孤島の夕餉

玉鬘 えな

今日は九州物産展をやっていたから


 電車を乗り継いで、海原を泳ぐように家路を急ぐ。

 都心から枝分かれした先っちょのほうの路線は、夜もとっぷりと更けたこの時間になると客の姿もまばらだ。ゆりかごのように向かい合って設置された、ほの暖かい座席に沈み、かたたん、かたたんと取り巻く音に身を委ねる。まるで波間に放り出された漂流者みたいだ、とアキオは車窓の外を見やりながらぼんやりと思った。


 さらに路線バスに乗り換えて、暗い夜道を行く。畦道のバス停に降り立つと、家の灯りはもうすぐそこだ。孤島の灯台のように、今日もアキオの帰りを待っている。



 ようやっとたどり着いた孤島我が家、その玄関の三和土たたきで靴を脱いでいると、唐突に照明がいた。顔を上げると、スイッチに手をかけたままの姿勢で、ミカがこちらを見下ろしてにこりと笑んでいる。


「おかえりなさい、旦那さん」

「ああ、ただいま、奥さん」


 ――大海原の孤島のような我が家の灯台は、この照明あかりなのか、妻の笑顔なのか。

 ひっそりと考える彼に彼女は、今日も終バスだったのね、と労いの込もった科白セリフをくれた。


「ご飯にする? それともお風呂が先?」

「そうだなぁ。とりあえず座ってゆっくりしたいから、晩飯で。なにか、手早く食べられる簡単な物をお願いシマス」

了解りょーかい


 ぴしりと敬礼のポーズを取って、ミカは台所へと消えた。

 屈託のないその顔を見てしまえば、アキオの背をなだらかな安堵と一日の疲労感が同時に駆け下りていく。

 ネクタイをゆるめつつ洗面所へ向かい、靴下を洗濯かごに放り込んだ。手首までの手洗いとうがいを済ませ、寝室でスラックスから部屋着のスウェットに履き替える。一連の流れをゆったりとした動作でこなした後、鞄から小さな袋を取り出し、それを持ってダイニングチェアへと落ち着いた。


 カウンター越しに覗く台所ではミカが作業に勤しんでいる。

 とん、とん、とん、かちゃかちゃ、かしゃり。

 まるで小さなオーケストラのように多様な音に溢れている炊事場で、さしずめ指揮棒タクトを振るう指揮者である妻の顔は真剣そのものだ。

 ピーッと笛吹き音が鳴って、慌ててコンロの方へ駆け寄っていく。あちち、と呟きながらケトルを手に右往左往。弾みで布巾を引っかけ、上に置いていたキッチンばさみががちゃあんっと落ちた。


 ――オーケストラというより、チンドン屋かな。


 台所のそんな様相に、アキオはくすりと笑いを噛み殺した。


「そうだ、これ」

「え! なぁに?」

「同僚の森田さんが九州の実家からのお裾分けって。明太子のさ、切子きれこって言って、高級なやつでも規格外のB品を安くで買えるらしいんだ。形がアウトなだけで、味はそのままだからお得らしいよ」

「へぇ……わぁ、ほんと。色も綺麗で美味しそう」

「だろ? 今日の飯にさ、これ、のせてくれよ」

「うんうん。いいね、なんかリッチな感じ」


 カウンター越しにミカが包みを受け取ってから待つことしばし。大振りの茶碗と急須を載せたトレーを持って、妻は台所から現れた。

 白米の上に先ほどの明太子を一房ほど、ほぐしてのせてある。不揃いにカットされた大葉と韓国海苔。それに白ごまを散らしたものに、急須からインスタント顆粒を溶いただけの出汁を注いでいく。


 いつもの、お茶漬け。ミカの、たった一つの料理レパートリー

 日によっては鮭フレークだったり、シラスだったりとメインの具材は違えど、基本は同じ。盛って、溶かして、掛けるだけ。

 たぷたぷと、朱を戴いた白い小山が熱い汁に浸食されていくさまを、アキオは黙って見つめていた。


「はい、どうぞ」

「ああ、ありがと」


 いただきます、と手を合わせるや、箸を掴んでかきこむ。茶漬けは出来立てが最高にうまいのだ。美味しいものを食べるには、しょくす方にだって、心得がいる。


「美味しそうだね」

「美味しいよ」

「私も、食べようかな」

「いいのかぁ? こんな時間に食べると、美容にも体脂肪率的にも、良くないんじゃなかったっけ?」

「う……ですよねー……やっぱ、マズイかな」

「嘘うそ」


 はふはふと熱い息を吐き出して、アキオはにやりと微笑わらう。


「せっかくだからさ、お前も味見してみろよ。明太子。本場の味は違うぞ」

「だよね、せっかくだもんね! 実はお出汁も少し多目に作ってあるのっ」


 茶碗に白米を盛り付けるべく、いそいそと台所へと戻ったミカを、アキオは目を細めて見守った。



 ――そうさ、こんな風に、食事は雰囲気ごと食べるのも大事な心得だろ。


 この孤島には、味や見てくれに文句をつける姑も栄養バランスにダメ出しをする栄養士もSNSで料理自慢をしては感想を求めてくる隣人もいない。

 そんなものは全部、前職の辞表とともに水子の供養に投げ出してきてやった。そうして全て捨てて、この離れ小島に、二人でたどり着いたんだ。


 だってそうだろう?

 俺はお前と、共に生きていくために一緒になったんだ。

 他人よそさまに誇れるような食事の支度をさせるためでも、血族を残すためでもないさ。


 よく笑うようになったミカ。メニューなんか一つしかなくたって、そっちのほうがよっぽど、大事なことじゃないか。



 吐息にも似た静寂の中で、出汁の海をさりさりと米粒が凪ぐ音だけが耳に響く。

 ほのかに暖かく穏やかな空気だけが、陸の孤島の漂流者たちを包み込んでいた。





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