第三十三話 集う宿星・2

「メリル!」

 少女の名を何度も叫びながら、フレドリックは仄暗い洞穴ほらあなの通路をひた走っていた。

 わかれ道や横穴などは存在せず、通路は遥か前方から漏れ出る微かな光に向かって、ひたすらまっすぐに伸びている。

 通路の奥を目指すほど、芳しい香気は色濃くなっていた。

 やがて仄明かりを放つ空間が間近にまで迫ると、腰元の鞘に手を掛けたフレドリックは意を決し、光の中へと飛び込んだ。


 そこは、これまでの道程の窮屈さ、息苦しさが嘘のように開けたホール状の広場であった。

 細長い鍾乳石が槍衾のようにびっしりと張り付いた天井は途轍もなく遠く、足元に転がっていたランタンの灯りをもってしても、その全貌は今ひとつはっきりしない。

 光源の側には、植物の燃え滓のようなものが山を成して積み上げられている。信じがたいことに、そこからは先ほど異形の群れの中で嗅ぎつけた、あの清らかな香りが湧き出していた。

 この世のあらゆる香料を用いても調合は不可能とされ、飢えた《食屍鬼グール》ですらこぞって逃げ出したその香気が、まさか焚き出した植物の香りであったとは――これほどの奇計に思い至る人物といえば、やはりあの学者の少女以外には考えられない。

 彼女は間違いなくここに居り、そしてやはり、あの侵入口付近で異形に襲われたのだ。竜の気配をも恐れぬ、飢えに飢えを重ねた強力な異形に。

「あなたは……!」

 脇に気を取られていたその時、ホール全体に聞き慣れた声音が響き渡っていた。

 声がしたのは、暗がりに沈んだホールの中央付近だ。すかさず足元のランタンを拾って掲げ、フレドリックはホールの奥を照らした。

「駄目です、こっちへ来ないで! 早く逃げてください!」

 淡い朱の光が照らし出したのは、思い当たる可能性の中で最低最悪の状況であった。

 苦悶に顔を歪ませた少女が、ホールの真ん中に

 少女の四肢には、汚泥の色を宿した不気味な触手が無数に絡み付いていた。

「メリル!」

「フレドリックさ――」

 メリルがこちらの呼び掛けに応えた瞬間、うぞうぞと不気味に揺れていた無数の触手は瞬時に収縮し、捕らえた少女の身体を、本体とおぼしき巨大な塊の方へ引き寄せようとする。

 させるか――!

 ランタンを放り出し、すかさず妖刀を抜き放ったフレドリックは、刃の導きに渾身の力で応え、異形の本体を垂直に両断していた。

 真っ二つに裂けた異形は、しばし怯んだように動きを止める。

 しかし、すぐさま断面から糸状の触手を幾千と伸ばし、取り逃がした少女の身体ごと千切れた半身を絡めとると、瞬く間にそれら全てを引き寄せ、自身の体内へと取り込んでしまった。

「くっ……!」

 俄かに頭の芯が沸き立つのを感じ、フレドリックは餌食となった少女を吐き出させようと、捕食者の土手っ腹を力一杯蹴り付けた。しかし、異形の体表はこれまでのしなやかな動きが嘘のように硬化しており、びくともしない。

 咄嗟に妖刀を構えかけて、フレドリックはすぐさま躊躇していた。

 真っ先に思い至ったのは、このまま異形の懐に斬り込み、コアを砕いて撃破することだ。しかし、飲み込まれたメリルの行方を思うと、無闇に刃を突き立てて良いものかとためらいがぎる。

 妖刀の切っ先が微かに震えている。今にも斬りかからんと息巻く刃の衝動を、全力で押さえ込んでいる。

 すると、「みすみす獲物を逃すつもりか」とまるで恨み言を吐くかのように、柄を取る手から力が奪われてゆくのが分かった。

 束の間、フレドリックが迷いに動きを止めていたその瞬間のことだ。

「なっ――!」

 突如として、汚泥の内側を無数のあぶくが埋め尽くしたかと思うと、異形はそのまま地べたにぺたんと潰れて広がり、のたうち回るかのように激しく右往左往し始めた。

 続けざま、くぐもった破裂音とともに耳をつんざくほどの金切り声があがると、それっきり異形はぴたりと静止し、霞のように掻き消えてしまった。

 汚泥の消え去った地面には、ぼろぼろのローブをまとった少女が力なくへたり込んでいる。

「お前――無事だったのか!」

 いきり立ったままの妖刀を無理やり鞘に押し込んだフレドリックは、呆然と座り込んだ少女のもとへすぐさま駆け寄った。

「ほんの一瞬、飲み込まれてしまいましたけど、すぐに吐き出してもらえました。どうやら私、とってもまずかったみたいですね」

 助け起こした少女は、先ほどまでの窮地が嘘のように、落ち着き払った様子で息を吐いていた。

 返す言葉が見つからずにぽかんと口を開けていると、少女は口元に手を添え、くすりと控えめに笑みを零していた。

「というのは半分冗談で――こんな事もあろうかと、きちんと対策は講じていました。異形の消化液に反応して溶解するよう作ってあったボタンに、即効性のある毒を仕掛けておいたんです。異形の系統別にいくつか入っているので、おそらくどれかは効果を示すだろうと思っていました。でも――」

 ころころ笑っていたかと思うと、今度はさっと顔つきを曇らせ、少女は見るも無残に変わり果てた自身の衣服を見つめていた。

 釣られて少女の身体に視線を滑らせるも、ちらほらと空いた穴から雪白の肌が覗いているのを見つけた途端、思わず後ずさったフレドリックは、わざとらしく少女の姿を視野から追い出した。

「でも、服が溶けてしまったのは誤算でした。今後この戦法を活かすとするなら、今よりも耐久性のある衣服を身に付けておく必要がありますね」

 問題はそこなのか……?

 いかにも彼女らしい発想と言ってしまえば、その通りなのかもしれない。しかし、異形に飲み込まれたことそのものを問題にせず、服がどうのと零しているあたり、何かがずれているような気がしてならない。

 いずれにせよ彼女は、異形に襲われたことで特段取り乱したりすることもなく、いつも通りでいるようだ。

「あの、フレドリックさん。貴方には少し言いたいことがあったんですが」

「な、なんだ」

 しかしながら〝この状況〟で、いつも通りを持ち出されても困る――。

 何やら決心したように大きく頷いたメリルが唐突に身を起こし、神妙な面持ちでこちらへ詰め寄ってくるのが見えると、フレドリックは露骨に狼狽えた。

 再び後ずさって距離を取ろうとするも、運悪く足元に落ちていた石ころに蹴つまずき、尻餅をつくだけに終わってしまった。

 こちらを見据えるメリルは、珍しく眉間に険しい皺を刻んでおり、どことなく苛立っているようにも見えた。

 彼女の〝言いたいこと〟とやらに、覚えがないわけではない。

 この期に及んで、聞き流す余地などないか――

 観念したフレドリックは、なるたけ少女の首から下を目に入れないようにと視線を高く保ちながら、黙って話を聞くことにした。

「その前に、服を着替えたいので鞄を渡してもらえませんか? このままでいると、服の中に危険な虫が入り込んだりすることもありそうです」

 言われた通りに鞄を渡すと、小さく謝辞を口にしたメリルは、早速と鞄を探り、サイドポケットから替えのブラウスとローブを取り出していた。

 あのそれほど大きくもない鞄の中に、一体どうすればあんなに大量の着替えを詰め込むことができるのか――率直に疑問を抱いたフレドリックは、繁々とその手際を見つめていた。

 ところが、一片の躊躇もなく唐突に、メリルがローブを脱ぎにかかるのが見えると、泡を食って少女に背を向けたフレドリックは、盛大な溜息を零しながら、ばりばりと頭を掻いた。そして何ゆえか、「あの女好きデューイの前でもこんなことをしてはいまいか」と、奇妙な憂いが押し寄せてくるのを感じていた。

「貴方は以前、私には異形と戦う力がないと仰いましたね。さっきの状況を見た上でも、まだ同じことを仰いますか?」

 こちらの心境を知る由も無い少女は、手前勝手な頃合いで再び話の続きを切り出し始める。

「……あの毒は、お前が調合したのか」

 既にこれまでの流れを丸ごとすっ飛ばしてしまっていたフレドリックは、「何の話だったか」と口にしかけたのをどうにか思いとどまって、言葉少なにぼそりと応えた。

「はい、そうです。でも、作り方さえ知っていれば、誰だって作れる薬なんですよ。どこの家庭にもある材料だけで調合できる、人間には害のない毒なんです」

 着替えを終えたらしいメリルは、背を向けたフレドリックの正面に回り込むと、小脇に抱えた鞄からあの小振りな〝本〟を取り出し、パラパラとめくってみせた。

「騎士になったら私は、こういった知識を民間に広める取り組みをしたいと考えています。いつ何時、どんな敵が現れても戦えるように。街の人だって常に、いつ現れるか知れない異形への恐怖と戦っているんですよ」

 そういえばデューイの執務室に居たときも、こうして彼女が本を片手に話すさまを見かけていたような気がする。

 その時は大方、本の記述に関することを話しているのだろうと思っていたが、彼女は記述を読み込むどころか、目を瞑ったまま話している。

 もしかすると、紙のめくれる音を聴いているのか――?

 随分個性的ではあるが、それは彼女にとって、いわゆる瞑想のような意味合いを持つ所作なのだろう。形は違えどそれは、武術の世界においてもごく当たり前に存在する手法である。

 風変わりですらあったその行為に深い意味を見出した途端、少女の振舞いのひとつひとつに興味が湧いてくるのを感じた。やがて彼女が沈思から解き放たれ、ゆっくりと目を開けたとき、その静かな瞳の奥には、溢れんばかりの熱情と輝きが宿っていた。

「貴方がとても強い人だということは分かっています。ですが、弱い人にしか思い付かない戦い方もあるんですよ。守られているだけでなく、自分にも戦う力があると信じられれば、きっと人は今より穏やかに生きていけます」

 この〝声〟は何だ?

 凪のごとく穏やかな音色からは想像も付かない、魔力を秘めているかのようなこの力強い声は。

 芯から輝き続けるその瞳を見つめていると、自身の胸からも言いようのない熱が湧き出してくるのが分かる。

『街角で子供たちに教えを説いていた彼女の姿に一目惚れしてね。その日のうちに説き伏せて、この執務室へ呼び寄せたんだよ』

 王城を訪れて間もなかったあの日、そんな風に少女との出会いを語ったデューイの表情はいつにも増して得意満面であった。軽薄そのものの言い回しはさて置き、やはり彼の慧眼については認めざるを得ないと感じる。

 彼女の言葉は、力そのものだ。

 聞くものの心を動かし、希望を与え、奮起させる大きな力がある。

 間違いなく彼女は、荒れ果てた世界の導き手になるべくして生まれてきた存在に違いない――確信を得たフレドリックは遂に、迷いのうちに送り込まれたこの樹海での、明確な役割を探し当てた気になっていた。

「そうか。俺は間違っていたのか……」

「い、いえ。決してそういうことではありません。強くなければ脅威に立ち向かえないという考えそのものは、正しいと思います」

 だが結果として自分は、彼女に救われた。所詮役立つはずがないと蔑んでいた〝学者風情〟に。

 異形の群れの中で倒れ臥そうとしていたあの時、彼女の智慧がなければおそらく、今という時間を迎えることはできなかった。

「弱い者にしか出来ない戦い方もある……確かにそれは事実なのかもしれない。お前に言われるまで俺は、そんな戦い方があるとは夢にも思わなかった。強くならねば生きてはゆけないと――孤児院を抜け出したばかりの頃の俺は、そう信じて聞かせるほかに、生きる術を見つけられなかった」

 気がつくとフレドリックは、募りに募った思いの丈を、目の前の少女に打ち明けていた。

 幼かったあの日、この目に焼き付けた真紅の状景を。すべての記憶、すべての感触、すべての思いを。

「聖女の血を戦死者の血で洗い流せば、彼女の罪はすすがれると――その妖刀が語ったのですか? だから貴方は、傭兵になる道を選んだと?」

 いびつな石床に座り込み、すっかりフレドリックの話に聞き入っていたメリルは、哀しみに暮れた面持ちで、右へ左へ静かに首を振った。

「妖刀の語ったことが事実だったのどうかは、もはや俺には分からない。一人でも多くの人間を手にかけるための狂言だったのかもしれない。だが気が付く頃にはもう、引き返せなくなっていた。戦いの道からは降りられなくなっていたんだ」

 フレドリックが語り終えると、二人の間には沈黙が立ち込めていた。

 しかしながら気まずい思いなどはなく、むしろフレドリックは今の雇い主であるデューイを除いてほか、誰にも語ることのなかった思いを打ち明けられたことで、心地よさすら味わっていた。こんなにも晴れ晴れとした気分でいるのは、無邪気な子供に過ぎなかった孤児院の頃以来だろうか。

 ところが、一方のメリルはそんな心境では居られなかったようである。フレドリックが清々しい静寂に浸っていた間、彼女はひたすらに分析を続けていたらしい。あれやこれやと小難しい単語を並べ、絶え間なく独言を零し続けている。

 何しろ自身で振り返ってみても、ひどく謎の多い人生だったのだ。学者にとってはおそらく、格好の考察材料であったに違いない。

 どうしたものかと持て余していると、彼女は唐突にフレドリックの妖刀を指差し、熱を込めた言い回しで問うてきた。

「その妖刀、こしらえからすると東方伝来の刀のようですが……意思を持ち語り掛けてくるという点が気になります。もしかすると貴方の言う通り、生物に近い存在なのかも……王都へ戻ったら、私に調べさせてもらえませんか? 東方文化のことなら、留学経験のあるレヴィン様あたりがかなりお詳しいはずですし――」

「おい、無闇に触ろうとするな!」

 勢いでそのまま刀の柄に触れようとしたメリルの手を、半ばはたき落とすかのように押し返したフレドリックは、思わず叫んでいた。

 流石に今まで、この呪われた刀を他の誰かに触らせたことは一度としてない。余計な配慮を煽ってはまずいと、妖刀の求める対価に関することは打ち明けていないのだが、それが仇となったのかもしれない。やむなくフレドリックが、釘を刺そうと思い立った矢先のことであった。

「あら? それはもしかして……」

 一人語りを続けていたメリルが、唐突に妖刀の傍らを指差していた。そこには、この樹海へやって来てから一度も抜いていない〝もうひと振り〟が収まっている。

「これ、デューイ様が護身用に佩かれていた剣ではありませんか? どうして貴方がこれを?」

「ああ、それは――」

 ようやっとメリルの注意が妖刀から逸れてくれたことに安堵したフレドリックは、握り慣れない新品同様の剣の柄に手を掛け、軽く抜いてみせようとした。

 その瞬間、不意に生ぬるい風が吹き付けてきたかと思うと、広場に滞留していた芳香ががらりと気配を変えるのか分かった。

 視界を遮った前髪を撫で付け、フレドリックは風圧の侵入口を振り返る。

「また竜香……? 今度は外から漂ってきているのか? 他の参加者の中に、お前と同じようなことを思い付く人間がいるとは考えられんが」

「違います! 確かに似ていますが、それだけではない……どこかえたような、おかしな匂いが混じっています!」

 事態の異常さは、叫声とともに立ち上がった少女の表情がはっきりと物語っていた。肩掛け鞄のベルトを握りしめたメリルの表情は、恐怖と焦りに埋め尽くされている。

 刹那、胃の腑が裏返るほどの凄まじい雄叫びが轟き、洞穴全体が激しく振動していた。百獣にあらざる特異ないななき――それは、先ほど枯れ森の一画で《食屍鬼》の群れを震え上がらせた、あのけたたましい咆哮と同じものに違いなかった。

「この声は……本物の竜なのか?」

「まさか、こんなところに竜がいるなどという話は――」

 大方あの嘶きも、焚き出した竜香と同じく、メリルの仕掛けた奇計のひとつなのだろうと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。

 よろよろと後ずさったメリルはひどく取り乱している。この場はひとまず彼女を洞穴の奥へと逃がし、外を見に行くべきか――そこで竜と思しき怪物と対峙する羽目になったとしても、洞穴から注意を逸らすくらいのことは出来るかもしれない。

 そうして腹を決める頃にはもう、フレドリックは再び洞穴の侵入口を目指し、小走りに駆け出していた。

 ちょうど、その時のことである。

 ――声が聞こえた。

 それは、ともすれば洞穴を吹き抜ける風の音に容易く掻き消されてしまいそうなほどの、微かな微かな声であった。しかしながらフレドリックが聞き逃さなかったのは、その声が紛れもなく〝人〟の発したものであることを瞬時に察したからだ。

「あの声は、ラナの声だわ!」

 すると、それまでただただ恐怖に慄くばかりであった少女の面持ちが一変する――考える間を置かず、メリルは弾かれたように地を蹴り、走り出していた。

「待て、メリル! 迂闊に動くな!」

 はっと息を呑んだフレドリックが制止を叫ぶ頃、既に少女は侵入口へと続く通路に飛び込みかけている。

 小さく舌打ちを零したフレドリックは、ひび割れたランタンを拾い上げ、少女の背中を追いかけていた。

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