ごはんつぶ

子持柳葉魚改め蜉蝣

ごはんつぶ

「ふぅ……。今日もこんな時間になっちまったなぁ」


 アキオは溜息と共にそう独り言を呟いてから、玄関のドアのノブを持つと、ふと、ここ一週間くらい起きてる妻の顔を見てないという事実に気が付いた。職場の人員不足で朝も早く、夜も遅いという日々が続いていたからだ。今日もこんな時間だからなぁ、アキオはそう思いながらドアを開けた。


「あら、パパ、お帰りなさい」


 珍しく、ミカがまだ起きていて、リビングから声がする。玄関で靴を脱ぎ上がろうとしていると、ミカがリビンクから廊下に顔を出した。


「お風呂にする? それとも晩御飯にする?」

 ミカがそんなこと言うの、久しぶりだなぁとアキオはふと思った。でも、なんだかホッとする。

「風呂は後でいい。それにあんまり食欲もなくて」

 アキオはそう言いながら、靴を玄関脇のシューズボックスにしまうと、ミカはアキオの側までやってきて言う。

「夜、まだ食べてないんでしょう? 何かお腹に入れとかなきゃ」

「ああ……、じゃぁ、買い置きのインスタントラーメンあったよな?」

「さっき食べちゃった。……じゃ、なんかささっと作るよ」

 そう言うと、ミカは台所へ向かった。


 アキオはリビングの横長のソファーに通勤カバンを軽く放り投げると、ネクタイを解き、そのソファーに疲れた体を腰からどさっと沈めた。


 台所からは包丁とまな板で一定のリズムを刻む音が聞こえる。アキオはミカに悪いな、と思う。毎日、ちゃんと夕飯のおかずは用意してラップかけてテーブルに置いて置いてくれたから、今日も多分……。職場の人員不足さえなければ、もっと早く帰ってこられるのに、と。


「出来たよ」

 と、ミカがお盆を持ってリビングにやってきて、テーブルにそのお盆を置いた。アキオは重い腰をよっこらしょとばかりにソファーから立ち上がって席に着く。


「ほぅ……、お茶漬けか」

「うん、市販のね、梅茶漬けに梅干し乗っけて、ネギ刻んで入れただけだけどね」

 と言いながら、ミカはアキオの目の前に座った。

 アキオはその茶碗を手に取り、箸を持つと、ふとその茶碗からする香りが、普通のお茶漬けじゃないことに気がついた。

「これ……ただのお湯とかじゃないな、本物のお茶?」

 ミカはテーブルに両肘ついて、ニヤニヤ笑いながら言う。

「祇園辻利の宇治茶だよ。お茶だけは超高級品。友達のね、お土産でもらったの」

「へぇ、香りがいいなぁ、これ」

 と、アキオはお茶漬けを啜るようにして少しづつ、ハフハフ言いながらかき込んでいく――。


「ふぅ、うまかった」

 ミカはまだテーブルに両肘ついたまま、じっとアキオの顔を見ていた。

「人員不足、どうなの? 大変そうだけど」

「……なかなかなぁ、そう簡単には解決しそうにないな」

 とアキオが言うと、ミカは右手をそっとアキオの口元まで伸ばす。


「ごはんつぶ」

 ミカはそう言って、ニコッと微笑んでから、アキオの口元についたご飯粒を指でつまむと、自分で食べた。ふとアキオには、その笑顔が結婚した当時とちっとも変わらないな、と思えた。


「あんまり無理しないでね。お風呂、沸かしてあるから。じゃ私は先に寝るね」

「ああ」

 ミカは空になった茶碗とお箸をお盆に乗せて立ち上がり、台所へ向かった。


 アキオは椅子に座ったまま、両肩のコリを解すようにゆっくり回し、

「明日も頑張らなきゃなぁ」

 と呟いた。


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