OLDTELLER
神に抗う物語 ~巻き込まれても邪神にはなりません~
我、思う故に、我あり
作中紹介小説は「吾輩は猫である」と「雪国」です
「クトゥルフ神話」もフィクション群ですが一個の小説ではありません
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1 我、思う故に、我あり
吾輩は猫である。名前はまだない。
そう、始まる小説がある。
残念ながら、まだ読んだ事はない。
この一節を知らない日本人のほうが少ない有名な物語だ。
だが、読んでいる人間の数になると、かなり少なくなる。
若い人間ほど本を読まなくなっているのだそうだ。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
そう始まる‘ 同じように冒頭がタイトルとなった物語 ’は、読書感想文を真面目に書く学生のおかげで、なんとか読めた。
だが、その一人を除いたほとんどがラノベやweb小説を感想文の題材にしていたのは、 この街だけの特別な事情ではないのだろう。
私にとっては、この日本も異世界のようなものだ。
だから、現実に退屈などしている暇はない。
だが、多くの現実に閉塞感を抱えた人間は、現実に
そのせいで、誰もが知っていて、多くの人間が読まない話を、私は未だに読む事ができていない。
私一人では、本を買う事も、図書館に入る事も、困難なのだ。
不可能ではないが困難な事に向き合った時に、人の取る態度は三つ。
立ち向かうか、受け流すか、逃げ出すかだ。
戦うか、逃げるかだけだという者もいるし、更に多くの選択肢を上げる者もいるだろう。
だが、二つに一つというのは暴論──つまりは、すごく極端で暴力的な考え方──で、多くの選択肢は、その三つから派生するものだ。
そして、四つめの何も選ばないという選択肢は、常に存在するけれど、それを選ぶのは死人や奴隷で、人の取る態度ではない。
選べなくて保留して、または選ばないふりで、受け流す事はあっても、選ばないという選択肢を人は取らない。
だから、私にとっての‘ 本を読むという行い ’は、選べなくて保留して受け流している事なのだ。
信じないかもしれないが、別に大げさに言っているわけじゃないし、もったいぶってカッコをつけているわけでもない。
ああ、でも、病気や怪我でまともに動けないとか、身体に障害があるというわけではないので、同情などもいらない。
私は五体満足で、肉体的に普通の人間より遥かに
いわゆるESPといわれる類の精神や記憶や情報を扱う能力だ。
ヒュプノやエンパシーを含む広義のテレパシーに、千里眼、サイコメトリーなどの物質に変化を与えるサイコキネキス系でない超能力。
超心理学でいうところのESP。
私は生まれつき、いや正確に言うなら、生まれる前からそのすべてを持っていた。
私が最初に自分というものを自覚したのは、母胎の中だったからだ。
ESPによる情報学習は、コンピューターでいうならデータコピーのようなものだ。
リアルタイム情報ではなく、記憶データを閲覧し、キーワードをタグにして一瞬で必要な情報を選択して、大量の情報を得る事ができる。
とはいえ、この頃の私は自分で誰かの意識を特定して読み取るなどという事もできず、情報を選択する事もできなかった。
初めは自我さえなかったので、そうしようと思えなかった。
存在とは何か?
人とは何か?
自分とは何か?
様々な人間の認識から、ESPにより高速に無数の情報を得る事で、自我を育てた私は、胎児でありながら、大人並の精神を持つ事になった。
そうして、自分の意志を得てからも、ESPの高度な使い方を覚えるには時間がかかった。
自我を得た当初は、ただTVやラジオを視聴するように、情報を受信していた。
やがて、少しESPを制御できるようになると受信のON/OFFができるようになった。
突然変異のミュータントという言葉と、その意味を知ったのは、その頃だっただろうか。
そして、そういった存在は、肉体的に弱く、異形の姿や死産になる事が多いという事も、その時に知った。
誰かの死への恐怖や不安というものは既に知っていたが、自分が死産になるかもしれないと認識し。
実感として感じたり、知識を理解して
人間が異質な存在を恐怖し排斥するものだとESPを通じて感じていた私は、脅え、悩むという感情を実感したのだ。
それ以前に、人という存在が肉体ではなく精神の在り方であるという考え方を知っていなければ、そこで絶望していたかもしれない。
エレファント・マンことジョゼフ・ケアリー・メリックについて考えていた一人の男がいなければ、私は人であろうとなどしなかったかもしれない。
人でありながら怪物の心を持つ殺人鬼を怖れる一人の女がいなければ、私は怪物として生きていたかもしれない。
よく考えれば、それは人々から怖がられ
生まれる前は能力が弱く、受動的なテレパシーやエンパシーでの情報収集くらいしかできる事はなかった。
それもテレパシーは言語化できる思考に限定されていたし、エンパシーもその思考がどんな感情と共にされているかを感じ取れる程度でしかなかった。
精神の操作であるヒュプノや、電子情報のテレパシー操作などは、胎内ではできなかった。
だが、今ではそれもできるようになっている。
そして、自らの能力限定の予知で、やがて様々な力を育て得る事が出来ると、既に生まれる前の私には解っていた。
だから、私は本物の怪物として生きる事もできると解っていたのだ。
人々が、恐れ、遠ざかり、消し去りたいとさえ想う存在になる。
もし、私がエンパシー能力を持たず、その想いに共感できなければ、それに憧れたかもしれない。
多くの人々の中にいながら、個人主義で武装し争う人間達や欲望に溺れた孤独な人間達のように。
しかし、私は罪もないのに裁かれる者の無念や悔しさを知っていたし、暴力で屈服させられる者の痛みや絶望も知っていた。
誰かを傷つけ痛みを与えても何も感じないか、
自分の無力さを怖れ、誰かの暴力に脅え、傷つけられるよりも傷つける事を選んだ人間の悔恨も知っていた。
弱くとも普通の人間が家族や仲間や同類に感じる程度の共感を容易く得る事ができてしまうのがエンパシー能力だ。
そして、この世界は、無力を嘆く者の哀しみに満ちている。
だから、私は‘ 人間の思考という閉鎖系内の無限の可能性 ’の中から、‘ 人として生きる ’事を、生まれる前に自分で選んだ。
それは、弱く甘えた人間が怪物となる事に憧れるのと逆ベクトルの心理だったのかもしれない。
弱さを嫌悪し、人として生きる努力を忌避した人間が、思うようにならない傷つきやすい心を捨てたいと思うように。
力を嫌悪し、怪物として生きる事を忌避した怪物が、思うようにならない傷つきやすい心を得たいと思ったのかもしれない。
あるいは、それは人間という思考の閉鎖系の中で、最善の選択をしようと結論づけた理性の結果か。
‘ 人間は無限の可能性を持つ ’という言葉の意味を誤解せずに生きる悟性の結果だったのかもしれない。
意識せずに、そのどれかか、幾つかか、全ての理由で、私は怪物ではなく人としての生き方を選んでいたのだろう。
ミュータントという言葉が、私にそれを自覚させた。
かつて畏怖し崇めるしかなかった自然災害や病の脅威の象徴である‘ 神 ’へと至るために、人の可能性を見限り、人を捨てる。
‘ 人という思考の閉鎖系 ’の外へと‘ 無限の混沌 ’へと向かい、畏怖し崇める存在と同化する事で恐怖から逃げ、人である事からも逃げ、怪物へとなっていく道。
私はそれを‘ 無限の可能性 ’と信じる
‘ 人という思考の閉鎖系 ’の内で、無限に続く未来へと向かい‘ 人間が心に描く人としての理想 ’を諦めず極め続ける事を選んだのだ。
そうして私は選び、私は自分の意志で決めた。
私は、怪物にはならない。
それが、ミュータントだが、人であろうと決めた私が、人としての道を歩んだ最初の一歩だった。
私は、自分の脳内の記憶データをコンピューターのように自由に操作できるミュータントだ。
だが、だからといって自我を獲得する前のデータ収集までは分析できない。
普通の人間が、自分が何故、何かが好きだったり、何かが嫌いだったりするのかの多くを説明できないように。
だから、‘ 人間という思考の閉鎖系 ’で自我を育てた人間と同じように。
多くのホモ・サピエンスが、そう無意識に決めるように。
我思う故に我あり。
その言葉が意味するように。
私は人である。
私も、そう決めたから、ミュータントであろうと、私は‘ 私という人 ’なのだ。
だが、自分と他者の認識が食い違う事などは、ESPのない人間には、当たり前の事だ。
だから、その意味は限られた共感能力しか持たない人間とテレパシーやエンパシーを持つミュータントでは違う。
‘ 人間という思考の閉鎖系 ’で育った者は、‘ 人間という思考の閉鎖系 ’から本当の意味では逃れられないので、怪物であろうとする人間にすぎない。
けれど、テレパシーやエンパシーは、制御できなければ、精神を‘ 自我さえ曖昧な混沌 ’へと導く能力だ。
そして、その精神汚染を広める事のできる能力だった。
人間として狂気に至るのではなく、怪物として人間を狂気へと誘う。
クトゥルフ神話と呼ばれるフィクションの中の邪神が、周囲の人間の精神を、侵し、犯し、汚し、穢すように──。
私は、本当の意味でそんな怪物になってしまうかもしれない存在だった。
自分の能力を知る事に限定された予知能力が、その推測を裏付けていた。
それが絶対的な未来なら、希望はなかっただろう。
絶望の中で、人として終わる事を選んだかもしれない。
だが、絶対など何処にも存在しないと、私は知っていた。
私の予知能力とは、無限の選択で無限に変化していく未来を探索する能力だったからだ。
こうして私は、外界からの情報を遮断し、能力を制御する修行を、生まれるまでの間、続ける事に決めた。
外界から情報を得続けながらでは、ESPの制御能力自体を育てるのではなく、テレパシーやエンパシーの強度を育てる事にしかならないからだ。
自分の能力を知る事に限定された予知能力とは、言い換えれば‘ どうやれば自分の能力を完成させられるかを知れる能力 ’だ。
唯一の正解を知る能力ではなくても、無数の不正解を予め知れる能力は、完全な能力開発シミュレーションとして使える。
だから、時間を最も有効に使うために、私が最優先で鍛えたESPは、予知能力と精神時間の加速である高速思考能力だった。
1秒を1分程度に、思考を8分割程度にするのまでは、比較的容易だと予知が告げていたので、そこを目指した。
ある程度ESP能力が制御できてからは、生まれて直ぐに殺されたりしないように、ヒュプノによる認識誤認能力を覚える事にした。
先ずは自分に違和感を覚えないようにする空気のような存在に認識される誤認。
フィクションにある‘ ぬらりひょん ’という妖怪のような認識誤認を覚えた。
次に、自分を見る者に嫌悪感を感じさせないように感じさせる能力を鍛えている時に、タイムリミットは訪れた。
思考加速をしている間は、テレパシーによって得られる外界の情報は遮断されているので、それは突然だった。
私は母胎から産道を通って出て行く事を触覚と聴覚で感じ取りながらも、最後までヒュプノを強化した。
そして、認識誤認を使いながら、異様な外見の化け物と見まがうようなミュータントとして生まれでていない事を願っていた。
その想いが全て無駄になるとも知らずに。
最初に感じた違和感は日の光と草と土の匂い。
初めて触覚で感じる光と初めて嗅ぐ匂いだったが、ESPで感じていたので直ぐに判った。
そして、母がにゃあと鳴き私の身体をなめだし。
‘ 吾輩は猫である ’という小説を、私は読んでみたいと心から思うようになったのだ。
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