第三十一話 背中合わせの蕾・3

「ヴァイス、君は本当に――本当に、あの〝紅獅子〟を赦せるのかい? かけがえのない仲間を殺した仇が、近くにいるんだよ? それどころか、これからずっと一緒にいるかもしれないなんて、本当に耐えられるのかい?」

 失意にぐらつくラナの傍らで、エスターは迷うことなく最大の懸念を吐露していた。

 その答えを聞き知ることが恐ろしすぎて、ラナはヴァイスに背を向けたまま、身じろぐことすら出来ずに震えている。

 ――しかし。

 背後から伸びてきた大きな手が、結わえた後ろ髪をわしゃわしゃと掻き回してくるのが分かり、驚きに目を見張ったラナは思わず振り返ってしまった。視界に湧き出した滲みを拭うと、そこには苦々しく歪んだ大男の笑顔がある。

「耐えられる、耐えられねえの問題じゃねえんだぜきっと。俺たちは赦さなくちゃなんねえんだ――復讐心なんかより、もっとでかい願いを叶えるために」

 刹那、ヴァイスの言葉が口火となったかのように、ラナの内側を激しい痺れが走り抜けていた。続けざま、彼の姿ただひとつを残し、瞬く間に眼前の景色が霞んでゆく。

 枯茶の樹々が掻き消え、漆黒の空が白く塗り潰され、足下を打ち過ぎる流水が薄れて霧散する。やがて地を踏みしめる感覚はおろか、肉体の認識すら消し飛んでゆく最中、唯ひとつ残った暴れ狂うような胸の熱だけが、ラナの意識を繋ぎとめていた。

 ああ、これは――

 ほとばしった熱が喉を突き抜け、頬を伝い落ちてゆくと、胸の奥には馴染みのない感情だけがぽつりと取り残されている。やがてそれが、しくしくと鈍い疼きを放ち始めたとき、ようやっとラナは、そのえも言われぬ感情の理由わけを思い知ったのだった――このほろ苦い痛みこそが、〝焦がれる想い〟であるのだと。

 その生まれて初めての、心地よい疼きをいつまでも噛み締めていたくて、ラナは胸元で両手を重ね合わせ、大きく息を吐いていた。


「どうして……?」

 しかし、激した心に思いを馳せていられたのは、ほんの束の間のことである。

 傍らで立ちのぼった大きな水柱が、熱を帯びたラナの頬に鋭い飛沫を浴びせかけた。

 驚きに顔を上げると、岩場から飛び降りたエスターが、険しい眼差しでヴァイスを睨め付けている。

 王城で別れた時のまま、汚れひとつ認められなかった衣装はすっかり濡れそぼちていたが、エスターにそれを気にした様子はない。

「どうして分かってくれないんだい、ヴァイス。君はあの悪夢を間近で体験した当事者だっていうのに――!」

 苛立ちと疑りの心。何より膨れ上がっていたのはきっと、仲間の理解を得ることの叶わない悲しみであったのだろう。

「どうして――どうしてなんだ――!」

 それらを少しも隠すことなく剥き出しにしながら、エスターは固めた拳をヴァイスの胸に叩き付けた。

 細腕の槌を何度振り下ろしたところで、巨木のような大男の体はびくともしない。それでもヴァイスの眼差しは、小さな拳が振り下ろされるたび、悲哀の色を深めていった。

 ――やがて、鋭い詰責が嗚咽に変わった頃。

 ヴァイスはラナにしたのと同じように、節くれ立った大きな手で、エスターの金糸を力強く掻き回していた。

「よしよし、言いたいことは全部言い切ったな。少しは落ち着いたか、エスター?」

 苦々しく微笑んだヴァイスが、小刻みに震えるその肩を優しく小突くと、今にも崩れ落ちそうだったエスターの四肢には不思議と力が蘇っていた。

「そんな訳ないだろ。もう、めちゃくちゃな気分だ……」

 使い古した毛箒のようにぼさついた髪を撫で付けながら、エスターは大儀そうに息を吐く。腫れぼったくなった目元には、拭い切れず残った涙の粒がうっすらと滲んでいた。

 これと決めた信念を曲げない性格は生来のもので、幼い時分には問答を仕掛けた行く先々で、年がら年中癇癪玉かんしゃくだまを破裂させていたエスターであったが、物心ついてからの彼がこんなにも乱れる様を見たのは初めてだった。

 エスターが態度を頑なにした試験直前、合理主義者のガラハッドは彼の主張を〝古臭い〟と断じてみせた。だがそれは本当に、不要の一言で切り捨てられるべき思いだったのだろうか――ぐずついた鼻をごしごしと擦った幼馴染みの姿をぼんやりと眺めていたラナの脳裏には、今更ながらにこんな思いが湧き出していた。

 成り行きと憧れだけで騎士見習いをしていた自分と違い、名だたる騎士たちに囲まれて育ってきた彼には、騎士の矜持とも呼ぶべき気骨がはっきりと備わっていた。ただそれだけのことではなかったのだろうか。

「……何だよ、急に黙り込んじゃって。何か文句でもあるの」

 しかしながら、他ならぬ当事者がこんな態度でいるうちは、とても素直にその心情へ寄り添ってやる気になどなれない。

「別に。小さい頃はそうやってよく泣いてたのに、いつの間に泣き虫が直ったのかと思っただけよ」

「うるさいな……子供の頃のことなんかどうでもいいだろ。君だってしょっちゅう泣いてたくせに!」

 結局いつも通りにいがみ合いが始まると、ラナの胸には再び鬱々とした苛立ちだけが残留していた。


「なあエスター。試験前にさ、ユダがあの広間でお前に言ったことを覚えてるか?」

 すると、しかめっ面で睨み合っていた二人を何ゆえか微笑ましげに見守っていたヴァイスが、唐突に口を開いた。

 エスターが元の怜悧な顔色を取り戻したことを確かめると、ヴァイスは肩に担ぎ上げていた斧を力任せに川底へ突き立て、「まあ座れよ」とばかりに、側の岩場を指先で示してみせた。

 じっくり話がしたいってことよね?

 不意に脇へ視線を送ると、既にエスターは適当な岩場を見繕い座り込んでいる。彼の傍らには如何にも腰掛けるのに適した平らな岩が突き出しているのが見えたが、ラナは敢えてひとつ隣のいびつな岩を選び、そそくさとそこへ腰を下ろしていた。

「〝フレドリックは、憎まれることも蔑まれることも全部承知の上でここに居る〟とかいうやつでしょ? 覚えてるよ……ああいう夢見がちな台詞を吐く人間が一番嫌いだからね、僕」

「何ですって? ユダのこと悪く言ったら、このあたしが――!」

「あーあーあー、ややこしいからお前はしゃしゃり出て来んなって。俺たちは男同士の話をしてんだからな」

 間髪を入れず激昂し、少年のもとへ突進しかけたラナの首根っこを掴み上げたのは、ヴァイスである。

 そのまま雑っぽく脇へ放り投げられ、強かに尻を打ち付けたラナはむくれていたが、そんなことなどまるで気に掛けた様子もなく、ヴァイスは穏やかな眼差しをエスターに注いでいた。

「ユダの言ったことは夢なんかじゃねえだろ。いくらフレドリックだって、自分がこの国の民にとっちゃ、石ぶつけられるくらいじゃ済まねえ存在だってことは分かってるさ。だが、あいつに騎士になる資格が有るか無えかってのは、俺にゃまだ分かんねえよ。俺たちはまだ、あいつがどんな奴なのか知らねえ。金さえ貰えばどんなことでもするただ汚いだけの野郎なのか、やりたくないことを無理にやらされてただけの気の毒な奴だったのか――まだまだ何にも分かっちゃいねえだろ?」

 ヴァイスの言葉を聞いた後も、エスターの面持ちに大きな変化はなかった。おそらく、彼の口からこんな台詞が飛び出すであろうことは予想していたのかもしれない。

 しかしエスターは、いつもの棘どころか、僅かな感情さえも表に出すことなく、傍らの熱論に傾聴し続けている。澄んだ空色の瞳を伏せ、じっくりとヴァイスの話を噛み砕こうとしている。

「だがお前の言う通り、あいつは昔、とんでもねえ悪事に手を貸しちまった。その事実ばっかりは変えらんねえ……だったら俺たちはどうすりゃいいんだ? 野垂れ死ぬのが分かった上で、あいつを異形だらけの荒野へ放っぽり出しちまえばいいのか? それとも、取っ捕まえて処刑しちまうのがいいのか? 俺はどっちも違うと思うね。あいつにはあの時の罪を償わせなくちゃなんねえ。あの日死んでいった仲間のためにも、その後あいつが斬り殺していった同胞のためにも。俺たちはあいつの償う姿を、一番近くで見届けなきゃなんねえ義務がある――そうは思わねえか?」

 語るほどに熱を帯びていったヴァイスの言葉は、驚くほどラナの心にすんなりと溶け込んでいった。思いの丈を出し切ったとばかりに深く息を吐いたヴァイスは、満足げに笑みを零す。

「それは、そうかもしれない……確かにあいつのやったことは、あいつ一人の命を差し出したところで済まされるものじゃないね」

 そしてとうとう、頑なに凍りついた少年の心が緩やかに解け出す瞬間が訪れた。他ならぬ悲劇の当事者の説いた思いは、想像以上の力で彼の心を衝き動かしたようだ。

「死を以て償いとすることは、最も簡潔シンプルで、容易い方法だ。でもそれは残された側からすれば、ただ死者が余分に一人増えるだけで、何より無益なことなのかもしれない。だったら彼には、意味のあることをしてもらわなくちゃ――何が何でも生きて、償いの証を示し続けてもらわなくちゃね。たとえそれが、死ぬより辛いことだったとしても」

 言いながら肩を大きく上下させ、静かに呼吸を入れ替えたエスターの面持ちは、これまでの迷いがすっかり消えてなくなったかのように晴れ晴れとしていた。心なしか普段の小生意気さが鳴りを潜め、数段大人びた気配さえする。

「償い――そうか、償いか。でもなあ……あいつ生意気っていうか、反省してる感じには見えないんだよね。ふてぶてしいっていうか、面の皮が厚いっていうか」

 あんただけには言われたくないわね!

 すかさず身も蓋もない言い前が頭を過ぎったが、おそらく同じ境地に至ったであろうヴァイスが分かりやすく目配せしてきたことで、ラナはどうにか返す刃の衝動を抑えることが出来ていた。

「彼を守護騎士に推薦したのは、デューイだったよね? 王国中の嫌われ者って言ってもおかしくないフレドリックに、騎士になれだなんて――考えてみれば、それ自体が拷問か公開処刑みたいなものだ。わざとやってるとしたら、こんなに酷いことはないよねえ」

「言われてみればそうよね……やっぱりあいつ、ろくな人間じゃないんだわ。はらわたまで真っ黒なのよ、きっと!」

「いやいや、流石にそりゃねえだろ……あの二人は知り合いみてえだし、もしかしたら別の理由があるのかもしんねえだろ?」

 ヴァイスはそう言って苦笑いを浮かべたが、幼馴染みの発言を聞いてからというもの、ラナの中ではそれまで悪の化身と同義であったフレドリックが、黒幕に使い走られる被害者のように思われてならなくなってきた。見えない手綱を握り、薄ら笑う腹黒軍師の真の姿を想像し、ラナは切々と嫌悪感を募らせる。

「まさか君に説き伏せられるなんて思ってもみなかったな。でも……うん、悪くない言い分だったと思うよ」

 いつの間にかエスターはヴァイスの隣に並び立ち、「もっと話してもいいんだよ」とばかりに好奇心に満ち満ちた目で傍らを見上げている。その眩しげな眼差しはどこか、実兄のカイルに向けられるそれに似ていた。

 実際彼は、敬愛する兄の前ではいつだって素直で、こんな風に屈託無い笑顔で話していたような気がする。

 ――またほんの少し、彼が羨ましくなった。不意に差し込んできた胸の痛みを誤魔化そうと、ラナは跳ねるように立ち上がり、矢庭に声をあげてみせる。

「学校にだって、そんな決まりがあったじゃない。悪いことした奴は奉仕活動! 当然の償いよね!」

「いや、それとこれとはスケールが全然違うと思うけど――君がやらされてたのって、せいぜい草むしりとかゴミ拾い程度のものだよね?」

「うるさいわね! いちいち余計な追及しなくていいのよ!」

 お決まりのやり取りを交わす頃には、胸の煩わしさは散り散りに消え去っていた。

「でも、ヴァイス――僕はあいつが少しでも覚悟を鈍らせた時は、その場で断罪するよ。誰が何と言おうと、それだけは譲りたくない」

 そう言って背中の重みを預けてきたエスターに、ヴァイスはほんのり口元を歪ませ、「そうだな」と短く答えた。

「だから僕、今後もあいつとは仲良くしないから。私情を挟んで、覚悟が鈍ったら元も子もないからね」

「うわ。面倒くせえ奴だな、お前は」

「いつまで子供ガキくさいこと言ってんだか。そんなんじゃカイル様みたいに立派な騎士になれないわよ」

 多少なりと見直したかと思えば、またこの調子である。

 彼の信条には概ね寄り添えるようになってきた気はするが、今のように子供染みたこだわりを持ち出されると、露骨に辟易してしまう。

「別にいいもんね。兄さんはもちろん立派な騎士だけど、僕は僕だから」

 くるりとこちらに背を向けたエスターが、どんな顔をしているのかは分からない。けれども不思議と、その声はいつもの刺々しさを帯びてはおらず、どこか弾んでいるようにさえ思われた。

 ――変なやつ。

 ゆっくりと遠ざかっていくその背中を見つめていると、何故だかラナは、無性に口元のニヤつきを抑えられなくなっていた。


*****


「え……ちょっと、どこ行くのよ?」

 傍らのヴァイスとひとしきり笑みを分かち合った後、再びエスターの背中に目をやったラナは思わず声をあげていた。

 いつの間にやらエスターは、ラナのいる浅瀬から遠く離れ、元来た道のりを引き返そうとしている。

「忘れ物したのを思い出したんだ。先に行っててくれない? イスカ村の場所ならもう把握してるから、すぐに追いつくよ」

 せっかく合流出来たのに、今更どうして?

 川床から斧を引っこ抜いたヴァイスと同時に駆け出したラナは、そんな風に問いかけようとした。

「君たちは僕がいないと、この森じゃまともに生きちゃいられないもんね?」

 こちらを振り向いたエスターの顔には、満面の笑みが灯っている。

 思わずラナが反論を口にしかけたその時、唐突に青白い光を放ったエスターの体が、するすると足元の土中へ呑み込まれてゆくのが見えた。

「おい、エスター! 行き先くらいちゃんと――」

 ヴァイスが焦った声を漏らしかけた時にはもう、彼の体は完全に地面の下へと沈み込み、見えなくなっていた。しかし最後の最後で童心が顔を覗かせたのか、すぐさま片手だけを再び地上へ突き出したエスターは、こちらの焦りを見透かすかのように、細長い手指を涼しげに振り動かしてみせる。

 やがて、水面みなものごとく波立った地表がおどけた白い手を飲み込むと、それっきり彼の姿は跡形もなく消え去ってしまった。

「おいおい、あいつほんとに居なくなっちまったぞ?」

 おそらくは、先ほど樹々の海を突っ切った時と同じ魔術を使ったのだろう――念のため彼の立っていた砂利の上を覗き込んでみたが、そこには痕跡などひとつも残ってはいなかった。

「相変わらず、勝手な奴ね……忘れ物って何のことなのかしら?」

「さあな。ま、あいつのことだ。迷子になんねえ自信があるから離れたんだろうよ。とりあえず俺たちは、先を急ぐとしようぜ。充分休憩は取れただろ?」

「ええ、もちろん!」

 親指を立て、にやりと歯を剥き出しにしたラナは「何処へでも連れて行け」と叫ばんばかりに、揚々とヴァイスの手の平を掴んだ。再びあの軽快な体捌きを間近で見られるのかと思うと、うきうきと心が弾み出すのがわかる。

 ――ところが、何故だか彼は一向に走り出そうとせず、対応に困ったような目遣いでこちらを見下ろしていた。

「いや……たぶんこの先もうあんなに酷い道は無えだろうから、手なんて繋いでなくてもはぐれたりはしねえと思うぜ?」

「ぴゃああああああ!」

 さながらそれは、小獣の吼え声のような。

 喉から直に絞り出した音なのではと錯覚するくらい、異様な金切り声をあげたラナは、驚きに身を竦ませたヴァイスの手を投げ捨てるように振りほどき、全力で藪の向こうへ転がり込んでいた。

「は? 何だ? どうした?」

 目が、耳が、頬が。首から上の全部が爆炎をあげているような気がする。

 干からびた枝葉が爆ぜ、頭を抱えてうずくまったラナの太腿をちくちくと突ついていたが、そんな痛みなどもはや少しも気にならなくなっていた。

 何なのよ今の声! 異形も尻尾巻いて逃げちゃいそうだわ!

 何なのよ今の変な動き! 丸太もびっくりの転がりっぷりだったじゃない!

 それより何よりあたし、どうしてあんなに堂々と手なんか繋いで――!

 とにかくもう、何もかもが恥ずかしくて仕方なかった。

 もう嫌だ……このまま消えたい……。

 この場から逃げ果せるためだけに、エスターから〝転移ワープ〟の術式を学んでおくべきだったと、本気で後悔している。

「おーい、何やってんだよ。一体何に驚いたってんだ?」

「来ないで! 放っておいて!」

 すっ惚けた表情でただただ困惑しているヴァイスがおそらく〝分かっていない〟であろうことは唯一の救いだ。そうでなければ今頃は羞恥に耐えかね、あの清流を力の限り泳いで遡るくらいの奇行には及んでいたに違いない。

「何なんだよ……お前、なんか怒ってねえか?」

「うるさい! 放っておいてって言ってるじゃないの!」

 今よりましな申し開きをしたい気持ちは山ほどあったが、狼狽の渦の中に取り込まれたラナにはもはや、傍らを振り返る余裕すら残されていない。

 湧き出す焦りを拳に凝縮し、ラナは儘ならぬ思いの丈を、ひたすら藪の奥に転がった流木らしきものにぶつけていた。

 ――そんな折のことである。

「えっ?」

 微かな異常に気が付いたのは、奇妙な膠着状態が始まってから随分経った後のことであった。

 流木を殴りつける手応えの中に、不可解な〝弾力〟が混じり込んでいる。

 密度ある塊のような弾力を持ちながら、その表面はまるで岩肌のように硬質で、ごつごつとした凹凸に覆われている。おおよそ、ラナが触ったことのあるもののどれにも当てはまらない感触であった。

 何かしら、これ――?

 怖々と、その奇妙な物体の横たわる地面へ視線を落としてみる。暗闇の森を覆う枯れ色を宿した、いびつに折れ曲がる木の根のようなそれを辿り、藪の奥へと瞳を滑らせてゆく。

「ラナ? どうし――」

 そうして、唐突に喚くのを止めたラナを怪訝げに見つめたヴァイスが声を掛けてきた時のことだ。ぶつぶつと草の千切れる音が聞こえたかと思うと、突如として、ラナの座り込んでいた藪のあたりが大きく揺れ、傍らから巨大な塊がのそりと起き上がっていた。

 地面が、動いた――!

 それは先ほど、エスターが披露してみせた魔術のごとく、大地が意志を持って隆起したかのような光景であった。

 ラナがさんざっぱら殴打していた足元の流木は、あろうことかその大地の塊の一部に

「う……嘘だろ、おい……」

 ラナの背後で、蚊の鳴くような呻き声をあげたヴァイスは、おそらくもうその正体に気が付いている。

 それは、ひび割れた大地そのものをね上げて造られたかのような――いびつな枯れ色の鱗に覆われた、巨大な蜥蜴とかげ。地上の誰しもが〝最大最強の存在〟と知っていながら、その誰もが目の当たりにしたことのない、幻の獣であった。

ドラゴン――!』

 二人の吐露した答えが、ぴったりと重なっていた。

 そして、互いが救いを求めるように、そっと瞳だけを動かし、視線を交わし合った瞬間のことだ。

 枯れ色の巨塊が極太の首を持ち上げる。さながらそれは、小振りな山と対峙しているかのような様であった。オニキスのように深い闇色をした二つの瞳がこちらを捉えた途端、鋭い歯列の揃った顎門あぎとが裂けんばかりにこじ開けられる――刹那、地鳴りを伴うけたたましい咆哮が響き渡っていた。ラナとヴァイスの周囲に、激しい衝撃波の嵐が巻き起こる。

 朽ち木の破片と砂利のつぶてを巻き込み、紙くずのように吹き飛ばされたラナの身体が、為すすべなく川べりを転がった。

「なんでこんなところに竜が――!」

 鋭い痛みが全身を蝕んでいたが、気を割く余裕などあるはずもない。

 瓦礫の驟雨の中で懸命に身を起こしたラナは、再び怪物の起き上がった岸を見遣る。すると、いきり立った竜がこちらへまっすぐに突進してくるのが見えた。

「ラナ、逃げるぞ!」

 吐き捨てるように吼え、ヴァイスが一目散にラナの側へ駆けてくる。大男の形相に我を取り戻したラナは、すぐさま並んで駆け出していた。

「何なのあれ! 何なのあれ!」

「知らねえよ! 俺だって聞きてえっての!」

「何で最初に言わないのよ、この樹海に竜がいるって!」

「だから知らねえって! 分かってたらちゃんと話すに決まってんだろうが!」

 それもそうだ、と素直に納得しかけて、ラナはすぐさまぶるぶると首を振り乱していた。

 命知らずな猟師ハンターらによって存在こそ確認されてはいたものの、竜種などというものはそもそも、この大陸においては一生遭遇しないことが当然と言っていいほど稀少な種族である。

 それは彼らが、人の身では到底足を踏み入れることの叶わぬ辺境の地――この樹海をも飛び越えた最果ての地にあると言われている、巨大な岩山の窪み――《深淵の裂け目バースト・オブ・アビス》にのみ棲息する種族であったためだ。

 災厄ののちの世界においては、増加の一途を辿る異形たちの噂が飛び交うばかりで、竜種の目撃談など聞いたことがなかった。滅亡の噂すらあった種族との遭遇は、おそらく奇跡に等しい巡り合いと言えるのだろうが、邂逅の喜びになど到底浸れそうもない。立ちはだかる樹木を根こそぎ薙ぎ倒し、地獄の入口のような顎門を広げて獲物を追い立てるその姿は、異形ともさして変わりのない、人にとっての〝害悪〟そのものであったから。

 竜の口端からは、荒々しい息遣いに合わせるように紅蓮の筋が立ちのぼっている。紛れもなくあの竜は、灼熱の吐息ブレスでもって獲物を灼き殺さんとしているに違いない――!

「ええと、ええと……確か、竜の吐息から身を護るための魔術があったはず。何だっけ、ええと――」

「ラナ、余計なこと考えるんじゃねえ! とにかく今は全力で走れ!」

 散らかった記憶を懸命に掘り返そうと独言を零していたラナの横っ面に、ぴしゃりと怒声を浴びせかけたのはヴァイスだ。

 今やラナの後背は、間近にまで迫った捕食者の吹きこぼす熱にじりじりと灼かれ始めている。心臓が、身体中の血が、爆散しそうなほど暴れ狂っていた。

 何だってこんな時に、あいつはここに居ないのよ――!

 皮肉にも、エスターの残していった魔術の灯りがラナにぴったりとくっついているおかげで、真夜中とは思えないくらいに視界は良好である。

「ラナ、こっちだ! あそこへ飛び込め!」

 捻じ切れんばかりの力でラナの腕を掴み、再びヴァイスは荒々しく吠え立てた。

 促されるまま駆け込んだそこは、奇岩の連なる崖底のような場所である。激しく息を切らせたラナの眼前に現れたものは――

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