第三十二話 集う宿星

 その剣さばきは誰から教わったものでもなく、紅の刃とともに死地を駆け抜けてゆくさなかで、フレドリックが手ずから魂に刻みつけていった〝戦いの記憶〟であった。

 孤児院を飛び出したあの夜、聖女の流した血を啜り、永い眠りから醒めた一振りの刃は、意思持つ〝妖刀〟であった。

 聖堂に佇む軍神像の胸に抱かれていたその刀は、恐ろしいほどよく斬れた。

 人の肉も、鋼鉄の鎧も、盤石の城壁も。時には幻獣の鱗ですらも、紙切れ同然に容易く斬り裂いた。ひとたび柄をとり、討ち止める標的を一瞥すれば、まるで刃に導かれるかのように体が動き、すべてを死に至らしめることができた。

 力尽き果てる頃、背後には屍の山が累々と積み重なり、フレドリックは孤独の荒野の真ん中に、呆然と立ち尽くしている。

 敗者の返り血に染まった己に、修羅のごとく殺戮をばら撒き続けた己に、祖国の民たちは熱狂し、喝采を浴びせた――あれこそが真の英雄、〝紅き獅子〟であると。


 在りし日の荒野を思い返しながら、フレドリックは暗がりの森で妖刀を振るう。

 翻すたびに、刃は斬り捨てた《食屍鬼グール》たちの体液と脂とで曇り果てていったが、次なる獲物を目で捉えさえすれば、濁った刃は無造作な血振りひとつで再び元の輝きを取り戻した。

 しかし、ひたすらに斬り続けながら、フレドリックはまるで見えない傷口からだくだくと血潮を流しているかのように、自らの生命力がぐんぐん失われてゆく気配を感じ取っていた。

 やはり、駄目なのか――。

 原因は、他ならぬ手中の刃にあると分かっている。

 刀に異変が起きたのは、世界が《審判》の日を迎えて間もない頃のことだった。

 その刃は恐ろしいほどよく斬れ、どれだけ手入れを怠ろうと錆び付かず、どんな窮地にあっても、紅獅子フレドリックの未来を斬り拓き続けた。しかし、災厄の訪れとともに世界から戦の火種が消え去った途端、百戦の伴侶ともは、持ち主であるフレドリックに牙を剥いたのだ。

 無上の斬れ味と引き換えに、刀はフレドリックの生きる力を根こそぎ奪っていった。片眼の視力の殆どを奪われた後は、日を追うごとに息を継ぐ力が弱くなり、刀を振るえる時間は随分と短くなってしまった。

 手を取り共に歩むものなどでなく、の刃は紛うことなき〝妖刀〟であった。それは〝人の死〟を喰らって生きるモノ。戦渦の内にしか生きられぬ死神であったのだ。

 皮肉にもそれは、緑溢れる世界に置き去りにしてきた自らの姿に、驚くほどよく似ていた。


 しかしながら、破滅に蝕まれた世界には妖刀の力が必要だった。未知の異形と渡り合い、生き残るためには、並大抵に収まらぬ強力な武器が必要だった。

 そうして、己を顧みることなく刃を振るい続けた結果、フレドリックを蝕む病は日に日に重みを増してゆき、今では刻限の訪れを間近に感じる日も多くなっていた。

 それでも後悔はしていなかった。平和のために剣を取ること――それは、人斬りとして生きた過去の世界においては思い描くことすらなかった、大きな意義と意味に満ちていたから。


 ひどく息が上がっている。

 疲弊は進み、体のそこかしこを鈍い痛みが這い回っていた。

《食屍鬼》を相手に、万が一にも競り負けることなどありはしないが、この数をまともにさばいていてはキリがない。いたずらに時が過ぎ、体力が尽きれば、いずれ数に押し負ける瞬間はやってくる。そうなる前に、どうにかしてこの場を離れなくてはならない。

 実のところ、フレドリックにはたったひとつ〝当て〟があった。

 見覚えのある地形。見覚えのある植物の痕跡と、闇の色。転移させられてすぐに気が付いた――ここは八年前の夜、悪夢のような初陣を経験した、に違いない。記憶が正しければ、この先には身を隠すのに適した、深い横穴があるはずだ。そこへ辿り着くことさえ出来れば、この果てのない持久戦からも解放されよう。

 思案に暮れた時間の分だけ、疲弊は着実に積み重なってゆく。もはや今のフレドリックに、後先を案ずる余裕などなかった。妖刀を構え直し、闘気をみなぎらせる――

「くっ――――!」

 ところが、退却への一歩を踏み出した瞬間のことだ。

 魂が砕けんばかりのひときわ鋭い痛みが胸の真ん中を走り抜け、フレドリックは思わず身を竦ませていた。掻き毟るように胸元を掴んだときにはもう、四肢の隅々を、激しい悪寒と焦燥が支配している。

 ――始まってしまった、よりにもよってこんな時に。

 吸っても吸っても、息が足りない。真綿で首を絞められているかのように、じわじわと息苦しさが迫ってくる。

 耳に届いていたのは、自らの荒い息遣いだけだった。湿風しめかぜが樹々を揺らす音も、異形たちの隔靴掻痒たる叫び声も、まるですべてが水底へ没してしまったかのように、くぐもった雑音に変じている。

 どれだけもがこうと、その地獄のような苦しみに抗えないことは分かっていた。それでもフレドリックは激しい震えをこらえ、切っ先を下ろすことなく捕食者たちに睨みを利かせ続けた。

 刹那、フレドリックの内側を蹂躙していた強烈な悪寒が、喉を裂かんばかりの咳となって溢れかえった。激しい圧力によってあばらは軋み、収縮した喉元が鈍い悲鳴をあげる――


 瞬くほどの僅かな時間を、どれだけ長く感じたことだろう。

 喘ぐように浅い呼吸を繰り返していると、滲んだ視界にうようよとひしめいていた《食屍鬼》たちが俄かに色めき立ち、じりじりと後ずさっていくのが見えた。

 何故だ……何故、仕掛けてこない?

 行動不能も同然の獲物を目前にしながら、《食屍鬼》たちは一匹として飛び掛かって来ない。それどころか、血走った目をぎょろつかせ、明後日の方向を見つめている。

 発作が収束する兆候を感じたフレドリックは、深々と息を吐き、乱れた呼吸をすぐさま整えた。口元を伝う血の筋を拭い、四囲へと注意を払う。

 これは――!

 やおら息を吸うと、一帯にひときわ強い香気が立ち込めていることに気が付いた。

 そのあまりの〝懐かしさ〟に、フレドリックは自身の置かれた危殆も忘れ、しばし呆然と立ち尽くしていた。

 瘴気の重圧と、汚泥のカビ臭さを残らず覆い隠してしまうほどの濃密な芳香――それは〝竜香りゅうか〟と呼ばれる高貴な香りであった。その名の通り竜香とは、世界が焦土と化す以前、巨大な翼を広げ、大空を我が物顔で悠然と翔び回っていた、最大にして最強の生命体――〝ドラゴン〟の放つ香りのことである。

 この世の如何なる花、香木、香草をもってしても、超越することは叶わないとされる、幻の清香。心の最も深いところに一切 のつかえなく染み渡ってゆくその香りは、人の安らぎの感情そのものであるとも言われている。

 人の数倍長い寿命を持つとされる竜の中には、時折その更に数十倍という長い年月を生きる、〝古竜エインシェント・ドラゴン〟と呼ばれる個体が現れることがある。竜香は、個体のもつ力が強大であればあるほど濃厚で芳醇なものとなるが、これほどの香りを放つ存在となれば、古竜クラスの個体である可能性は充分高いと考えられる。

 ならば、《食屍鬼》たちがひたすらにおののき、竦みあがっている現状にも納得が行く。《審判》以前、異形というものがまだ少数の個体でしか確認されていなかった時代、異形は竜の好物であったという話を聞いたことがある。つまり異形にとって竜は、天敵そのものなのだ。

《食屍鬼》たちの動向に気を配りつつ、フレドリックは静かにその馥郁ふくいくたる香りの源を探っていた。

 巨木を背にして立つ自身の斜め後方に、奇岩の連なる懸崖がそびえ立っている。そのいびつな岩壁の下方には、潜入に充分な高さと広さを備えた洞穴ほらあなが口を開けているのが見えた――おそらくそれは、フレドリックの記憶の中にあった横穴と一致する。

 風向きから推察するに、竜香の発生源はあの洞穴以外に考えられない。大型生物が入り込むにはかなり狭い入口ではあるが、ここではないどこか別の侵入口が存在している可能性もあるだろう。

 なるたけ足音を立てぬよう注意を払いつつ、フレドリックは件の洞穴を目指してゆっくりと後退してゆく。すると、突如後方から、空気をつんざくような鋭い雄叫びがあがった。

 獅子とも狼とも、地上の如何なる獣のものとも異なるそのけたたましい咆哮は、大地をひっくり返すかのような凄まじい衝撃と圧力とを有していた。

 あれこそが、竜の咆哮に違いない――。

 憶測が確信へと変化した瞬間、異形の群れに、波紋の如く動揺が拡がってゆくのが分かった。

 人に似た容姿を持ってはいるが、《食屍鬼》も詰まるところ、獣の端くれであることに違いはない。獣とは、階層ヒエラルキーの上を行く強者に対しては、ことごとく屈する以外に術を持たぬ生き物だ。抗えぬ本能に気圧された《食屍鬼》たちは、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃走を始めていた。

 未だ決断を下せず、おろおろと二の足を踏んでいた最後の数匹に鋭く睨みを利かせてやると、犬に似た容貌を恐怖に引きつらせた居残り者たちは、文字通りの負け犬染みた遠吠えを残し、尻尾を巻いて逃げ去っていた。


 ――仄暗い樹海に静寂が戻る。

 残されたのは、瘴気を覆い尽くすように滞留した芳しい竜香のみであった。

 腰元の鞘へ刀を仕舞い、フレドリックは背後の洞穴を振り返っていた――中へ入るか否か。薄明かりの揺れる入口を見つめ、しばし思案する。

 天敵の気配に満ちた洞穴の中へ潜れば、少なくとも低級異形の脅威に晒されることはない。だが聖域の源たる竜がこちらに友好的であるかどうかは、目下のところ不明である。


「うん……?」

 そこまでを思案したところで、フレドリックは微かな違和感を感じ取り、再び洞穴の口元に目をやった。

 少しずつ距離を詰めてゆくと、洞穴の入口付近に何やら細々こまごまとしたものが散乱しているのが見える。

 小振りのナイフ、革製の水筒、割れた小瓶に、火打ち石、羽根ペン――そして、それらをまとめていたとみられる肩掛けの道具袋。人の居た痕跡を明確に指し示すそれらは、手前のぬかるみを避けて洞窟の奥へ投げ入れられており、いずれも真新しかった。

 乱雑に散らばった落とし物を拾い上げながら、フレドリックは持ち主の面影を想像しようとする。しかし、他の候補者たちとは殆ど面識もなく、よくよく考えれば名前はおろか、顔立ちすら思い出せない者ばかりであった。

 眉間に込める力を強めつつ、最後の手掛かりに目を落とす。

 その瞬間、濃霧が立ち込めるばかりであったフレドリックの頭の中を、ひとつの面影が過ぎっていた。

 それは、手の平よりもひと回り大きい程度の、小振りな〝本〟である。

 その本を後生大事に抱えていた少女を、よく覚えている。覚える気などさらさらなくとも、彼女の名は誰より多く耳にしていた。〝契約者〟たるデューイの補佐官を務めていた少女。彼女の名は――

「メリル……」

 その名を口にした途端、フレドリックの胸中を焦燥が支配していた。

 ――だからあれほど、警告したのに。

 力の無いものが戦おうとするなと、きつく言い聞かせたはずだったのに。

「メリル、いるのか? いたら返事をしろ!」

 気が付くとフレドリックは、驚異の可能性も忘れ、洞穴の奥へと走り出していた。

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