僕のことを、少しでも……

御手紙 葉

僕のことを、少しでも……

 僕は行きつけの喫茶店で本を読みながら、別のことをつらつらと考えていた。それは女性に関することで、何だか考えているとどこか憂鬱な気分になってしまった。僕は何てことをしてしまったんだろう、と後悔していたのだ。

 でも、もう終わったことだ。全部すべて、綺麗さっぱりこの世から消えた事実なんだ。

 そう考えても、どこか割り切れない自分がいた。そうして溜息を吐きながら、ページを捲ろうとしていると、そこで突然「ねえ」とどこか妖艶な女性の声が聞こえてきた。むぎゅっと何か柔らかいものが背中に押し付けられたのがわかった。

 僕は文庫本をカウンターテーブルに落として、硬直してしまう。むにゅむにゅとその扁平な胸は僕の背中を圧迫してきて、そして首根っこに腕を回された。

「ねえ、坊や」

 女性が顔を僕の首筋に擦りつけ、甘えるような声でそう囁いてくる。僕は激しい既視感を覚えた。そのまな板のような胸を、前にもどこかで感じた気がしたのだ。混乱しながら振り向くと、咽返るような酒臭い匂いが漂ってきて、おげえ、と呻いた。

 まさか、と思った。その狂おしいほどの想いが胸から溢れてきて、脳裏にその光景が広がった。僕はあの時、確かに××××したのだ。

「ちょっと坊や、奢ってくれない?」

 その端正な顔には薄っすらと化粧が施されており、なだらかなラインを描いた柳眉、ぱっちりと人懐こい瞳、まっすぐと直線的な鼻筋は、思わず目が吸い寄せられてしまうほどに整っていた。

 そしてその頬は雪化粧されたようにきめ細かく、朱色に染まっていた。彼女の唇から熱の篭った吐息が吐き出され、僕の顔を暖めてきた。

 僕はその顔をじっと見つめて、そして何かをつぶやこうとする。だが、その前に彼女は僕の頬に手を添えて、ゆっくりと撫でてきた。

 彼女はよれよれの見るからに安物のスーツを着ており、スカートなのに、がに股で僕に寄りかかってくる。

 この人、昼間から飲んでるのかよ、と呆れながらも、僕は「どうしたんですか?」と聞いた。「まさか、男といざこざでもあったんですか?」

「よくわかったわね、坊や。頭の切れる子は好きよ。その通り、男にお金を持っていかれたのよ。騙されたわ」

 僕は思わず口元が緩んでしまうのを抑え切れなかった。しかし、すぐにきゅっと口を引き締めて、そして笑顔を浮かべて言った。

「それより、どこかで休んだ方がいいんじゃないですか?」

「私は男を探すのに休む暇なんかないのよ。そうだ、坊や、私の愛人にならない?」

 そう言ってまっすぐ見つめてきた彼女に、僕は胸がドクンと大きく高鳴るのを感じた。あの光景を脳裏に思い浮かべてしまいそうになって、慌てて目を逸らせた。

 彼女がそのまま首筋に頬を擦り付けてくるので、僕は何とか彼女の腕を振り解いて、近くの椅子に座らせた。

「坊や……」

 彼女は涎を垂らしながら、そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。僕は溜息を吐きながら、呆然とその彼女の姿を見つめた。

 そこでカウンターを回って、慌ててウェイトレスの野崎さんが近づいてきて、そして僕の傍らに立った。

 彼女も動揺しているようで、長いポニーテールの髪が肩の揺れと共に大きく震えた。

「大丈夫? 何か、されなかった?」

「別に大丈夫です」

 野崎さんはこの面倒な客に出会ってしまった不幸に、ただただ嘆息するしかないようだった。先程、欠勤が出て、今日のシフトに入ったばかりなのだ、と僕に疲れたように語ったばかりだった。

「この人、よくこの店に来るって今日休んだ子が言っていたわ。いつも男に振られただの、なんだの叫んで、それで懲りずにまた来るんだって言ってた」

 野崎さんはそう言って困り果てたような顔をした。

「なんかそのままそっと寝かせておくと、突然起きて、どこかへふらふらと出ていくって言っていたけど」

「とりあえずそっとしておきましょうか」

 野崎さんは苦笑して、「悪いね、手間取らせて」と僕に謝った。「大丈夫です。側で本読んで見守るだけですし、僕が見てますよ」

 野崎さんはうなずき、そのままカウンターを回って注文品を運ぶ作業に戻ったらしかった。

 僕は酔っ払いの女性の隣席に移って椅子に座ると、彼女の傍らで本を読みながらじっとしていた。

 すると、突然彼女がびくっと体を震わせて「シンジ」とつぶやいた。

 僕は顔を上げて、彼女の横顔を見つめた。彼女は目をぎゅっと瞑って、顔を歪めながら何度も「シンジ」とつぶやいた。僕はふっと微笑み、よっぽど好きだったんだな、と思った。

 と考えた途端、彼女の口から「アキラ」という言葉が漏れた。

「アキラ、アキラ。ヨシヒロ、ケンタロウ、リョウタロウ……」

 彼女の口からは、実に様々な男の名前が出てきた。僕はその名前をじっと聞いて、そして思わず噴き出しそうになるのを堪えた。

「いつもいつも、なんで私のことを裏切るのよ」

 彼女の頬を一筋の涙が伝った。

「私はあなた達の為に色んなことをしてあげたじゃない。どうして、私の気持ちに気付いてくれないの?」

 彼女は啜り泣きながら、必死に懇願するような声でそうつぶやいた。そして、歯を食い縛りながら、悔しそうに拳を握った。

「なんとか、言ってよ」

 僕は彼女のその苦しそうな表情を見つめて、そして気付けば言葉が口を衝いて出ていた。

「本当にすまなかったと思ってる」

 僕のその言葉に、彼女の嗚咽がふと止まった。

「君の事をおろそかにして、あろうことか裏切ってしまった。本当にすまなかったと思っているんだ。君の気持ちは、全部理解していたんだ。だけど、どうしても君を大事にしたいと思うあまりに、立ち去らざるを得なかった。わかってくれ」

 すると、彼女は恐怖におびえながらも、その言葉をぽつりと口にした。

「私のこと、愛してる?」

 僕は笑って言った。

「当たり前だ。世界で一番愛しているよ」

 するとその瞬間、彼女の顔から苦悶の表情が消え、すぐに満面の笑みを浮かべて口元を緩め、安らかに眠ったようだった。

 僕は彼女のそんな優しい笑顔を見つめながら、数時間本を読んで過ごした。


 そうして本を半分ほどまで読んでしまった時、この店のオーナーの男性が近づいてきて、僕に申し訳なさそうな顔で言った。

「なんだか付き合わせて悪かったね。今日の代金は別にいいから。後はこっちで面倒見るよ」

「ああ、いや、大丈夫です」

 僕がそう言って手を振った時、傍らで眠っていた彼女が突然ぶるっと震えた。僕とオーナーはすぐに振り向き、彼女がゆっくりと起き上がるのを見守った。

「あれ……私、なんでこんな場所にいるんだろう」

 寝惚け眼を擦りながら、彼女が周囲を見渡して言った。まだどこか夢の中を彷徨っているような、そんな虚ろな瞳だったが、それでも先程までの憂鬱さは感じられなかった。

「なんかさ、私、とってもすっきりした気持ちなのは何故だろうね。夢の中でさ、男にすごく大切にされた気がするんだ」

 「それはよかったですね」と僕は彼女にうなずき、笑いかけた。「夢の中でも、自分の想いが伝わってよかったじゃないですか」

 そこで彼女が目を丸くして、じっと僕の顔を見つめてきた。そして凝視しながら首を傾げて、言った。

「君、前にどこかで会わなかった?」

「そうですか?」

 僕は目をぱちくりさせて、不思議そうな表情を取り繕った。

「まあ、いいや。とりあえず家に帰らなくちゃいけないんだけど、お金持ってなくて。悪いけど、貸してくれない?」

「えっと、神田でしたら、五百円で足りますか?」

 僕はそう言って財布から五百円玉を抜き出した。

「なんで、神田って知ってるの?」

 彼女はどこか探るような瞳で僕を見つめ、身を乗り出して聞いてきた。僕は彼女のその顔を見返して、何かを言いかけたがすぐにやめた。

「さっき寝言で言ってたので」

「あら、そう。またこの店に来れば、君に会えるかしら?」

 僕は思わず彼女の顔を食い入るように見つめてしまう。そして視線を逸らして言った。

「ええ、大体毎週いますよ」

「そう。次に会ったら、必ず返すわね」

 彼女はそう言って欠伸をして立ち上がり、手を振ってゆっくりと入り口へと歩いていこうとしたが、そこで再び振り向いた。

「うーん。やっぱり、君、どこかで見たような……」

 僕は微笑んで、顔の前で手を振り、その言葉を否定した。

「気の所為ですよ」

 僕は手を入り口の方へと差し伸べて促した。

「まあ、いいや。ありがとね」

 彼女はそう言って鮮やかな色に染まった唇をにっこりと微笑ませて、そのまま店を出て行った。その瞬間、僕の体に圧し掛かっていたその重みが一気に地面へと崩れ落ちた。

 そのまま体中の力が抜けて、椅子にすとんと腰を下ろしてしまう。何度か深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせようとしたけれど、しばらくの間動悸は収まらなかった。

 そうして傍らに立っていたオーナーが大きな溜息を零し、そして僕を見遣って歪んだ笑顔を見せた。

「今日も、君に任せてしまってすまなかったね」

 文庫本を手に取って再び読み出した僕を見つめ、オーナーは手の平を合わせた。

「いいんですよ。あの人、どこかうちの母に似てるんです」

「今日は送っていくなんてことにならなくて良かったね。そんなことになったら、君に本当に申し訳ないし。こないだは彼女をおぶって送っていったんだって? 私に言ってくれれば良かったのに……」

 僕は本から顔を上げて、オーナーの疲れたような表情を見ながら、「違うんです」とそっと彼女が出て行った方向を見遣って言った。「これでも、彼女を送らずに済んだこと、残念に思ってるんですよ。あの人、本当に面白い人ですから」

 一ヶ月前のある週の金曜日、彼女は突然この店に押しかけてきて、今日のように酔い潰れて眠ってしまったのだ。それで、たまたま近くにいた僕は、彼女の鞄にあった免許証を見て彼女を送ったのだった。

 今でも、彼女を背負って感じた肌の温もりを思い出すと、あれはあれで悪くはないと感じた。

「すまないな。コーヒーお代わりサービスするよ」

 そうしてオーナーはゆっくりと僕のカップにコーヒーを注いでくれた。

 オーナーが去って再び僕の辺りが静まり返ると、ふと先程彼女がぐっすりと眠っている際、つぶやいた寝言を思い出した。

 彼女は確かに「涼太郎」と呼んでいた。僕があの日、彼女を家に送って起きてしまった出来事は、彼女はあの晩酔い潰れていたからもう覚えていないだろう。

 それでも、彼女が無意識にでも、僕の名前を呼んでくれたことが嬉しかった。

 僕のことを、少しでも愛していてくれたんだ、と思えて。

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