こういうのが食べたかったんだ。

ロドリーゴ

こういうのが食べたかったんだ。


 夜十時二十分、淵野辺着。そこから家まで二十分歩く。俺は夜遅くなった日の帰り道はいつも速足だ。早く帰りたいから……というより、止まったりゆっくり歩いたりしているとどんどん疲れが出てきて、動くのが辛くなってしまうからだ。



「ただいま」

 玄関を閉めながら呟くように言う。一人暮らしではないのだが、夜十一時になろうというのに、アパートで大きな声は出せない。


「アキオ、おかえり」

 妻のミカも呟くように俺を出迎えた。共働きでミカも遅くなる日もあるが、今日は早めに帰ってきていたらしい。もう風呂もすませて寝巻に着替えている。


「くたくたでしょ。最初に何にする?」

「何かご飯作って。すぐ食べられるものがいい」

 風呂も捨てがたいが、今は食べ物。昼食から何も口にしていないから、もう倒れそうなほど空腹だ。


 俺の願いを聞いて、ミカは親指と人差し指でオーケーサインをし、台所へ向かって行った。あのオーケーサインと口をきゅっと動かして作る笑顔は出会った時からずっと変わらない。帰ってきてミカのあれを見ると、途端に心が落ち着く。

 そうやって気が緩んだからか、俺は一気に疲れが出て、歩くのが億劫になってしまった。ミカの後ろを進んでいたものの、台所までは行けずに、一人リビングのテーブルに手をついて、崩れるように椅子に座った。

 ネクタイを外す……というか、引きむしってテーブルの端に置く。そして、背もたれを使ってぐぐっと伸びをした後、頭を下ろして目をつむった。


「だいぶ疲れたみたいだね」と台所の方からミカの声。「うん」とだけ答える。

 何を作ってるんだろう。


 俺達はほとんど毎日、両方かどちらかが夜遅くなる。すぐに食事ができるように、俺は冷凍のグラタンとか、ラザニア、パスタなんかを買いだめしていた。ミカが遅くなるときには俺がそれをチンして食べさせるのだが、どういうわけかミカはいつも半分ほどしか食べない。その残りは毎回俺が食べていて、最近はもう食べ飽きてきた。だが、今日はこんなに遅くなってしまったし、もうそれでいい。


 目をつむっていたら、眠くなってきた。どうせ電子レンジの「チン!」で起きるから、いっそのこと少し眠ってしまおう。





「アキオ、もう出来るよ」


 俺はミカの声で目を覚ました。電子レンジの音に気付かなかったのか、あるいはその前にミカが起こしてくれたのか。だが、電子レンジが動いている「ヴーン」という唸り声も聞こえない。

 代わりに、包丁で何かを刻む軽やかな「トントントン」という音。わざわざ何か作ってくれているらしい。心地いい音だ。電子レンジなんかよりずっと。気持ちが楽になる。


「はい。お待たせー」

 ミカが俺の前に茶碗と箸を置いた。これは……

「お茶漬けか。食べ易くていいね」

 ご飯に乗っているのは、ほぐし身のシャケ、刻んだネギ、白ごま、そしてノリ。このお茶漬けを見ていると、シャケが日本人にこれだけ親しまれているのがよく分かる。白いご飯に黒いノリ、そして朱色のシャケ。何とか摩呂じゃないけど、まるで宝石箱のようだ。

「いただきます」

 そう言って茶碗を取り上げ、顔に近づけると、ふわっとくる香り

「この香り、ごま油?」

 向かい側に腰かけたミカが「うん」とうなずく。

「それに、お塩もほんの少し振ってるよ」

「いいね。細かいとこまで気が利いてる。美味そうだな」

 軽く息を吹きかけて、一口。「ずずっ」という音が部屋に響く。


 このお茶漬け、めっちゃめちゃ美味いわ。


「ねえアキオ、今日はなんでこんなに遅くなったの? 何かあったんじゃない?」

 ミカが笑顔のまま聞いてきた。俺は箸を止め、もぐもぐしながらうなずく。

「俺の同期の垣沼さんがさ、備品の数え間違いしてたんだよ。で、結果発注ミスが起こって。もう明後日の話なのにどうすんだ! って大騒ぎ。話し合いがもう、長引いて長引いて」

「そっか」

「おまけに、それで俺がうっかり垣沼さんに『算数もできないのかよ』なんて言っちゃったからさ。そこから俺、みんなに悪者にされちゃって。まあ、俺にも悪いところあったけど。とにかく疲れた」


 そうやって俺がお茶漬けを食べながら愚痴る間、ミカはずっと笑顔。何だか幸せそうだ。

「アキオ、遅く帰って来るといつも、私が何か言っても『うん』とか『まあ』とか、一言で終わらせてるけど、今日はたくさん喋るね」

 確かにミカの言う通りだ。自覚はある。

「少し元気出た?」

「出たよ。だいぶね」

 本当にそうだ。体が動かし易くなった気までする。そこで、俺はふっと気付いた。


「そっか。ミカ……こういうのが食べたかったんだ」

「……うん」

 ミカはにっこり笑ってうなずいた。


 俺はいつも、レンジでチンしてミカの前に置くだけ。残してはいたけど、それに文句は一切言わなかったミカ。俺に気を遣って、ずっと言うのを我慢してたんだ。

 もっと早く気付いてあげればよかったな。


「次は俺が作るよ。このお茶漬け、最高だった」

「嬉しいな。作ってよかった」

 ミカの笑顔が柔らかくなり、俺も笑みがこぼれる。



 いつもよりほんの少し、幸せな夕食だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こういうのが食べたかったんだ。 ロドリーゴ @MARIE_KIDS_WORKS

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ