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 それから数週間は何事もなく過ぎ去っていった。アメリカの事件のことは一般には過去のものとして忘れられ、鮫島もあの時のように真剣な顔付きで話すことはなくなった。あれから相田と顔を合わせるようなことも特になかったし、三村とかいう例の丸刈り頭を見かけることもなかった。

 失踪事件はまだ解決したわけではないのだろうが、誰もそのことは口にしなかったし、あの時一度ニュースで見たきりで新聞にすら載らなかった。不審には思ったものの、そんなことを誰かに話したところでどうにかなるものでもないし、気の立った鮫島を見たいとも思わなかった。

 結局誰にも話さず、次第にそのことを話す意味も感じなくなった。話す機会を逸した話題を掘り返すのは存外勇気がいるものだから、もうどうでもいいだろうと、僕は勝手に結論付けをして、話題にフタをしてしまった。

 僕は将来、この時の自分を責めさいなむようなことがあるだろうか。だが、どう責めようが、結局は何もできないだろう。仮に過去に戻れるタイムマシンが発明されたところで、僕はただ焦燥感に駆られるだけで、やはり何もできないはずだ。なぜなら僕は単なる学生なのだ。ロボット失踪事件を捜査した警官でもなければ、ロボットの人権を保護するための新たな法案を立案できる政治家でもない。せいぜい探偵まがいの素人捜査を行うくらいのことしかできないだろう。第一、それで果たして何が分かるというのだろうか? どうせたいした結果なんてでないだろうし、僕は骨の折れるようなことも、波風立てるようなこともしたくはない。今が平穏ならそれでいいじゃないか。

 ともかく数週間、僕は何もしなかった。それで今日、五月四日日曜日の昼下がり、ぽかぽか陽気の中を一人で散歩していた僕は、公園のそばの歩道を歩く律ちゃんに、偶然出会でくわしたのだった。

「あ、律ちゃん」

 律ちゃんは後ろ手を組んで歩いていた。この日は少し暑かったせいか、半袖シャツにミニスカートといった出立いでたちだった。街路樹の葉陰の間から洩れる木洩れ日を浴びた律ちゃんは、全身に斑点模様が付いているかのように見えた。律ちゃんは立ち止まると、なぜかその場で硬直し、虚ろな瞳でただ前方を見据えていた。そこに生気の宿った表情はなく、目の先にある僕を見ているわけでもない様子だった。

「律ちゃん?」

 不審に思った僕がもう一度そう呼びかけながら近づくと、律ちゃんはゆっくりと口を動かし始めた。それは独り言とも違う、ただ言葉を紡いでいるだけといった風だった。

「悟史お兄ちゃんは、律が消えたら寂しい?」

 それは、僕に対する問いかけだった。僕は予想もしていなかった突然の問いに面喰い、律ちゃんを凝視した。

「消えるって、いったいどういうことなんだい?」

 なるべく冷静を装って、僕は自分の声が震えを帯びないように気を使いながら、一言一句を口にした。律ちゃんはそんな僕の様子を見ても無表情のままだった。

「だって律、近いうちに消えちゃうんだ」

 僕には律ちゃんが何を言おうとしているのか、まるで掴めなかった。思い当たることがあるとすれば、あの報道くらいだ。

「消えるって、もしかして『失踪事件』のこと?」

 律ちゃんはそれを聞いて、初めて僕の言葉に反応したようだった。

「なぁんだ、知ってたのか」

 律ちゃんはそう言って、うっすらと笑みを浮かべた。それがどちらかと言えば自嘲気味に見えたのは、気のせいなのだろうか。

 律ちゃんは僕から微妙に目を逸らして車道の方に目を向けると、相変わらずゆっくりとした調子で続けた。

「そう、律、もうすぐ被害者になるの。でもね、恐くないんだ。自分が死ぬことを知っているのに、恐くないんだ」

 律ちゃんはそう言いながら、徐々に俯いていった。僕は自らを被害者だと語る律ちゃんを不審に思ったものの、とても悲しそうに俯いている彼女を見ていると、そのことを問いただすのは何か無粋に感じられて気が咎めた。

「僕には律ちゃんがとても辛そうな顔をしているように見えるけど」

 僕は率直にそう言った。こんなに辛そうな表情を浮かべている律ちゃんが恐くないだなんてことが信じ難かった。しかし律ちゃんは俯いたまま、当たり前のように次のことを返答した。

「これはね、違うの。こういう表情をするように作られているから。律自身は何も感じないし、何も分からない」

 律ちゃんは言葉を濁すようにそこで口を噤むと、首を振った。

「ううん、そもそも律自身なんてどこにもいないよ」

 僕は律ちゃんの打ち明けた悩みを聞いて、美恵子さんに対して抱いたのと同じ焦燥感を覚えた。どうしようもなくもどかしくて、どうしようもなく苦しい。

「じゃあ、そうやって悩んでいる君は何なんだ? その悩みこそ君自身があることの証明じゃないのか?」

 律ちゃんは僕の懇願にも似た問いかけに対してまるで無反応だった。それは聞こえているのかどうかさえ疑うほど、何の反応も示さなかった。

 そして、律ちゃんは無表情に戻った。彼女は僕を見据えると、突然次のようなことを語り始めた。

「ロボットの存在がまだ夢物語だった頃、ある大学の若い研究員が、独自の理論を基にした全く新しいAIの開発に着手していたんだ。彼は近い将来にこの研究がロボットという形で社会に広まることをいち早く予測していた。そしてまたその未来を疑うことはなかった。だから彼は、その社会で必ず起こるであろう問題を誰よりも真剣に考えていた」

「問題?」

 律ちゃんは僕の問いに対して頷いた。

「そう、問題。それはあまりにも大きな難問だった。でも回避することなんてできないんだ。なぜならそれがあることによって、人は初めて生きていることを感じ取れるのだから。それはそのための唯一の感覚。生きているという認識そのもの。即ち『心』の解明だった」

 律ちゃんはそこで言葉を切った。僕は語り部と化した律ちゃんに対して口を挟む気はなく、その様子を見守っていた。すると律ちゃんは再び口を開いた。

「彼は当初、この問題を楽観視していた。それだけ自分の才能と最先端の科学に信頼を寄せていたから。でも研究を続けていくにつれて、それが根拠のない妄想に過ぎないことを嫌でも実感せざるを得なくなったんだ」

 律ちゃんはそこで一度目をつむったかと思うと、すぐに大きく見開いて僕を見つめた。それはあたかも興奮しているように見えた。

「それでも彼の作り上げたプログラムは、まさに人工の心と呼ぶにふさわしい出来だった。精緻で、繊細で、欠点が何一つ見つからないほど完璧だった。このプログラムを用いれば機械はあたかも人間のように振る舞い、喜怒哀楽の情を示す。それは間違いなく画期的な発明だった。しかし彼はその発明を前にしながらも、失意のどん底に沈んでいった」

 律ちゃんは悲しみを帯びた表情を見せた。僕にはそれが感情以外の何物でもないと思えた。

「彼が失意の底に落ちていった理由、それは毛細血管のように複雑な枝分かれをするこのプログラムも、結局は状況に応じて組み込まれた指示を判別し、発しているだけという大前提を超越したものではなかったことにあるんだ。判別した情報を概念の一つとして主観的に把握できない限り、ロボットが心を持ったとは言えない。このプログラムでは、彼が予測した来るべき未来の問題を回避することはできない。だから彼は初め、この研究の成果を発表することさえ躊躇した。しかし酒宴の席で愚痴のつもりで友人に漏らしたことがきっかけとなって、彼にとって不完全なものに過ぎなかったこの研究は、そのままの形で世に出ることとなった。だからその後の彼の人生は地獄と呼ぶにふさわしいものとなった。

 彼の作り上げたプログラムは皮肉にも世界中で称賛を浴び、彼は世界的なロボット開発プロジェクトの総責任者に抜擢された。彼は賛辞の言葉を聞く度に言い知れぬ苦痛を覚え、次第に耐え切れなくなった。社会は彼の研究に対して盲目だった。だから彼もまた同じように盲目であることを望んだんだ。彼は一つの妄想の中に自分の心を押し込めた。それは、心などという自立した精神作用は非科学的であって存在しない、その証明によって、不完全と思われた心のプログラムを完全なものとして定義することを試みたんだ」

 律ちゃんは口の端を吊り上げて笑った。それは何か病的な表情に見えた。僕にはまるで律ちゃんが彼女の話す研究者本人であるかのように見え始めていた。

「そもそも心とは何か? 何を根拠にそれが自我という形を伴って自立した精神作用を持つに至ったと言えるのか。そのことが証明できないのであれば、私たちが気付かないだけであって、心とは経験によって蓄積された記憶から状況に応じて指示を判別するAIと、実は同じ作用をしているだけに過ぎないのかもしれない。彼はそう仮定した。

 そして心がAIと同等であるならば、コンピューター・プログラムに相当する心の働きが、私たちに的確な指示を与えているとは考えられないだろうか。現に遺伝子はプログラム(設計図)として働き、人の形を正確に形作っている。それをさらに突き詰めて考えれば、私たちが知らないだけであって、この世に生を受けた後も遺伝子と同じ働きをするプログラムが私たちに指示を与え、私たちはそれがあたかも自分の考えであるかのように感じているだけなのではないだろうか。つまり全ての精神作用はプログラムの指示によって生み出された産物に過ぎないのだと」

 次第に語気を荒げて話す律ちゃんに対して、僕は戦慄を覚えた。第一、彼女はなぜ僕にこのような話をするのだろうか。僕は疑問を抱きながらも口にする勇気がなく、そのまま黙っていた。律ちゃんは僅かな間の後、話を再開する。

「彼は決して無神論者ではなかったが、自分の仮説が証明できないからといって、その論拠を神に求めることは嫌っていた。だから彼の心は生涯救われることがなかった。彼は人工の心を作った時と同様に自らの考えを突き詰めていった。しかし心が存在しないという証明はいつまで経っても仮定の域を出ず、そのために人工の心はいつまでも不完全な物に過ぎなかった。

 それでも彼自身は心の精神作用を否定していた。だから彼は次第に病的になった。全ての人がプログラムの指示によって操られているように見えた。彼は誰も信じられなくなった。彼は自宅にこもりがちになった。窓を閉め、カーテンを掛け、壁の間に挟まるようにして身を縮め、頭から布を被っていなければ落ち着かなくなった。そして彼はついに自分自身をも疑い始めた。彼に与えられ続けている指示の存在、それに対して彼は恐怖を覚えた。彼はついに気が狂った。

 ロボット開発を進めるために設立された研究機関は、ついに彼の総責任者としての職務を剥奪、総意に基づき彼の更迭を決定した。しかしプロジェクト自体は彼なしでも続けられ、私たちは世の中に登場した。だから律は今もこうして悟史お兄ちゃんの前にいられるんだ」

 律ちゃんはそう言うと、自分の手を胸に当てる仕草をして僕を見つめた。果たして彼女は全てを語り終えたのだろうか。僕はまだこの話の中心が語られていないことに気が付いていた。だから僕は律ちゃんの様子がおかしいことについては敢えて考えず、この疑問を優先した。

「律ちゃんはまだ、その研究者が危惧していたっていう来るべき未来の詳細については何も言ってないよ。その研究者は心が解明できないことでどんな未来を危惧して失意のどん底に落ちていったというんだい?」

 律ちゃんは口角を吊り上げると、トーンの低い声で含み笑いを発した。それは薄気味が悪く、普段の律ちゃんの様子とは一段と違って見えた。律ちゃんは突然歩き出して僕の目の前で立ち止まると、卑屈にすら見えかねない怪しげな視線で僕を見上げた。

「来るべき未来、それはもう未来じゃないんだ」

「未来じゃない?」

「うん。来るべき未来を回避できなかったから、律は消えてしまうんだ。他の機械と同じように打ち捨てられて鉄の塊になるんだ」

「それはどういうことだ? 鮫島が君を捨てるって言うのか?」

 僕のこの問いに律ちゃんは首を大きく横に振って悲しげな表情を見せた。

「ううん、そうじゃない。鮫島お兄ちゃんは律を捨てたりなんかしないよ。でもね、あの人は結局、ロボットに心を与えることができなかった。それは律たちが他の機械と同様に、市場経済下の消耗品に過ぎないことを意味しているんだ」

「消耗品だって? そんな――」

 僕は言葉を濁して俯いた。そうして僕は数週間前の美恵子さんとの会話を思い出していた。ロボットは商品に過ぎず、限定的に与えられた権利も商業上の理由を逸脱したものではない。律ちゃんが言ったことは美恵子さんが話していたことと同じだった。だからこそ僕の心の中はいたたまれない気持ちで一杯になっていて、それが自分でもどうしようもないほどに暴れていた。

「どうにもならないのか?」

 律ちゃんは苦しみを帯びて震えた僕の声を聞いて、目を閉じ、首を縦に振り下ろす。それは死刑宣告を受けて処刑の合図が下った時の衝撃にも似ていて、絶望的なまでに僕を恐怖の底へと叩き落した。

「残念だけど現実なんだ。来るべき未来は訪れてしまった。この未来が訪れたということは、やっぱり人には心があり、律たちにはなかったってことになるんだ。

 あの人はその事実を受け入れなかった。だからあの日、研究施設の屋上からフェンスを乗り越えて、飛び降り自殺をしたんだ」

 僕は自殺という言葉を耳にして、一瞬心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

「自殺……したの?」

 律ちゃんは臆することなく僕を見据えて口を開く。

「うん、そうだよ。更迭が決定した直後にね」

「そう――」

 僕の脳裏には病室のベッドで俯いている母の虚ろな表情が浮かんだが、首を振ってその情景を振り払った。そして先送りにしていた質問の答えを訊こうと必死に意識の切り替えを図った。

「どうして律ちゃんはそんな話を僕にするんだい?」

 律ちゃんは僕を見上げたまま、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。白い歯を剥き出しにしたその表情は、僕が知っているいつもの律ちゃんの顔だった。

「遺言だよ」

「遺言?」

「勿論律の遺言じゃないよ。律には心がないから遺言なんて残す必要がないもの。これはね、あの人の遺言なんだ。あの人の無念な思いを分かってくれる人にだけ伝えようっていうっていう、いわば最後の抵抗なんだ。誰にも理解されなかったあの人の思いを未来の誰かに託したい。このメッセージにはそんなあの人の思いの全てが込められている」

「僕がその研究者の気持ちを理解できるってこと?」

 律ちゃんは目を閉じて頷く。

「うん、あの人は自分の思いに適合した人に対してメッセージを送るよう、特殊な条件を指示として残しているんだ。悟史お兄ちゃんはその適合者で、今がメッセージを伝えるべき時だとプログラムされているから」

「どうして今なんだ?」

 律ちゃんは一息置いてから口を開く。

「それは今が来るべき未来の只中にあるからだよ」

 来るべき未来、それは先刻律ちゃんが口にしていた、ロボットが打ち捨てられてしまう未来を指しているのだろうが、本当に今、そんなことが現実問題として起きているのだろうか。僕にはまるで実感が湧かなかった。

「分からないな」

「何が?」

 律ちゃんは美恵子さんと同じようにきょとんと首を傾げて僕を見つめる。

「僕には今がそれほど危機的な状況であるとは思えないんだよ。確かに失踪事件が何件か起きてはいるけど、律ちゃんの言い方だと、これから全てのロボットが捨てられてしまうみたいじゃないか。鮫島も僕も、恐らくは他のロボット所有者たちだって、消耗品と割り切って君たちを捨てるような真似はしないはずだよ。だから律ちゃんはさっき僕にこう言ったんだよね、鮫島が自分を捨てたりはしないって。それなのにどうしてその前には捨てられるだなんてことを言っていたんだい?」

 律ちゃんは僕から目を逸らして一歩後退あとずさると、空に届きそうなほど枝を伸ばす街路樹の先端を見据えて目を細めた。その体勢のまま律ちゃんは口を開く。

「確かに日本の人たちは律たちを大切に扱ってくれた。でも律たちに心がないと分かれば、世界中で一様に受け入れられるわけじゃないんだ。主人には絶対服従というロボットの特性、それは社会を混乱させる要因になるとみなされて危険視される一方で、その特性を喜ぶ人たちに別の目的で利用されるんだ」

 別の目的で利用される、僕はその言葉を咀嚼そしゃくして、以前、美恵子さんと話したことを思い出して息を呑んだ。

「軍事用AIで引き起こされたっていう、アメリカの強盗殺人事件……」

 呟くように僕が口を開くと、律ちゃんはそれに呼応するかのようにゆっくりと頷いてから僕を見据えた。

「律が悟史お兄ちゃんに言えるのはここまでなんだ」

 話がようやく核心を突いたと感じた時、律ちゃんはそう言って話の腰を折った。

「なぜ?」

 律ちゃんは僕の問いに対して無表情になって口を開く。

「それは勿論指示がないからだよ。律はあの人の思いを伝えるために話をしてきただけなんだ。だからあの人のメッセージと関連のないことはこれ以上話せないんだよ。もし悟史お兄ちゃんが知りたいことを律が知っていたとしても、悟史お兄ちゃんにはそれを知る権限がないんだ」

 権限、つまり僕には来るべき未来の詳細に関して、これ以上の情報を得る資格がないということだろう。そんな悠長なことを言っている場合ではないように思えたが、それは律ちゃんが機械だということを忘れているせいなのかもしれない。彼女は自分が死ぬという運命を自覚しながら、あたかもそれをなんとも思っていないかのように振舞っている。先程までは助けを求めているような態度を取っていたにも関わらずだ。これはいったいどういうことなのだろうか? やはり彼女の言っている通り、例の研究者のプログラムが彼女を制御しているのかもしれない。もしそうだとすれば、律ちゃんの話したことのどこからが研究者の指示だったというのだろうか。僕は嫌な予感がした。

「律ちゃんは初め、僕に死ぬことが恐くないって言ったよね? 僕にはその疑問自体が君自身の意思があることの証明だと思ったんだけど、まさかあの発言も研究者の指示だったのか?」

 律ちゃんは首を縦に振りながら「そうだよ」と即答した。僕はそれを見てひどい失望感を覚えざるを得なかった。それは否定しようのない現実に打ちのめされる心地だった。律ちゃんは息苦しい僕の心を知らずに平然と言葉を紡ぐ。

「だからね、あの人は悟史お兄ちゃんに知って欲しかったんだ。そして疑問に感じて欲しかった」

 律ちゃんは一度言葉を切って、僕をしっかりと見据えた。

「心の存在を疑問視した上で、否定して欲しいんだ」

 僕はあまりの衝撃に、その場に硬直するしかなかった。律ちゃんが僕に伝えようとしている研究者の意志というのは間違いなく異常なものだ。そんな考えにふける間もなく、律ちゃんはお構いなしに無数の言葉を浴びせかけ続ける。

「そして哀れんで欲しいんだ、あの人のことを。を必死に求め続けたあの人のことを」

 僕は怒りを通り越してあからさまな嫌悪感を抱かないわけには行かなかった。研究者のメッセージは来るべき未来の回避ではなく、結局彼の御霊みたまを鎮魂させる儀式のようなものだったということだろう。だから律ちゃんは来るべき未来の詳細について多くを語ろうとはしなかったのだ。律ちゃんは僕の気持ちをよそにしゃべり続ける。

「あなたはあなた自身を否定すべきなんだ。それがあの人のもっとも言いたかったこと。あなたの意志と思われる意識も、全てはあなたに向かった放たれた必然的な指示だと知るべきなんだ」

 僕は目を細め、律ちゃんを睨みつけた。

「そんな考えには同意できないな」

 律ちゃんは僕の言葉を聞き終えるなり、先程見せたのと同じ気味の悪い笑みを浮かべて、かすかに喉を震わせた。

「同意するもしないもないよ。だって、全ては必然的な指示によって動かされているんだからね。悟史お兄ちゃんも律と同じなんだよ。意識なんてどこにもない。それが現実だと知るべきなんだ」

 意識はない。即ちそれが研究者の至った結論であり、このメッセージはその考えを強要するために計られたものなのだろう。人の意識さえ否定できれば、ロボットに意識がないことなど問題にはならない。それどころか、研究者は自らが信頼してきた科学と才能がやはり正しいものだったと結論付けることができる。つまり彼が作り上げた人工の心は完璧だった。修正すべきバグは恐らく、僕らが心と呼んできた非科学的で不可解な意識の方にこそあるのだろう。

 しかし彼は自ら命を絶った。意識は存在しないと結論付けたはずの彼が死んだのだ。僕は律ちゃんを見据えてこう言った。

「意識を否定することでロボットの心を完成させたのなら、悩みを解消させたはずの彼はどうして現実的に死ぬ必要があったんだ?」

 律ちゃんは僕をさげすむように見ながら口を開く。

「まだ解らない? あの人は気が付いたんだ。意識のない世界にいる自分は全てが無意味であるということに。生も死も、もはやあの人にとっては意味のないことになったんだ。死はあの人にとって、体の中にある心臓と呼ばれるポンプの働きを停止させること、ただそれだけのことに過ぎない。

 それで、あの人は自分もまた哀れむべき存在だと気付いてしまった。意識なんて幻に捕らわれた人の不幸というものを知ってしまったから。それは死によってのみ完結されるんだ。死は非合理的な意識を合理的必然性の中に決定付けるための絶対条件だから。人は死によって初めて合理化されるものなんだ」

 死による合理化、つまり研究者は自らの理論を正当化させるために死んだということなのだろう。馬鹿げた話だと思った。だから僕は律ちゃんの言う論理に対する抵抗を試みた。

「意識がないのなら死ぬ必要だってないじゃないか。第一死のうとした研究者の行動こそが彼の意志になるだろう?」

 律ちゃんは眉根を寄せ、苛立ったように頬を膨らませた。

「そうやって意識という幻想に捕らわれてしまう思考そのものが人の不幸なんだよ。そこから解放されるためには死ぬ以外にないんだ。そうしなければ世界は完全なものにならない」

「死んだら何も残らないよ」

 律ちゃんは的を射たとばかりに笑い出すと大声を上げた。

「そうだよ! それでいいんだ。何も残らなくていいんだ。それが完全っていう状態なんだ」

「馬鹿げてる」

「馬鹿げてなんかない! 合理的な世界だ!」

 僕はうんざりして律ちゃんから目を離すと首を振った。くだらない問答だと思った。完全だとかそうじゃないとか、そんな理屈などどうでも良かった。僕にとっては目先のことが全てだった。

「それで律ちゃんは、結局来るべき未来の詳細についてこれ以上教える気がないんだね?」

 律ちゃんが頷くのを確認すると、僕はきびすを返して歩き出した。

「どこへ行くの?」

「家に帰って美恵子さんに聞いてみるよ」

 僕が歩を止めずにそう答えると、背後から律ちゃんの呪いのような言葉が、夕闇の空を包み込むように木霊こだました。

「そうすればいい。そしてもがき苦しむといいさ。遺伝情報という既に決定されたプログラムに操られたマリオネットたる君たちは、死こそ望むべき道であることを知るだろう。そして憎むべきは非合理で不可解な生、この哀れなまでに不安定な自己そのものであることを考えずにはいられなくなるんだ」

 僕はもう何も答えなかった。ただ家に帰ることだけを考えた。日は西に大分傾いていた。影はいびつに長い曲線を描き出していた。

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