2
次の日の朝、僕は美恵子さんと普段どおりに登校することができた。わき腹の痛みは完治したわけではなかったが、生活に支障をきたすほどではなかった。
登校途中、恐らくは偶然だろうが、例の丸刈りの学生ロボットに遭遇した。彼は特に気まずい素振りを見せるわけでもなく、僕に対して会釈すると次のように切り出してきた。
「一昨日は我々の不注意であなたに不必要な危害を与えてしまい、こちらとしても大変不本意なことをした。しかし、今後はあなたもあなた自身の行動には理由を提示して頂きたいものだ」
謝っているのか、叱っているのか分からない物言いだったが、僕はとりあえず頷いておいた。
「そもそも君に対して他の生徒と同じように設定していたことが我々の根本的な問題であったようだ。君は繊細な人のようだから、君に対しての対応基準は引き下げておく。今後はこのような問題が発生することもないだろう。安心したまえ」
聞きながら、僕は隣に立っている美恵子さんを盗み見た。そこには何の表情も表れてはいなかったが、僕はこの丸刈りロボットの言うことには何か引っかかるものがあった。我慢することができず、僕はついに口を開いてしまった。
「君は口が悪いな」
丸刈りは表情こそ表れてはいなかったが、すぐに返答を寄越してきた。
「何のことだ」
「口は災いの元だって意味だよ。少しは謙虚な美恵子さんを見習った方が良いんじゃないのか?」
「悟史さん、それは違います」
美恵子さんが横合いから口を挟んできた。僕は驚いて口を
「私は謙虚なわけではないと思われます。恐らく悟史さんがそのようにご指摘なさった理由は、私がメイドロボットであることと無関係ではないはずです」
「どういうことですか?」
僕は美恵子さんに先を促したつもりだったが、口を開いたのは正面で腕を組んだ丸刈りの方だった。
「要するに、私と彼女とではタイプが異なっているのだよ。メイドとしてのプログラムが組み込まれた彼女がメイドとして振舞うのは当たり前のことで、それは君の言う謙虚というあいまいな理由ではないのだ。私の場合は学生として振舞うことがプログラムとなって機能している。私はただそれに従っているに過ぎない」
僕は丸刈りの言うことを聞きながら、まるで納得することなどできず、眉間に皺を寄せて唸った。
「それじゃあお前のそのでかい態度が学生としての模範だとでも言うのか?」
丸刈りは相変わらず超然とした態度で頷く。
「その通りだ。私は学生としての正しい行動を取っている」
丸刈りの言う正しい行動という言葉に対して、僕は言い知れぬ嫌悪感を覚えた。そもそも学生としての正しさとは何であろうか。学生はかくあるべきなどという考えは個人の主観が入りすぎているように思えた。丸刈りには主観がないのだから、恐らくは丸刈りのプログラムを組んだ人間の主観が彼を律しているのだろう。僕は鎌を掛けるつもりで、冗談交じりに次のようなことを言った。
「なら当然僕を殴ったのも君の規範なのだろうな」
丸刈りは予想通り頷いた。
「当然だ。第一、あのことは情報不足による我々の判断ミスがあったとはいえ、君の落ち度がそもそもの原因ではないのか? 私は横暴極まる君の行動を制したに過ぎない」
僕は眉間に皺を寄せ、指を当ててそれを揉み解した。まったくなんという考えをしているのだろうか。
「お前のプログラムを作成した人間は余程封建的らしいな」
「どういう意味だ?」
丸刈りは想像通りの返答を返してきた。当然だ。主観のない単細胞のロボット風情に、僕の言わんとしていることを理解できるはずがない。
「言った通りの意味さ」
「悟史さん」
僕の背後で突然美恵子さんの声がした。振り返ると、美恵子さんの表情は険しかった。
「悟史さんのお気持ちはお察ししますが、三村様に対するそれ以上の暴言がよろしいこととは思われません。第一、悟史さんは私たちのことがよくお分かりになっていらっしゃるはずです。それなのに、なぜそうまで発言をなさるのですか? 私には理解できません。それに、そろそろ学校に入らなければ遅刻になります」
僕は丸刈りに向き直った。
「らしいぜ。規範的な学生さんが遅刻にも気が付かないとはお笑い種だな」
「まだ間に合うし問題はない。当然遅刻になる前に話は切り上げるつもりだった」
丸刈りはそれだけ言うと、僕らに背を向けて歩き出した。勿論僕らもそれに続いた。
教室では鮫島が僕の顔を見て唐突に顔を歪めた。
「外で話をしていたのは友人か?」
「まさか」
答えつつ、僕は自分の席に着いた。
「あまりに熱心に話し込んでいたもんだから声を掛けられなかったよ」
そう言いつつ、鮫島は僕の前にある自分の席に着いていたが、横向きになって体だけこちら側に向けた。
「あいつ、ロボットだろう? いったい何を話していたんだ?」
「別に、たいした話じゃないよ」
言いながら僕は鮫島から目を逸らし、窓際に位置する自分の席から空を眺めた。空には雲一つ浮いていない鮮やかな青一色が一面に広がっていた。
「お前は気が付かなかったかもしれないが、お前達は注目の的だったぜ。登校途中の生徒達が皆一様に見てたぞ」
「別に、見世物じゃないんだけどな」
そっぽを向いたまま僕がそう言うと、鮫島は豪快に笑い声を上げながら何かを叩いているようだった。乾いた音がするので、恐らくは自分の膝だろう。
「そりゃそうだ。でも珍しいからな。ロボットに対してあんなに檄を飛ばしている奴なんて見たことないぜ。大抵の場合は理屈で丸め込まれるか、話にならないかのどっちかだからな。次第に馬鹿馬鹿しくなって誰も真面目な話なんてしなくなる。お前はどっちだった? やはり……」
「後者だよ」
僕は鮫島が何か言うのを
「それに、僕自身あんなに話し込むつもりなんてなかったよ。成行き上、ああなってしまったんだ」
僕は眉根を寄せて鮫島を睨むようにした。鮫島はこの状況が心底楽しいらしく、笑みを絶やすことはなかった。
「成行きねぇ」
「何が言いたい?」
僕は含みのあるような言い回しをする鮫島の態度が気に食わず、
「お前はロボットのことになるとやけにつっかかるんだよなぁ」
僕は鮫島の発言を鼻で笑った。
「お前だって律にお熱じゃないか」
さすがにこの発言には僕を咎めたくなったのか、鮫島は笑顔をやめて無表情となった。
「いや、俺の言いたいことはそういうことじゃない。ロボットに熱を上げている奴なんか、日本中にそれこそごまんといるだろうよ。何しろ、ロボットは俺たちが望む理想を体現した存在なんだからな」
鮫島は腕を組み、真面目な顔付きになると続けた。
「だが、お前はむしろその逆だ。まるでロボットを目の敵とでも思っているような有様じゃないか。なんでだ?」
僕はこの質問に答えるのは嫌だったので、はぐらかそうと思い、「たいした理由なんてない」とだけ言った。
鮫島は不満げな表情で僕を見ると、何か言おうとしたようだったが、いつの間にか教壇に立っていた教師が声を上げた。
「おい、鮫島。お前は俺の授業を後ろ向いて受けるのか?」
冗談の好きな国語教師はニヤニヤしながらそう言った。はっとした鮫島は前に向き直って「すみません」と震えた声で謝った。その瞬間、教室中にどっと笑い声が満ちた。鮫島を見ると、彼は耳まで赤くして、身を縮めるように俯いていた。それからすぐに、僕は条件反射のように右斜め前に視線を移して美恵子さんを見た。
美恵子さんも他の生徒たちと同じように鮫島を見て、手で口を隠しながらも笑っていた。口角が上がっているかどうかは確認できないものの、目が笑っていた。美恵子さんはあまりにも自然にその場に溶け込んでいたが、僕にはそれがむしろいびつに感じられた。
主観も心もない美恵子さん、彼女が本当の意味で笑えるはずがなかった。見た目は僕らと同じでも、彼女は自分の意思でそうしているわけではない。彼女は指示を与えられてそうしているに過ぎない。AIが優秀であればあるほど、ロボットたちは僕ら人間と見分けがつきにくくなるだろう。しかし、それも所詮は指示なのだ。経験から紡ぎ出された確率の問題に過ぎないのだ。
僕はふと、小さい頃にテレビの教育番組で見た、人形劇の再放送を思い出した。手足を棒で繋がれた人形たちは、決して自然とは呼べない動きをする。人形の下には必ず地面がある。地面は大きく盛り上がっていて、人形たちは下から棒で突き上げられることで立っているかのように見せかけられる。しかし見せかけは重力を無視した不自然な跳躍によって、すぐに僕を幻滅させることになる。なぜなら人形たちの背後に潜む存在を無視しないわけにはいかなくなるからだ。
地面の中で棒を突き上げている存在、即ちそれが僕ら人間だ。僕らはプログラミングという見えない棒によって美恵子さんたちを操り、それがあたかも自立した人間であるかのように見せかけている。僕らのやっていることの実態は、結局の所、そんな荒唐無稽なお遊びに過ぎないのではないだろうか?
どうして僕らはロボットを作り上げたのだろうか。彼らは人間ではないのに、人間には決して成り得ない存在だというのに――。
こんなことばかり考えてしまう時、僕はいつも思い出してしまうことがある。それは心の奥底にしまい込んだはずの無意味な問い、どうして母は死ななければならなかったのかという問いだ。僕が鮫島の質問をはぐらかしたのは母のことに関して話さざるを得なくなるからだった。目の敵、それは僕が美恵子さんに対してというよりも、本来母がロボットに対して抱いていた憎しみに違いなかった。それがいつの間にか僕の中にも芽生えていたらしい。いつからなのかはよく分からない。しかし僕の中には既にロボットに対するわだかまりが沈殿していた。
昼休みに入っても屋上に上がる気分でなかった僕は、教室で鮫島と弁当を食べることにした。美恵子さんはクラスの女子たちと一緒に食事をするという話だった。別に反対する理由もなかったので二つ返事で了承した。鮫島とは対して会話が弾むこともなく、僕は美恵子さんお手製の弁当を平らげると、何の気なしに廊下に出た。すると、意外な人物から声を掛けられた。それはクラスメイトの相田だった。相田は成績優秀だが、一人でいることが多いせいか、クラスの中で目立つ方ではなかった。相田は僕を見るなりゆったりとした調子で声を上げた。
「やあ」
「ああ」
肩の力が抜けた相田の挨拶に対して、僕はぎこちない返事をして、緊張のせいか意味もなく右手を上げた。われながら意味不明なジェスチャーだと思った。相田はそれを見てかすかに微笑した。
「なんだ、鮫島とはずいぶん態度が違うな」
「いや、相田に話しかけられたことはあまりなかったからさ」
相田はさらに口角を吊り上げた。
「しかし、変わった奴だね、君は」
「何がだ?」
間は急に真剣な顔付きになると、僕を真っ直ぐに見据えた。
「今日の君を見て、僕は心底感心したんだよ。今朝の三村との一件のことだがね」
「……ああ」
僕は間の抜けたような返事をした。
「あの堅物の三村相手にあれだけの反論をするとはね。君はなかなか勇敢だよ。これが舞台だったらスタンディング・オベーションものさ」
相田が何を言いたいのか、僕にはまるでつかめない。
「いや、単にそのことを感動に乗じて本人に伝えようと思ったわけだが、出くわした君の態度があたかも洟垂れ小僧のそれだったので驚いてしまったというわけさ。まあ、嫌いではないけどね」
僕は正直困惑していた。相田に話しかけられたのがほとんど初めてである上に、突然僕の態度を褒めたかと思えばけなし始めたのだ。わけが分からない。
「なんだよ、君は僕のことを褒めているのか馬鹿にしているのか、どっちなんだ?」
相田は僕の問いに対して眉と口角を吊り上げると、次のように言った。
「勿論誉めているのさ。馬鹿にしているだなんて、とんでもない誤解だよ」
相田は上着のポケットから何か小型のスプレーのようなものを取り出すと右手に吹きかけ、同じポケットから一緒に出したハンカチで入念に拭き取っていた。
「そのスプレーは何だ?」
相田は下を向いてせわしく手を動かしつつ、目だけを上に向けた。
「エタノールさ。まあ、僕が消毒用に常備しているアルコールの一種だよ」
言い終えると、相田は拭き終わったらしい右手を突き出してきた。
「君とは良い友人関係が築けそうだ。そうは思わないかい?」
相田はにこやかな笑顔でそう問いかけてきた。僕は右手を差し出すべきかどうか一瞬ためらったものの、結局は彼のペースに乗った。相田は堅く僕の手を握った。奇妙な感覚だった。どうして今まで話もしなかったクラスメイトと握手をしているのだろうか。恐らく僕のそんな考えが表情に出ていたせいだろう。相田は手を話すと、僕を気遣うようにこんなことを言った。
「まあ、要するに僕はロボットに対する君の考え方に同調しているんだよ。鮫島なんかとは違ってね、僕はリアリストなんだ。合理的でない鈍臭い考え方が大嫌いでね。その点君はすばらしいセンスを持っていると思うよ。
今朝は君の後ろで一部始終を拝聴させてもらったが、あの三村が封建的とはね。まったく、人に使われるロボットの分際でおかしな話さ。しかしこれがその通りに見えるのだから笑えるね。傑作だよ」
相田は腹を抱えて本当に笑い出した。声は押し殺しているようだが顔が真っ赤で、目頭には涙が溜まっていた。
そんな相田の様子に唖然とする僕を尻目に、彼は続けた。
「しかし君はロボットを所有しているね。名前は確か美恵子といったかな? どうだい、彼女との生活は。僕の君に対する評価が間違っていないとすれば、とても君は窮屈な生活を送っているんじゃないかと予想できるんだけどね」
「別に僕は美恵子さんを所有しているわけじゃない。それに、彼女は大切な家族だよ」
僕はとっさにそれだけ言うと、相田の表情は一変し、さもつまらないものでも見るような顔付きになった。彼は鼻から大きく息を吸い込み、また大きく息を吐き出す。ため息のようだった。
「家族ね、そうかい」
相田は鼻の下に握った左手の人差し指を当てると、少し俯き加減で続けた。
「まあ、なんでもいいがね。もっと素直になったらどうかと思うよ、僕は」
僕が眉をひそめると、相田は右手で僕の肩を軽く叩き、押し殺してはいるが、奇妙な笑い声を上げた。その卑猥な調子に、僕は不快感を抱かないわけにはいかなかった。
「それじゃあな、友達想いの石倉君」
相田は僕の耳元でそう呟くと歩を進め、教室の中に消えていった。僕はその足で階段へと向かう。腕時計に目をやると、昼休みの時間はまだ十五分ほど残っていた。僕は二段飛ばしで階段を駆け上がった。自分でも情けないと思える程すぐに息が上がってしまった僕は、犬のように何度も息をつきながら、屋上に備え付けられた鉄扉の丸いノブに手を伸ばした。
開いた瞬間、
美恵子さんの作った弁当は煮物を中心とした純和食で、油を多く使った揚げ物などは一つもなかった。それなのに僕はどうしようもなく胃のむかつきを感じる。下に向けて大きく口を開き、地の底から獣がうなるような声を絞り出す。それと共に唾液が糸を引いて、だらだらとだらしなく
体を反転させて青空を見上げる。美しい空を見ても、胃のむかつきが治まらない。僕は相田のことを今までよく知らなかったが、あれほどまでに薄気味悪い男だとは思わなかった。
確かに僕はロボットが当たり前のように溶け込んでいる現代社会に対して少なからず疑念を感じている。それは事実だ。しかし、相田はロボットと共生することを所有と呼び、ロボットに対して愛情を抱くこと、即ち家族として彼らを迎え入れること自体を否定したい様子だった。
相田は自らをリアリストと呼び、合理的でないものを嫌悪していた。彼の言う合理主義、それは一種の異常な潔癖症から来ているように思われた。そしてその背後には何か、もっと原始的な衝動がうごめいているようにも思えた。
それが僕をひどく不快にさせた。相田は僕のことを友達想いだと言って僕の考えそのものを
僕は屋上に敷かれたタイルを蹴り上げて踊り場へ向かう。同時にチャイムがけたたましい音を立てた。転びそうなほどの勢いで階段を駆け下りて教室に向かう。室内の後方に位置する横開きの戸を思い切り開け、滑り込むようにして着席する。即座に教壇を見ると、教師の姿はなかった。僕は急いで必要なノートと教科書を机の引き出しから取り出して、準備は整った。
しばらくすると、前方の戸が開き、生気の抜けたような顔の教師がまるで幽霊のようにのそのそと教壇に上がった。
「授業を始める」
教師の声と共に日直が起立と着席の号令を掛け、午後の授業は何の問題もなく始まったのである。
その日の放課後、僕は寄り道することもなく真っ直ぐに帰宅し、いつものように美恵子さんと二人で夕食を食べることとなった。
美恵子さんは僕の注文に答えて作ってくれたカレーライスをよそおい、僕が着席している椅子の前に隣接したテーブルの上に置いた。
「熱いですから気をつけて下さいね」
美恵子さんはそんなことを言ってから、僕の向かいに着席した。美恵子さんの前には食事がない。彼女はロボットであるため、食物を摂取する必要がなかった。就寝時にバッテリーの充電を行うことが彼女にとっては食事の代わりになる。
しかし美恵子さんは必ず僕の向かいに座り、食べる仕草を真似る。その行為は一見無意味に見えるが、人間に近づくことが目標の彼女のようなロボットにとっては大切なことだった。もっとも、それは僕にとっても必要だった。孤独に一人で飯を食べるよりも、この方が余程おいしく感じられる。美恵子さんのこうした行動は、そもそも設計上その点が考慮されてのことなのかもしれない。
「おいしいですか?」
「はい、勿論です」
僕は普段通りにそう答える。カレーライスはいつも同じ味ではあったが、その方がむしろ安心感があって食べやすかった。ただ毎回具材の大きさ、形まで同じなのは妙な感じではあったが。
僕はある程度食べ終わったところで、テーブルに置かれたリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を入れた。大型のモニターに映し出されたのは夕飯時のニュース番組だった。
画面の右端には「また失踪か?」と表示され、何やらマイクを持った若い男性リポーターが、神妙な面持ちで口を開いていた。
「……繁華街も近く、人通りも多かったことから、警察は目撃証言を元に、事件に使用された車のナンバーの特定を急いでいます」
僕は画面から目を離し、美恵子さんを見た。
「なんでしょうね」
「ロボットの失踪事件のようです」
そう言った美恵子さんは一瞬動きが止まったかと思うと、「この場合は拉致事件ですね」と言い直した。
僕はテレビの文字を思い出しながら、「それではなぜ『またも失踪か?』などというテロップが流されていたのでしょう?」と疑問を口にした。
「それは以前に起きた類似した事件が失踪という形で処理されているためです」
「以前にも起きていたのですか?」
「はい。私が検索した限りでは一年以上前から同様の現象が頻発していたようです」
「へえ、全然知りませんでした」
「はい。どの事件も報道されてはいませんから。ただ警視庁の方で公開されているデータベースには行方不明という形で記録が残されています」
「なぜもっと早い段階から報道されなかったのでしょうか?」
「それは、少々お待ち下さい」
美恵子さんは思考状態に入ったらしく、体の動きが止まった。それで僕も自分なりの推察を試みる。やはり人権が保障されているとはいえ、ロボットの扱いは人間の人権とはどこかが異なっているということだろうか? それでも遺族が団結して国やメディアに働きかけたらどうか。もしかすると、今回報道されたのはそうした行動に対しての結果なのかもしれない。
そう思った時、美恵子さんが突然口を開いたため、僕の思考はそこで中断された。僕は美恵子さんの発言に意識を集中させる。
「今調べてみたのですが、ほとんどの事件で捜査が打ち切られています。それが報道にも影響を与えているようです」
「どういうことですか?」
「全てのケースで行方不明者が見つかっていないため、詳細に調べますと、一定期間を過ぎた事件は自殺という形で処理されていることが判ります」
自殺? どうして自殺になるのだろうか。行方不明者を自殺という形で勝手に処理することが可能だとでもいうのだろうか。
「あの、まったく腑に落ちないんですが」
僕が自分でも分かるほど強張った声でそのように尋ねると、美恵子さんは僕と対照的に表情を緩めた。
「この間お話したことです」
「この間、ですか?」
僕は思い出すことができず、ただ
「私たちロボットには自害ができるということです」
「ああ」
ようやく僕は思い出した。それはあまり良い印象が残らない話だったため、無意識のうちに心の奥にしまい込んでいたらしい。
「でも、あれは人に危害を加えないために実行されるプログラムではなかったのですか?」
僕はおととい聞いたことを思い出しながらそのように質問する。美恵子さんはそんな僕を見て微笑した。
「同じことです。身の危険が迫った際にもこのプログラムは作動します。それは情報漏えいや転売目的に対する必要な措置なのです」
「転売? それはどういうことですか? 自害すると価値が下がるということですか?」
「はい。あくまでも最悪の場合ですが、AIの動作に関わる主要基盤の強奪を防ぐことができます。特に違法な複製の防止に大きな効果が期待できます」
どうしてプログラムが作動するだけで盗難や複製の防止になるのだろうか。初めて耳にする話を聞きながら、僕は嫌な胸騒ぎを覚えていた。
「記憶領域が消去されるだけではないのですか?」
美恵子さんは眉をひそめた。
「はい。言った通りの意味で、自害は自害なのです。死んだ人が
美恵子さんはまるで取扱説明書を読み上げるかのように、訊いたわけでもないのに自害方法の詳細を答えた。
「しかしそれでは体に爆弾をつけているようなものではないですか」
美恵子さんは首を傾げて疑問の声を上げた。
「爆発物等の他者に危害を加える危険物の搭載は禁止されておりますが、私がそのようにお答えしましたでしょうか?」
「いや、違います。もののたとえです」
「そうなのですか?」
「はい。それで話を戻しますが、よろしいですか?」
「はい」
美恵子さんが頷くのを確認した僕は、咳払いを一つしてから口を開いた。
「えっと、どうして美恵子さんは行方不明者が必ず自害したと判断するのですか?」
美恵子さんは真顔のまま、次のように答えた。
「いえ、私の判断ではなく、規格上の問題です。現在販売されているロボットは買主から離れて生活することを許されておりません。期間についてはメーカーごとによって異なりますが、最長でも一ヶ月以内には自害プログラムが作動する仕様になっております」
この話についても、僕はまったく知らなかった。それにしても人権が保障されているはずのロボットに対して、あまりにひどい仕打ちではないだろうか。
「それは、いくらなんでもあんまりではないですか?」
僕の質問に美恵子さんは眉一つ動かすことなく口を開いた。
「いえ、実際は一ヶ月でも長過ぎるくらいなのです。私たちは常に膨大な情報を持ち歩いています。それは歩く個人情報と言っても差し支えないものです。万が一主人から離れた私たちのデータが解析されれば取り返しのつかない事態に発展しかねません」
「しかし、前にも二重三重のプロテクトが施されていると言ったではないですか」
「前のお話と同じ結論ですが、そのための自害プログラムなのです。プロテクトに完璧と言えるものは存在しませんから」
僕は顔をしかめて睨むように美恵子さんを見た。心が苦しくて張り裂けそうだった。
「しかし、それではロボットの人権を保障するという観点に抵触してしまうのではないのですか?」
「はい。しかし安全対策における信頼はロボットビジネスにおける要なのです。私たちが商品である限り、安全対策以上に優先されるべき事項は存在し得ません」
「商品、ですか」
確かに言われてみればその通りだった。人権擁護に力を入れれば、自害プログラムの撤廃という形で社会は動くはずだ。しかしそうなれば個人情報漏洩の危険性は飛躍的に高まってしまう。果たして我々現代人がそのようなロボットの購入に踏み切るだろうか。売る側にとってみても、商品としての負の要素を取り払うことは絶対的に優先されることだろう。だから自害プログラムは必要だという結論になる。
だが、それでは人権はどうなるのか。所詮は口裏合わせの奇麗事に過ぎないということだろうか。
「それでは人権そのものが詭弁ではないですか?」
美恵子さんは僕の問いに対してすぐには答えず動きを止めた。恐らくはまた思考状態に入ったのだろう。美恵子さんはしばらく経ってから改めて僕を見据えると、まるで予想していないことを言った。
「人権ではないのです」
僕は目を見張った。人権ではない? そんな話は聞いたことがない。ロボットが販売開始された十年前からつい最近まで、人権が保障されているという趣旨の宣伝報道は繰り返されてきた。それが人権でないとすれば、僕が見てきた報道は全て誤報も甚だしいということになる。
「そんなはずがないでしょう? ロボットの人権が保障されているという事実はもはや常識ではないですか。人権が保障されているからこそ政府も販売を許可し、僕ら消費者も安心して購入できたのではなかったのですか?」
美恵子さんはゆっくりと頷くと顔を上げた。
「はい。確かに悟史さんの仰る情報に間違いはありません。ですが、考えてみてください。私たちロボットには心がありません。それは人に見られる自立した精神を持たないということです。そういった存在に対して人権を与えるということは不可能なのです」
僕は眉間にしわを寄せて俯いた。美恵子さんの言っていることが理解できない。それでは今までロボットに関して耳にしてきたことが根底から覆ってしまうのではないだろうか?
「美恵子さんの言われていることが僕にはよく分かりません。それではロボットの人権そのものが虚偽だとでも言うのですか?」
美恵子さんは僕から目を外して下を向くと突然手を伸ばし、テーブルの上に投げ出されていた僕の右手首を掴んだ。
「なんです?」
僕が驚きのあまり声を上げると、美恵子さんは顔を上げた。
「血圧・心拍数共に上昇が著しいです。もうお休みになられた方がよろしいと思われるのですが」
「美恵子さん、質問に答えてください」
僕は自分が興奮していることを自覚していたが、敢えてそのことには触れず、美恵子さんに質問の答えを促した。第一このままでは気になって眠りに就くどころではないだろう。
美恵子さんは困った顔をしていたが、僕の右手を離すと自分の両手を膝の上に置き、姿勢を正すと真っ直ぐ前を向いた。
「悟史さんは誤解をなさっているのです」
美恵子さんは困ったように眉根を寄せたまま、そんなことを言った。
「誤解、ですか?」
「はい。悟史さんが仰るロボットに対する人権の論拠となっているのは、恐らく十年前に制定された『特殊機械権利法』のことであると思われます」
「はあ」
僕は間の抜けたような返事をした。法律に疎い僕にはよく分からなかった。
「特殊機械とは私たちロボットのことを指し、権利というのは一定の条件下における公的保護という意味合いが確かにあります。しかし誤った解釈を生んでしまった原因として考えられるのは、この法律の主旨があくまでも商業上の取り決めに終始してきたのに、それを周知しなかったためです。
ロボットは人の生活に密接に関わる、いわば特殊な商品です。そのような見慣れない商品を市場に投入する場合、そのための法整備は必須となります。危険は一切なく、安全であり、なおかつ便利である。消費者に対しては限定的な保護事項を商業上の理由から人権という形に言葉を置き換えてアピールする。その結果が悟史さんの仰るような誤解に繋がっているのではないかと思われます。
確かに悟史さんの仰るように一部の権利はロボットに対しても同じように適用されています。しかしそれも私たちロボットのためを考えて適用されているのではなく、あくまでもロボットを扱う消費者に向けて適用されているに過ぎません。そこに人に与えられた人権との決定的な差異があります」
矢継ぎ早に回答する美恵子さんに対して僕の理解は追いつかず、「人と違う?」と自分でも訳が分からないことを呟いてしまった。美恵子さんはそれを返答と誤解したのか、再度口を開いた。
「はい。そしてこれは先程も申し上げましたように差別的な意図として捉えるべきではなく、私たちロボットには心がないという根拠に基づいていることを認識しなくてはなりません。
ですから、人と違うからといって単純に人権侵害だとお考えになるのは間違いです。人権とはあくまでも主体的に行動できる存在に与えられる権利です。それはそもそも私たちには該当しません。これは憲法十四条の『法の下の平等』の解釈で言うところの合理的な差別は認められるという発想に起因しています。例えば『男女雇用機会均等法』に見られるような男女の平等という概念であっても、男女という垣根を完全に越えてしまうわけではありません。なぜならそこには生物学的な構造上の差異が認められるためです。雇用によっては妊娠中の女性に対して育児休暇を要するなどの合理的な差別が必要となるでしょう。
ロボットの場合も同じことです。ロボットと人との差異を考慮せずに平等な法律を制定すると、かえってそれが不都合になってしまいます。例えば述べるまでもないことですが、自己が存在しない私たちに物事の責任を負わせることはできないということです。もしそれができてしまっては責任の所在がおかしくなってしまいます。ロボットが何らかの意思を示した場合、それは例外なく第三者の指示によるものなのです。それをロボットの意思であると定義した場合、責任の所在は見えなくなり、かえって社会は不安定なものとなります」
美恵子さんは口を噤んだ。言うべきことは全て言い尽くしたということだろう。僕はあまりに話が難しかったせいか、どっと疲労感を覚え、反論する気力も起きなくなってしまった。いや、正確に言うならば、どう反論したらいいのか分からなくなったというべきかも知れない。
結局、美恵子さんの言っていたことではっきり分かったのは、どうやらロボットの人権は僕や他の多くの人々が思っていたものとは大分違うらしいということだ。僕らはロボットを売り込むための宣伝戦略にまんまと騙されてロボットを購入し、失踪が起きれば事実上の泣き寝入り状態になるというのが現実らしい。いくら商業上の安全対策から定められたこととはいえ、ぞんざいに扱われるロボットの命(こう言うのが適当かどうかは悩むが……)に納得できない遺族(これも持ち主と言うべきか?)も多いだろう。しかしそれが現実なのだ。国は人と同じようにロボットを守ってはくれない。そう考えてみると、僕は鮫島が不憫に思えて仕方なかった。鮫島は律ちゃんを守り通すという決意を僕に語っていたが、果たしてそれは彼自身の力だけでどれほど可能なのだろうか。
僕は何気なく後ろに体を向けて、美恵子さんの背中を眺める。美恵子さんはいつの間にか洗い物を始めていた。波打つ水の音と蛇口からの直線的な流水音、それに陶器のこすれ合う甲高い音が複雑な不協和音を奏でて僕の耳を打った。
僕は俯いてため息を一つ吐き、片手で頭を掴むようにして支えた。どうにも気が重かった。僕には美恵子さんを守れるのだろうか。まるで見当がつかない。
そういえば相田は自分のことをリアリストだなんて大仰なことを言っていたが、あながち冗談でもなかったようだ。確かに彼の持つロボットを所有するという認識は、この国の現行法に沿ったものなのだから正しい認識と言えるだろう。つまり間違っていたのは、ロボットを家族だと捉えてきた僕や鮫島を含む一般の人々の認識
の方だったのだ。相田は一切の世論やプロパガンダに動じることなく、自らの考えを頑なに持ち続けたのだと言える。もっとも、それが解ったところで、僕が相田に好意を抱くことはない。美恵子さんは僕にとってやはり家族だ。たとえそれが感情論に過ぎない揶揄されようとも、人間はある一面において感情で動く動物だと言い返したくなる。それを冷たく理屈だけで処理する相田に対して、やはり生理的な不快感は消えなかった。
僕は立ち上がって洗面所に向かった。コップに水を注ぎ、歯ブラシを取り出す。美恵子さんの言う通り,今日はもう眠ろう。そう考えつつ、ふと正面の鏡台から自分の顔を覗いた僕は愕然とした。あたかもそれはしわだらけのやつれた老人のような顔付きだったからだ。実際はしわなんてない。第一しわのできるような年齢でもないわけだが、なぜだか僕はその時そう感じてぎょっとした。疲れているのだろう。動揺する心持ちを振り払いつつ、僕は口の中に歯ブラシを突っ込んだ。
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