる政策は極めて重要なのです』

『ロボットの投入が、ですか?』

『そうです』

 僕はロボットという単語を聞いて意外に思った。政策というのはどうやらロボットのことらしいが、軍事作戦とロボットとの間にいったいどのような関係があるというのだろうか。質問者の男もまた僕の疑問を代弁するかのように不満の声を上げる。

『いったいロボットが具体的にどう使われるというのでしょうか。コストに見合った対効果が得られるという試算はあるのですか?』

『ロボットの製造コストは近年の大量生産によって年々下落傾向にあります。軍事用に採用するには良い頃合でしょう。ロボットはまず試験的に軍の治安部隊と合同で都市部の任務に当たらせます。兵の補充は現況において大きな利点と考えられます』

 僕は白髪のアメリカ人のこのような発言を読んで、以前美恵子さんと話した軍事用AIの話を思い出した。あの時美恵子さんが指摘した通り、既に実用に耐え得るAIが完成していたということだろうか。

『しかし性能面で信頼がおけるでしょうか。プログラムエラーによる誤作動が発生すれば取り返しのつかない過失に繋がる恐れも考えられませんか? 兵や民間人への誤射等の危険性は想像しただけでぞっとしますが――』

 白髪のアメリカ人は大きく頷いてから口を開く。

『あなたの仰ることはもっともです。確かに危険性がゼロとは言えません。しかし考えてもみて下さい。それは人の場合も同じではないですか? ロボットが誤りを犯さないと保障することはできませんが、兵が誤った判断を下さないとも言えないでしょう。つまりこれはイメージの問題なのです。

 人は長い歴史の中で新しいテクノロジーに対しては常に不信を抱いてきました。しかし歴史は将来性のある有益なテクノロジーを受け入れなかった国がどのような末路を辿るかを明確に示しています。もっとも、あなたはかつてのニトログリセリンによる事故のようなものを想像なさっておられるのかもしれませんが、過去から学んだ我々がテクノロジーに対して慎重な扱いを怠るようなことはありません』

『では人道的な側面からはどうでしょうか? ロボットに監視されるというのは人に監視されるよりも冷たい印象を受けますが』

 白髪のアメリカ人は笑みを浮かべた。

『それもまたイメージの問題に過ぎないでしょう。私の答えは先程と同じです。現在、人型のロボットとほぼ同型のAIを搭載した乗用車や旅客機は世界中の市場で受け入れられています。軍事用にも無人のジープや戦闘車両、戦闘機が実用化に至っているのです。それでなぜ兵だけに倫理的な問題が生じると仰るのでしょうか? 私にはその方が疑問に思えます』

 初老の日本人は質問に窮したのか、苦渋の表情を浮かべた。僕もまた、恐らくは彼と同じように今の答えに何か引っかかるものを感じた。だがすぐにそれは考えるまでもないことだと気が付いた。ちょうど一ヶ月前にテレビで見た強盗殺人事件の惨状、あれはアメリカでもまだ犯人がロボットであることを公表されていないということだろうか。だがそうでないことを、僕の疑問に答えるかのように初老の日本人は口を開く。

『先日、まだ記憶に新しいですが、アメリカ国内において大変痛ましい、ロボットによる強盗殺人事件が発生しました。あの事件に対してどのような見解をお持ちなのか、伺ってもよろしいでしょうか? と、言いますのもああした事件が兵としてロボットを投入することの危険性を既に示唆しているのではないかと思うからなのですが……』

 白髪のアメリカ人は真剣な眼差しで相手をじっと見詰めながら大きく頷いた。

『あの事件そのものはロボットによる過失ではありません。ロボットは銃と同じく道具に過ぎないからです。問題なのは道具であるロボットがアメリカ国内に潜むテロリストの手に渡ったという事実です。この点を間違ってはなりません。つまりこうしたテロの危険性を排除するためにも、全てのロボットは軍による完全な統制と管理が必要なのです』

『全てのロボットが、ですか?』

『すぐには無理でしょうが、最終的にはアメリカ国民の手にロボットが渡ること自体望ましくないというのが我々の見解です』

 初老の日本人は納得したように小さく頷いた。

『質問を変えます。ロボットの投入に対する現地政府の反応はどうでしょうか?』

『快く思っていない国もいくつかありますが、今後の成果次第で認めていくでしょう』

『成果は出る?』

『成果は確実に上がるものと我々は認識していますが、実際はまだ未知数な点も多いです。そのため、我々はこの政策をより確実なものとするためにも、日本政府の協力に期待しています。巨大な市場規模と優れた技術力を誇る日本の協力はこの政策に不可欠なのです』

 僕は突然日本の話になったことに違和感を覚えた。日本政府の協力とは何のことだろうか。

『ロシアや中国はこのような政策に対して懸念を表明しているようですが』

『彼らはロボットが世界の軍事的な均衡状態(パワーバランス)を崩す兵器であると誤解しているのです。我々はあくまでも軍の再編を計るためにロボットの投入を決定したのであって、ロボットというカードを使って政治的圧力を強めようとしているわけではありません』

『全ては誤解から生じた問題に過ぎないと――』

『その通りです。我々としても不本意なことなのです』

 話が日本の事情からすぐに逸れてしまったが、それは意図的なものなのだろうか。どちらにしても、この対談が日本の事情に軸を戻しそうにはなかった。

 仕方なく、僕はモニターを横目で眺めつつも自分で考えることにした。白髪のアメリカ人が言っていた日本の優れた技術というのは、日本のロボットの品質が自動車と同様、非常に高いということだろう。それなら協力とは何のことだろうか。市場規模に注目しているということは、ロボットの譲渡を前提とした政府間交渉、あるいはロボット業界最大手である財閥系企業の買収計画だろうか。実際アメリカがどんな行動に出るかは分からないが、はっきりしているのは国内で流通しているロボットが何らかの形で国外に輸出される可能性が高いということだろう。しかしそんなことになれば国内の流通量減少によロボットの価格高騰は避けられない。もしかすると失踪事件の真相はそれを見越しての窃盗行為だったのかもしれない。しかし美恵子さんは自害プログラムによって主要基盤が焼かれてしまうことを指摘していた。基盤が使い物にならなくなれば商品価値なんてないに等しい。よって転売目的による窃盗行為とは考えにくいだろう。やはり安易な発想の飛躍に過ぎないということだろうか。

 僕がモニターに意識を向けると、番組はいつのまにかまとめに入っていた。画面には今回の対談における主要なポイントが箇条書きになって表示されていた。

『メッセージをまとめてみます。

 ・ アメリカは軍の再編を計りたいが、政情不安定地域の増大により、それが難しい状況に置かれている。

 ・ ロボットは治安維持から始まり、いずれは紛争地帯への投入も検討している。

 ・ アメリカ国内のロボットは軍による管理が望ましい。

 ・ ロボットの投入は有効である。

 ・ 日本政府に対しては協力を要請している。』

 僕はテレビを消して椅子に深く腰掛けると身を沈めた。息を吐き出して天井を眺める。ロボットが兵隊として扱われることの違和感と嫌悪感が僕の中で沈殿していた。これから先、まだはっきりしたことは分からないが、この世界で何かが確実に動き出していることを実感しないわけにはいかなかった。

 しばらくそのままじっとしていると、玄関のドアに掛けられた鍵が回された時に鳴るカチッという音が聞こえ、両手に買い物袋を提げた美恵子さんが姿を現した。

「ずいぶんたくさん買ったんですね」

「はい。今日は週末のタイムサービスなんですよ」

「へえ、そうだったんですか」

 僕は美恵子さんの生活力に心底感心していた。美恵子さんと暮らし始めてから三年余り経つが、彼女のAIは生活の中で確実に進化を遂げているようだった。

「あの、それでお話というのは何だったのでしょうか?」

 美恵子さんは流し台に買い物袋を置きながら、顔を僕の方に向けてそう言った。僕は先程のテレビ番組に意識を取られていたせいで、すっかり忘れていた。とっさに口を開くことができずにじっとしている僕を正面から見据えると、美恵子さんは口を開く。

「大変お疲れのご様子でしたから、気に掛かっていたのです」

「そんなに疲れた顔をしていましたか?」

「はい」

 僕は自分では気が付かなかったが、律ちゃんとの会話で大分滅入っていたのが顔に出ていたらしい。美恵子さんは僕と真向かいの席に着くと、じっと僕が口を開くのを待っている様子だった。

「それでは訊きますが、美恵子さんは『来るべき未来』という言葉を聞いたことがありますか?」

 美恵子さんは眉根を寄せて首を傾げた。その様子から僕は、美恵子さんが何も知らないのだと悟った。

「『来るべき未来』――ですか?」

「はい。ロボットに何らかの危機が迫っていることらしいのですが」

 美恵子さんは首を傾げたままで口を開く。

「危機、ですか? そのような情報は確認しておりませんが」

「ネットワーク上にも何もありませんか?」

「少々お待ち下さいね」

 美恵子さんはそう言って動きを止めた。数十秒待つと、瞳を僕に向けて眉根を寄せた。

「やはりそのような情報はないようです」

「そうですか……」

 僕は少なからず落胆した。律ちゃんがあれほど力説していたことだったから、全てのロボットに共通している情報だと思っていたのだが、どうやらそれが間違いだったらしい。

「しかしなぜそのようなことをお尋ねになるのですか? 悟史さんが仰られたような重大な情報であれば、必ず主人の隆宏様と悟史さんにはお伝えする仕様になっておりますが」

「ああ、うん」

 僕は自分でも歯切れが悪いなと思う返事をした。結局僕は律ちゃんが言っていたことをどこまで美恵子さんに話すべきか、判断できないでいた。話し出せば律ちゃんの異常な発言の数々をいちいち説明しなくてはならない。律ちゃんが捨てられることや心を否定して死ぬべきだなんて話をするのは、考えるだけでも自分の頭がおかしくなりそうで気が滅入った。正直、話さなくても済むものなら避けて通りたかった。第一、「心はあると思いますか?」だなんて、訊けたものではない。そんなことを話しだせば、人間である僕とロボットである美恵子さんとの関係がとてもいびつなものになるんじゃないかという不安が頭に重くのしかかった。

 僕が俯いてじっとしていたせいだろう。美恵子さんが近づいて声を掛けてきた。

「顔色が優れないようですが、どうなさったのですか?」

「いや……」

 僕は手をかざし、屈んで僕を覗き込んでくる美恵子さんを制した。

「昼間のお散歩の際に何かあったのでしょうか?」

 美恵子さんはなおも眉根を寄せて僕を覗き込む姿勢を崩さなかった。僕は返答に窮してあさっての方を向く。

「別に、何もなかったよ」

 僕はそれだけ言うと口を噤んだ。

「そうなのですか?」

 僕が答えないのを確認すると、美恵子さんはそれ以上何も問おうとはしなかった。彼女は立ち上がって台所に向かう。夕飯の支度を始めたようだった。僕はしばらく美恵子さんの後ろ姿をなんともなしに眺めていた。するとズボンの左ポケットに入れてある携帯端末のバイブレーターが突然動き出した。僕はこんな時間に誰だろうかと思いつつ、端末の小型モニターに目を向けた。すると画面には『鮫島俊明』と表示されていた。何か急な用事だといけないので慌てて接続ボタンを押すと、案の定鮫島の焦った顔がモニター全面に映し出された。

「おい、今どこだ?」

 鮫島は急き立てるように口を開いた。画面から微かに見える周囲の景色は暗く、茂った低木と外灯らしきものが確認できた。どうやら公園のようだ。

「家だけど、そんなことよりお前こそ何で外にいるんだ?」

「今からそっちへ行く」

 僕の質問に答える様子はなく、鮫島はそれだけ言うと強制的に接続を切った。画面には『接続オフ』とだけ表示され、自動的にバックライトが消えると真っ暗になった。僕は訳が分からないまま端末を左ポケットにねじ込むと、バターの焦げるいい香りがしてくる台所の方に目を移した。

 美恵子さんはフライパン返しを使って、器用に料理を皿の上に載せていた。皿に盛られた料理はそのまま美恵子さんの手によって食卓まで運ばれた。僕は間近に見ることで皿に盛られた黄色い物体が何か判り、思わず呟いてしまった。

「オムライスですか」

「お嫌でしたか?」

「いえ、そうではないのですが」

 確かに僕はオムライスが好きではあった。しかしこの料理を見ていると、なぜだかこそばゆい気がした。母親が愛する息子のために作ったとか、あるいは恋人が愛する彼のために作ったとか、とかくそういったイメージが付き纏う料理に思えた。どちらにしてもこの場にはふさわしくない気がした。

「お嫌でしたらお下げして、他の料理を作り直してきますが」

 僕がオムライスを見つめてじっとしていたせいだろう。美恵子さんが困った顔をしてそのように言った。僕は慌てて食卓の向かいに立ち竦む美恵子さんを見上げた。

「いや、嫌いじゃないよ。むしろ好きな料理だよ」

「そうなのですか?」

「はい」

 僕はケチャップを適当にかけると、早速スプーンを右手に持ってオムライスの端をしゃくうようにして掬い上げ、口の中でほお張った。ケチャップライスの甘酸っぱい味と卵に含まれたバターの香りが混じり合い、絶妙なハーモニーが醸し出されていた。さすがレシピ通りに計算された美恵子さんの料理は見本になりそうな味で、久しぶりに食べたせいか妙にうまかった。

「あの、ケチャップは私の方でかけさせて頂くつもりだったのですが」

「ああ、別にいいよ。それにしても味はやっぱりいいね」

「そうですか? ありがとうございます」

 そう言って微笑しながら空の皿を食卓に置くと、美恵子さんも向かいの席に着席した。ケチャップをかけると美恵子さんが言ったのは、彼女がオムライスの上に線密な計算で好きな図形を描けるからだった。僕は初めてそれを見た時ひどく感動したものだったが、今はそんなことをしてもらうこと自体がひどく恥ずかしく感じられた。正直早くこの料理を片付けてしまいたいと思った。だがそんな僕の願いを嘲笑うかのように、家に響き渡るベルの電子音が僕の行動を遮った。早くも鮫島が到着したらしい。「はい」と返事をして立ち上がろうとする美恵子さんを、僕はテーブル越しに手を突き出して制した。

「きっと鮫島だろうからね、僕が出るよ」

「鮫島さん? まだお聞きしていなかったのですが、先程のお電話のお相手は……」

「そう、鮫島」

「ご用件は?」

「それはこれから訊くところだ」

 そう言って僕は椅子から立ち上がった。鮫島の尋常でない先程の様子が気掛かりだったので、そのまますぐに玄関口へ向かった。鮫島は何度もベルのボタンを押しているらしく、チャイムはけたたましい音を鳴らし続けた。

「おい、律は来てないだろうな」

 ドアを半分程開けた時点で鮫島は顔を出し、今にも掴みかかりそうな勢いでそう言った。

「は? 何の話だ」

 表向き平常心を装いながらも、突然律という名前を出されたことに、僕は内心心臓が飛び上がりそうな気がした。

「いや、来てないならいいんだ。それよりちょっと上がらせてもらうぞ。奥に美恵子さんもいるんだろう? 二人に話があるんだ」

 言うが早いか、鮫島は靴を脱ぎ捨てて家に上がり込んだ。遠慮も何もあったものではないなと、僕は内心苦笑するしかなかった。

「あの、私は席を外した方がよろしいでしょうか」

 食卓にまで闖入してきた鮫島を見て、美恵子さんは困ったように声を上げた。

「いや、僕らに用事なんだってさ」

 僕はすかさずそう言って、席から離れようとする美恵子さんを呼び止めた。

「そう、なのですか?」

 美恵子さんは僕の傍らに立ち竦み、訳が分からないといった様子で鮫島に視線を投げかけた。僕も鮫島を見た。鮫島は唇を堅く結んで俯いたかと思うと、突然顔を上げて僕ら二人を見回して、それから口を開いた。

「律がな、帰ってこないんだ」

 僕は悪い予感が当たって内心動揺したが、表情には出さないよう努めた。美恵子さんを見やると、彼女は無表情で微動だにせず、鮫島を見つめていた。鮫島は続ける。

「今日はあいつ、公園へ遊びに行くって出て行ったんだが、それっきりだよ。何の音沙汰もなくなっちまった」

「警察に届け出は出したのでしょうか?」

 さすがに美恵子さんは頭の回転が速い。鮫島は一瞬狐につままれたような顔をしていたが、美恵子さんに向かって口を開いた。

「ああ、そういえばまだだった。今まであいつの行きそうな所を回ってたんだけどな。そのことには気が付かなかったよ」

「すぐに見つかると思ってたんだろ?」

 僕が口を挟むと、鮫島は僕を流し目で睨むように見た。

「まさか、勿論見つかって欲しいとは思っていたけどな。あいつには門限を設定してんだよ。午後六時を回っても帰って来ないということは、あいつの身に何かあったとしか考えられないんだ」

 我ながらひどい失言をしたと思った。僕は律ちゃんが消えると言ったことを知っているから、それを表に出さないようにと考えていたことが裏目に出てしまい、差し障りのない発言をするつもりが、わざわざ相手の怒りを買うようなことを口走ってしまったらしい。どうにも僕は隠し事が下手なようだ。

「どうした? 何か心当たりでもあるのか?」

 俯いている僕を不審に思ったのか、鮫島はそう問いかけた。僕は喉まで出かかっていたものの、律ちゃんが自分から消えると言ったことを話すのは控えた。何しろ常識的に考えればあまりにおかしいのだ。意志のないロボットが自分から消えるなどということはあり得ない。まして予言めいた言葉を残して本当にその通りになるなんておかし過ぎる。大体これをどう説明するというのだろうか? 真剣に受け入れてもらえないばかりか、鮫島の神経を逆撫でして逆上させてしまう結果にだってなり兼ねない。

「いや、律ちゃんにも何か用事があるのかもしれないと思ってさ――」

 真実は隠しつつも律ちゃんの意志を反映させた僕の発言を聞いても、予想通り鮫島は心底呆れたといった顔つきをした。

「お前さ、俺の話をちゃんと聞いてたか? 門限を設定してんだよ。それを律が破るはずないだろう?」

 僕は笑ってごまかそうと苦笑しながら頷く。やはり律ちゃんのことを話さなかったのは正解のようだ。到底信じてもらえそうにない。

「まあ、そうだね。ところで、美恵子さんは律ちゃんがいなくなったことと、『失踪事件』には関連性があると思いますか?」

 僕は美恵子さんに話を振ることで、詰問されかねないこの状況から脱して話の軸を変えようと思った。美恵子さんは無表情で僕を見て、それから鮫島に顔を戻した。

「私からは何とも言えません。『失踪事件』には不明な点が多過ぎますから。不確定な情報から関連性を導き出すのは不可能です」

「おい、何だよ『失踪事件』って」

 鮫島が怪訝な表情で僕らを見回す。僕は簡潔に説明しようと口を開く。

「美恵子さんから聞いた話だと、一年以上前からロボットの行方不明件数が急増しているらしいんだ。たまたまテレビのニュースで取り上げられているのを今から三週間くらい前に見たんだけど、その時流されていたテロップを参考にして、僕らは『失踪事件』を呼ぶことにしたんだ」

 鮫島は目を見開いて僕を見た。狼狽の色が隠せない様子だった。

「ち、ちょっと待て。俺はそんな事件聞いたこともないぞ」

「まあ頻繁に報道されているわけではないからね」

「どういうことだ? 報道規制でもされているのか?」

 僕は鮫島を見据えて微かに首を振ってから口を開く。

「いや、そうじゃないと思う。報道されないのには訳があるんだよ。お前はロボットに組み込まれている自害プログラムのことを知っているか?」

「ああ、そういうのは親父が詳しいんでな。最悪の機能ってことくらいは知ってるよ」

 鮫島は顔をしかめながら苦々しそうに言った。僕は続ける。

「それなら話が早いんだが、どうもこの機能の発動に合わせて警察の捜査は打ち切られてしまうらしいんだ」

「本当か?」

 目を見開く鮫島に対して、僕はゆっくりと頷いた。

「美恵子さんが警視庁のデータベースを調べて得た情報だからね。間違いはないと思う」

「……そうか」

 鮫島は俯き、腕を組んだ。所詮は商品だからか、遺骸の捜索すらしてくれない現実に対して怒りをぶつけてくるものとばかり思っていた僕には、その態度が意外に思えた。鮫島は事態の深刻さを受け止めて、なんとか精神状態を落ち着かせようとしているのだろうか。やがて鮫島は顔を上げると口を開いた。

「とにかく今こんな所で話し込んでる場合じゃないな。二人には一緒に律を探してもらうよう頼みに来たんだ」

 僕と美恵子さんは顔を見合わせる。

「二人には川から学校の近辺を探して欲しい。俺は警察に届出を出しに行ってから繁華街を回ってみるつもりだ。異存はないよな?」

「ああ、僕はないよ」

 そう返事をした僕は美恵子さんに目を向ける。美恵子さんは僕の視線を感じたせいか頷いた。

「悟史さんがそう仰るなら、私にも異存はありません」

 鮫島は僕らを見て満足気に頷いた。

「よし、それじゃあ行こうぜ」

 鮫島は早速玄関口へ向かっていったが、美恵子さんはリビングの棚の上に置いてあるメモ用紙とボールペンを持ってきた。

「どうしたんです?」

 僕がそう尋ねると、美恵子さんは何かを書きながら微笑を浮かべた。

「いえ、隆宏様に伝言を残していかないと心配されますから」

「ああ、そうだね。僕はともかく、美恵子さんが勝手にどこかへ行ったとなれば父さんは心配するだろうからね」

 美恵子さんはボールペンを走らせる手を止めると顔を上げ、眉をひそめて僕を見つめた。

「悟史さん、そんな言い方は良くありませんよ。隆宏様にとって悟史さんは大切な一人息子なのですから」

「それ、誰かの受け売り?」

 僕は皮肉っぽく口の端を吊り上げながら笑った。

「私の基礎的な人格データに含まれている情報です。子を大切に思わない親なんていません」

「そう? でもきっと父さんにとっては僕なんかより美恵子さんの方が大切だと思うよ」

「悟史さん!」

 美恵子さんは僕を戒めるためか、少しきつい調子で声を上げた。

「ロボットである私の方が大切などということはあり得ません」

 僕は美恵子さんの発言を鼻で笑った。

「美恵子さんこそ、そういった認識は改めた方がいいと思うよ」

「このプログラム(認識)は修正を加えられないようにできています」

 美恵子さんは僕を睨むように見据えた。それで僕は美恵子さんの態度に根負けして見せた。

「わかったよ。それより早く行かないと鮫島に叱られるぜ」

「はい」

 案の定玄関前で待っていた鮫島は、僕らを見るなり睨むような目付きをした。

「早くしろよお前等、一刻を争うんだぞ」

「美恵子さんが父に書き置きをしていたんだよ」

 鮫島はなおも表情を崩さず、落ち着かない態度のまま「ともかく行くぞ」と吐き捨てるように言い放つと、そのまま歩き出した。僕ら三人はマンションの通路を抜けてエレベーターに乗り込んだ。頭上には回数を知らせるディスプレイがあった。数字はカウントダウンのように等間隔で数を減らしていく。僕は階下に到着するまでの十数秒間、無言のままそれを眺め続けた。

 扉が開くと、鮫島は手を挙げて僕らに合図をしながら走り去って行った。僕と美恵子さんも少し早足で歩く。何気なく美恵子さんを見やると、彼女は眉根を寄せ、とても不安げな表情を浮かべたまま僕を見上げていた。僕は少々不審に思いつつも、「どうしたのですか?」と尋ねた。

「先程から少し変ですよ、悟史さん」

 予想だにしていなかった美恵子さんの発言に、僕は少なからず驚きながらも平静を装い、「何がですか?」と問い返した。

「普段に比べて落ち着きがない様子です。先程から観察しておりましたが、心拍数の変化が著しく、話し出すタイミングの遅れ、発声時の不自然な抑揚とテンポの上昇、予測できない行動や言動に明確な違いが現れています」

「そう、ですか」

 僕は美恵子さんから目を離し、大通りに出ると右に曲がった。美恵子さんがなおも僕を見上げ、目を離さずについてきていることは、曲がる時に一瞬彼女を盗み見て分かった。

「私には残念ながら、以前悟史さんが仰られたように『閃き』から回答を導き出すことはできません。ですが集積されたデータを照合することで信用に足る推論を算出することはできます。その結果、明らかに今の悟史さんは自然な状態でないことが示されているのです」

 僕は無言のまま、振り返ることなく学校を目指して歩き続けた。

「なぜ何もご返答をなさらないのですか? 悟史さんの健康管理も私の大事な務めです。何かお困りのことがあれば遠慮なく私に言って下さい」

 僕は足を止めて美恵子さんの方を向くと、「別に健康だよ」と答えた。美恵子さんも足を止め、決まり文句のように「そうなのですか?」と問いかけた。

「はい」

 こう返事はしたものの、美恵子さんの鋭い追及に僕は正直参っていた。いっそ律ちゃんとのことを話してしまおうかとも思った。美恵子さんに言ったところで特に問題はないだろう。美恵子さんが得た情報にロックを掛ける権限は僕と父さんにある。僕が律ちゃんとの話にロックを掛ければ、美恵子さんはその情報を誰にも(たとえ父さんにでも)漏らすことはない。

 僕はしっかりと美恵子さんを見据えると、観念して口を開く。

「散歩の最中、律ちゃんに会ったんですよ」

 美恵子さんは目を見開いて僕を見る。

「それでは、なぜ……」

 僕は美恵子さんの発言を遮るようにして続ける。

「この話にはロックを掛けるよう願います。鮫島には知らせたくないんです。共有はオフにして下さい。できれば父さんにも聞いて欲しくはありません」

 美恵子さんは僕の真剣な態度に反応してか、顔を強張らせた。僕は本題に入る。

「今日僕が会った律ちゃんは普通の状態ではありませんでした」

 美恵子さんは首を傾げる。

「それはどう……」

 その時、僕らの横でクラクションを鳴らしながら一台の大型トラックが突き抜けて行った。美恵子さんの声は耳を刺すような警笛音と地響きを伴ったエンジン音に掻き消されて全く聞き取れなかった。僕は美恵子さんの手を引くと、すぐ横の角を曲がって裏通りに入った。通りに人影はなく、家々の窓からカーテン越しに発せられる明かりとわずかな電灯だけが、夜道を頼りなく照らし出していた。

 僕は立ち止まると手を離し、美恵子さんを見据えた。美恵子さんも正面から僕を見上げる。

「律ちゃんを探さなくてはなりませんから手短に話しますが、律ちゃんは自分が消えるということを僕に言ってました」

「律ちゃんがですか?」

「はい」

 美恵子さんは顔をしかめる。

「それはいったいどういうことでしょうか。律ちゃんが指示にないことを話すということは、設計上あり得ません」

 僕は頷く。

「はい。僕も疑問に思って尋ねると、律ちゃんはそれが研究者の指示であると答えました」

 美恵子さんは表情を変えず、さらに目を細める。

「研究者とはどなたのことでしょうか?」

 この質問には僕も首を傾げた。律ちゃんが研究者についての詳しいプロフィールを何も話していなかったからだ。

「えーと、名前は僕も知らないんです。ただロボット開発の第一人者であることは律ちゃんの話から分かっています」

「ジンクレール博士のことでしょうか」

 美恵子さんは業界にあまり詳しくない僕でも聞いたことのある人物の名を挙げる。しかし彼でないことを僕は知っている。博士は健在なのだ。

「多分違うと思います。研究者なる人物は既に故人らしいのです。研究所から飛び降り自殺をしたらしいのですが、心当たりはありますか?」

「飛び降り自殺ですか……、検索してみます。少しお待ちくださいね」

 美恵子さんはそう言うとすぐに動きを止めたが、あっという間に顔を上げ、神妙な面持ちで口を開く。

「私の検索可能なデータベースからは、当該人物に辿り着きません。ネットワークからも、私のアクセス可能な範囲からでは特定できないようです」

「……そうですか」

 僕はそう答えたものの、内心ではこういった結果になるのではないかという予感はあった。律ちゃんが嘘をついているのか、それとも機密扱いの情報だから見つからないのか、あるいはその両方か、真相は定かではない。ただ分かっていることは研究者を騙る何者かが仕組んだプログラムによって、人とロボットの不完全さ(律ちゃんは意識を否定するのが完全な世界だと言うが、僕は意識の存在を肯定するから、人とロボットの双方は遺伝子だのプログラムだのに支配された不完全な存在だということになってしまう。)が語られたに過ぎない。その意味するところなど、まるで見当も付かない。

「お役に立てず、申し訳ありません」

 僕が気のない返事をして俯いていたせいか、美恵子さんは突然かしこまって深々と頭を下げた。単に僕が俯いて考え込んでいただけなのだが、それが紛らわしかったらしい。

「いや、別に気にしてないよ。それより話はこれだけじゃないんだ」

「そうなのですか?」

 美恵子さんは顔を上げて姿勢を正すと、僕の言葉を待った。

「うん。実はこれから話すことの方が本題なんだけど、なんというかカルト的で言いづらい話なんです」

「それは、先程お食事前に仰られていた『来るべき未来』という言葉に関してでしょうか?」

 僕は無言で頷く。

「律ちゃんの話だと、全てのロボットは捨てられてしまうらしいんです。それは彼らに心がないからだそうですが……」

 僕は声がうわずらないように気をつけながら、なるべく平静を装って口を開く。この話の先を話すのは辛く、僕はあまり気が進まなかった。

「心、ですか?」

「はい」

 僕は一度大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようと試みる。しかしうまくはいかなかった。

「美恵子さん、そろそろ学校の方に行きましょう。歩きながら話します」

 僕は自分で美恵子さんを裏通りに連れ込んでおきながら、結局歩きながら話すことにした。歩いてでもいなければ、とてもじゃないが落ち着いて話せそうになかった。

「でも、それだと周囲の騒音で話が聞こえにくいのではないですか?」

 美恵子さんはもっともなことを言った。僕は足を止めることなく、首だけを美恵子さんの方へ向ける。

「車の多い大通りには出ませんから大丈夫です。それに、こうやって歩いていた方が落ち着いて話しやすいんです」

 美恵子さんは首を傾げ、困惑した表情を浮かべる。

「そうなのですか? それに動きながらの会話は注意が散漫になるものと思われますが、悟史さんは違うのでしょうか?」

 僕は明後日の方を向いて数秒唸ってから美恵子さんの方に目を向けた。

「いや、別に間違ってはいないんじゃないかな? ただ、注意散漫な方が話しやすいってこともあるんだよ。今はそういう気分なんだ」

「気分ですか? 私には分かりません」

 僕は一呼吸置くと、横で美恵子さんが歩いているのを確認してから口を開く。

「まあ、それはともかくとして、そろそろ話を再開します。律ちゃんがあの人と呼ぶ研究者、彼は心を否定するという結論に達したといいます」

「心を、否定する?」

「はい。研究者は人と同じ心を持つAIを作り出すことに行き詰まりを感じていたそうですから、心を否定することによってその理由に整合性をつけようと考えたらしいんです。心はオカルト(超常現象)と同様に非科学的な迷信と位置づけて考察対象から除外してしまおうという、まあ一種の極論に達したというわけです。つまり心と呼ばれる人の意識は妄想で、その実体はAIと同じものに過ぎないと仮定したわけですが……」

「そうですね。確かにそのような解釈をすることで、心に関する不確定要素は全て払拭されます」

 僕はそう来るだろうと予期はしていたものの、美恵子さんが心の否定に理解を示すのは嫌だった。美恵子さんに僕自身の存在という独自性が否定されたようで、言いようのない苦痛を感じた。そして何より、美恵子さんがこの苦痛を理解できないという事実が彼女の心の不在を証明するようで、耐え難い辛さを伴った。

 僕は両手の拳を爪が食い込むほど強く握った。はぐらかすことのできない現実が、僕にはあたかも鋭利なナイフのようにさえ思われた。そんな心の葛藤を内側に押し込めながらも僕は続ける。

「美恵子さんがコンピュータープログラムによる指示を受けて判断をするAIであるのと同様、僕らもまた、遺伝子が与えた指示を判断するAIに過ぎないのだと彼は言います。それは自己否定に他なりません。見たものを見たとは思わず、聞いたものを聞いたとは思わない。その『思う』という自我の認識そのものが偽りであると捉えたそうです。それはもしかすると無の境地にも似た感覚かもしれませんが、その結果、彼は生死をも無意味で無価値なものになったといいます。そしてそれが合理的で完全な世界なのだそうです」

 美恵子さんはすぐに返答を返さなかった。しかし僕は彼女を見ることができず、前を向いたまま歩き続けた。美恵子さんが少し遅れてついてきていることは足音で分かった。

 やがて学校の白い校舎が月や外灯に照らされてぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。僕は歩みを止めた。

「着きましたね」

 僕は美恵子さんが追いつくのを流し見てから、校舎を見上げてそう言った。こおろぎの羽音が耳を突いた。

「悟史さん、やはりその研究者と呼ばれる方はジンクレール博士ではないようですね。悟史さんの仰っていた内容は、私のデータベースにあるどの学説にも一致しません。それにしても変ですね、律ちゃんはどうしてそのような発言をなさったのでしょうか?」

「……はい、確かにそうですね」

 僕は一応そう答えはしたが、心はそこになく、大きく動揺していた。なぜなら自分で改めて律ちゃんの言っていたことを美恵子さんに話してみた時、それがもっともらしいことに気がついたからだ。それは心がないのに根拠がないのと同様、心があることもまた、誰にも説明できないという事実だ。僕は、僕という存在がここにいると信じさせることはできても、それは僕の肉体という物理的な存在の証明にしかならない。では、心はどこにあるのだろうか? 会話ができることを根拠にできるだろうか? ロボットにもそれはできるのだ。何の証明にもならない。

 それならば、逆にこう考えてみてはどうだろうか。僕を評価する他者がどこにもいなかった場合、果たして僕は僕という主体を意識できるだろうか? 他者の評価が僕という存在の根拠を形作っていると考えた時、僕はその時いったいどこに存在するというのだろうか?

「悟史さん? どうなさいましたか」

 美恵子さんに声を掛けられて僕ははっとして彼女に目を向ける。眠りから目を覚ました時、夢の続きの方が現実で、目の前の情景の方が夢だと思えてしまうことがある。今はその感覚に似ていた。目の前に見える美恵子さんの顔が夢の産物のようで、はっきりと自分という存在を意識することができなかった。僕は僕を意識している僕自身を疑った。だから美恵子さんの存在が分からなくなった。何もかもが分かれなくなった。分からないということすら分かれなくなった。

 目の前に見えるのは校舎の白い壁、聞こえてくるのは虫の音だけで足音は聞こえない。僕はいつの間にか歩くのを止めていた。隣りには心配そうに僕を見つめる美恵子さんの顔。そうだ、僕は返事をしなくてはならない。

「大丈夫です。なんともありません」

 僕は笑顔を作るよう努めた。しかしそれはロボットよりロボットらしい笑みではないかと、僕は自らを疑った。

「とりあえず、学校を回ってみましょうか」

「はい」

 僕らはただ黙々と歩き続けた。見渡す限り周囲は暗く、生い茂る草を踏み潰す僕らの足音だけが、やけに大きく響いた。あたかも世界中には僕ら以外誰も存在していないかのような錯覚さえ覚える。視線を左右に巡らせながら歩く美恵子さんを眺めていた僕は、不意に聞き逃したことを思い出した。

「あの、美恵子さん」

「はい、なんでしょうか?」

 美恵子さんはすぐに首をこちらに向けた。

「美恵子さんには律ちゃんにあったような特殊なプログラムは入っていないのでしょうか」

 美恵子さんは首を傾げ、一瞬止まったようだったが、改めて僕を見ると口を開く。

「ないものと思われます。ただ、私も私の中にある全てのデータを閲覧する権限はありませんから、可能性は低いですが、そこに律ちゃんの指示に相当するものがあることも否定しきれません」

「なぜ可能性が低いのですか?」

「それは閲覧不可データの容量がさほど大きなものではないからです。悟史さんの話からすると、律ちゃんに組み込まれた特殊なプログラムは相当大掛かりなものと推定されます。私の中にそれほど大きな領域はありません」

 僕は今の説明では何か腑に落ちなかった、そもそも律ちゃんと美恵子さんにはどういった違いがあるのだろうか。僕がその疑問を口にすると、美恵子さんはすぐに答えた。

「そうですね、まず製造された年月日が違います。律ちゃんは私より二年ほど新しく、機能も向上しています。

 それともう一つは、私が実用性重視の設計であるのに比べ、律ちゃんはどちらかと言えば愛玩物としての特性が高いのです。特に感情表現に配分されたデータ量は私の一千倍以上に相当します」

「そうですか。それでは最新型のロボットにはプログラマーが製品と異なるプログラムを入れているということでしょうか」

 美恵子さんは僕の質問に眉をひそめる。

「それはどうでしょうか。そういった行為はそもそも違法です。事情を熟知した上で意図的に組み込んだのであるとすれば、それはロボット業界にとって大変遺憾な出来事に違いありません」

 研究者を騙る何者かが法を犯してまで内部告発的なプログラムを仕組んだということだろうか。しかし僕にはあの律ちゃんの話は抽象的で、どこか信仰めいた色彩が強過ぎるせいか、意図が掴めたとは言い切れないし、それほどの危険を冒してまで仕込む情報とも思えなかった。

「美恵子さんは律ちゃんの話の意図は掴めましたか?」

 美恵子さんは予想通り首を横に振る。

「そうですよね。それじゃあ律ちゃんを探すことに専念しましょうか」

「はい」

 僕は長話をして律ちゃんの捜索が遅れたことを、心の中で鮫島に詫びつつ、再び歩き出した。今はとにかく律ちゃんを見つけ出し、なぜあのような話をしたのかを訊かなくてはいけないだろう。はっきりと理解していないのに、律ちゃんの話は僕の心を激しく揺さぶった。僕はそのことを問いたださなくては、落ち着いた心地になれそうもなかった。

 僕は携帯端末を取り出すと、照明代わりに目の前を照らした。そうして僕らはしばらく歩いたが、僕の気持ちと裏腹に結局律ちゃんは学校周辺に見当たらなかった。やむなく川に向かってもその姿はなく、河川敷の坂を下って入念に探してみたが、人影すら見えなかった。

 それでもう少し先まで探そうかと美恵子さんに話を持ちかけた時、右手に持っている携帯端末が大きく揺れ動いた。ディスプレイ上には鮫島俊明と表示されている。そのまま右手の親指で接続ボタンを押すと、画面には鮫島の姿が映し出された。何も言わなくても結果が見て取れるほどに、その表情は沈痛な面持ちをしていた。

「どうだ、律は見つかったか?」

 鮫島も僕の表情から何かを読み取ったのだろう、力なく問いかけてくる。

「悪い、全然見つからないよ。そっちはどうだった?」

 見え透いた空虚な問いに、鮫島は肩をすくめる。

「交番で捜索願いの書類を書くのに結構手間取っちまってな、まだたいして探してないんだよ」

「……そうか」

 鮫島は俯いて一息つくと、再度端末に顔を向けた。

「それでどうする? お前達はそろそろ帰ってもいいぞ。俺はまだ探すつもりだが……」

 僕は隣で端末を覗いていた美恵子さんを見やる。美恵子さんは無言で頷いた。僕の判断に任せるということだろう。

「付き合うよ」

「悪いな」

「それはお互い様だろう? こんな時助け合わなくてどうするんだよ」

「まあな、じゃあ一度合流しよう。街の中心にある公園でいいな?」

 即座に特徴的なモニュメントが頭に浮かぶ。

「それはあの丸い彫刻があるところか?」

「そうだ。じゃあな」

 鮫島は通信を切った。それで僕らは急遽、繁華街の裏手にある公園へ向かった。その公園にある丸い彫刻というのは、本当に丸いだけの彫刻だった。人よりも若干高い二メートル程の高さがある鉄製の球体が、公園の中心に鎮座している。周囲の木々や建造物が鏡のように反射される仕組みで、映し出されるものは全て細くなり、弓のようにしなって見えた。それには何らかの意図があるのかもしれない。例えば映し出される歪んだ情景が社会の心理的な実像を表しているとか。もっとも、抽象的で解説があるわけでもないので、その解釈で正解なのかどうかは分からない。ただじっと見つめているとその不可思議な空間に吸い込まれそうな気がして、気持ちが悪くなったのを僕はよく覚えていた。

 公園で鮫島に落ち合うと、彼は大分苛立った様子を見せた。

「交番の連中な、行方不明者がロボットだと分かると急に態度を変えやがったんだ。『またロボットかよ、めんどくせー』とでも言いたげな顔だったぜ、あれは」

「そうか……、で、どうする?」

 僕は内心そんなものだろうと思いつつ、いかにも鮫島らしい文句を聞き流すと先を促した。

「そうだな、繁華街は広いから手分けして探そうかと思うんだが」

 僕と美恵子さんは鮫島の意見に同意した。それで、それぞれの区分を決めて散開し、一時間後の十時にまた公園で落ち合うということになった。僕は美恵子さんと分かれ、一人で繁華街を回った。人の数こそ多いものの、この時間に不釣合いな律ちゃんらしい小さな人影なんて、どこにも見当たらなかった。

 時間ちょうどに戻ると、鮫島と美恵子さんが既にいて、何やら立ち話をしていた。相変わらず苛立った様子の鮫島を見ると、事態が何も進展していないことは見て取れた。鮫島も僕を見て何か思ったのだろう、目を逸らすように俯くと、表情をくもらせていた。

 結局僕らはそこで解散ということになった。僕はまだ続けようといったが、鮫島はこれ以上迷惑は掛けられないと断った。鮫島はまだ探すらしいのだが、ともかく僕らは家路に着くこととなった。

「書き置き、なくなっていますね」

 僕は食卓の上に置かれていたはずの書き置きがなくなっていることに気が付き、声を上げた。

「隆宏様がお帰りになったのでしょう。もうお休みになられたようですね」

 耳を澄ますと、時折父の部屋からいびきが聞こえた。

「大分お疲れのようです」

 美恵子さんは父のいびきから何かを読み取ったのか、そんなことを口にした。そういえば僕もかなり歩いたせいか、思い出したように疲れを感じた。

「僕ももう寝ます」

「はい」

 美恵子さんは返事をしながら台所へ向かった。

「これから洗い物ですか?」

「はい。たまったままではいけませんから」

 僕が心配そうに美恵子さんを見ているのに気が付いたのだろう、彼女は付け足すように次のことを言った。

「私はロボットですから、眠らなくても問題ありませんよ」

 美恵子さんはそう言うと僕に向かって微笑を浮かべ、洗い物に取り掛かった。僕はそのまま寝る支度を整えると、ベッドに横になった。強烈な睡魔に襲われた僕は、すぐに眠り就くことができた。

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