第4話
食事の入ったトレイを男の前に置きながら、ピーターは、王さまがもうすぐ森の向こうの国のお城に攻め入るそうだと男に伝えました。そういえば、と前置きして、ピーターは何気なくたずねました。
「きみには何か、自分の思い出はないの?」
フードの奥がふっと翳ったように思いました。男はぽつぽつと語り始めました。
「私の記憶……私には、食べてきた記憶が混ざってしまって、あまりはっきりとした思い出はありません。しかし一つだけ、美しい秋の夜のことが心に刻み込まれています。思い出、と言えるのかはわかりませんが」
「このお城のように、立派な石造りの建物の中にいたのだと思います。体がぐるりと回って、世界に放り出された感覚でした。……赤い色の布、だと思いますが、それが印象的でした。気づくと外が眩しくて、大きな音や光がしていました。私は、それをぼんやりと聞いていたように思います。とても曖昧なような、それでいて忘れてはならないような気がする感覚です」
自分の分のお茶を啜りながら、ピーターはじっとフードの奥を見つめていました。
「そうか……もしかしたら、きみはこの国の人だったのかもしれないね。ぼくもその夜の美しさは、きっと知っている」
「そうですか……もしかしたら、私とあなたは知り合いだったのかもしれませんね」
うつむき加減だった顔が、ピーターのほうに向けられた瞬間、黒いフードが静かに落ちて、男の顔があらわになりました。
それと同時に、呼び鈴が鳴って、誰かがやってきたことを知らせました。男は急いでフードを被りなおすと、ピーターが来訪者を出迎えるのを、その奥から見ていました。
驚いたことに、それは小間使いの格好をした王妃さまでした。急いでやってきたのでしょう、美しい眉はゆがみ、頬はほんのりとバラ色に染まっていました。ピーターに支えられるようにして地下室へ転がりこんだ王妃さまは、すがるように男のマントに触れました。
「あなたがここにいることを知って、やってきたのです」と王妃さまは言いました。「どうか、わたくしの記憶を食べてくださいませ。これ以上、王さまのことを恐ろしいなんて思いたくありませんの。王子のことも、きっと嘘に違いありませんわ。それに、たとえ生きているとしても、わたくしたちのことを恨んでいることでしょう」
王妃さまの言葉に、男は黙って頷きました。
「王妃さまがお望みならば、私は喜んであなたの記憶をいただきましょう。しかし、私は今、彼の思い出だけで生き永らえているような状態です。きっと、王妃さまの大切な思い出も奪ってしまうでしょう」
「それで構わないのです。王子はもうおりません。優しかった王さまも、もういらっしゃらないのです」
王妃さまの瞳から大粒の涙が一つ、転がり落ちました。
男は再び頷きました。
「どうか、最後に一つだけお願いします。きっと王さまも苦しんでいらっしゃるに違いありません。あなたのその不思議な力で、どうか救って差し上げて……」
王妃さまの瞼は、ゆっくりと閉じられていきました。王妃さまの悲しみも幸せも飲み込んで、男は一つ、ため息をつきました。ピーターには、彼が満たされたようにも、悲しくてたまらないようにも見えました。男がそっとフードを外すと、あらわになったその瞳から大粒の涙が一つ、転がり落ちました。
王さまの軍勢は、美しく色づいた森を越え、森の向こうの国から帰って来ました。革や鉄やできた鎧が、木々の間から洩れている夕焼けの光を浴びて、きらきら光っていました。次にこの森を越えるときは、王さまがついに勝利するときでしょう。落ち葉と木の実を踏みつけながら、王さまはそのことについて想いを馳せていました。
王さまの率いる軍勢は、自分たちの王国へたどり着きました。門を入った大広場の真ん中に人影が見えましたが、陽の光が眩しくて、いったい誰なのかはわかりませんでした。
「そこのもの、道を空けよ!」と王さまは命じました。
その男は兵士の服装をしているようでしたが、王さまには見覚えのない顔でした。しかし、その深い色の瞳だけは見たことがあるような気がしました。髪は夕焼けの光で、美しく輝いていました。男は少しだけ笑っているようにも見えました。
その夜のことは、きっと誰も覚えていないのでしょう。日が沈むとともに、あるものは天高く昇ってゆき、あるものは弱弱しく光り、あちこちで色とりどりの光がふわふわと揺れては弾けました。人々は何もかもを忘れてその光に見とれていました。それは懐かしいような、幸せなことのようでいて、なにかを失ってしまう寂しさもあるように思われました。光はやがて、森中に広がりました。
……昔むかし、あるところに、深い森に囲まれた小さな国の王さまがおりました。
記憶を食べる男 陽鳥 @hidori
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