余話.稀人(まれびと)との夜話
ルゥリアは、また夜半に目を覚ました。
今しがたまで見ていた夢は思い出せないが、胸の鼓動の激しさと寝汗で、それがやはり悪夢だったろうと分かる。
それでも、覚醒した時にパニックに陥る事は日々少しづつ減っている。
(大丈夫、もう大丈夫)
自分に言い聞かせ、寝台からゆっくりと身を起こす。
下から聞こえるアルビーの寝息は変わらない。どうやら今度はうなされずにすんだようだと安堵した彼女は、静かにガウンを羽織って船室を出た。
船は明日にはアバンティーノに着く。出航直後には荒れていた海も今は穏やかだ。穏やかな揺れに体を合わせながら、その足は荷室へと向かった。
重い扉を押し開けて入り、薄明りに照らされて横たわるプリモディウスに近づき、その上腕部フレームに手を添えた。
ひんやりとした感触が、胸には暖かい波を流し込んでくる。
ルゥリアはプリモディウスとの繋がりをその身で感じ、ほっと息をついた。
突然プリモディウスの向こうから靴音が響き、ルゥリアの鼓動を跳ね上げた。
「お前か」
影から歩み出てきたのはホイデンスだった。
「所長」
安堵の息をつくルゥリアに、
「何か用か。プリモディウスに」
「いえ、あの、目が覚めてしまって」
「そうか」
「所長は、思索ですか」
「無論だ」
平然と言う所長に、疑問が浮かぶ。
「こんな時間にも思索されて、いつお休みになっておられるのですか?」
あの仇討ちの日、自分が意識を失ってから起きた事を、ホベルド達から多少は聞いている。それ以後、所長の取りつかれたような思索癖は薄れたという事だったのだが。
「いつでも。眠くなった時に寝ている」
ああ、とルゥリアは思った。
所長はよく自室に閉じこもって連絡も禁止しているが、あれは昼寝していたのだ。それと、『憑りつかれたような』思索はやめても、思索自体をやめた訳ではなさそうだ。要するに、考えるのが好きなのだ、この人は。
「今、少しお邪魔をしてもよろしいでしょうか」
おずおずと尋ねると、
「問題ない。俺も小休止するところだ」
変わらぬ無表情からそう返ってきた。
二人で整備卓の前に置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、ホイデンスがジェリムを呼んで紅茶を入れさせる。
二人でカップを口に着け、一息をついたところでルゥリアは、ずっと疑問に思っていた事をぶつけた。
それは、皇帝宮殿での問答の時、所長が呟いた”ゴー・フォー・ブローク”という言葉。
「所長も『愛と裏切り』をご覧になっておられたのですか?」
「なんだと?」
「ノヴェスターナのドラマ、だそうですが」
「そんなものは知らん」
ホイデンスは否定する。
「そうですか。やはりそうですよね」
ルゥリアは少し落胆した。秘かにそういうドラマが好きなのであれば、所長にも可愛い所がある、と思えたのだが。そう考えている耳に、ホイデンスの言葉が続いて飛び込んできた。
「単に俺の世界の言葉だからに過ぎん」
「え?」
「俺の国の、ではないがな」
「え? え?」
意味が分からない。それも二つ。
自国語ってどういう意味だろう。どの国だろうと、ヒト族の言葉は一つしかないのに。
そして、自分の世界? それは、この世界、ではないということ? 異世界人? 所長が?
錯乱するルゥリアを見て、ホイデンスは眉をひそめた。
「もう知っていると思っていたのだがな。寝る前にする話ではなさそうだ。今はやめておこう」
「やめてください!」
ルゥリアは恐怖に目を見開いた。
「うむ。だからやめておこう」
ホイデンスの反応に懸命に首を振る。
「そうではなくて、やめるのをやめてください! ええと、あの、やめないでください! ここでやめられたら、朝まで眠れる気がしません!」
拳を握り締めての叫びに、ホイデンスは気押されたように上体を反らした。
「そ、そうか」
彼は視線を宙に向け、しばし思考した後、静かに話し始めた。
「少々長い話になる」
***********
その世界には、人類以外の知的種族はいなかった。エルフもドラゴンも、伝説の中だけの存在であり、消えたのではなく元から存在しなかった架空のものと考えられている。
そして神々も、人々の前に姿を現す事はない。信仰を持つ者は多いが、神々の領域は心の中と死後の世界の事だけだというのが世界の常識になりつつあった。
***********
「本当ですか!」
ルゥリアは目を丸くした。
「神々への感謝と恐れなくして、人が正しく生きる事が出来るのでしょうか」
「そうだな」
ホイデンスは視線を天井に向けた。
「それによって個人は自由に生きられるようになった。だが人類としては、道を誤り始めていたのかも知れぬ」
***********
彼は、その世界の二ホンという国にいた。こちらの世界におけるディヴァ皇国と似ている国だが、彼が生まれた時、もうニホンには侍はいなかった。
***********
「ニホンの人は、ディヴァの人に似ていないのですか?」
「いや、むしろよく似ているが」
ルゥリアは首を傾げた。
ホイデンスの肌は白く、面長の顔は骨が浮き出ていて、唇の色も薄い。髪は銀髪。
チーム唯一のディヴァ人であるトルオの、黄色みを帯びた、ぽってりとした肌に黒髪とは、似ても似つかない。
そこまで考えて、ようやく思い至った。
所長の姿は、自分と同じだ。自分や、被験者の仲間達と。今までは、生まれつきと年齢のせいだと思っていたのだが。
「まさか、その髪は。自らを被検体に?」
「ああ、その結果だ。俺の場合は開始が遅過ぎたらしく、能力も極めて限定的なレベルでしか発現しなかった。脱薬プロセス後も色が戻らん」
腕を組んで天を仰ぐ。
「だが、ディヴァの追手の目を眩ます意味でも好都合だし、狂気の魔学者らしくなったので、スポンサー集めにはむしろ良い事だ」
なるほど、とルゥリアは思った。この人は、とても頭の良い大馬鹿者なのだ。
***********
彼は二ホンの学生だった。
一七歳の夏の日、彼は友人の家に自転車で向かった。
晴れた昼下がり、気温は40度近くになり、辺りに人の姿は無い。
一番近い農道を走っている時、遠くでサイレンが聞こえ、目の前に闇が広がった。ブレーキをかけるも間に合わず、その闇に突っ込んだ彼は、体が落下する感覚に包まれた。何も分からないまま意識が遠のく最中、彼はその闇の中で、無数の星を見た気がした。
我に返ると全く見知らぬ田園に倒れていた。
自分のいた場所を中心に、アスファルトと砂利が散乱している。そして自転車の一部が、鋭利な刃物で切り取られたように。
携帯電話も圏外、地図機能も動かない。
茫然としていると、作物をかき分けて中年の男が出てきた。安心して話しかけようとした彼は、再び愕然とした。その男は歴史ドラマに登場する侍時代の平民のような服装だった上に、その話す言葉が全く分からなかったのだ。
***********
「言葉、が……」
ルゥリアは茫然とつぶやいた。
「そうだ。この世界のように、ヒト族はすべて同じ言語を話す訳ではない」
ホイデンスは説明する。
この世界とあの世界で言葉が違う、だけではない。かの世界では、人類の言葉が世界に何百とある。そして言語を異にする国の人とは、意思疎通出来ないのが普通だったのだ。
***********
我を失った彼だったが、相手の男も驚愕し、危害を加える事は無かった。
やがて男は彼を警察組織の分署らしき所に連れて行った。そこからは相手も扱いに困ったものらしく、次々と違う場所に連れていかれた。
移される度に上部組織へ連れていかれ、やがて英語らしき言語を話す人間が現れた。彼が話せるのはおぼつかない英語ではあったが、それをきっかけに少しづつ意思疎通が出来るようになる。
そして彼は、ここがやはり全く異なる世界である事、この国はディヴァ皇国という事を聞かされる。
信じがたい事だったが、それまでの経験から受け入れるしかなかった。
元の世界で彼が住んでいた隣の街には、世界最大級の巨大粒子加速器があった。
設計上の最大出力で新粒子の生成実験を行うというニュースを携帯端末で見たのは覚えている。
サイレンは、その加速器のある隣町の方からだった。何か異常が発生し、それがこの現象を起こしたのだろうか。だがそれ以上は知る術もなかった。
この世界では過去に何度か異世界からの訪問者があり、新たな知識や技術をもたらしていた。
英語が知られていたのも、過去に英国人が来たからだった。もっともこの世界では百年以上前であり、本人は既に死去しているとの事だったが。
ディヴァの最高権力者である総帥にも対面の栄にあずかり、異世界からの知見について大きな期待をされる。
だが一介の高校生に過ぎない彼。幾度かの異世界人の訪問で産業革命も起き、電気文明時代に至りつつあるこの世界で、彼が教えられる知識はほとんど無かった。
むしろ男女平等、民主主義、社会福祉など、彼が暮らしていた社会が理想とする考えが危険視され、軟禁状態に置かれてしまう。
孤独と孤立で苦しむ中、秘かに海の彼方、ノヴェスターナ帝国からの誘いが届いた。自分の世界にあるアメリカという国と似た気風を持つノヴェスターナに惹かれていた彼は、その誘いに応じて脱出、亡命に成功した。
ノヴェスターナでは政府の保護あるいは監視の下ではあったが、現在の社会に関する学習の後、先端技術開発センターの嘱託となった。
そこでは自分の持っていたスマートフォンという携帯端末――既に電源は切れていたし、持ち出せなかった――のユーザーインタフェースやグラフィックデザインを記憶を元に再現し、この世界にはまだ無かった携帯端末基本ソフトの開発に貢献。
携帯端末の爆発的普及を受けて相当な額の特許料配分を受け取り、これを学資に大学に入学。ダオール博士に学ぶ事となった。そこで彼は、ミルヴェーヌ・ケリエステラと出会う。
***********
「後はお前も知る通りだ」
ホイデンスの話は終わった。
「驚きました。私がずっと異世界からのお客人とお話していたなんて」
ルゥリアは両手でカップを包みなら呟いた。そして気付く。
「では所長のお名前は、ご本名ではないのですね?」
「無論だ。これはノヴェスターナに亡命してから名乗った偽名だ」
「ご本名は、やはり秘密なのですね」
「そうだ」
ホイデンスは横を向いたまま答えた。
瞼の裏が熱くなり、ルゥリアは俯く。涙が頬を伝わり流れた。
「おい、なぜ泣く」
ホイデンスの声が困惑する。
「だって、見知らぬ世界に一人で連れて来られて、そこでも孤独だなんて、寂しすぎます」
「本当にお前ときては、アルベリンの言う通り取り扱い要注意だな」
所長は眉間に皴を寄せ、ルゥリアは背を丸めて小さくなった。
「すみません」
「いや、いい」
ホイデンスは気を取り直したように口を開いた。
「お前に礼を言いたい、そうだ」
「どなたが、ですか?」
「かつての、孤独だったころの俺が、だ」
ルゥリアは泣きながら噴き出しそうになった。
なんてこの人は、面倒で、内気で、ひねくれていて、そして優しいのだろう。
深呼吸して、感情を落ち着ける。
「あの、所長の居られた世界は、どのような所だったのですか?」
「ふむ」
ホイデンスが話しかけた時。
くしゅん。
小さなくしゃみが沈黙を破った。
振り返ると、入口でガウンを着こんだクルノが口を押えていた。
「あ、すみません。お邪魔をしてしまって」
小さく頭を下げる。
「あの、これをアルベリン様が。風邪などひかないようにと」
手にした毛布を示した後で、少し不安げな表情になって、
「アルベリン様が、きっとこちらだろうと。あの、僕はお部屋を覗いたりはしていませんからね」
ルゥリアは顔に力を込めて噴き出すのを堪えた。彼は大真面目なのだ。笑っては悪い。
「お前の騎士様の方が風邪気味のようだな」
ホイデンスが仏頂面でうなる。
「お前も、もう寝るが良い。明日には入港だ。忙しくなる」
「はい」
「まだ先は長い。興味があるなら、思索を邪魔しない限りはいつでも俺の世界について話をしてやる」
「ありがとうございます。それではお休みなさいませ」
立ち上がってお辞儀をすると、
「ジンノウチ・シロー」
ホイデンスの声が頭上から降ってきた。
「はい?」
顔を上げると、その横顔には微かに柔らかな表情――笑みとまでは言えないが――が差していた。
「それが、俺の本名だ」
「所長」
ルゥリアは、胸にこみ上げる感情に突き動かされた。
「所長は、私達のこの世界も、お好きでいて下さるのですよね?」
「無論だ。龍や騎士や魔術師がいる世界だぞ。嫌いになどなれる訳があるまい」
異世界から来た男は即答すると、再び横を向き、視線を虚空にさまよわせて思索の中へ戻っていった。
廊下を歩きながら、ルゥリアは考えていた。
クルノが肩に掛けてくれた毛布の温かみ。同様にその胸中にも温かいものを感じながら。
この一年余りで、それまでなら想像も出来なかったほどの様々な体験をしてきた。悲しみも苦しみも喜びも。そして驚きも。
かつてホイデンス研究所を自らの運命を賭ける先に選んだ事が、その全てに繋がっていた、そう思うと、世界を満たす奇跡に思いを致さずにはいられなかった。
「先ほどは、所長と何のお話を?」
クルノが上体を曲げてのぞき込んできた。ルゥリアはその顔を見上げ、厳かに顔を引き締めた。
「すごい事です。すごい事を聞いてしまったんです」
「なんですか? いったい」
クルノが心配と期待を込めた目を向ける。
「それは……」
ルゥリアは話しかけたが、
ふああ。
胃の辺りから眠気が沸き上がり、欠伸をしてしまった。そう言えば、目が覚めてから小一時間は経っている筈だ。
このままクルノと話をしながら夜を明かす事にも惹かれたが、睡魔の誘惑には勝てそうもなかったし、ちょうど自分の船室に着いてしまった。
「ごめんなさい。長くなるので、明日話します」
「ええっ!」
クルノは愕然とした。
「だいたいの事だけでも聞かせてください! このままでは朝まで眠れません!」
「もう無理です。おやすみなさい、クルノ」
ルゥリアはまた欠伸をしながらドアを開け、薄暗い船室に入った。
(そんな、ルゥリア様ぁ!)
クルノの抑えた小さな叫びが、ドアの向こうから聞こえた。
ルゥリアはふと思い直し、ドアを開く。その向こうで彼は、期待を込めた瞳を輝かせていた。
「ルゥリア様!」
「クルノ、ちょっと」
ルゥリアが右手を口元に当てると、彼は身を屈めて顔を近づけてきた。
「いつもありがとう」
ルゥリアは顔を突き出し、唇をクルノの頬に当てた。
白銀の騎士と狂気の魔学者 和邇田ミロー @wanitami
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