幸せなお茶漬け

風乃あむり

幸せなお茶漬け

 顔を上げた。

 カチャカチャと鍵を開ける音が聞こえたからだ。

 リビングの掛け時計は深夜の12時半を無言で示している。

 ミカはソファに預けた体を起こし、スマホをローテーブルに置いた。玄関に夫を出迎えにいく。


「おかえり」

「あぁ……ただいま」


 夫のアキオは少し驚いたような顔で妻の姿を確認したが、すぐに視線を足元にやる。革靴を脱いで、今すぐ楽になりたかった。


「めずらしいね、出迎えなんて」

「今日も遅かったね。夕飯はどうする?」

「何か軽く食べられるもの用意してくれる?」


 了解、と簡単な返事をして、ミカはキッチンへと去っていった。

 パジャマ姿の妻を見送ってしまうと、のしかかるような疲労感が彼を襲う。

 妻のもとに帰ってきた、という無意識の安堵が、仕事から帰ってきた男の角ばった心を解きほぐして、自然な感覚を取り戻させていた。


 鏡に映った自分は、ずいぶん疲れているな、と洗面所で彼は思う。

 目のクマはもはや定住しつつある。今朝――いや、正確には昨日の朝か――に剃ったヒゲは、すでにあごを青くみせて生き生きとした清潔感を奪っている。しかも、汗だく。


 もう少し、早く帰れるといいんだけど――とは思っていなかった。


 そんなことを考えるほどの余力が、その時の彼には残されていなかったので。


 機械的に帰宅後のルーティンをこなす。手を洗い、顔を洗い、タオルで拭って、ネクタイを外す。スーツもカバンもクローゼットに押し込んでから、ダイニングテーブルの定位置についた。


 どっぷりと背もたれにのめりこんでしまうと、もう一歩も動きたくない、と体が心に訴えだした。


 トントントン。


 そんな疲れた彼の脳に、心地よい包丁のリズム。


 トントントン。


 キッチンからいつもの音が届くと、不思議と心は落ち着いてくる。


「はい、お茶漬けね」


 しばらく待つと、目の前にお茶碗が置かれた。

 温かい湯気が、ペンダントライトの光の中を白く漂って、宙にのぼっては消えていく。


 大きな梅干し、刻んだ大葉と散らした小葱。


 ――うまそう。しかも食べ易いから助かるな。


 添えられた木の匙で梅干しを潰して軽くかき混ぜ、少量すくって息を吹きかけ、最初の一口。


 熱い。十分にさめていなかった。口の中で持て余した熱を、頬を膨らませてなんとかやり過ごす。

 うまい。梅の酸味で、口の中がすっきりするのも気持ちがいい。


 夫の真向かいに座ったミカは、そんな彼の様子を微笑ましく見守っていた。


 黙々とお茶漬けを胃に流し込むアキオは、今日も疲れている。


 彼女の夫はいつも帰りが遅い。

 今はもう深夜の1時。昨日の帰宅も同じような時間だったし、一昨日なんて終電で帰ってきたのだった。


 だから平日はいつも疲れている。

 日常に起こったささやかな出来事を彼と共有したくても、うるさくしてはいけないと毎晩黙っている。


 あのね、アキオ君――


 彼女はいつも通り、心の中で今日一日の報告をする。


 ――私、年下の男の子に告白されたの。


 ニコニコと微笑む妻の前で、夫はお茶漬けの最後の一粒を流しこんでいた。

 そしてアキオは、ふぅと、深い息を吐き出す。


 あぁ、うまかった。


 彼は満足そうに頬を緩めて妻を見る。

 穏やかな笑顔で夫を見守る妻は、なんだか少しだけ、いつもより可愛く見えた。


 幸せな空気が、今日も二人を包んでいた――







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