エーテル技術会社の憂鬱

葉桜真琴

とある営業事務職の憂鬱

「我が社の上層部が『例の新技術』を使って何かをしよう、と事業推進をしているもので。その中で適切な事業パートナーを探して、情報を集めていたんですよ。一応、内製化しようという動きもあったのですがね、そうなると今度は自社の中にそういう部隊と機材を一式そろえなくちゃならなくなる。しかしながら内部にそういうことに技術的な教養をもった人間がおりませんで、揃えるにも手間をかけなくちゃいけない」

 デスクを挟んだ向かい側、妙に疲れた顔をした中年のマルクスという男は、一息に喋りきってため息をついた。

 そして、下から覗きこむような、卑屈さと試しの両方が入り混じった伺いの視線を、デスクの向かい側に座る簡素な服装の地味な男、アドルフに浴びせた。

アドルフはというと、わざとらしさを感じるほどの相槌を打ちながら、手元の<石板>を叩いていた。淡い燐光を放つ石板の表面には、彼が指で叩くのと同時に文章が記されていく。

石板にはこうある。

 いつものパターン。「なにかしたい」タイプ。

 ちなみに、この文字はマルクスの方には見えないよう、魔術的な目隠しが仕掛けられている。そのために彼は安心して不遜な物言いを石板に託すことが出来るのだった。

 薄い唇の端を軽くつり上げ、習った通りと言わんばかりの笑顔を作ってみせたアドルフは、またも大仰とも取られかねない手の動きを添えて、

「こういうものは初期投資を大きくしなくちゃならないですからね。モノを揃えるのはもちろんのこと、人を育てるには根気が」

「それがなければならん、というのは頭では分かっておるのですがね」

 分かっていても出来ないからこそ、マルクスはアドルフのオフィスへやって来たのだが。

 あくびが出そうになるのを噛み殺しながら、アドルフは逡巡しているのを装って続けた。

「……それに、投資が正しいものなのかは結果が出てからでないと分からないですからね。賢者の石か、はたまた只の石ころか」

「そう、そうなのですよ。これは自慢というわけではないですが、やはり我が社ほどの規模となると、金の使い道にとやかく言う声もそう、失敗の揚げ足取りを今か今かと待ち望んでいるような連中だっていますから」

「ははは。いつの世も、他人の不幸は甘露というわけだ」

「いや、全くですな。くはは。人間というものは魔術が使えるようになっても変わらない。いや、魔術が使えるようになって神の御心から遠のいたからこそ、人の邪悪さが浮き彫りになった、などということは」

「御心?」

 マルクスは少し狼狽したように手を振り、

「聖書には一貫して魔術を行う者は邪悪だと記載されているでしょう。私もあまりよくは知りませんが」

「いまどき、アレを読むのはその方面の研究者だけになってしまいましたね。それか、極度の魔術アレルギー、反魔術の教会権威主義者か……」

 はるか昔にとある国の将軍が敢行したエジプト遠征は、彼自身が予想だにしなかった影響を、世界に及ぼすこととなった。はじまりは、彼が軍事的行動と並行して行わせた学術的調査の中で、ギザの大ピラミッドから出土した一つのアイテムだった。

 それは、翠緑に煌めく、エメラルドで作成された大石板であった。ただそれだけなら、美しい工芸品として美術館にただ飾られるだけの運命をたどったであろう。しかし、件の大石板の表面にはびっしりと、無数の文字が刻まれており、真っ先に研究が進められることとなったのだ。

 ほどなくして、石板に記されている文章はヘブライ語だと判明し、解読作業が進められた。作業は難航を極めたが、一節、一節と徐々に内容が明らかとなった。

 石板は学術書であった。世界の在り方に介入し、それを変成せしめるための術技。

 魔術や錬金術と呼ばれる類の、体系だったひとつの奥義書。

 エメラルドに刻まれた錬金術の奥義書といえば、その道の者にとって思い当たるものなどこの世にひとつしか存在しない。

 聖書に記されしアブラハムと時代を共にしたとされ、異教の神と合一し、魔術と錬金術の神と称される者の名を、人々は畏れを込めてこう呼ぶのだ。

 ヘルメス・トート・トリスメギストス。

 そして、かのヘルメスが刻んだ書物の名は、<エメラルド・タブレット>。

「今やエメラルド・タブレットが聖典に置き換わってしまいましたからねえ」

「聖書が権威を失って、ミサとやらも回数が減り。それからはだいぶ早かったらしいですね」

「すっかり昔話に出てくるだけのイベントですよね」

「いまや教会の勢力はわずかな土地を残すばかり。魔術系の連盟に『文化保護』の名目で資金援助を受けて存続を許されている状況だとか」

「こうなってしまうと檻の中の動物と変わりありませんな」

 かつて自分たちの聖典を論拠に魔術師を名乗るものたちを弾圧していた勢力。それが、数千年の時を経て聖典の失墜を経験したばかりでなく、今まで弾圧していた者たちに保護の目的で飼われる。この屈辱はいかほどのものだろう、とアドルフは冷笑する。

 マルクスがハッ、としたようにアドルフと視線を合わせた。

「ええと、つまり何の話でしたかな」

「人間は元から邪悪だという話です」

 アドルフの眼の奥に宿った冷徹な光に、マルクスは一瞬だけ息を詰まらせた。

「それはあまりに……」

「冗談ですよ。ヘア・グローマン」

 アイスブレイクも頃合いかと思い、アドルフは石板を叩く。これ以上はマルクス・グローマンとアドルフの双方にとって時間の無駄と思われた。

 二人は今日、聖書から離れた人間をアレコレ言うために集まったのではないのだから。

「さて、話が脱線してしまったので少し軌道修正しますが――ヘア・グローマン、あなたは<エーテライザ>についてどれくらいの認識がおありでしょう」

「恥ずかしながら、羊皮紙に書く呪文をもっと複雑に、火、水、風、土の四大元素の素になっている第五元素――おっと」

「昔からの名残で、今もエーテルのことをそう呼ぶ方は多いですよ」

「霊子、エーテルがどう振舞うのかを高度に制御することで、あらゆることができる、くらいの認識で」

「概ね、合っていますよ」

 つまらなそうに言うアドルフに、マルクスはほっとしたような笑みを浮かべる。

「とはいえ、決定的に間違いとは言わないまでも、解釈が異なると思しき部分はありますね」

「と、いうと」

「『あらゆることができる』のくだりです」

 釈然としない表情を浮かべられるのは、アドルフにとっては慣れたものだった。この後に続ける説明もまた、彼自身嫌というほど繰り返してきた、半ばテンプレートと化してきた文句の焼き直しである。

「あらゆることができる、というのは、何でもできる可能性がある、というだけの話なんですよ」

「またまた、ご謙遜を」

「例えば、小さく、まだ何も知らない子供がいたとしましょう」

「私にも、子供がいますよ」

 笑みを浮かべたマルクスの顔に、アドルフは少し歯切れの悪い答えを返す。

「……我々大人はその子供に、そう、『君にはいろんな可能性がある』とよく言いますね」

「ええ、まあ」

「子供に可能性の夢を見させることが正しい子育てかはさておき、何かをできるようにするには、それに特化した設計が、チューニングが必要になります。例えば、絶え間ない肉体的鍛錬を必要とするオリンピックの体操選手と、一日中座りっぱなしの我々デスクワーカーを人生の同一時間で両立することはほぼ不可能でしょう」

「仮に何でもできるはずだった子供が大きくなるにつれて可能性をポロポロと取り落としていくとして、それが<エーテライザ>とどう関係があるというのです」

 マルクスの顔はすでに若干、冷静さを欠いていた。まるで、うごめく怪物の姿を目の当たりにしてしまい、それが自分自身であると気づいてしまったかのような、そんな悲壮な失望の一歩手前、といった様子だった。

 少しやりすぎたか、とアドルフは薄い唇を軽く噛んだ。

 石板の文字表記を見やる。先ほどから命令を入力して準備をさせていたのが、ようやく済んだようだった。

「とりあえず、<エーテライザ>のデモをしましょうか。できることの簡単な一例を見てもらわないことには、我々もソリューションを提供しようがありませんから」

「デモなんてできるのですか」

「そうでもしないとペテン呼ばわりされるのが業界の常なので」

 そんな軽口を叩きつつ、アドルフは指で石板に触れ、コマンドを入力し始めた。

 すると、互いの筆記具くらいしか置かれていなかったデスクの真ん中からデスクを覆うように突然、膜のようなものが広がった。そして、のけぞるような反応を示したマルクスの目の前に、虹をまだらに押しつぶしたような、手のひら大の立方体が出現した。

「おっしゃる通り、<エーテライザ>はエーテルの振る舞いを制御して、物体や現象を操作する技術です。今、お見せしたのは大きく分けてふたつある機能のうち一つ、物体の創成といったところです」

 さらに石板に触れると、立方体はまるで目盛りに合わせるかの如く、きびきびと机の上を上下左右に移動した。そして、重力に逆らったまま空中で静止した立方体はアドルフの指の動きに合わせて回転を始めた。

「現在、このエーテルキューブには『宙に浮く』というコマンドを実行させたうえで、『回転する』というコマンドをループさせています」

「これが、ふたつ目の機能、というわけですね。運動や現象の操作……」

「ええ。物体を形作る。その状態を変化させる。エーテライザの基本はこのふたつです。あとはその応用次第で様々なことができる……というわけです」

 石板に触れて「回転」のループを制止させると、アドルフはマルクスの前にエーテルキューブを差し出して言う。

「触れてみますか?」

「え、ええ」

 と答えるものの、マルクスはなかなか手を触れそうになかった。虹色のまだらを押し固めたエーテルキューブは確かに、触れるには少し毒々しい色合いだった。

 アドルフはやおら立ち上がると、デスクを包む膜、エーテルキューブの順に彼の左手の指を突っ込んだ。

「入った」口をぽかんと開けたマルクス。

「入りましたね。このキューブはいわば存在はしており我々には認識できますが、触れられるようにはなっていないと言えばわかりやすいでしょうか」

「いえ、なんのことだかさっぱり」

「簡単に言えば幽霊のようなものです。『そこにいる』というのは認識できても、触れようとすれば体をすり抜けてしまいますね」

「物語によっては人間に触ってきませんか?」

「それはその物語に出てくる幽霊がそうと設定されているからですよ。このキューブも同じで、『存在はする、けれど実体はない』という設定になっているのです」

 右手で石板を叩き、エーテルキューブの挙動を操作する。アドルフはさも左手でキューブをつまんで動かしているかのように見せてマルクスのもとへ差し出した。

 触れろ、という無言の意思表示に、中年の男はおずおずと従った。

「何も感じない。熱くも、冷たくもない」

 まさに幽霊にすり抜けられたかのような表情を浮かべたマルクスを前に、アドルフはほくそ笑んだ。

「では、このキューブに性質を与えましょうか」

 石板が叩かれ、マルクスの表情が驚きに変わる。

「これは、水、ですか」

「ええ。温度も変えられますよ」

 マルクスはぎょっとした顔でキューブから引き抜くと、もう片方の手でキューブに入れていた指をさすった。

「ちょっと冷たすぎましたかね」

「おかげで<エーテライザ>のすごさというか、そういうものはわかりましたよ。これ、水だけでなくて、色々なものに変えられますよね?」

「このプログラムには水に変える機能しかつけていませんが、理論的にはなんにでも変えられます」

「あなたも意地悪だな」

「と、言いますと」

「やっぱり、何でもできるじゃありませんか」

「……ヘア・グローマン。あなたは<エーテライザ>に何をさせたいですか?」

「ええと」

 目を白黒させるような戸惑いのマルクスに、アドルフは畳みかけるように続けた。

「<エーテライザ>をどうしようかという問いは、子供をどう育てたいか、どんな人間になってほしいか、を自分自身に問うこととよく似ている、と我ながら上手い言い方だと思っているのですが」

「あぁ、はは」

「ちなみに、何と言われて情報収集をしていたのですか」

「え?」

「上層部に、ですよ。ひょっとして、『<エーテライザ>を使った何かをやりたい』みたいに言われましたか」

 マルクスは少し逡巡を見せ、口から洩れるように肯定の意を発する。そして続ける。

「あの、それで、どうにか助けていただけないですかね」

「はい?」

「いえ、ですから。<エーテライザ>でですね……」

「『なにか』を、『どうにか』したい、ですよね。知っていますよ」

 そう、知っている。これまで多くの人間が数えきれないほどアドルフの元を訪れ、似たような悩みをぶちまけられた。

<エーテライザ>は万能の神ではない。

 否、仮に万能の神であったとしても、自分の抱く願いが明確でない人間の望みを叶えることなどできはしないだろう。

 悩みがあるからこそ願いが、願いがあるからこそ縋るのではないのか。

 何かのために頼るのではなく、頼るために頼る。

<エーテライザ>を使うために<エーテライザ>を使う。

 手段が目的になっている。

 本当に必要なのは、何かの課題を<エーテライザ>という手段を以って解決することだと思われるのだが。

もちろん、社会的にはアピールになるだろう。生まれたての新技術を用いて新しい事業を起こしたとなれば、フットワークが軽く創造性が高い企業だと思ってもらえる。

 内面が伴っているかはともかく、少なくとも、外面だけはよくなる。

 マルクスだけではない。皆そうだ。別に誰が悪いというわけでもない。

 悩みがないというのが悩みなどという、贅沢な悩みを抱いているわけでもない。

 自分の考えていることが、自分が何に困っているかが自覚できていない。そのこと自覚することに頭を回していない。

ただ、それだけ。それが、似たような人々を次々と見てきて、気づいたことだった。

 石板を指で触れながらアドルフは問う。

「課題が明確でないといったお客様には、専門の課題を発見する業務を行っている企業を紹介するといったこともできます」

「そんなところまで支援してくれるのですか?」

「ええ、お客様の中には自社の課題を明確にして対処したい、という方も一定数おられますので」

 それはつまり自分の悩みを自分で考え抜くという、場合によっては大きな苦痛を伴う作業を、他人にすべて丸投げする者たちが多くいるということの一つの言い方でもある。


 金なら払ってやる。考え、手を動かすのはお前たちの仕事だ。

 

 似たような人々を相手するうち、話している相手がこんなことを考えているのでは、と猜疑に囚われることもままある。もっとも、魔術による記憶操作を受けていないとするなら、アドルフには面と向かってそんな暴言を吐かれた記憶はない。

 しかしながら、言外にこんな態度を示されたことならままある。


 考えて、実際に動くのはお前たちの仕事だよ。はぁ、そんなにかかるのか? ならもっと安いところを探すよ。魔術が分からないと思ってバカにしやがって。


 マルクスの声に、濁った沼に沈みかけていたアドルフの意識は引き戻された。

「あの、費用はどれくらいになるのでしょうね」

 来た。

 アドルフは薄い唇を引き延ばして笑みを作る。

「やりたいことにもよりますが、あなた方のような業界に向けて開発した事例に倉庫の貨物動作の制御に<エーテライザ>を導入した事例がありまして」

「それは、貿易業者でしょうか」

「詳しい名前はお伝えできませんが、魔術のコーディングに必要な羊皮紙やら、元素を込めるのに利用する宝石や鉱石やら、魔術にかかわる様々な物品を詰めた箱を指示通りに動かすという要件でしたね」

「おいくらほどですか」

 石板をたたいて表示させた数字を見せてやると、マルクスは目を細くして黙り込んだ。

 こういう時、アドルフはあまり語らないようにしている。

 相手が考え込んでいるときの対処の考え方は二通りある。

 一つは相手の熟考を促すために黙って集中できる時間を与えること。

 もう一つは相手に話しかけて思考をストップさせること。

 後者はどちらかといえば押し売り向きだという考えから、あまり使わない。

 仮に相手の思考を寸断させて注文を取ったとしても、相手が心の底からとは言わないまでも納得していなければその後の動きは硬直したものになってしまうし、下手をすれば信用問題になりかねない。

 そして何より、この手法を使う人間のことがアドルフは大嫌いだった。

 例えば、閉めかけたドアの隙間に足を突っ込んで強引に家に入ろうとする訪問販売や、オフィスが用意している問い合わせ用の魔術通信回線に臆面もなくかけてくる営業といった手合いである。

 前に一度、同情を誘うような催眠の魔術を使われ、危うく箸にも棒にもかからないような杖を買わされそうになったことがある。それからというもの、彼の人間嫌いと不信はさらに増した。

 マルクスはまだ黙ったままだ。石板に映した見積もりの事業概要や紹介資料をじっと読んでいる。

 それにつられて、アドルフもその事業に携わった当時のことを軽く思い出した。

 先ほど語った事例は物品の種類も多く、それに応じた扱いを命じなければならかった。そのせいで、全体の回路を設計するだけでもかなりの時間とコストがかかった。費用感が折り合わず、ちゃぶ台返しを食らったことも一度あった。

 黙ったままのマルクスに話しかけることもなく、アドルフはエーテルキューブを見つめ続けた。表面のまだらな虹色を目にしていると、意識が吸い取られるような感覚がする。

 正確に言うなら、エーテルキューブの表面を見た時の感覚は、目に負担を与えて眩暈のような症状を起こさせる錯視図形による酩酊感をさらに強くしたようなものである。酒に酔ったのとはまた異なる世界の歪み方は、若干クセになるものがある。

 こうなるともはや中毒のようであり、このまま酔ってしまいたいという欲望と、今は客を相手にしているのだという自制がせめぎ合い、後者が勝った。

「どうですかね、費用感は」

 無理矢理に絞り出したその声に、石板をじっと眺めていた中年の男はようやく顔を上げ、

「持ち帰って検討させていただいても?」

 持ち帰って検討、というのはとりあえず話をなかったことに、という隠語である。

「構いませんよ。何をされたいかもお考えになったうえでお話しいただければ。もちろん、何か困ったことがありましたらお気軽にこちらへ」

 石板を手元に引き戻し、魔術通信回線の所在を指さしてみせると、マルクスはコクリとうなずいた。

「近いうち、ご連絡を差し上げます」


 酩酊感。

 エーテルキューブを見つめた後に訪れる世界のゆがんだ見え方は、まるで世界を馬鹿にしているかのようだ、とアドルフはいつも思う。彼は外に取り付けられた階段の踊り場で、中空に呼び出したエーテルキューブを一人見つめていた。

 程よく酔ってくると、身体を背中側に反る形で手すりから身を乗り出し、ぐらぐらになった下界をさかしまに眺めた。転落してしまいそうで転落しない。自らの命を弄びながら目に見える世界を嗤うのが、仕事の合間の息抜きである。

 今日も今日とて死ぬにはバカバカしい日だ、などとひきつった笑いを薄く浮かべているところで、上のほうからドアの開く音がした。

「おーっ、またやってるよ」

「いい気分なんだ。邪魔しないでくれないか」

「死ぬなら邪魔はしないぜ」

 アドルフは視線をさかしまの世界から体のほうへと戻し、およそ同僚に向けるには険のある言葉を発する女の方へ向けた。

 センスを疑いたくなるような、七色にぎらつく大きなカメレオングラスが顔の半分を隠し、唇は真っ赤なルージュを引いている。長ズボンにすらりと足を通し、上半身には胸元がざっくりと開いて谷間さえ見えてしまうシャツを着ている。このきわどさを攻めた服装は彼女が好むコーディネートで、アドルフも幾度となく見たことがあるものだが、彼は一度も彼女に欲情したことはなかった。

「ま、死ぬ気はしないな」

「あんた、いつも辛気臭い顔してるじゃん。この世のすべてを儚んでいます、虚無です、みたいな顔して。生きてて楽しい?」

「親にだってそんなこと言われた記憶がないが」

「だってあたしが記憶を全部抜いたからね」

「記憶を全部抜かせるほどお前に心を許した覚えもないんだが」

 記憶の消去とは軽く語っているが、実はかなりの難易度を誇る魔術である。というのも、人間は自身の記憶を他人に公開するとき、相手に心を開いていないとそれが上手くいかないらしい。

 つまり、悪意の第三者がいきなり他人の記憶を抜くか改変するといった芸当は理論的にはほぼ不可能、ということになる。それを裏返せば、アドルフは同僚の彼女に心を開いていないということになるわけだ。

「死ぬのは止めないけど、どうせやるならもっと別の場所を選べよ」

「……例えば?」

 アドルフの問いに彼女はとある住所を返した。その住所は、彼にとって聞き覚えのあるものだった。

「……商売敵の入っているビルじゃねえか」

「このビルで自殺者が出て地価が下がればオフィスの家賃は下がるかもしれないけどさ、それ以上に風評被害のリスクのほうが大きいと思うわけよ。ひょっとしたら、エーテルが自殺の原因のやり玉に上がるかもしれない。やれエーテルは人間の精神を狂わせるだとか、体に毒だとか。そうなったらあたしたちの商売はあがったりよ」

「精神をおかしくするってのは別に否定はしないが」

 アドルフは自他共に認めるエーテルのもたらす視覚的酩酊感の虜、中毒者である。

 すでに魔術庁はエーテルによる健康被害を市民に啓蒙して回っているが、この世ならざる感覚に酔う人々にとってそんな小言は「酒を飲みすぎれば翌日の二日酔いが辛くなる」程度のありふれた説教でしかない。煙に含まれる成分が肺をダメにするからといって喫煙家が煙草をやめるかといえばそれもないだろう。

 ぎらつくサングラスの女はズボンのポケットから煙草を取り出し、舌打ちをして火をつけた。彼女はサングラスに、「煙草をくわえながら舌打ちをすると火が付く」ように魔術を仕込んでいる。

 魔術が起動する刹那、おびただしいほどに〝記術〟された文字が見えた。<エーテライザ>のコーディングを生業とする彼女が自ら手掛けた、世界でたった一つだけの魔導具である。

 それも、「カッコよく煙草を吸うため」だけに作成したアイテムだ。舌打ちをしてノーハンドでタバコを吸う仕草がカッコいいかはさておき、望み通りのものを作る彼女の技量は、アドルフの認めるところではある。

 少なくとも、技量は。

 その他の部分に関しては彼の見て見ぬふりをするところだ。

 センスやスタンスの違いはともかく、モノに依存して積極的に身を持ち崩しているという点においては、アドルフも彼女も大差ない。

「で、商売敵のところで死んでくれれば、死人の出た呪われたビルみたいな感じで客足も遠のくんじゃないのかと思うわけなんだけど」

 わざとらしく煙を吹きかけながら彼女は続ける。アドルフは腹立たしさに「舌打ち」をしながら、今この瞬間に目の前の女を火だるまにできないかと軽く思う。だが、当の彼女はそんなことお構いなしである。

「ここで死んだら死んだで、エーテルで生前の姿を再現して看板にしてもいいかもね」

「そんなことをしたらこの会社丸ごと祟って末代にしてやる」

「意外」

「なんでだよ」

「エーテルのゴーストになればたくさんの人間を怖がらせられるぜ! みたいな反応を期待していたんだけど」

「お前には俺がそんなタマに見えるのか? もし見えるならその趣味の悪いサングラスを外したほうがいい。それに、死んでも誰かに働かされるなんざ……」

「死んでもごめんというわけだ。ま、早めのリタイアを決めたとしてもさ、暇になったらいつでも来ればいいじゃん」

「どの道、早くリタイアできるような身分じゃないが、考えておくよ」

 もう一度、世界をさかしまに見る。話しているうちに酩酊感は薄れ、無理な態勢をとって下を眺めている自分の姿がバカバカしくなってきた。

「そろそろ戻る」

「おっす」

 彼女はそれだけ言ってアドルフの方を見ることなく、手すりに寄りかかりながら煙をまっすぐに吐いた。

 自分のデスクへ戻ったアドルフは石板を叩いてエーテルキューブを呼び出し、コマンドを与えた。人間の用いるものとは体系の異なる記術言語を、あえて人間式に訳して曰く――この数時間に起きた出来事の記録を文章にしたためよ、といったところだ。

「……何度やっても小説形式になるのはなんでだろうな?」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エーテル技術会社の憂鬱 葉桜真琴 @haza_9ra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ