林檎哀歌

佐竹梅子

1.歯を立てて

 立川優介は、電車に揺られながら『死んでしまいたい』と強く願った。まさか自分が、幼稚園の頃からの幼馴染であり、恋人でもあった歩美のことを好き――いや、愛しているとは思ってもいなかった。

 ことの始まりは昨夜にさかのぼる。優介は文学系の大学を卒業後、雑誌のライターとして、鳴かず飛ばずの生活を送っていた。というのも、このインターネット社会の宿命か、どの雑誌も売れ行きが思うように伸びずに、最悪の場合、たったひとつの記事を書いただけで休刊または廃刊、となってしまうことも少なくはなかったからだ。

 それでも、ライターとしてなんとかぎりぎりのところで奮闘している優介の背中を、歩美はいつも押してくれていた。「大丈夫だよ! ゆーちゃんなら、きっといつか人気ライターになれるから!」……そう、言っていた彼女だったのだが。

「この間記事を書いた旅行雑誌、また休刊だって……嫌になるよな」

 地元のファミリーレストランでフライドポテトを摘まみながら、優介は苦笑して歩美に告げる。その時、歩美の肩が震えるのを、幼い頃から共にいた彼は見逃さなかった。

「……あのさあ、ゆーちゃん。あたしも、そういう報告聞くの、疲れた」

「え?」

「あたしたち、社会人になって何年経った? いつまでファミレスなの?」

「なんだよ、急に。おいしいだろ、ファミレスだって」

 元来どうにものんびりした性格の優介は、歩美の嫌味にすら気付かないで、熱々のドリアに粉チーズを振るっている。

「あたしさ……会社の先輩に、告白されたの。……受けようかなって、思ってる」

「……は?」

 歩美の言葉に手を止める優介。途端に、振っていた粉チーズの蓋が外れ、ドリアの上に小さな雪山が完成した。しかし、今はそれどころではない。

「え、歩美、なんて?」

「先輩、いつもみんなを引っ張ってくれて、上司からの信頼も厚くて、次のプロジェクトリーダーにも抜擢されてて、毎日いきいきしてて。……ゆーちゃんとは、違うの」

 それが、彼女の最後の言葉だった。きっと歩美は、幼い頃から優介の背中を押し続け、疲れてしまったのだろう。そして、新鮮な恋に落ちてしまったのだ。今度は、包み込む愛ではなく、包み込まれる愛に。

 人もまばらな、土曜日の車内。優介は、相も変わらずぼんやりと座席に座ったまま、揺られている。このまましばらく乗っていれば、港町に出る。その辺りの海へ、どぼんと行ってしまうのも、悪くないかもしれない。そんなことを考え始めた優介の肩を、ぽんぽんと、叩く手があった。なんだろう……抜け殻のような優介の目が、そちらへ向く。

「どうぞ」

 いつから隣に座っていたのか、にこにこと笑顔を浮かべたおばあさんが、真っ赤なりんごを手にして、差し出していた。

「……」

「おいしいのよ。遠慮しないで」

 こんなお裾分けなんて、見たこともない。電車の中で、見ず知らずのおばあさんに、りんごをまるまる一個もらいうけるだなんて。しかしそうは思いながらも、優介はまるで導かれるように、手の平へりんごを迎えていた。

 そういえば、おとぎ話では姫を眠らせる道具だったな。おばあさんにお礼も言わずに、あの姫を羨ましく思った。りんごをかじって眠るように死ねたら、どんなに楽だろうか。

 ああ、このりんごが、毒りんごであったなら――優介は、さくりと、禁断の果実へ歯を立てた。



 ふわふわとした心地の中、のろのろ瞼を開いた。視界がぼんやりしている。うっかり電車の揺れで眠ってしまっていたのだろうか。今、何駅だろう。優介は瞼を一度こすったところで、違和感を覚えた。

「んん……?」

 皮膚がずいぶんと滑らかで、まつ毛もふんわり長い感触だ。そうやって瞼をこすってから、顔面の全体をぺたぺたと触れていく。やはり、全体的に、男の肌とはきめが異なっている。気付けば、手の指もほっそりと白く、爪もきれいな形に整えられていた。

「なんだ、これ……」

 指に焦点が合ったことにより、視界も徐々にはっきりとしてきた。優介はどうやら仰向けになっており、見えるのは電車の荷台……ではなく、極彩色で何かの文様の描かれた天井だった。

「はあ? えっ、ここどこだ?」

 がばっと起き上がれば、胸元までかけていたのであろう掛け布団がはらりとめくれる。そしてそこで、優介はついに悲鳴を上げた。

「うわあああ! なんだこれ! なんなんだよ!」

 胸があったのだ。着物のように前を合わせた桜色の寝間着の中に、ふっくらと膨らんだ、胸が。

「桃玉様! お目覚めになられたのですかっ?」

 驚愕して掛け布団を蹴りあげた瞬間、天井と同じような装飾をされた扉が勢いよく開き、中年の女性が部屋へ飛び込んできた。女性は優介の姿を両目で捉えると、「ああ、トウギョク様、よかった……!」などと言いながら思い切り体を抱き込んだ。

「わあああ! な、なな、なん!」

 その女性は、いや女性どころではなく、優介の目の前にいま存在しているすべての物は、学生時代に読みふけった三国志の風景のようでもあるし、母親が昼過ぎに見ているアジア系の時代劇のような風景でもあった。こんなところに来た記憶など、まったくない。

「おばさん誰! ここどこ!」

「まあー桃玉様、混乱されていらっしゃるのですね。ですからいつも私が毒味をしたものを、銀の箸で召し上がってくださいと申し上げているではありませんか」

「おお、お、俺は優介だよ! 離してよおばさん!」

「ゆう、すけ……? ああ、医官様もおっしゃっておりましたよ、記憶が混濁しているかもしれないと」

 ようやく抱擁から逃れられた、と思ったところで、女性は優介の前へ鏡――とはいえ、何か円盤状のものを磨き上げたようなもの――を差し出した。

「あなた様は桃玉様、現皇帝の第十六夫人でいらっしゃいますよ」

 その台詞と、鏡に映る姿に、優介は本日何度目か分からない悲鳴を上げた。そこにいたのは、美人と言いきってしまってなんの遜色もない、美人だった。艶やかに伸びた黒髪、肌は白く、すっと伸びた鼻の、その下にある唇はまるで桃の花を写し取ったような色気があった。また、長いまつげに縁取られた瞳は、やや目じりが垂れているものの、その大きさによって朗らかな可愛らしさを呼び込んでいる。

「ああああ! なんだこれ! なんな……っ」

 突如、優介の意識の糸がぷつりと切れる。視界が暗闇に包まれ、彼はしばらく、そこを漂った。


つづく

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