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父がメイドを買ってきたのは三年前の夏のことだった。意気揚々と帰宅した父のほくほくとした笑顔を今でも覚えている。
「悟史、買ってきたぞ」
僕は確かその時好きなアニメを視聴していたので、振り向かずに気のない返事で「何が?」とか言ったと思う。
「お前の母さんになる人だ」
僕は自分の耳を疑って、その時初めて父さんを見た。満面の笑みを浮かべた父さん、そしてその隣には、メイド服姿の女の子がいた。年は僕と大体同じくらいだろうか。肩まで伸びたロングヘアがきれいだった。彼女が不意に笑いかけたので、僕は赤面して下を向いた。なんてきれいな人なのだろうか。それはこれまで僕が見たことのない無垢な微笑だった。
そんな僕の様子を見て、父は笑いながら「かわいいだろう。今日店で見かけて衝動買いしちまったんだ。ほら、家は親子二人きりの家庭だし、彼女がいてくれれば、きっと家も明るくなるぞ」と誇らしげに言った。
きれいな女の子は父を見ながら笑っていた。母さんが死んでから六年あまりが過ぎた。寂しさには慣れたつもりだったが、父さんが帰ってくるまでの間、長い夜の時間は正直苦痛だった。そんな時はいつもテレビを見たり、テレビゲームや漫画で時間を潰していた。
あの時の僕は、彼女が人間でないなどとは知る由もなかった。いや、それまでの僕は、日本社会にいつの間にか人間でないものが溶け込んでいただなんて、考えてもいないことだったのだ。
そういえば僕の初恋の女の子は幼稚園時代の大塚さんだった。僕は彼女が好きだったので、彼女の所作を見逃さないようにしていた。
ある日大塚さんは幼稚園を休んだ。日曜日を挟んだ週明けの月曜日に彼女は登園を再開したようで、風邪かと思って心配していた僕はほっとして胸を撫で下ろした。
他の皆は気がつかなかったのだが、その時からの彼女の印象は違っていた。何より頭ひとつ分くらい低かった彼女の身長が、突然僕と同じくらいにまで伸びていたのには驚いた。口調も所作も大塚さんそのものだった。でも何かが違う。
確か僕はその時、校庭で談笑していた先生と母にその旨を伝えた。二人は顔を見合わせて、「成長期だから」とか言っていたと思う。でも子供なりに、二人がどこかぎこちない態度だと思っていた。
多分、今なら解る。大塚さんは人間ではなかったのだ。僕の初恋の人は人間ではなかった。
「悟史さん、起きて下さい、悟史さん」
メイドロボットの美恵子さんが僕の体を優しく揺すり、僕はまだ眠い目蓋を少しずつ開いた。
「おはよう」
「おはようございます。朝食、できていますよ」
のそのそと這い上がってリビングに向かうと、父は食後のコーヒーを飲んでいた。
「なんだ、だらしないぞ、悟史。朝はピシッとしろ」
父はそんなことを言ってから、美恵子さんに上着を着せてもらって出かけて行った。
僕はテーブルを前に着席して、朝日を背中に浴びながら、開ききらない目蓋で、美恵子さんの焼いたトーストをほおばった。その時向かいに座った美恵子さんの格好を見て僕は言った。
「やっぱり今日も行くんですか」
「はい、お嫌でしょうか?」
美恵子さんはピンクのエプロンの下にセーラー服を着込んでいた。そう、彼女も僕の通う中学校の生徒だった。
「嫌ってわけじゃないけど、なんかさ。授業内容のデータだったら家に居ても入れられるんじゃないの?」
僕は少し皮肉を込めてそう言った。でも美恵子さんは「学校生活の思い出はデータの中に含まれていませんよ」と柔らかな笑顔で即答した。
「まあ、そうだけどさ」
僕は返答に窮してあさっての方を向く。どうしようもないことだ。これは法律で決まっていることなのだから。
美恵子さんの言う通り、学校生活の思い出はとても大事なものらしい。そこで得られるデータ量は、義務教育データの比ではない。返事の仕方、挨拶のタイミング、場の雰囲気に合わせた会話とその手順など、人間である僕が気にもしないようなことで膨大なデータが必要になる。それは彼女のようなロボットが人間らしく生きていくための、いわば通過儀礼のようなものなのだ。
「それじゃ、そろそろ行きますか」
僕はバンドの付いた肩掛けの通学用鞄を右肩にかけると美恵子さんを促した。
「はい、少しお待ちくださいね」
美恵子さんは急いで後片付けを済ませ、玄関で待っていた僕を一分も待たせなかった。ドアを施錠し、二棟あるマンションを繋ぐ渡り廊下を伝ってエレベーターホールへ向かう。
「あの、もう少し離れてくれませんか」
エレベーターに乗り込んだ僕らは、二人だけとはいえ、あまりに美恵子さんが僕に寄り添っているのが気になった。
「お嫌ですか?」
美恵子さんは呆けた表情で僕を見上げる。僕が渋い顔をしているのを見て、彼女は僕から数センチ離れた。美恵子さんは納得できないといった表情ではあったけれども、僕はこれでいいと思った。
実のところ、僕は初恋のトラウマも含め、ロボットと仲良くするのには違和感を覚えていた。出会った頃の印象と少しも変わらない、彼女はあの時と同じ笑顔で笑う。それが少し気味が悪いと思い始めていた。
学校に着くと、友人の鮫島が、昨日と同じ話題を開口一番にぶつけてきた。
「おい、聞いてくれよ。なあ、昨日も律が俺を見て笑ってくれたんだよ」
律というのは便宜上四歳年下にあたる鮫島の妹のことだ。彼女もまた、人間ではない。
「そうか、良かったな」
僕は適当にあしらうような返事を返して、僕らを少し後方で見ている美恵子さんに視線を移した。文字通りにこにこと笑っている。今もこのやり取りをすさまじい速さで「1」と「0」の羅列したデータに変えて保存しているのだろう。そう思うと少し気が滅入った。
授業が始まって、しかめ面の数学教師が教壇に立った。何の気なしに頬杖を突いた僕は、右斜め前方に着席する美恵子さんを眺める。
美恵子さんは実に正確な授業内容をノートに書写する。一週間程前にそのノートを見せてもらったことがあるのだが、まるで印刷物のようにきれいな楷書だった。美恵子さんはその時、「まだ聞き取れないことも多いですよ」と言っていたが、僕はこのノートさえあれば教科書はいらないと思った。
見ていると分かるのだが、美恵子さんは書き取りの最中、たまに手を止める。それは大抵の場合、教師が黒板を使わずに口頭で話している時だった。
僕ら人間と違い、ロボットは聞き取りの解釈が困難なのだろう。僕は授業の方に神経を向けず、他の生徒たちを見やる。他の生徒との違いは明白だ。人間は書写の最中、突然手を止めたりはしない。そう考えてみると、内のクラスには六人程のロボットが混じっているようだった。
「石倉、この問題を解いてみろ」
教壇に立った教師が、高い位置から蔑むように僕を指名する。黒板に問いらしきものは見当たらない。どうやら教科書に書かれた文章題か何かのようだ。
「分かりません」
正直に答えると、教師は口をへの字に曲げて目を細めた。
「では相田」
指名された男子生徒はさも当然とばかりに教壇へ登ると、問題の式と答えを書き込んでいた。教師は赤いチョークで大きな円を描き、再度僕を睨むように見た。その表情は人としての品性に欠ける気がした。
余談だが、相田はロボットではない。正真正銘の人間だ。大抵の教師はロボットを指名するといった愚行は犯さない。プライドの高い彼らにとって、それは面白いことにならないからだ。
ロボットと人間の公平な扱いに関しては、確か僕が小さい頃に法律ができていて、今や常識となっている。しかしそれもあくまで前提に過ぎないのだろう。能力が根本的に公平でないため、教師は自然とロボットを腫れ物でも見るように扱う。彼らにとってロボットはあまり良い存在ではないようだ。
近頃ではロボットの教師に関しても政府は検討しているらしいが、それは現場を知らない人間の空論だと思う。教職員会議の日程を誤って教えるとか、恐らく何らかの陰湿ないじめくらいあることは容易に想像が付く。優秀なロボットは生徒にしろ教師にしろ模範的で完璧な行動を取るだろう。しかし人間とは不思議なもので、その見本のような完璧な振る舞いを名誉毀損だと解釈するのだ。屈折も甚だしい。
午前の授業が終わって、僕は屋上に上がった。手すりに体を預けて空を見上げる。雲一つない快晴だった。
昼食を取る気分にはなれなかったので、美恵子さんにはクラスの女子と飯を食べてもらうことにした。彼女達もそれには賛成してくれたので、僕は今、全校生徒が昼飯を食べることに集中している時間に、こんなところで空を見上げている。
気分が晴れない。目を閉じると苦々しい顔で僕を見る教師の表情が嫌でも頭に浮かんだ。いい加減ガキでもあるまいし、そんなこといちいち気にするな、もう一人の自分が心の中で僕を慰める。しかし僕はそんな声に答えることができない。頭では分かっていても心が附いていかない。そんな自分を滑稽に思って、僕は脆弱な自分を空に向けてせせら笑った。
その時、機械的なノイズが耳の中でこだました。カリカリカリカリカリ、耳の中で嫌な音が頭を刺激する。
苛立った僕は音のする方を睨んだ。すると屋上出入り口付近の陰で三人の男子生徒が耳の穴にケーブルを差し込んで立っているのが見えた。僕は彼らに大声で「そこで何やってんだ!」と怒鳴った。彼らは僕に訝しげな視線を向け、「今、データのやり取りをしているんだ。悪いが話しかけないでくれ」と答えた。
僕はなお収まらず、「何でこんなところでやってんだ!」と叫んだ。すると、彼らは「ここが静かで気温も低いからですよ。データの送受信はエラーが出やすいのです」と言った。
それは、そんなことはあなたも知っているでしょう? と言わんばかりの態度だった。
(お前たちの存在がノイズなんだ)
僕はいきり立って彼らのケーブルを掴んで抜いた。すると、カリカリという嫌なノイズは消え去ったが、代わりに彼ら三人から非難の声を浴びた。
「何をするんだ。授業データの一部が消失したじゃないか」
「うるさいな、データのやり取りだったら便所でやってろ」
「何だと! 僕たちをロボットだと思って愚弄する気か」
「愚弄だって? まだ自覚がないなんてとんだお笑い種だな。ロボット君たちは純情だから気がつかないのかもしれないが、みんな君らを馬鹿にしてるぜ」
そう言い終った直後、横合いからわき腹に吐き気のするような痛みが走った。右にいた丸刈り頭のロボットが殴ってきたらしい。
僕は痛みに耐え切れず、無様に転げ回った。口からはだらしなくよだれが垂れ、自分でも訳が解らない唸り声を上げていた。肋骨が折れたかもしれない。
「今のはエラー『3175』を実行された際に発動する報復行為『21』だ。今後は気を付けたまえ」
丸刈りは顔に似合わず偉そうな口調で僕を見下ろすと、踊り場へ向かって階下へと降りていくようだった。二人も後に続いたのか、急いで階段を下りる足音が聞こえた。
階下へ通じる入り口の陰になったタイルは冷たく、視点を彷徨わせていた僕の目は、いつの間にか涙で霞んでいた。
目を開くと、そこには美恵子さんの顔があった。
「お目覚めですか」
僕はおぼろげな感覚のまま頷くと、美恵子さんは微笑した。僕は美恵子さんの顔が近すぎることが気になって目を逸らすと、僕の頭が彼女の膝の上だったことが分かり、慌てて起き上がろうとした。しかしわき腹に激痛が走ったため、その行為は功を奏さなかった。
「横になっていなくてはいけませんよ」
「ベッドのほうが落ち着くのだけど」
「そうなのですか?」
僕は軽く頷くと、美恵子さんはゆっくりと僕の頭を床に下ろし、手を僕の背中と膝関節に入れて、軽々と持ち上げた。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそお気づきになれなくて申し訳ありませんでした。
父の趣味の悪さに苦笑しているうちに、僕の体はベッドの上に下ろされた。下ろされてみて気がついたことだが、確かに父の意見にも一理あると感じた。美恵子さんの膝は人間で言うところの膝枕と比べても遜色ないほどやわらかい肌の質感だったからだ。もし彼女に遠慮しなかったならば、僕も父と同じ選択をしているかもしれない。
「今何時だろう」
白い天井を眺めながらつぶやくと、「十一時五十八分四十九秒です」と美恵子さんは即答した。
「それじゃあ父さんはもう寝たの?」
「はい。十一時二十分二十一秒前後に自室へ向かわれました」
それでようやく合点がいった。父は膝枕をしておくよう美恵子さんに命じたのだろう。
「それよりお食事はどうなさいましょうか」
言われてひどく腹が空いていることに気がついた。そういえば僕は昼飯を抜いていた。胃が締め付けられるような感覚を覚える。
「食べる。昼飯を食べなかったから、ひどい状態だ」
「それはいけません。すぐに仕度しますね」
そう言って立ち上がりかけた美恵子さんの裾を引いて、僕は半ば無意識に彼女を呼び止めた。
「今日のことは、何も聞かないのですか?」
「お食事を摂る方が先です」
美恵子さんは微笑して、僕の手首を片方の手でゆっくり下ろすと、膝を立てて台所へ向かった。
僕は首を白い天井の見える位置に戻すと、目を閉じて思考を巡らせた。僕は今、自室のベッドに横たわっている。考えてみればこれは妙なことだった。あの時、丸刈り頭のロボットに殴られてから今まで、どうやら僕は意識を失っていたらしい。僕をここまで運んでくれたのは恐らく美恵子さんだろう。彼女は今日のことをどれだけ知っているのだろうか。僕があの時発した言葉は、ロボットにとって見れば愚弄されていると思われても仕方のない発言だった。美恵子さんがそのことを知っているとすれば、それは僕にとってあまり好ましいことではなかった。
どれほど目を閉じてそうしていただろう。しばらくすると、米を蒸らした甘い香りが鼻腔を突いた。
「悟史さん、お食事できましたよ。あら? 眠ってしまわれたのですか」
「起きてるよ」
僕は目を開いて台所の方へ首を向けながら、美恵子さんに笑いかけた。そしてわき腹の痛みを確認しながらも、少しずつ上体を起こしていった。
「横になっていて下さい」
すっかり上体を起こした僕は美恵子さんを見据えた。疼くような痛みを感じはするものの、耐えられないほどではない。
「肋骨は折られていないんでしょう?」
「はい、確かに折られはしなかったようです。しかし――」
「なら大丈夫だよ」
不安げな表情を浮かべる美恵子さんに、僕は考えられる限りの元気な声で答えた。
「それより早く食べよう」
「はい、今お持ちしますね」
僕は盆に載せられた陶器の器を盆ごと膝の上で受け取った。中にはとろけた白米と梅干が真ん中に据えられている。典型的なかゆだった。
「夜も遅いですし、お体のことも考えて、消化の良いおかゆにしました」
美恵子さんはそう言って僕を見つめた。僕がおいしく食べるかどうかが気になるのは分かるが、あまり見られていると食べづらい。
「どうでしょう」
不安げな美恵子さんに見つめられながら、僕はスプーンでしゃくった最初の一口をほおばった。とろけた白米の甘みが口の中一杯に拡がった。
「うん、おいしいよ」
僕が美恵子さんを見てそう答えると、彼女は胸を撫で下ろすような態度を示した。これもプログラムなのだろうが、それはあまりに人間らしい仕草だった。
「あの、それより少し離れてくれませんか。見られていると食べづらいので」
美恵子さんは面食らったような表情を浮かべて、こちらに傾けていた上体を起こすと正座になった。
「すみません、味のほうが気になってしまいましたから。おかゆは初めてで、お口に合うかどうかが分からなかったのです」
「おいしいよ」
「ありがとうございます」
僕は梅干と一緒にもう一口ほおばった。甘みと酸味のコントラストが絶妙な味わいを醸し出していると思った。
ひと通り食べ終えると、切り出したのは僕の方だった。
「それで、美恵子さんは今日のことをどれくらい知っているの?」
「ほとんど全てだと思います」
そういった答えを聞いてやはりと思った。あの三人のロボットたちは美恵子さんに事情を説明するためにデータのコピーを渡したのだろう。
「ライブ映像を貰ったの?」
「はい、そうです」
美恵子さんは眉ひとつ動かさず、正座したままそう答えた。それで僕は思い切って訊いてみることにした。
「そのことで僕を責めないのですか?」
美恵子さんは首を横に振ってから口を開いた。
「私には責めることなんてありません。悟史さんが神経質だということはデータにもたくさん記載されているのでよく知っているからです。あのお三方にもそのことはお伝えしておきました。ですから悟史さんにはもう危害を加えることもないでしょう」
僕はそれを聞いて正直驚いた。美恵子さんは僕が神経質であると解釈していたからだ。そこまで考察が進んでいるとは考えていなかった。
「でも、僕の発言は気にならないの?」
美恵子さんはいつものように優しく微笑を浮かべ、「気にならないと言ったら勿論嘘になります。でも悟史さんは興奮なさるといつも心にもないことを口になさってしまいますから」と答えた。
「全部嘘って訳じゃないよ。ロボットと僕らの関係がとても危ういのは本当のことだよ」
僕が美恵子さんを見つめながらそう言うと、彼女は首を
「そうなのですか?」
僕が頷くと、美恵子さんはさらに困ったように眉を寄せた。
「申し訳御座いません。私には悟史さんがどうしてあのような発言をなさったのか、あまり理解できているとは言えません」
「うん、そうだろうね」
僕は食べ終わった盆を床に下ろした。その際わき腹に鋭い痛みが走ったが、何とか表情には出さなかったので、美恵子さんは反応を示さなかった。上体を起こす前に美恵子さんを仰ぎ見ると、彼女は何やら思考を巡らせているようだった。
「では、悟史さんは私たちロボットが馬鹿にされていると仰るのですか」
僕は無言で頷く。
「なぜですか? 私たちは人との能力差が出ないようにプログラムされています。そのことを悟史さんが知らないとは思えません」
僕はもう一度頷いて、次のように答えた。
「うん、そうだろうね。勿論僕は君らが馬鹿でないことを知っている。でもね、知能だけでは人と同じ心があるとは言えないんだよ。表向きは同じでも、心の中では差別している。そんな関係があるんじゃないかと思うんだ」
美恵子さんは少しも納得した表情を浮かべず、「分かりません」と答えた。
「能力差がないというのに差別するということがあるのでしょうか?」
「ある」
「分かりません」
美恵子さんは再度そう答えた。美恵子さんにどう説明したところで、彼女が僕の言わんとしていることを理解することはない。僕はそのことをよく知っていた。ロボットである美恵子さんには人を疑うというプログラムがない。しかし僕は心のどこかで、美恵子さんがより人間らしい答えを導き出すのではないかという不毛な期待を寄せていた。
僕は話題を変えることにした。
「僕をここまで運んできてくれたのは美恵子さんですか?」
「はい、そうです」
美恵子さんは僕を見据えながら即答した。
「重かったでしょう?」
僕はくだらない冗談を言った。どのような返答が返ってくるのかは想像するまでもないというのに。
「そんなことはなかったです。三割ほどの力しか使用しませんでした」
僕はベッドの横に備え付けてある棚に手を伸ばし、中からテレビのリモコンを取り出した。これ以上美恵子さんと話すのも気が咎めたせいかもしれない。僕はリモコンの電源ボタンを押して、画面に映像が映し出される様を眺めた。画面は数秒ほどで実像を作り出した。
それは海外ニュースの一場面らしかった。鮮明さに欠ける映像が室内を映し出している。天井に近い位置からの視点は、監視カメラ特有の俯瞰だった。
室内には細長いカウンターを挟んで、手を上げた三人の男女が奥に見え、銃を突きつける無骨な男が手前にいた。男は何かつぶやくと、銃の引き金を引いたようだった。銃声が連続して鳴り響くと共に、映像には強烈なモザイクがかかり、室内の奥を確認することはできなかった。ただどういったことが行われたかは容易に想像がつく。実に衝撃的な映像だった。
僕が呆気にとられて画面に釘付けになっていると、美恵子さんが「この方は人間ではありませんね」と正確に分析した答えを述べた。それは僕に冷たい印象を与える発言だった。
「どういうことですか」
僕は美恵子さんに向き直るとそう訊いた。すると、美恵子さんは正座をした足を僕の方に向け、僕を見据えると、怒ったような鋭い目付きで次のように言った。
「私と同じロボットだということです。手つきで分かります。銃の向きを計算して動かしていましたから。ただ、このような事態は通常では考えられません。私たちロボットは人に銃を突きつけることなどできないようプログラムが組まれているからです」
「ハッキングされて意識が乗っ取られたということではないの?」
「それは違います。私たちのAIはそのようなことが発生しないよう、二重三重のプロテクトが施されています。もし仮に乗っ取られるようなことがあったとしても、私たちには人を殺傷することがないようにと物理的なプログラムも組まれています」
「物理的って?」
僕は美恵子さんが具体的に述べないのが気になってそう尋ねた。美恵子さんはさらに目を細めて、次のように即答した
「自害するということです」
僕はそれを聞いて、美恵子さんから視線を外した。あまりに心苦しいことを冷静に話す美恵子さんを直視できなかった。
「AIを別のものに取り換えたとか?」
言っている自分でも馬鹿な発言だと苦笑しながら、僕はそう言った。テレビに目を向けると、ニュースはいつの間にかコマーシャルに切り換わっていて、有名な女優(僕は詳しくないので名前が分からない)が、冷酒の缶を頬に当てていた。
「それはもっと考えられません。第一、犯罪組織が独自にAIを開発するなどあり得ないのです。それには私たちと同一規格の詳細な設計図、莫大な資金源とロボット開発の設備を備えた大規模な施設、それにAIの開発に携わった優秀な人材の協力が不可欠となるでしょう」
美恵子さんはそう言った直後、突然体の動きを止めた。表情も固まっているため、これは思考中なのだと分かった。美恵子さんは思考の度合いにもよるが、一時的に全ての処理を思考に回すため、このように動きが止まることがある。
十秒ほど経過すると、美恵子さんに表情が戻り、口が開いた。
「すみません、可能性がゼロではないです。訂正します。軍事用をベースとしたAIの開発構想は、私たちの構想と同時期に、同一規格として存在していました。私たちとは違って、直接プログラムを送り込むことを主眼にしたマンマシン・インターフェイスが採用され、狙撃、対術などの戦闘プログラムに特化した作りです。私の記憶領域にはこのプロジェクトは実用に至らず凍結したとありますが、近年再開されたとの情報が、非公式ですがあります」
「再開して実用に耐え得るAIが完成したということですか?」
「はい。私の検索できる情報網からでは、完成したという情報までは見つかりませんでしたが、そのように解釈して戴いて結構です。推論の域は出ませんが、可能性としては十分に考えられるからです。ただ、一介の犯罪組織が入手できるのかという点に関しては疑問の余地が残ります」
美恵子さんはそう言い終えるとテレビに顔を向けた。僕も何気なくテレビに目を移すと、もうニュースは別のものに変わっていた。先程の事件は単なる強盗殺人事件として片付けられてしまったらしい。
僕は急な眠気を感じたので、テレビの電源を消すと、美恵子さんに眠りたい旨を伝えた。
「はい、それが良いと思います」
土鍋を盆ごと美恵子さんに渡すと、僕はそのまま仰向けになった。「おやすみなさい」という美恵子さんの声と共に部屋の明かりは消え、ドアの閉まる音がかすかに響いた。
真っ暗な天井は、そこに天井があることさえ忘れそうになるほど、ただ黒いだけだった。僕は静かに目を閉じる。するとそこにも同じ黒い空間が視界に拡がっていた。目を
社会にいつの間にか浸透したロボットたち、彼らとの距離間もまた近いようでいて遠い。僕にはそんな風に思えた。僕らはロボットたちを閉じられた視界の中でしか認識できず、その距離間が縮まることはない。なぜなら、心の通い合いの中でしか信頼関係は築けないからだ。僕らはそのことを心の片隅で分かっているのではないだろうか。心のない彼らを、僕らは「見ている」と言えるのか。それは僕らの一方的な思い込みで、とても危うい綱渡りのような関係性でしかないのではなかろうか。
僕はそこで思考を中断した。これ以上思考を巡らせていては、いつまでも眠りにつけない。眠ることだけに意識を集中させ、僕はようやく深い眠りの中へと自らを没入させていった。
次の日は、幸運にも祝日だった。僕は痛む体を無理に起こす必要もなく、正午過ぎまでだ惰眠を
僕はうっすらと目を開けて、ベッドと一体化した備え付けの目覚まし時計を見やる。時刻は既に一時を過ぎてしまっていた。さすがにこれ以上眠るのもだらしがない。僕はわき腹が痛むことを忘れていたため、いつものように体を起き上がらせようとして失敗した。あまりの痛みに驚いてベッドに体を沈める。体に鈍い痙攣を覚え、額にはじっとりと嫌な冷や汗が浮かんでいた。
僕は自力で起き上がることを諦め、美恵子さんを呼ぶことにした。
「美恵子さん」
寝転がったままではたいした声も出なかったが、美恵子さんはすぐに来てくれた。
「おはようございます、美恵子さん」
「おはようございます、悟史さん。よく眠っていらっしゃいましたね」
僕は首を横に傾けて美恵子さんを眺めた。彼女はいつもと同じように気持ちのいい笑顔で僕を迎えてくれた。美恵子さんの開けたドアからは光が入り込み、僕は目を細めた。
「起き上がれないので、手伝って欲しいのですが」
「はい、分かりました」
美恵子さんは僕の頭と背中に手を添え、ゆっくりと上体を起こそうとした。しかし僕が声を上げ、苦渋の表情を浮かべたせいか、美恵子さんは上体を起こす行為を止め、僕の体をベッドに沈めた。美恵子さんは首を傾げ、何か思案しているような素振りを見せた。
「おかしいですね。悟史さんの傷はそれほど深いものではないはずなのです。ともかく湿布を持ってきますね」
美恵子さんが部屋を出て行って、しばらく隣室で物音がしたかと思うと、またすぐに湿布を持って戻ってきた。手早く湿布をビニールシートと二枚に分離させると僕の上着をたくし上げ、慣れた手つきでわき腹に湿布を貼った。湿布は冷たく、僕の体はわずかに震えた。
「大丈夫ですか?」
美恵子さんは心配そうな目で僕を見る。
「少し冷たかっただけだよ」
僕はそう答えて笑いかけた。
しばらく横になっていると湿布がわき腹を冷やし、痛みが引いていった。僕は難なく上体を起こし、父の部屋で掃除機をかけている美恵子さんのところへ行った。美恵子さんは僕を見ると掃除機を止めた。
「もう大丈夫みたいです」
僕は背筋を伸ばして立って見せた。
「そうですね。先程は私の考えが至らず、申し訳御座いませんでした。正午過ぎには痛みがほとんど引いているものと思われたのですが、予測が外れてしまったようです」
美恵子さんは深々と頭を下げた。
「別に気にしてないよ」
僕はそう言いつつ、ベランダ側の窓から屋外を見た。日はそろそろ暮れかけていて、西日が美恵子さんの背中に当たっていた。
美恵子さんは掃除機を壁際に立て掛けてからエプロンを外し、脇に置かれたバッグを拾い上げていた。どこかに出かけるのだろうか。
「出かけるのですか?」
美恵子さんははにかみながら、「はい、近くのスーパーまでお夕飯のお買い物です」と言った。
「附いて行ってもいいですか?」
僕はおもむろにそう尋ねた。美恵子さんは声を潜めて、「ご無理をなさってはお体に障ります」と言ったが、僕はむしろ体を動かしたかった。
「気分転換になりましから。一日中家にいては体がなまってしまいます」
「そうなのですか? 悟史さんがそう仰るのでしたら一緒に参りましょうか」
「はい」
僕は自室に戻ると手早く着替えを済ませ、上着を抱えて台所へ向かった。一房吊るしてあったバナナを一つもぎ取って一息に食べ、麦茶をコップになみなみと注いで一気に飲み干す。そのまま洗面所へ向かって急いで石鹸を取って顔を洗った。顔に水が当たると気が引き締まるようでいて爽快な心地になる。清められているという形容が適当かもしれない。
壁に掛けられたタオルで顔を拭き、玄関口で靴を突っかけてからドアを開けた。通路には美恵子さんの姿があった。
「すみません、待ちましたか?」
美恵子さんは微笑みながら首を振り、「それでは参りましょう」と一声掛けてから歩き始めた。
僕は突っかけたままだった靴をかかとに入れながら後に続き、エレベーターの前で止まった。僕らは並んでエレベーターを待ち、並んで歩道を歩いていった。夕日が僕らを照らし、僕は過去へと想いを馳せる。
小さな僕にとって母の存在は大きかった。歩幅の狭い僕の足はいつもは母を捉えていたが、母に追いつくことはなかった。この歩道も母とよく歩いた。僕が母に追いつける年齢になった時、母はもういなかった。美恵子さんが母の代わりとは思えないけれども、今のように錯覚を覚えることはある。死という黒い
美恵子さんと並んで歩けることに自らの成長を感じるものの、そのような感情を僕は胸の内に留めることしかできなかった。
「悟史」
突然声を掛けられて、僕は現実に呼び戻された。それはよく知っている声、友人の鮫島の声だった。僕は顔を上げ、逆光の中に鮫島と、小さな子供の姿を捉えた。
「わーい、お姉ちゃんだー!」
女の子は僕の横を走って通り過ぎ、美恵子さんの胸元に勢いよく飛び込んでいた。少女は頭に玉の付いたゴムバンドを左右に付けて髪を分け、白のラインが入ったピンクのジャンパーに手袋といった厚ぼったい格好をしていた。
この子が鮫島の「お気に入り」だった。
「よお」
鮫島の声が耳元で聞こえ、僕は慌てて視線を正面に戻した。
「お前たちはどこに行くんだ?」
鮫島は僕と美恵子さんが並んで歩いていたせいか、よほど珍しいものでも見るかのように目を丸くしている。
「買い物だよ。鮫島たちは?」
鮫島は美恵子さんと戯れている少女に視線を向け、「ちょっと公園にな」と呟くように言った。
「お前が遊ぶのか?」
僕がからかい半分にそう言ってやると、「馬鹿言え、律がむずがるから仕方なく連れ出したんだよ」と、顔を赤らめながら早々答えた。
「公園で遊ぶにはちょっと時間が遅いんじゃないのか?」
そう言うと鮫島は僕を見て頷いた。
「確かに俺もそう思ったんだが、律が厚着していけば大丈夫だって言うんだよなぁ」
そう聞いて僕は律と呼ばれる少女の服装を思い返した。あの厚着はそういう事情からだったのかと納得するとともに、ロボットが風邪を引くわけないのではないかとも思ったが、それを口にすることはさすがに
ペットの犬に服を着せて散歩させる人をたまに見かけるが、ちょうどそれと同じ理屈なのではないかと思う。毛に覆われた犬にとって服は本来必要なものではない。しかし飼い主にとって犬は人と同じ愛らしい我が子なのだ。だから飼い主は寒かろうとの思い(もしくは恥ずかしくない格好をさせるためのファッションとして)で服を着せるのだろう。もちろん犬の方がどう思っているかは知る由もないのだが、特別嫌がっているのでなければ構わないのではないかと僕は思う。なぜなら彼らはそうすることで家族の絆を分かち合っているのだから。
そう考えると、鮫島と律ちゃんはとても深い絆で結ばれているとも言えた。律ちゃんが玉付きののゴムバンドで髪を結っていること自体、鮫島の並々ならぬこだわりを感じる。
「それにしても意外だな。お前が進んで美恵子さんと買い物だなんて。もしかして荷物が多いからどうしてもとお願いでもされたか?」
僕は首を横に振り、「まさか。美恵子さんはそんなことを頼む人じゃないよ。気分転換になるからと僕の方から頼んだんだ」と答えた。
鮫島は僕の回答を聞くと腕を組み、眉間にしわを寄せて唸るような声を上げた。
「それならなおのこと意外な感じがするんだよ。俺にはお前が美恵子さんを避けているように見えたんだ教室にいてもあまり目を合わせようとしていなかったし」
「そんなことはないよ」
僕は適当にはぐらかそうと思った。だが実際は鮫島の言う通りだ。僕は心のどこかで美恵子さんに対して差別的な感情を抱いている。
「美恵子さんはお前にとってなんだ?」
鮫島は住宅の塀際で律ちゃんの頭をなでている美恵子さんを見ながら言った。律ちゃんは美恵子さんを見上げて満面の笑みを浮かべている。美恵子さんも我が子を
「おい」
鮫島に呼ばれて我に返った僕は「ごめん」と謝った。
「まあ、確かにかわいいけどな、あの二人。見とれているお前の様子を見て安心したよ。どうやら俺の思っていたことは杞憂だったみたいだな」
鮫島はそう言ってニヤニヤと笑った。彼は美恵子さんが僕にとってかけがえのない人だと思ったのだろう。もちろんそう言うつもりだったから構わないのだが、本心はどうなのだろうか。僕は自分の本心すら掴みきれないでいた。
「ところでさ」と鮫島は耳打ちするように近づいてきて、突然次のような話題を吹っかけてきた。
「お前は知っているか? 昨日の事件のこと」
「事件?」
「アメリカで起きた事件のことだよ」
僕は眉をひそめて鮫島を見た。彼が何を言おうとしているのか、まるで掴めなかった。
「お前、アメリカに親戚でもいたか?」
僕が要領を得ずにそう呟くと、鮫島は顔強張らせた。
「何言ってんだよ。お前だってニュースくらい見るだろう? 銀行の店員、客含めて二十人以上が射殺されたっていう無差別強盗殺人事件のことだよ」
僕は目を見開いて鮫島を見た。昨日テレビで知ったあの事件はそういった詳細だったのかと、改めて驚いた。
「やはり知っているみたいだな。あの事件のことで美恵子さんは何か言ってなかったか?」
僕は一瞬悩んだが、正直に答えることにした。
「犯人はロボットだって言ってたよ」
「やっぱりな」
鮫島はそう言うと、俯いて渋い表情を浮かべた。何か考えているようだった。
美恵子さんは昨日、確かに犯人はロボットだと言った。あの監視カメラは複数の銃声を記録していたが、まさかに二十数名もの命があの一瞬で奪われたという話は
「犯人は捕まったのか?」
そう尋ねると、鮫島は顔を上げて僕を見た。
「いや、犯人は逃走したそうだ。そんなことより、お前はこの事件をどう思う?」
「どうって……」
僕は鮫島のあまりに切迫した様子に言葉を詰まらせた。
「分からないか? 律も同じだったんだよ。律もこの事件の犯人はロボットだと言い当てたんだ。だが新聞もテレビもその事実には触れない。犯人は人間だということになっている。なぜだ?」
「なぜって、ロボット系列のスポンサー企業にたいしての配慮とかじゃないのか?」 そのように言うと、鮫島は睨むように僕を見た。何か気を悪くさせるようなことでも言っただろうか。
「本当にそれだけだと思うか?」
「そんなこと、僕が知るわけないだろう?」
そう答えると、鮫島は俯き、ため息をついた。今度は意気消沈といった様子で目だけを僕に向ける。今日の鮫島はどうも落ち着きがない。
「そうだよな、確かにお前が知るはずないよな。だがな、悟史、俺は心配なんだよ。律の立場が今以上に悪くなるんじゃないかと思ってな」
僕は鮫島にそう説明されても要領を得なかった。犯人がロボットだと公表されない方が律ちゃんの立場を考えるなら、むしろ好都合ではないのだろうか。僕がそのように問いかけると、鮫島は即座にその意見を否定した。
「俺はな、今回の隠蔽が結局一時しのぎに過ぎない気がするんだ。だって律も美恵子さんも犯人がロボットだと言い当てちまったんだ。それほど長い間隠せるとは思えない。真っ先に考えられるのはロボットに対する不信から社会が混乱するのをとりあえず防ぐための措置だったんじゃないかと俺は考えている」
僕はまだ納得してないことがあった。
「でも美恵子さんの話だと、犯人のAIは商品として出回っているものとは違うって話だぜ」
鮫島は腕を組み、冷やかな視線を僕に向けた。
「全ての消費者がAIが違うから安心だなんて話を信用すると思うか? 外見がロボットなら同じだと思う奴も多いんじゃないのか?」
「そうかなぁ」
「そうさ。人間って不思議なものでさ、何かしらの方向性がレッテルとして貼られてしまえば、それが正しいかどうかなんてお構いなしに足並み揃えて付和雷同する。実際はそんなんもんさ」
確かにそれはそうかもしれない。ロボットに対する差別的な対応に拍車が掛かるということは十分に考えられるだろう。僕は今更ながらに鮫島の見識の鋭さに感心した。
「ともかく俺は律を守るぜ。これから先何があってもな。お前は美恵子さんを守れよ」
「あ、ああ」
僕は同意を求められたので、半ば反射的に返事を返して俯いた。すると小さな少女が鮫島の服の裾を引っ張っているのが視界の端に見えた。律ちゃんだった。
「ぶぅ――」
頬を膨らませた律ちゃんが呆れたように僕ら二人を凝視していた。僕は美恵子さんがどこにいるのかと思って見回すと、少し離れた所で僕ら三人を眺めていた。その表情は笑みをたたえている。
「ワリぃ、律。遅くなっちまった」
鮫島は必死に両手を合わせて頭を下げている。しかし律ちゃんは目を細めたまま表情を変えない。
僕はそんな彼らから離れて美恵子さんの元へ向かった。
「すみません、話が長引いたせいで遅くなってしまいましたね」
美恵子さんは笑みを絶やさぬまま、「悟史さんはよろしいのですか?」と言った。
僕は何のことだか分からず、「何のことですか?」と尋ねると、美恵子さんは首を傾げてとんでもないことを口にした。
「鮫島さんたちと一緒に公園へ行かなくてもよろしいのですか? 買い物なら私が済ませてきますから問題はないです」
「何でそんなことを言うのですか?」
僕にはわけが分からなかった。美恵子さんは相変わらず笑みを絶やさず、次のように続けた。
「鮫島さんとずいぶん長いことお話していらっしゃいましたから。悟史さんも公園で遊びたいのかと思ったのですが、違うのですか?」
美恵子さんの言っていることはまるででたらめだった。表情から察することはできないが、怒っているのだろうか。
「全然そんなことはないです。美恵子さんは怒っているのですか?」
「いいえ」
美恵子さんは即答した結局僕には美恵子さんがなぜそのような結論に至ったのか解せぬまま、鮫島たちに別れを告げてその場から離れた。
暗くなった通りに人影はなかった。僕らはもっともスーパーへ行くのに近道となる住宅街の中を、犬の遠吠えや虫の音を聞きながらゆっくりと歩いていた。
「星がきれいですね」
僕は自分でもきざだなぁなどと思いつつ、空を見上げながらそんなことを口にした。
「はい」
僕は美恵子さんに顔を向けた。彼女は端正な顔立ちで、まっすぐ前を向いて歩いていた。目元に掛かった前髪が歩くたびに揺れる様をぼんやりと眺めながら、僕は口を開く。
「先刻の会話の内容は聞いていらっしゃいましたか?」
「はい、大体は把握しております」
僕はそれを聞いて思い切って尋ねることにした。
「怖くはないのですか?」
「はい」
また美恵子さんは先程と同じように即答した。だが僕には合点がいかなかった。
「なぜですか?」
そう問いかけると、美恵子さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。その表情は何の感情も表れてはいなかった。
「私には怖いと感じる意識がないのです。先程も怒っているのではないかと仰いましたが、そのような認識が私の中には存在していないのです」
「律ちゃんは怒っていたようだけど」
僕がそう答えると、美恵子さんは正面に顔を戻し、空を見上げて微笑した。その表情はとてもロボットとは思えないほど美しいもので、僕は胸の奥が鼓動を打つのを感じた。
「私にも分かるんですよ。どういった時に怒ればいいのか、どういった時に怖いと感じるものなのか。
でも主人のお世話をするのが仕事のメイドロボである私にとって、そのような感情は仕事に支障をきたすだけの弊害でしかないのです」
「それじゃあ律ちゃんが怒っていたのも、本当に怒っているのではないのですか?」
「いえ、怒っているのだと思います。律ちゃんと私とではプログラムが違うのです。律ちゃんはあのような時には怒るようにとの指示が働きます。ですが私にはそのような指示がありません。ですから怒る必要がないのです。しかし状況によっては指示が生じますので、私が怒れないというわけではありません」
どうにもややこしい回答だった。プログラムの指示なしでは感情は生じないということだろうか。そんなものが感情と言えるのだろうか。
「それではどちらも怒っているとは言いませんよ」
僕がそのように言うと、「そうなのですか?」と美恵子さんはいつものように僕を見て、首を傾げた。僕はそんな美恵子さんの様子に微笑して、次のように言った。
「はい。僕ら人間は指示を受けて怒ったり、笑ったりしているわけではありません」
美恵子さんはさらに首を傾げ、眉をひそめた。
「指示がないのですか?」
「はい」
「指示がないのにどうして笑ったり怒ったりできるのでしょうか。私には理解できません」
僕もそのように言われてみると、自分の意見の真実味を疑わざるを得なかった。考えれば考えるほどわからなくなる事だ。
僕らが怒ったり笑ったりすることは当たり前のように自分で判断して行う。つまり美恵子さんの発想から考えを導き出すと、僕ら人間の意識というものは、計算によって指示を作り出すコンピューターと、それを基に自己判断を試みるAIが統合された総体ということだろうか? 僕は頭が混乱してきてうまくまとめることができなかった。
「自分で判断しているから、かな?」
いい加減なことしか言えない自分が情けなかったが、僕は一応このように答えた。
「それは経験によって導き出された判断ですか?」
今度は僕の方が首を傾げたくなってきた。頭が混乱して収まらない。僕はこめかみに指を当ててもみほぐした。
「うーん、どうなんだろう。確かに経験で判断することもあるだろうけど、多分その方が稀なんじゃないかなぁ。僕ら人間は美恵子さんのように瞬時にデータベースを検索したりできないからね。大抵の場合はその場のノリというか、勘というか、閃きというか」
「閃き、ですか? それはプログラムにおけるバグのことでしょうか?」
言われて僕は目を見開いて美恵子さんを凝視した。それは考えてもいないことだった。
「バグ? まさか、違いますよ。判断した結果はちゃんと出るんですから。何も当てずっぽうというわけではありません」
僕はとっさにそう答えたが、本当にそうだろうか? もはや自分でもよく分からない。
「そうなのですか? しかし経験が伴っていないのならば、私にはあてずっぽうと同じであるとしか考えられません。完全な乱数を用いた確率の問題、それは任意で思考にバグを混在させて回答を導き出すという方法論としか思えないのです」
「うーん、でもそれじゃあ靴を投げて天気を占うのと同じで、単なる神頼みになってしまいますよ」
「違うのですか?」
「違う、はずです」
何か終着点の見えない不毛な議論が始まってしまったようで、僕は半ばうんざりとしてきていた。だから僕は次のようなことを言った。
「人間って不思議なんですよ。おそらくまだ解明されていないこともたくさんあるんじゃないかと思うんです。脳の働きに詳しい学者に聞けば少しは的を射た回答を得られるかもしれませんが、僕には不思議としか言いようがありません」
美恵子さんは苦笑し、首を横に振った。
「悟史さんが御指摘なさった通り、私の中には多くのデータベースがあります。そこには人の意識に関する科学や哲学など様々な分野の異なる視点を用いて導き出された推論が体系的にまとめられておりますが、的を射たもの、あるいは共通項すら見つからないのです。ですから悟史さんのお話から何か解るかもしれないと思ったのですが、やはり不明なのですね」
僕はそのように言われて少々腹が立つのを感じた。まるであなたには期待していたのに期待が外れてしまったとでも言われているみたいだったからだ。だから僕は真剣になって次のようなことだけは述べることにした。
「僕が分かっていないだけで、閃きには何か高度な計算が用いられているのかもしれませんよ。あくまで推論ではあるのですが」
美恵子さんはそれを聞いて頷いた。
「はい。でも本人が分かっていないのに結果を導き出すだなんて本当に不思議ですね」
「はい、不思議です」
僕らは二人で薄笑いを浮かべた。そうこうしているうちに、いつの間にか表通りに出ていたらしく、スーパーの屋根に付いた看板が目に映った。看板は白熱灯に照らされて光っている。
「もう着いたんですね」
おもわず僕がそう呟くと、「いえ、ここまで二十七分もかかりましたよ。私たち、とてもゆっくり歩いていましたから」と美恵子さんは言った。
僕らはスーパーのドアをくぐった。店内の照明は明るく僕らを照らした。楽しそうに商品棚を眺める美恵子さんを見ていると気が和み、自然に頬が
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