今日を今日として

 目覚めたとき、急に、「今日死ぬかもしれない」という文字が、サッと視界をよぎっていった。このいやな予感、というものは往々にして当たらない、ということは充分に分かっている。だけど、どうしても拭いさることができずに、わたしはもう一度タオルケットのなかへ顔を隠した。窓から差し込むひかりがさえぎられて、朝のなんともいえない心地よい闇に包まれた。このまま二度寝してしまおうか。


〈今日、死ぬかもしれないよ〉


 もう一度流れてきた不穏な言葉にまどろみは中断され、不機嫌に起き上がった。昨日一緒に眠りについた芽依はいつもどおり朝の四時に起きて、五時に出勤していったのだろう。カフェの開店は七時、楽な仕事ではないはずなのに、泣き言はまだひとことも聞いたことがない。


 一日のはじまりはいつもひとりなのだ。そして今日は、とりわけ不機嫌だ。なにが、死ぬかもしれない・・・・・・・・だ。洗面所で歯ブラシを口に突っ込んで、ひとりごとを言わないように努めた。しゃかしゃかとみがきはじめると、だんだん、頭のなかから溢れそうだった不満や愚痴が薄れていく。それでも〈今日、死ぬかもしれない〉というのは消えず、眉間にしわを寄せた瞬間、わたしはひらめいた。


〈このいやな感覚が消えてくれそうにないなら、今日死ぬかもしれないという設定・・で今日一日を生きるのはどうだろう〉


 すうっと心身が楽になったような気がした。わたしは多分、今日死ぬ。だからそのように生きてみよう。わたしは今日死ぬんだ。歯みがきを丁寧に終えて口をすすいだ。最後の朝のはみがきが終わる。お気に入りのワンピースを着て、ぴったりのかばんと靴を選んで、日傘を持って、出勤した。


「花恋ちゃん、どうしちゃったの…かわいい服なんか着て…」


 オフィスにつくなり、営業のおじさんがびっくりしている。それもそうだ、普段は水色とか、白とか、紺とか、そんな色しか着ないのに、今日はピンクで、裾がふわりと広がって、レースなんかがあしらわれたワンピースなんかを着ているのだ。


「え…あ、、き、気分です!今日はこれが着たかったんです!」


 おじさんはにやっと笑って、デートなんだろ?嘘つきやがって。うらやましいなあ、とかなんとか言いながら喫煙所のほうへ歩いていった。やれやれ、と笑いながらデスクに向かうとなんとなく、要らないものの多さが目につく。この書類、たぶん使わない。このファイル、何のためにあるんだろう。カレンダー、去年の要らないよね。あれ?これも、これも、これも…処分したい。幸いにもあまり仕事のない時期。途中何回か電話を取りながら、伝票をつくりながら、こそこそとデスクの大掃除をすること二時間。そこには整然とした自分のスペースが広がっていた。


 きれいにしたからといって、その日は特別なにか大掛かりな仕事が回ってくるわけでもなく、いつもの仕事をいつもどおりこなす。三時におやつを食べて、あと二時間半、と思っていたらいつのまにか定時になっていた。仕事もめずらしく終わってしまい、あくせく、あるいは、だらだらと残業をするひとたちを残して席を立った。


 芽依めいに会いたい。あの子はいつも働いたあとそのまま客席で勉強しているから、行ったら会えるかもしれない。わたしの足は望みの勢いに動かされて東京駅を過ぎ、銀座の通りを急いだ。大通りから外れた脇道にひっそりとたたずむ、le mielルミエルのドアを開けた。床もカウンターもあかるい色の木材。カウンターの奥にはつや消しをほどこしたシンクがあって、大きなエスプレッソマシンが鎮座している。ポルタがみっつ、同時に六杯もエスプレッソのショットを落とせる、パワフルな機械。その横で、芽依はミントの葉を仕込んでいた。こちらに気づくなり、ぱっと顔をほころばせる。


「あ!花恋さん、仕事終わるの早いじゃないですか。うちにくるのもめずらしい。芽依が選んだワンピースも着てる!かわいい!」


 紺色の長いサロンを巻きなおしながら、饒舌に話しながら、ニコニコと向かってくる。ハッピーの権化のような芽依はわたしにはちょっと強すぎる。でも、この強引なハッピーさがわたしを明るくしてくれる。


「今日いそがしくて結局この時間まで働いちゃったんですよー、ついでなので、芽依がドリンクを承ります!」

「じゃあ…ホットのカフェラテを…」

「はいー!かしこまりましたー!お好きなお席でお待ちください!芽依が責任持ってお持ちいたします!」


 わたしより長い時間働いているのに、なんて元気なんだろう。漏れそうなためいきをせき止めながら、わたしは隅のソファ席にかばんを置いて、カウンター前に戻った。


 手を洗い終えた芽依が挽いたコーヒー豆をポルタに詰め、指でその表面を整え、タンパーを上からぐっと押し入れてたいらに均した。ポルタをマシンに取り付けて抽出ボタンを押し、カウンター下の冷蔵庫からミルクを取り出す。銀色のピッチャーに一杯分移して、スチームをしゅーっとふかして、ノズルをピッチャーにいれてダイヤル式のスイッチをひねる。蒸気はミルクのなかできゅるきゅると音を立て、あたためられていく。


 この一連の動作を、芽依がこんなにすばやくできることに感心した。動きにまったく無駄がなく、なめらかで、隙がない。そして、わたしは何回か会っているはずの、「お店での芽依」をよく見ていなかったことに気づいた。死ぬ前に会えてよかった、という文字が電光掲示板のように目の前をすーっと流れていったとき、頰に熱い筋が上から下へと移動して、クーラーの風がその足跡をなぞって冷えた。


「花恋さん、なんで泣いてるの?」

堰を切ってぼろぼろと涙を量産し続ける涙腺を止める術はなく、静まるのを待つしかないことを思い知る。


「死ぬ前に…死ぬ前に…」

「え?死ぬ前?花恋さん、どういうことですか?」


芽依は客席側に出てきて手近にあった紙ナプキンを多めに取り、化粧が落ちないようにそうっと押し当てて涙を拭いてくれた。カウンターにはすぐに飲めるはずだったカフェラテが出来上がっていて、その表面に、にじんだ視界がかろうじてくまの絵が描いてあるのを教えてくれた。


涙の味となめらかな舌ざわりの温かい飲み物を腹の底にしまいこんだあと、ふたりで家に帰った。寝支度を整え、ベッドの上で一連の話をしどろもどろすると、芽依はぱたんと突っ伏してけらけらと笑い、足までバタバタさせて、文字通り、頭のてっぺんから足の先まで笑い転げたのだった。わたしも釣られて笑い、疲れ切ったところで仲良く電池切れとなった。


翌朝、となりはいつもどおりからになっていた。お腹にかけられたタオルケットに気づき、昨日のわるい予感が当たらなかったことを握りしめた。なんであんなことを思いついたんだろう、ばかみたいだ、と思いながら洗面台に向かったとき、鏡のなかには生まれ直したようにすっきりとした自分の顔が映った。


昨日を過ぎ、妙にあたらしくなった自分を見つめながら、わたしは今日を今日として生きよう、それから、今日の芽依を余すことなく胸に収めよう、とよく分からない決心をした。

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小品集 青砥みつ @aotohmitzu

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