いつも心にお茶漬けを。
留戸信弘
嗚呼お茶漬けよ永遠なれ
マンションの玄関脇に見える窓が色づいていると、いつも心が軽くなる。
逸る心を押さえて鍵をひねり、押し開けると高らかに扉が鳴った。
「ただいま」
廊下にリビングの照り返しが見える。柔らかな壁紙とフローリング、そして少しだけ馴染んだ空気……人間のくつろいでいる部屋独特の空気が、くたびれたスーツを包んでくれる。
ひょっこりと廊下に顔だけを出して、彼女は笑う。
「おかえりー」
「ああ、ただいま」
ただいまの言葉を受け取ってもらえて、投げ返してもらえる。この温かさは、疲れたときには特に染みる。
「はいはい、おかえり。今日もやつれてるね。なんかサービスしてあげようか」
歩いてくるミカが、ほんのりと香りを運んでくる。
「なんかいい匂いがする」
「げ。勘のいいやつめ」
言葉と裏腹のニヤニヤ笑い。なにか食べていたらしい。このどこか懐かしい、香ばしくまろやかなお茶と塩っ気の匂いは。
「……お茶漬け?」
お茶漬け海苔の匂いだ。貧乏独居が続いた大学時代に散々お世話になった匂い。
不意にお腹が鳴る。いいな、急に食べたくなってきた。
だがミカはちょっとばつが悪そうに口を尖らせた。
「悪いけど、ちょうど切らしちゃったよ」
「えー!」
「だって食べたがるなんて思わなかったもん」
そりゃそうだ。ストックを決めて食べるものではない。
「じゃあ、手早く食べられるものを用意してくれないかな。簡単なものでいいよ」
んー……と壁を見上げたミカはうなずいた。
「わかった」
彼女は背中を見せて、リビングの奥に消えていく。
その背中を追いかける足が、ぐんと重たくなったようだ。腰もだるい。腕もしんどい。鞄が乾いて素っ気なくなる。
ミカの顔を見て安心したが、そのぶん一気に疲れが出てきたようだ。足を引きずるように歩いて、やっとの思いでリビング兼ダイニングまでたどり着く。奥のキッチンでミカがばたごそと戸棚を開閉する音がした。
待っている間にお風呂でも、と思ったが、とても動ける気分じゃない。ワイシャツを脱いでベルトを緩めた。だらしないが、許してもらおう。
椅子に座って息をつく。テレビでもつけようかと思うが、手も足も鉛の糸が絡みついたように動かない。耳にだけ台所で動くミカの音が届く。
なにをしているんだろう? 冷蔵庫から出したタッパーを開けている。電気ケトルでお湯を沸かしたようだ。ばりばりと袋を開ける音。
なんだ、と笑ってしまう。手も足も休ませていればいい。ミカの音を聞いていれば、それだけで気が楽になる。バック・グラウンド・ミュージックならぬ、バック・グラウンド・ミカの物音だ。
「できたぞ」
「もう?」
BGMが速攻で断たれてしまった。
ほんのり残念に思いながらミカの手元を見ると茶碗。
茶碗オンリー。
ミカは少し楽しそうにニヤニヤ笑いを浮かべている。
「ほい、お上がりよ」
「これは……!」
茶碗の縁まで揺れる淡褐色の香ばしさ!
柔らかく膨らむ白米に、ほぐされてひたひたになったツナ缶、明太子、梅干し!
それらが冠する彩りとしてまぶされた細切りの海苔!
「お茶漬けじゃないか!」
「おうとも、お茶漬けさ。手早く食べられるだろう?」
ミカのドヤ顔は相変わらず愛らしい。
まったくその通りで、手軽で食べやすくて美味しいお茶漬けはおよそ最高クラスの料理ではあるまいかと思っている独居メシの元プロ、アキオさんである。結婚してるのにお茶漬け海苔が常備されているのはだいたい俺のせい。
「しかし、うーむ、これは……」
なみなみとご飯に吸われている淡褐色はこぶ茶だろう。マイルドな味わいが最高で、リラックス効果は想像するに余りある。
缶からそのまま出すと油分の気になるツナだが、どうにも水面に浮かぶ油が少ない。キッチンペーパーで一度拭いて、カラッと仕上げているに違いない。
明太子に至ってはどうだろう。熱で白くなっている切り身と、もとの鮮やかなピンク色が映えている切り身と、どちらもある。注ぐ前と後、分けて盛り付けたのだ。熱せられた明太子の歯ごたえと生の切り身の味わいを贅沢に楽しめる工夫だ。
そして紛れている梅肉は、なんと種が取り除かれている。魚卵アンド魚肉でこってりした盛り合わせに爽やかさをプラス。梅干し由来の疲労回復効果も見逃せない。
「勿体ない逸品です」
「いいから食え」
ミカは笑いながら向かいに座った。
箸を親指に揃え、両手を合わせて深くお辞儀をして。
「いただきます」
ああ! 一口目から口いっぱいに広がる、しっかりと強い旨味と爽やかさのハーモニーがたまらない。
味わいたい気持ちと一気にさらいたい気持ちがせめぎ合い、今日のところは一気食いに軍配が上がった。さらさらとかき込んでいく。飲み込むと重層的な旨さが鼻に突き上げてくる。あぁー、うめっ! うめぇっ!
「のどに詰まらせるなよ」
「んっ、大丈夫だよお茶漬けなんだから」
「それもそうか」
ミカは嬉しそうに笑う。
彼女の笑顔をなによりのスパイスに、お茶漬けを夢中で流し込む。
こぶ茶の香りがふんわりと部屋じゅうに広がっていった。
いつも心にお茶漬けを。 留戸信弘 @ruto_txt
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