第三十話 背中合わせの蕾・2

 獣道すらない樹々の群れの中を、がむしゃらに掻き分けては突き進んでいる。

「ラナ、手を離すんじゃねえぞ! あと少しばかり辛抱すりゃ、まともな道に出られるからよ」

「大丈夫よ! このくらい、何ともないわ!」

 もはや己の感覚では目指す方角すらも見失っている有り様であったが、ヴァイスの力強い呼び声が絶え間なく奮い立たせてくれたおかげで、ラナの胸に不安が湧き出すことはなかった。闇の向こうで固く結ばれたその手からは、ラナの重みの殆どを引き寄せる凄まじい力を感じる。

 それにしても、彼の移動速度は驚異的だ。右手でラナの手を取り、左手には長柄の大斧を担いで、次々と立ちはだかる大岩や樹の根を、重量級の体躯からは想像もつかない身のこなしで軽々と避けていく。方角に迷った様子は一度もない。

 手先、足先さえも闇に塗り潰され見えなくなった、視界不良の樹々の海。そんな迷宮の中で、ラナが彼の凄まじい体さばきを捉えることが出来ているのは、黒魔術による加護があるおかげだ。反面ヴァイスは全くの独力だけで、この地獄のような悪路を突き進んでいる。並外れた〝樹海の民〟の力を目の当たりにしていると、人の持つ可能性に希望が募る一方で、言い知れぬ焦りのようなものも感じる。魔術の利便性に頼り切ることで、人は元よりあった資質を退化させてしまったのではなかろうか――

 なるほど、これはレベッカが目を付けるわけだわ。

 正直なところラナは、の女騎士から候補者としてヴァイスを紹介された折、首を傾げたくなったのを覚えている。戦闘経験など皆無に等しい民間人が、果たして何の役に立つのか。多くの人間の上に立つことに、どんな意味があるというのか。湧き上がった疑問は数々あったが、いずれにしてもその時の自分は、彼のごく僅かな一面しか見ていなかった。

 だが今ならば確信をもって言えるだろう――彼は間違いなく指導者として望まれた存在だ。彼が指し示し、導くならば、間違いなく騎士団の皆は、今よりももっと生き残れるようになる。荒れ果てた大地をたくましく生き抜く、強い集団となれる。

「エスター、ついて来れてるか?」

「はいはい、ちゃんと居るよ。気にせずラナのエスコートを続けてくれていいから」

 唐突に、足元から気だるげなエスターの声があがり、驚いたラナは小さな悲鳴とともに地へ目を落とした。だがいくら見渡してみたところで、足元にあるのはせいぜい、汚泥にまみれた木の根と枯れ草の山、そしてカビ臭い苔の絨毯くらいのものだ。ほんの一瞬、獣のように四つ足で地を這いつくばる幼馴染みの異様な姿を思い浮かべたが、そんなものはどこにも見当たらない。

「エスター、あんた今どこにいるのよ? どうやってついてきてるわけ?」

「言ってもいいけど、君に分かるかなぁ」

 鼻で嗤うかのような、舐めくさった言い回しである。いつも通りと言ってしまえば、それまでなのだが。

 まともに質問するだけ無駄だった――

 追求心を掻き消す勢いで押し寄せてきた黒い衝動をどうにか封じ込め、ラナは渾身の力で唇を引き結び、いびつな笑顔を浮かべた。

「ああそう! そうだわ、よく考えたら別に聞きたくもなかっ――」

 そこまで強がりを言いかけたところで、明後日の方向へ高笑いを放っていたラナの体は、突如現れた謎の障害物に鼻から衝突し、弾き飛ばされた。

「あ、悪ぃ……」

 その障壁がヴァイスの広い背中であったことに気が付いたのは、ぬかるみへまともに尻餅をついた直後のことである。

 繋いだ手でそのままラナの体を引っ張り上げたヴァイスの声音は、本当に謝る気があるのかと叫びたくなるほど気のない声であった。

 止まるなら止まるって言えばいいのに――!

 しかしながら抗議を叫ぶ前に、ラナの意識は、想像だにしない足元の有り様にすっかり注意を奪われていた。

 ぬかるみに倒れ込み、泥だらけになったと思っていた服が、全く汚れていない。

 それどころか、ブーツにべっとりとくっついて重みを放っていた汚泥が、みるみるほどけて落ち、消え去ろうとしているではないか――!

「水だわ……水が流れてる!」

さやけし灯火よ』

 不意に聞こえてきたのは、傍らへ現れたエスターの微かな詠唱であった。頭上に灯された金色の炎が周囲を照らすと、ラナの高揚はいよいよ膨れ上がる。

「わあ、すごい……!」

 そこは、静かな川のほとりであった。透明なせせらぎの音が、さらさらと肌心地の好い涼風を運んで来る。

 清々しい風に乗って、ふくよかな土の香りが鼻孔に届くのを感じた瞬間、たかぶりを抑えきれなくなったラナは疲労も忘れ、転がるように仄明るい水面みなもへ駆け出していた。

「すごい! こんなに綺麗な水、王都でだってなかなかお目にかかれないわ!」

「おいおい、あんまりはしゃぐんじゃねえぞ。浅く見えるかもしれねえが、急に深くなってるとこだってあるんだからな」

 勢いのまま川の真ん中へ突入しようとしたラナの首根っこを、俄かに焦った様子で掴み上げたのはヴァイスだ。「また同じ目に遭いたいのか」と呆れ顔を浮かべるヴァイスに、ぺろりと舌を出したラナは苦笑いで応えた。

「へえ……よく考えられてるな、これ。この水車が川の浄化装置になってるってことか。水力を源として魔力を生み出す仕組みになってるんだね。これなら魔術士がいなくても、装置と水源さえ残ってれば半永久的に水を浄化し続けられる」

 しかしながら、小憎らしいほど冷静な幼馴染みは、ラナの暴走に一切興味を示していないようだ。川べりへ置き去ってきたはずの彼は、いつの間にかラナのいる場所からやや上手の岩場へと移動している。

「そういうこと。あの水車があるおかげで、《審判》の前から瘴気の立ち込めてたこの辺りでも、浄化の必要なく水を使うことができてたってわけだ」

 水車、ですって……?

 そういえば、先ほどからせせらぎの音に混じり、何かが大仰に軋むような音が聞こえている。

 エスターの佇む岩場は、川べりにあった巨石を寄せ集め、それらを堰のように並べ連ねて造られたもののようだ。意図して川幅の縮められたそこでは、穏やかな流れが凝集され、激しさを増した水勢でもって、王都の城壁を凌ぐ大きさの車輪をゆっくりと押し回している。

 何かしら、あれ――。

 鬱蒼と広がる樹海の中で初めて出くわした人工物に、ラナの心は強く惹きつけられていた。見つめるほどにその水車からは、厳かで重厚な、圧倒的存在感が伝わってくる。

 しかし、何故だろう――あの荘厳たる佇まいの中に、肌馴染みのある気配が混じり込んでいるような気がするのは。

 規則正しい間隔で軋みをあげ、車輪は静謐を打ち砕いた闖入者のことなど少しも意に介さぬ様子で、粛々と回り続けている。

「ラナ。お前はこの水車を造った人のこと、知ってるだろ?」

 すると、まるでラナの微かな既視感を読み取ったかのようなタイミングで、ヴァイスが意味ありげに問うてきた。

「知らない。どこかの有名人なの?」

 きっぱりと答えて振り返ると、ヴァイスは驚いたような、呆れたような面持ちで三白眼を見開いていた。

 一方のエスターは、水車を見上げたまますっかり黙り込んでいる。おおかた装置の仕組みか何かに深く思いを馳せているのだろう――ラナとヴァイスのやり取りが届いているのか否かは、よく分からなかった。

 苦笑を呈したヴァイスは、車輪の天辺よりも遥か遠いところを見透かすように頭上を仰ぐと、ぽつりぽつりと語り出した。

「この水車を造ってくれたのは、フェミアの領主様だよ。つまり、お前の親父さんだ。実際ここへ工事の指揮を執りに来てくれたのは、レヴィンさんだったけどな。装置の設計をしてくれたのも、レヴィンさんだったって話だぜ」

「お父さんとお兄ちゃんが……?」

 またも意外なところから現れた親族の名に、ラナはざわざわと胸が騒ぎ出すのを感じた。

 ラナにとって、の残した威光をこうしてはっきりと目の当たりにしたのは、この時が初めてであったのだ。

「どんな経緯いきさつがあったのかは知らねえんだけどよ、村長やってた俺の爺さん、フェミア候とは旧い付き合いだったみたいでさ。たまたま何かのはずみでこの川のことを打ち明けたら、領主様が気にかけてくれたらしいんだ。村の唯一の水源だから、何に代えても守らなくちゃなんねえってな」

「それって、随分前の話なのかい?」

「そうだな……妹がまだ殆ど喋ることもできなかった頃だから、もう十年以上前のことじゃねえかな。あの時レヴィンさんはまだ士官学生だって言ってたから、きっとお前らと同じくらいの年齢だったと思うぜ。なのにたくさん家来を従えてさ、立派に指揮を執ってて。ちらっと声をかけてもらったこともあるんだが、子供だった俺のことなんざもう覚えちゃいねえだろうなあ」

「へえ……そんなことがあったなんて、初耳だな。戻ったら早速、本人にいろいろ聞いてみたいね」

 エスターも知らないことがあるんだ――って、あのお兄ちゃんのことなら仕方ないか。

 元々己の功績というものを無闇にひけらかすたちでないこともあるが、おそらく兄にとっては語るまでもない日常であったのだろう。

 後継者の座からは最も遠い末弟の立場にありながら、今のラナより若かったかもしれない時分から、多くの人の心に残る偉業を幾度となく為し遂げてきた兄。そんな兄の輝かしい背中を、これまでまともに見ようとさえしていなかったのは――。

 またもしくしくと疼き出した胸を押さえ、ラナは再び寡黙な兄の打ち立てた偉勲を怖々と振り仰いだ。

「学生の頃のレヴィンの話は兄さんにいろいろ聞かされてるから、何となく想像はつくけどね。フェミア侯は公共事業とか福祉事業に力を入れるタイプの人だったらしいから、彼はきっと父親に似たんだろうなあ」

 心底嬉しそうに何度も頷きながら、エスターはヴァイスの話に聞き入っている。

 彼がレヴィンに向け、実兄のカイルと同等の敬愛を抱いていることは言うまでもない。おそらくラナの胸にも今、よく似た思いが湧き出しているはずだが、それを素直に吐露してしまうのはひどくはばかられた。幼馴染みの言い前が、今だけは羨ましいと感じる。

 実のところを言えば、〝親族の残した偉勲に出くわす機会〟そのものは決して珍しくなく、幼い頃に死別した父の名と、名家の嫡子として生まれた優秀な兄たちの名は、これまでラナも様々な場面で耳にしてきたはずたった。しかしながら、そのどれもが殆ど記憶に残っていないのは、彼らとのあまりの乖離の深さに、血の繋がった家族の話だと実感できなかったせいではないかと、今更ながらに思えてきた。

 魔術士の名門とされるエルンスト家に生まれながら、強大な魔力を秘めた証とされる妖瞳オッドアイをもって生まれてこなかったラナは、この世に生を受けた瞬間から、兄たちと住処を分かつことを定められ、末弟のレヴィンを除いては殆ど顔を合わせることもなく育ってきた。

 それは、事実だけを見れば悲劇と言えるかもしれない出自ではあったが、無限の自由を得た代償であると思えば、それほど悪くはない人生だった――先ごろ仲間の前で語ってきたように、今までラナは自らの歩んできた道に後悔をおぼえることすらなかった。

 だがそれは、傷つかないための建前ではなかったのか。

 自身の限界を決めつける言い訳ではなかったのか。

 もっと強ければ、もっと努力していれば。

 試験の始まりから、もう何度後悔してきたか知れない。もしも自分が兄たちのように大きな力を授かることができていたなら――否、そうでなかったとして、自らの弱さに正面から向き合い、もっと努力を重ねていたならば。

 兄の背の大きさを知ったことで、初めてラナは、自らの人生を激しく悔いていた。

「――その時にさ、俺たちみたいな何の学もねえ人間にでも簡単に使えるような魔術とか、いろいろ教えてってくれたんだ。それまでは村でまともに魔術士やってたのはうちの爺さんだけだったんだが、王都の魔術はずっと進んでるって感動してたっけな」

 思い悩む最中、ふとラナはヴァイスの思い出話の中に聞き捨てならない一節を捉え、ますます頬を強張らせていた。

「ちょっと待って。ヴァイスって、魔術使えるの?」

 ふらつきながら問うたラナの機微を読み取ったかのように、ヴァイスはやや困惑した様子で苦笑を漏らした。

「ああ……つっても、お前らみてえな凄えやつじゃねえぞ? 俺のはちっとばかり刃物の切れ味をよくしたり、かまどに火を入れたり、生活のために必要な魔術を詠唱丸暗記で覚えてるだけだ。魔術の詳しい構造や理論なんて何ひとつ分かっちゃいねえよ」

「詠唱丸暗記しただけで、魔術って使えるようになるもんなんだ?」

「ま、まあな……使いこなせてるのかどうかは、自分じゃ全然わかんねえけど」

 気遣わしげなヴァイスの眼差しが、かえって鋭くラナの胸をひりつかせていた。

 愕然としながら、かつての失意を思い返す。どれだけ必死に長ったらしい詠唱を覚えても、発動の口火を切ることすらできない――そんな失敗が、ラナにとっては日常茶飯事であったというのに。

「限定的な効力しか持たない単純な魔術なら、それなりの潜在能力があれば小さな子供でも扱えるよ。ヴァイスのお爺さんは魔術士だったんでしょ? それなら、ある程度の資質はあって当然だ」

「そ、そうなの……」

 エスターの補足は平時ほど嫌味ったらしいものではなかったが、出来ることならば違ったタイミングで聞きたかった。

「別に気にすることないだろ。民間に出回ってる魔術なんてのは、言ってみれば無形の魔具マジックアイテムみたいなものだ。基礎理論から学んだ僕たち魔術士の魔術とは存在意義からして違うものだよ」

 魔術士、ですって――?

 呻き声すらあげられないほど落胆していたラナであったが、エスターの言葉が紛れもなく自分をフォローするためのものであったことに気が付くと、この時ばかりはほんの少し救われたような気持ちになった。


「ところで、さっきからずっと気になってたんだけど……村に戻るのは辛いんじゃないのかい、ヴァイス? 無理することはないと思うんだけど」

 しばしやるせない思いに打ちひしがれていたラナであったが、その台詞を聞いてすぐ、喉元がひとりでにごくりと唾を飲み下すのが分かり、我に返っていた。岩場からこちらを見下ろす幼馴染みの表情は、どこか憂いに満ちている。

「悪いなエスター、気ぃ遣わせちまって。けど、心配は要らねえよ……実はもう一足先にあちこち調べ回ってて、村の様子はだいたい分かってんだ。隠れられそうな場所が残ってるってこともちゃんと確認済みだぜ」

 ヴァイスの返答は変わらず明るかったが、口元の綻びからは隠し切れない動揺が滲み出している。とてもとても、その笑顔が心からのものだとは思えなかった。

 彼とは数ヶ月の付き合いになるが、故郷の話をはっきりと聞かされたのはこれが初めてだ。閉口していた時間の長さはそのまま、失われた故郷への想いの強さを表しているに違いない。

 割り切れているはずがないわ。だってさっきまであんなにも愛おしそうに思い出を語っていた人だもの。

 その何ともいたわしい笑顔に、ラナは心の真ん中を貫かれるような痛みをおぼえた。

「そうか……天空樹との位置関係から考えると、その村は《イスカ村》だね」

「お前、よく分かったな。人の出入りなんざ殆どねえ、正真正銘のド田舎だぜ?」

 初めこそ言葉を探しあぐねる素振りを見せていたものの、どうやらエスターは敢えて積極的に話すことを選んだらしい。

 少年の語調はいつになく静かである。仲間の心痛を思う気遣いがあるならば良いが、またいつものように、ろくでもない嫌味で彼を傷付けたりはしまいか――はらはらと落ち着かなくなった胸を押さえ、ラナはしばし二人のやり取りを見守ることにした。

「少なくとも王都の人間に知らない者はいないよ。〝イスカの悪夢〟は今でも、騎士たちへの戒めとして語られているからね。あの時の哀しみと怒りを、決して忘れてはいけないって」

「へえ……まさか騎士の間であの日のことがそんな風に語られてるなんてな。でもまあそうやって、たくさんの人が忘れないでいてくれてるんなら、犠牲になった村の連中も浮かばれるってもんさ」

 ちょっと待って。何だって今のタイミングで、こんな話を――?

 ヴァイスの態度があまりにあっさりとしていたおかげで危うく聞き流すところであったが、〝イスカの悪夢〟といえば、王国始まって以来と言われた歴史的大事件の名である。それこそ世間知らずのラナでさえ、はっきりと記憶にとどめているほどの。

 エスターの意図をいち早く探り当てようと思案しつつ、ラナは学生時代の教本の記述を思い返していた。

 八年前のある日、のどかな山村が突如として戦火に包まれた。それは長らく続いた隣国アルスノヴァとの戦いにおいて、唯一トランシールズが国境を侵された瞬間であった。その悲劇の舞台となった山村こそが、ヴァイスの生まれ育ったという《イスカ村》であったのだ。

 国境を間近に臨む位置にありながら、それまでイスカが一度として戦いに巻き込まれることがなかったのは、天空樹の膝元に横たわるこの深き樹海が、文字通りに村を〝守護〟していたためだった。重騎兵による集団戦法を得意としていたアルスノヴァの〝銀狼騎士団アルゲルプス〟にとって、この森は何より厄介な障壁となって立ちはだかっていたのである。

 ところがアルスノヴァ軍はその日、古代遺物から復元したと考えられる未知の魔道兵器を用い、国境付近の森を瞬時にして炎のあかに染め上げた。そして、燃え盛る樹々を薙ぎ倒して進路を切りひらき、村を急襲したのである。

 異変に気が付いたフェミアの騎士たちは直ちに挙兵したが、炎の城塞に立て籠もった敵兵の殆どが、辺境での戦いに慣れた山賊あがりの傭兵たちであったことから、かつてない苦戦を強いられた。

 多くの犠牲を払ったのち、遅れて王都から駆け付けた救援部隊の助力を得て、ようやっと王国は侵略者たちを追い払うことができた――というのが、この悪夢の全容である。

「禁じられた古代兵器の復元、美しい緑を焼き払ったこと、宣戦布告もなく国境を侵したこと、恥ずかしげもなくゴロツキどもを軍に迎え入れ、けしかけたこと――あの時あいつらがやったことは、その全てが獣以下の蛮行だ。あんなの、心を持った人間のやることじゃない」

 話すほどに声振りを荒げていったエスターは、鋭い目で自らの震える拳を見つめている。

 教本の記述が全て真実だとするならば、確かに彼の抱く憎悪の感情も、生まれるべくして生まれたものなのかもしれないと思う。だがそれでも、ラナの心は釈然としなかった。

 だから、恨み続けるの? 過去の経緯いきさつにいつまでも捉われ続けるの?

 ――あなたの憎んだ悪の王国は、もう僅かな痕跡さえ残っていないというのに。

「だったら、焼き討ちに手を貸した傭兵たちだって同罪だと思わないか? ほんの僅かでも人の心が残っているなら、あんな蛮行に手を貸そうとするはずがない」

 傷を抱く相手を励ますでもなく、労わるでもなく、ただただ滾々こんこんと、己が内にある怒りと嘆きとを吐き出し続ける。しかしながら彼はこれでも、ヴァイスの心痛に寄り添おうとしているつもりなのかもしれない。

 憎悪に捉われた少年の顔を見つめるうち、ラナの胸にじわじわと湧いて出たのは、そんな不可解な思いだった。

 だがそれを、到底受け入れることはできない――彼はきっと、負の記憶と感情を共有することで、ヴァイスと通じ合おうとしている。ラナの奥底に根付いた思いとは真逆の感情に動かされているのだ。

 ――こんなの、きっと間違ってる。だってこのままじゃ、いつまでたっても前には進めないもの。

 苛立ちを募らせたラナは、ひたすら黙したままエスターの口舌に耳を傾けるヴァイスを庇うように両手を広げた。

「エスター、あんた一体何が言いたいの? 今はそんな風に昔のことを話してる場合じゃ――」

「今までのは前置きだよ。僕が本当に言いたいのはもっと別のことだ。話をしてればそのうち、彼が打ち明けてくれると思ってたから」

「え?」

 立ちはだかったラナを見下ろす幼馴染みの眼差しは、とめどない苦渋とやるせない怒りに曇りきっている。

 困惑するラナを尻目に、エスターはそれまでの火勢を嘆息とともに吐き出した。

「ヴァイス、君は〝彼〟のことをどこかで見た覚えがあるって言ってたよね。それって、あの日なんでしょ? 国境の戦いから生還した騎士に聞いたんだ。村を襲った傭兵の中には、あの〝紅獅子クリムゾン・レオフレドリック〟がいたってね」

「なっ……何言ってるの?」

 ふと、意識が急激に白んでゆく感覚をおぼえた。がくがくと揺れる膝元に力を込め、ラナは岩場の舞台ステージから引きずり下ろさんばかりの勢いで、エスターに食って掛かる。

「そんなの嘘に決まってるわ! 〝イスカの悪夢〟は八年も前のことなのよ。フレドリックの年齢って、どう考えてもヴァイスと同じくらいでしょ? それなら、あいつもほんの子供だったってことになるじゃない!」

「子供が戦いに参加してるのはおかしいって思ってるのかい? ほんとに何も知らないんだな、君は……そんなの珍しいことじゃないよ。傭兵になるために必要なものは、敵兵を一人でも多く倒す実力があるかってことだけだ。子供が傭兵になっちゃいけない決まりなんて無い」

「そ、そんな――」

 年端も行かぬ子供が武器を手に取り、殺し合わねばならない世界。それは、図らずも戦場を知らぬまま育ったラナにとっては想像だにしない地獄であった。しかし、真にラナを愕然とさせたのは、その先をよぎった絶望である。

 だってこれでは、どう足掻いても彼らの憎しみが正当化されてしまう。もしもその時、あの剣士がヴァイスの大事な人を手にかけていたとしたなら?

 憎しみを捨て去れと叫ぶ権利など、誰にもあるはずがないではないか――。

「本当なの、ヴァイス? あいつは本当に、イスカ村の焼き討ちに参加していたの?」

 半ば縋るように、ラナは後方のヴァイスを振り返っていた。

 いつものようにあっけらかんと、へっちゃらな笑顔で。この時ばかりは思いきり強がって、すべてを否定して欲しかったのに。

「――ああ、本当だ」

 ラナの悲痛な願いをよそに、ヴァイスの告げた事実は絶望的とも言えるものだった。

「俺は実際、この目であいつを見たんだ。見た目は確かに俺と同じ子供だったけど、人間じゃない生き物なんじゃねえかって思うくらいに強かった。まともに見ることさえ恐ろしくて、俺はただただ逃げるしかなくて――」

 足元を見つめるヴァイスの面持ちからは、光が消え失せていた。強く噛み締めた唇が小刻みに震えている。

 動かしようのない事実を叩きつけられ、ラナにはもはや、落胆の言葉すら見当たらなくなっていた。

 エスターと同じように彼もまた、憎しみの虜囚となってしまうのだろうか――

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