第三十四話 集う宿星・3
俯せに倒れ込んだラナの背筋のすれすれを、灼熱の炎の帯が疾り抜けていた。煤だらけになった服のあちらこちらからは、焦げ臭い匂いが立ちのぼっている。
涙を堪え、唇を噛み締めたラナは、泥にまみれるのも構わずぬかるみを這いつくばり、眼前の
「ラナ!」
その瞬間、洞穴の奥から飛び出してきた人影と対面を果たしたラナは、夢を見ているのではないかと錯覚した。
「メリル……!」
堪え切れなくなった涙が溢れかえり、ラナは無我夢中でその小さな影に
温かい――無事で良かった、本当に。
しかし嗚咽を零す暇さえもなく、程なくして邂逅の喜びは、けたたましい咆哮に飲み込まれ、掻き消されていた。
続けざま、鈍い衝突音と同時に吹き飛ばされてきた巨体が、二人の傍らでむくりと起き上がる。
「ヴァイスさん!」
「いってぇ――くそ、好き放題暴れやがって!」
脇腹を押さえて立ち上がったヴァイスは吐き零すように息巻いていたが、覇気に溢れていた瞳は今や虚ろに濁り、足取りはふらふらと覚束なくなっている。
足手まといを庇い続けた彼の身体は、既に満身創痍だ。先ほど届いた鈍い音は、おそらく竜の鉤爪の一撃を受けた音であったに違いない――深い裂傷を刻んだ脇腹からは、じわじわと鮮血が滲み出していた。
今すぐ治癒を施さなくては。これ以上彼に、血を流させてはならない――!
息を荒げたヴァイスのもとへ駆け付けたラナは、自らの消耗も顧みることなく、治癒の詠唱を紡ぎ始めた。
「危ねえ――
ところが、ヴァイスの吼え声を聞いてようやく、ラナは切り出す
もう一度、加護の魔術を――!
すかさず新たな術式の構築を試みるも、竜の口元から湧き出した凄まじい熱風に喉を灼かれ、声を出すことが出来ない。
『凍れる槍よ!』
絶望が脳裏をよぎったその瞬間、間近にまで迫った炎熱の応酬に、ただひとり立ち向かったのはメリルだった。
間一髪のタイミングでメリルの頭上に現れた巨大な氷塊は、瞬く間に鋭利な
激突の瞬間、鼓膜に突き刺さるような凄まじい破裂音を響かせたかと思うと、氷柱はたちどころに高温の水蒸気と化し、無防備なラナの全身に激しく降り注いだ。露出した肌に鋭い痛みが走り、思わずラナは小さく悲鳴をあげる。
「す、すみませんラナ……咄嗟のことで、こんなことしか思い付かなくて」
「何言ってるの、すごい反応だったじゃない! おかげで丸焼きにされずに済んだわ!」
心底申し訳なさそうにこちらを覗き込むメリルに、ラナは蒸し風呂さながらの熱気を吹き飛ばす勢いで
「おい、あいつから目を離すんじゃねえ! さっさと洞穴へ逃げ込め!」
刹那、再びヴァイスの怒声が轟き、ラナとメリルは同時に全身をびくつかせていた。小刻みな縦揺れを感じたかと思うと、煙霧のように立ち込めた蒸気の向こうから、巨大な影が迫ってくる――!
今度こそ、守ってみせる!
ふた回りほども体格の違う兄を片手で掴み上げるラナにとって、小柄な少女ひとりなど、ぬいぐるみと大差ないほどの重量でしかない。
素早く身を起こしたラナは、メリルの体をしっかりと両腕に抱いたまま、無我夢中でぬかるみを蹴りつけていた。そのまま洞穴の奥へ転がり込むと、砂利道の苛辣な洗礼から守るべく、全身全霊をもって少女を庇い立てる。
「ラ、ラナ――いくら何でも無茶ですよ! 傷だらけじゃないですか!」
「へへへ、可愛いメリルのためならこんなのへっちゃらよ。惚れちゃ駄目だからね?」
口先だけは強がりつつも、その〝傷だらけ〟の全身を視界に捉えることが恐ろしくて、ラナはメリルの涙ぐんだ顔だけを見つめながら、精一杯の不敵な笑みを浮かべた。
「いよっ、男前! 傷は男の勲章ってなァ!」
遅れてちゃっかり滑り込んできたヴァイスが、にやにやと小憎らしい笑みを浮かべてラナを囃し立てている。
思わず噛み付こうと詰め寄るも、茹で上がった額を大きな手の平に撫で付けられると、ラナの心はたちまち凪を取り戻していた。すると途端に、これまで腹の底に押し込めていた恐怖や不安が怒涛のように溢れかえり、すべてが大粒の涙となって、目元から零れ落ちていた。
「命懸けでここまで逃げ
「え、ええ……でも〝真打ち〟って?」
安堵の笑みを浮かべたヴァイスの視線を追いかけ、ラナはようやっと蒸気の晴れた洞穴の外を見遣っていた。
度重なる炎の猛威によって、生い茂る樹々の殆どが灰となり散り果てたおかげで、皮肉にもその一帯は、随分と見晴らしが良くなっている。
微かな残り火のくすぶる広場の真ん中には、
「〝
魔力の光に照らし出され、仄暗い森に浮かび上がる、緋色のジャケットと刀。炎と血潮を想起させる勇烈な装いからは及びもつかぬほど、静かで冷淡な眼差しが、射すくめるようにじっと巨竜を捉えている。
その佇まいを僅かに認めただけで、ラナには、吹雪に閉ざされたアルスノヴァの荒野を駆け抜ける、紅蓮の死神の姿が容易に想像出来た。何故ならば、彼の後背に恨みがましく取り憑いた亡者の群れが、隙あらばと入れ替わり立ち替わり、ラナの耳元で己の最期を語って聞かせてくるからだ。
お城に居る時は分からなかったのに――一体何が違ってるっていうの?
生きながらにして選ばれた、死霊の
「あいつ、さっきお前とすれ違いでここから飛び出して来たんだぜ。メリルはあいつと一緒だったんだな?」
「はい。先ほどこの洞穴の奥で、異形に襲われているところを助けていただきました」
特段恐れる様子もなく話し続ける二人には、おそらく彼の背負うものが視えていない。小刻みに頭を振って心気を入れ替えたラナは、しつこく付き纏いを繰り返す死霊たちに無視を決め込み、殺伐たる戦場から目を逸らしていた。
「でも――たった一人だけで大丈夫でしょうか。確かに元は竜であったのでしょうが、あの怪物の纏う香りは、竜本来のそれとは似ても似つかないものです。おそらく瘴気の影響を受けて〝異形化〟しているのではないかと。以前の生態からは想像しがたい性質を隠している可能性もあります」
フレドリックが残したものと思しきヒビの入ったカンテラを握りしめたメリルは、睨み合う一人と一匹をひどく不安げに見つめている。
「人間だけじゃなく、竜までが瘴気の影響を受けてるって言うの?」
いち早く穢れから意識を逸らしたい考えでいたラナは、無理にでもと前のめりになって、メリルとの会話に乗り出していた。
「実例がないため憶測の域を出ませんが――竜とは本来エルフなどと同じように、思慮深く聡明で、極めて神聖な生き物であったはず。あんな風に禍々しい気配を漂わせていること自体が、そもそも異常ではないかと思うのです」
「確かにあいつ、どっからどう見たってバケモンだし、頭良さそうには見えねえよなぁ……涎ダラダラで人間を追い回してんだから、根っこのとこは《
もしかしたら、遠くから援護するくらいのことは――
メリルの推測を聞き、言い知れぬ不安に駆られたラナは、再びろくでもないものを視ることも覚悟した上で、洞穴の入口からそろりと身を乗り出していた。しかし、こちらを一瞥したフレドリックの目元が露骨に険しくなったのを見て、すぐさま思い留まる――あれは「邪魔だから出て来るな」と凄む目遣いだ。どうやら彼は、一切の手助けを望んでいないらしい。
やむなく――否、半分くらいは安堵の気持ちもあるにはあるが――ラナは、ヴァイスの怪我の治療に専念することを決めた。
エスターの残した灯火をそっと〝真打ち〟の背後に固定すると、メリルにカンテラを
長く続いた睨み合いに終止符が打たれたのは、そのすぐ後のことだ。
根比べから先に降りたのは、竜の方だった。カチカチと歯列を噛み合わせ、威嚇するように短い嘶きを繰り返すと、竜は裂け広がった口元を目一杯こじ開け、
しかし、激した竜の急襲を間近にしても、フレドリックの態度はまるで全ての雑念を捨て去ったかのように静穏、且つしなやかであった。〝獅子〟の異名相応の、ひたすら泥臭く、荒々しい立ち回りを想像していたラナにとっては、殊のほか意外な様である。竜の猛撃を短い跳躍で難なく
「マジかよ……あいつ、一撃であの化物を怯ませやがった!」
「硬い竜の鱗に傷を付けるのは至難の業でも、剥き出しの眼になら容易くダメージを与えられますね。とはいえ、誰にでも出来るほど簡単なことではありませんが――
術式を途切れさせてはならないと、ヴァイスの傷口を睨み付ける目元に力を入れ直したラナは、観戦者たちの熱の入った言い回しでフレドリックの奮戦を思い描いていた。
直視せずとも、急速に
だがその一方で、もうひとつ――本能的にひどく嫌悪感を感じる〝何か〟が、フレドリックの傍らで大きく膨れ上がった気がしたのは、何ゆえだろうか。相も変わらず、死霊たちは
「ねえ。あそこ、もう一人誰かいない? フレドリックとあの化物の他に、もう一人」
「は? 何言ってんだ、ラナ?」
それは、先ほどここからフレドリックに視線を送った折にも僅かに感じていた違和感だったかもしれない。それまでは虫けらと見紛うばかりの微かな存在であったものが、何かの弾みで急速に実体を得た――唐突にそんなイメージが、ラナの深層へ流れ込んできたのである。
「だったらあいつ、何か妙なもの身につけたりしてない? 例えば、呪詛みたいな禍々しいエネルギーを持った
「ラナ。もしかすると、それは――」
意味ありげに目を見開いたメリルがこちらを振り返り、心当たりを口にしかけた瞬間のことだ。
強烈な金切り声が衝撃波となって脇を行き過ぎ、ラナを含めた全員が揃って洞穴の外に目をやっていた。
見れば、怪物の首元に跨ったフレドリックが、竜の眉間に深々と刀を突き立てている。
「え――――?」
刹那、極薄のガラスを踏み潰したかのような、繊細な破裂音が響いたかと思うと、
そして、小刻みな痙攣を幾度となく繰り返したのち、遂には微動だにしなくなったのである。
「す、凄え――強すぎだろ、あいつ」
ごくりと大仰に喉を鳴らしたヴァイスの面持ちは、喜びを凌駕する驚愕に塗り潰され、すっかり硬直している。
同じくラナも、浮かれはしゃぐ気には到底なれそうもない心持ちであったが、その心境に至った理由は、ヴァイスの抱くものとはてんで異なっていた。
フレドリックの傍らにあった未知の気配が、もはや抜き差しならぬ状態にまで膨張を遂げている――それは、狂った竜の放つ殺気を遥かに凌ぐほどの、凄まじい邪気を帯びていた。
しばし無言のままで、倒れ臥した竜の亡骸をぼんやりと眺めていたフレドリックが、ゆっくりと踵を返し、こちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
途端に、ぞくりと総毛立つ感触をおぼえたラナは、思わず傍らの巨躯の影にそっと身を潜めていた。
「何やってんだ、お前」
迫り来る恐怖の存在を知る由もないヴァイスは、きょとんと目をしばたたかせ、珍獣を見るような面持ちでラナを見下ろしている。
「フレドリックさん、助かりました! お怪我はありませんか?」
そうするうちに、歓喜に酔いしれた様子で、きらきらと瞳を輝かせたメリルが、フレドリックの傍らに駆け寄ってゆくさまが見えた。
「お前、やっぱ強えんだな。一緒にいて、お前ほど頼りになる仲間はいねえよ!」
メリルに引き続き、満面の笑顔を浮かべたヴァイスが喝采とともにフレドリックに歩み寄ってゆくと、一人取り残されたラナの四肢にはいよいよ激しい震えが込み上げていた。恐怖のあまり、もはや俯いた顔を持ち上げることすら出来なくなっている。
今、あいつと目が合った。
死霊をけしかけ、あたしの心を射すくめようとしたあいつと、目が合った。
それゆえラナは、すべてを理解してしまったのだ――生きながらにして彼を死霊の首魁たらしめていたものが、あの紅蓮の〝刀〟であったことを。
紅獅子の懐には、呪詛のごとき殺意をばら撒き続ける〝死神〟がいる――!
「……来ないで」
堪え切れなくなったラナは、震える手をかざし、フレドリックを制止しようとした。
しかし、ふらふらと歩き続けるフレドリックは、ラナの制止に応じるどころか、気付いてさえいない様子である。
「ラナ、どうしたんですか?」
紅獅子の傍らにいたメリルが、不思議そうに首を傾げ、ラナを振り返った。すると、彼女の動きに釣られたかのように、フレドリックの瞳がすいとこちらを捉えてくるのが分かった。
刹那、ラナの胸の真ん中に激しい圧力が押し寄せていた。
あの眼は、何だ――?
冷たい炎、無間の荒野、繰り返される死。地獄に等しい修羅の世界を映してきた眼。だが、それだけではない――。
その瞳は、虚無に冒し尽くされていた。輝きなど微塵もない、光を捉えることすら出来なくなった、幽鬼のような瞳。今を生きているはずの人間に、どうしてあんな眼ができると言うのか――
「来ないで! その刀を持ったまま近付かないで!」
「おい、ラナ。お前さっきから何言ってんだよ?」
制止をやめさせようとするヴァイスの腕を振りほどき、ラナは尚も叫び続けた。
「あの刀、絶対に変よ! だって、ただの金属の塊のはずなのに――あたしたちと同じように〝生きてる〟感じがするもの!」
ラナがそう言い放った途端、瞳のすべてを闇色に塗り潰したフレドリックは、唐突に膝から崩れ落ち、前のめりに倒れ込んでいた。
「お、おい! しっかりしろよ!」
すんでのところで、ヴァイスがフレドリックの体を抱き留める。元々青白かった顔色を死人のような土気色に染めたフレドリックは、おびただしい量の冷汗を滴らせていた。
「フレドリックさん、どうしたんですか! しっかりしてください!」
メリルの悲痛な叫びを聞いたラナは、湧き上がる使命感でもって己を奮い立たせようと、懸命に踏みとどまっていた。
取り除かなくては。奪わなくては。
彼を蝕む元凶を知ってしまった今、見過ごすことなど出来るはずがない。
ごくりと喉を鳴らし、ぎゅっと奥歯を噛み締めたラナは、意を決してフレドリックの刀に手を掛けていた――
時の軌跡 タチバナナツメ @natsumm
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