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 都の一角、れ果てた無人のやしきに、無数のねずみんでいる。

 寒さをしのぐために寄りっていた鼠は、とつぜん全身の体毛を逆立てた。

 しげった草はれている。鼠のぎらぎらときらめくが、庭の端にえられた。

 くずれたへいの前に、異様なかげがたたずんでいる。

 生者ではないということが、一見で認められた。

 しばらく毛を逆立てていた鼠たちは、しかしゆうがゆらりとうごめくと、おびえたようにちいちいと鳴いて、そのままとうそうしていく。

 ただのゆうれいではなかった。ただたたずんでいるだけでも、かもし出すおんねんはだすほどに激しい。

『……どこ…だ…』

 やみの中、どういうわけかおんりようの姿は青白いりんこうを放っているようにぼうとかび上がる。

 青白い顔はげっそりとやつれはて、肉のげたほおは頰骨が異様にき出している。くぼんだがんにはひとみがなく、闇よりしつこくの穴がぽっかりと開いていた。

 怨霊は、何かを探すようにのろのろと周囲を見回している。

『……あの……男…は…!』

 うめいたしゆんかん、黒い眼窩から、つうと何かがしたたり落ちた。闇と同じ色の、どす黒い、なみだだろうか。

 怨霊は、ふと耳をそばだてた。

 風に乗って、輪の音が聞こえる。

 やがて、従者と牛飼いわらわともなった貴族のぎつしやが通りかかった。

 それまで規則正しく歩んでいた牛が、突然いとめられたように足を止める。

 従者はいぶかって、何気なく周囲をわたした。

 きつける風は冷たい。あまりにも寒いので、彼はなるべく急いで邸にもどりたいと思っていたのだ。

「おい、どうした?」

 従者は、牛のづなつかんだ牛飼い童が真っ青になってこうちよくしていることに気がついた。

「あ…あ…!」

 声にならない声で何かを言おうとしている。手綱をにぎめた手が、はたにわかるほどがたがたふるえていた。やがて牛飼い童は、がちがちとみ合わない歯を鳴らしながら、開いた手で前方を指差した。

『………どこ…だ…!』

 すさまじい怨念を放ちながら、行く手をさえぎひとかげ

 おそろしいようぼう、立ちのぼるおぞましい念。それが生きた人間でないことは、明白だった。

「あ…あやかし…!」

 悲鳴を上げることもできずに、牛飼い童と従者はきようあえぐばかりだ。

 やがて異変に気づいた彼らの主が、物見窓から顔をのぞかせた。二十歳を過ぎたばかりの、年若い殿てんじようびとだ。

「どうし…ひっ!」

 怨霊の姿に気づいた男は、息をんでそのまま動けなくなった。霊の放つまがに呑まれて、げることはおろか、さけぶこともできない。

 貴族の顔をぎようしていた怨霊は、に震える声でうめいた。

『……ちがう…!』

 ぎりぎりと歯をきしらせて、怨霊はもろを広げた。

『どこだ……!』

 ぐわりと、じやあくな念がほとばしった。それをもろに食らった牛飼い童と従者は、声もなくたおす。牛はがくりとひざを折って、そのままどうを止めた。

 牛車に乗っていた貴族は、必死に目を閉じて耳をふさいだ。心臓の音だけがやけに大きかった。

 やがて、貴族は怨霊が去ったことを知った。

「……た…助かった…」

 ほうと息をつき、従者を呼ぶ。だが、返事がない。まえすだれを上げてみると、従者も牛飼い童も倒れたままぴくりとも動かなかった。

 青年貴族はいやな予感を覚えた。どれほど呼んでも反応がないのだ。

 転げるように牛車を降りて、従者にけ寄った貴族は、ふたりともすでに事切れていることを知った。

「ひっ…!」

 しようげきが、彼の許容量を上回る。

 彼はそのまま、夢の世界へ旅立った。




 夜警に出ていた昌浩は、きようじようおおを過ぎた辺りで、いつものざつたちに呼びとめられた。

「お、いたいた。おい孫よ」

「孫言うな!」

 条件反射でり返す昌浩のもとに飛び降りてきたあやかしは、ついと東のほうを指差した。

「なんか、みようなのが出たらしいぞ」

「妙なの? …まさか、おお百足むかでか?」

 昌浩の顔にきんちようの色が走る。

 ──恐るべき闇が……

 窮奇退治の折にそうぐうした大百足。やつが残した意味深長な言葉が、昌浩の心に常に引っかかっていた。

 ほうようを完全にせんめつしても、どこか気持ちが晴れずにいる。おお蜘蛛ぐもと大百足、あの化け物の存在が頭からはなれない。

 昌浩が毎晩のように夜の都に出ているのも、そのためだった。

「いーや、そんなおっかないのが出たら、都にいる仲間たち全員お前のところに押しかけてるって」

 ふるふると首をって、妖は聞き捨てならないことを言う。

「……押しかけて、どうするんだよ」

「そりゃあもちろん、やっつけてもらうのさ」

 昌浩は、思わずまばたきをした。

 妖に化け物退治をらいされるおんみよう。違う、なにかが違う。

「いいかげん慣れろよ、晴明の孫」

「孫言うな!」

 冷静につっこんできたものに反論し、昌浩は気を取りなおして妖をうながした。

「で、何が出たって?」

「すげぇ怨霊」

「怨霊?」

「そ、怨霊。ああ、ちなみに怨霊っていうのはうらみを持って死んだ霊が、化け物級の力を持ってしまった奴でなぁ」

「………そーですね」

 わざわざごていねいちゆうしやくをつけてくれる妖に、昌浩は山のような言いたいことを胸の中に収めて、とりあえずうなずいた。こいつら俺を何だと思ってるんだろう、と考えながら。

 それを言ったら、そりゃあもちろん晴明の孫、とそくとうされる気がしたので、あえて口にはしなかったが。

 妖はとうとうとつづける。

「あっちのほうで、ふたりと一ぴきが死んで、ひとり気絶して吹きっさらしの中で倒れてる。いやはや、あとどれくらいでこごえ死ぬかとけてたら、通りすがりの使に見つけられて助かった、という」

 つい先日までかみかくしがひんぱつしていたので、きようしきや検非違使は現在もげんかい態勢をとり、交代で都の警護をつづけているのだ。

 神隠しの原因である異邦の妖異がぜんめつしたことは、晴明から左大臣に報告されている。だが、大多数の貴族たちは、神隠しの原因が何だったのか知らされていない。原因が公表されていないので、しようさいも語らずに、とりあえず解決したから厳戒体制を解除していい、というわけにはいかないらしかった。

「うーん、実にだなぁ。づかいもはなはだしいね、予算だって無限じゃないんだし、切りめたほうがいい気もするがねぇ」

 しかつめらしい顔で前足を器用に組んでみせる物の怪に、昌浩はあきれ顔だ。

「緊張感ないなぁ。別にもっくんが心配することでもないじゃんよ」

「俺には関係ないが、お前の給料には関係するかもしれないだろうが。財政難になった場合、一番最初にけずられるのはな勤務態度のした役人だと思うがね」

「うっ」

 痛いところを突かれて、昌浩はうなった。

 不本意ながら、勤務態度はよろしくないのだ。これからばんかいしようと思ってはいるが、現時点では最悪といっていい。

「こ、これからがんるからいいんだいっ」

 後ろ足で直立し、物の怪は昌浩のこしをばんばんとたたいた。

「過去を捨てて未来に生きるか、いい心がけだなぁ」

「そういう問題なのかもっくん」

「おや、違うのかね? 晴明の孫や」

「孫言うな! まったく、物の怪の分際で!」

「物の怪にも五分のたましい~」

 きょほきょほと笑う物の怪の後ろ頭をべしんと引っぱたき、昌浩はその首根っこをつかんでぶら下げながら妖たちに向き直った。

「────で、そのおんりようとやらはどうなったんだ」

 それまで昌浩と物の怪の舌戦をはいちようしていた妖は、一度瞬きしてから口を開いた。

「検非違使が来る前に、よろよろしながらどこかに消えたそうな。俺も直接見たわけじゃないからな」

 その後のことは知らない。

 昌浩は物の怪と顔を見合わせた。

 人死にが出ているということは、その貴族が怨霊のねらいだったのだろうか。しかし、貴族自体は助かっているというのだから、標的ではないのか。

 ううむと唸って考えこむ昌浩に、物の怪は同じように考えこみながら言った。

「それにしても、あれだなぁ」

「なに?」

「夏でもないのにゆうれいかよ、季節はずれもいいとこだな」

 昌浩は目を丸くして物の怪を見つめたあとで、まぁ確かに、とあいまいに頷いた。




 翌日出仕した昌浩は、昨夜怨霊に遭遇したのが藤原一門のたいの君であることを知った。

 現在権力の頂点に立っているのは、左大臣藤原道長だ。そして、宮中の要職は、ほとんどを藤原一族がめている。藤原氏以外の者がきん出ることはない。どれほど才能があっても、かんけいにはめられ、権力のちゆうすうから確実に引きずり下ろされるのだ。

「ほんと、政治ってこわいなぁ、どろどろしてるなぁ」

 苦いものをんだような顔をしてつぶやく昌浩に、物の怪はまぁなぁと同意する。

「あんまりえらくなると、いらない苦労も増えるってことだな。その点お前は良かったなぁ」

「まぁね。どこかのだれかにじゆさつされるとかいう事態にだけはならないだろうし」

 きわめて真面目な顔の昌浩に、物の怪はいつしゆんあつに取られたあと、ぼうぜんと目をすがめた。

「………そりゃー、安倍一門の陰陽師に、正面きってけんを売るような真似まねする奴はいないだろうよ…」

 物の怪の言葉に、昌浩はわずかに苦笑しただけだった。

 陰陽師は、人をのろう術を持っている。ゆえに、どうすればそれを退けられるのかも、知っている。

 人を呪わば穴ふたつという。死に至らしめるほど激しい呪いは、必ず我が身にね返る。呪った相手のものだけではなく自分のための墓穴も必要になるということだ。

 だが陰陽師には、その定義は当てはまらない。陰陽師はじゆを返す術を心得ているからだ。そしてそれは昌浩にも当てはまるのだ。いくら半人前だと言われようとも。

 生かすための術を自在にあやつるためには、殺すための術も知っておかなければならない。

 物の怪は知っている。昌浩は、その気になれば一枚のだけで、簡単に人ひとりの命をうばう力を持っている。本人には、あまりその自覚はないようだが。

 昔、若かりしころの晴明は、殿てんじようびとわれて、手もれずにそつきようで池のかえるれつさせた。今の昌浩にも、それくらいの芸当はできるのだ。当人がやろうとしないだけで。

 昌浩は物の怪をひょいとかかえあげる。

「それはさておき、怨霊だよ」

 ふと、数名のおんみようせいたちが角を曲がって姿を現した。

 昌浩は今、陰陽りようはし簀子すのこに出て、かべに背を預けて座り込んでいる。仕事がれたので一息つきに来たのだ。

 真面目に仕事をこなしたおかげでできた空き時間だからとがめられるいわれはないが、見られたら余りうれしくないおくそくをされそうだ。

 仕方なく立ち上がって、かたに乗っている物の怪だけに聞こえるように声をひそめた。

「目的があるにしろ、そうでないにしろ、ほっといたらがいしやが増えそうだし、じよれいするべきかな、やっぱり」

 でも、自分などが動くよりも、晴明や陰陽寮が動くほうが確かだし、早い気もする。

 陰陽生たちは講義の合間なのだろう、書物を手にしてこちらに向かってくる。

 余談だが、この先には物置となっているぬりごめがあり、秘術を記した書物や、呪具や法具などが収められていた。そこは常にかぎがかかっていて、特別な許可がなければ入ることもできない。

 一行の中にあまり会いたくない顔を見つけて、昌浩はそっと肩をすくめた。

 人当たりの良い笑顔をかべながら、昌浩に対してはやけにっかかってくる、陰陽生の敏次だ。

 そういえば、と昌浩は思い出した。彼も藤原一門なのだった。

 職場にもどろうと足を進めた昌浩は、ふと思いついて、すれちがいざま陰陽生たちにたずねてみた。

「あの、すみません。昨夜怨霊にそうぐうしたという大夫の君は、いずこのそくなのかぞんですか?」

 情報は集めておいたほうがいい。晴明が動くにしても、おそらく実質的な役回りは自分にられるはずだから。

 一行は足を止めて、それぞれの顔を見合わせる。

「確か、ちゆうごん様の三番目の子息だという話だが…」

「晴明様が、何かおつしやられたのか?」

「いえ、そういうわけでは…」

 昌浩はくちもった。

 しまった、やはりその辺の通りすがりの貴族たちをつかまえたほうが良かったか。

 一瞬こうかいしたが、もうおそい。

 心の中で頭を抱える昌浩に、敏次が一行の前に出てきてたいした。彼は昌浩より頭ひとつ高い。見上げた昌浩は、敏次の目にやけに冷たい光が宿っているのを認めた。

 敵意にも似た光。

 昌浩の肩に乗っているものは、明らかにげんだ。昨日、いかりに任せて後ろ上段回しりをおいしただけでは足りない様子である。

 敏次はうすしようした。

「……昌浩殿どの、確かにきみは陰陽寮に所属しているし、兄上たちもお父上も、さらには祖父も有能な陰陽師だ」

 だが、と敏次はみを浮かべたまま片目をすがめた。

「きみは、ただのじきちようで、まだちゃんとした修行もしていなければ教えを受けてもいない。それになにより、長々と体調をくずして出仕をひかえていた」

 昌浩は、顔から表情というものを消した。それを見た物の怪がけんのんに目を細める。

 周りの陰陽生たちが、さすがに昌浩の変化に気づいて敏次の背をいた。だが敏次は片手をはらってどうりようを制し、つづける。

「身のほどをわきまえて、おのれに見合ったものの考え方をしたほうがいいと思うがね。余計なことに首をつっこんでいると、今に痛い目にあうだろう」

 そして彼は、あきれたような目をして軽く息をき出した。

「そういつまでも、祖父と親の七光りが通用する世界ではないということを、そろそろ理解してもいいころいじゃないのかい? 覚えておきたまえ」

 昌浩の肩がぴくりとふるえた。軽くまぶたを震わせて、昌浩はそのままついと視線を落とす。

 敏次は昌浩の肩を軽くたたいた。物の怪の乗っていないほうの肩だ。

「厳しいことを言うようだが、それが現実というものだよ」

 その言葉を合図に、陰陽生たちはきびすを返して立ち去っていく。

 簀子をむ足音が聞こえなくなるまで、昌浩はうつむいていた。

 肩に乗ったままの物の怪は、おそろしく静かな声で言った。

「………昌浩」

「なに」

 返ってくる声音は、心なしかかたい。物の怪は静かすぎるほど静かに言葉を継いだ。

「あのろうめていいか」

「……だーめ」

 ほのかに笑って、昌浩は物の怪の頭をくしゃりとでる。そのづかいが嬉しい。

 わかってはいたし、自覚もあるつもりだった。

 だが。

「…実際に言われると、きついなぁ」

 七光りか。

「なんか、出仕はじめてから、今のが一番、…来たなぁ…」

 物の怪は前足をのばして昌浩のほおをぺしぺしと叩いた。本当は頭を撫でてやりたかったのだが、じやでできなかった。




 帰宅した昌浩は、むかえた彰子にほとんど何も語らないまま自室に入り、そのままぶんだいに突っした。

 だんと様子の違う昌浩を心配したのだろう、彰子はすぐに追ってきて、突っ伏す昌浩の背中と物の怪のひとみを見比べる。

 問うようなまなしを受けた物の怪は、少し考えて言葉を選んだ。

「……ちょっとな。落ち込んでるだけだ、あまり気にするな」

「どうして?」

 尋ねられて、物の怪はひとしきりうなった。音もなく立ち上がって簀子に移動し、彰子をちょいちょいと手招きする。彰子は一度昌浩の背中を見やってから、物の怪のそばに移動した。

 物の怪はちらりと昌浩の様子をうかがい、声を潜めた。

「……ひとことで言うなら、やっかみだな」

 昌浩は、大おんみようを祖父に持ち、父も伯父おじも兄も従兄いとこすべて陰陽寮に所属している。いってしまえばきつすいの陰陽師のいえがらだ。鳴り物入りで元服し、「あの晴明の末の孫」がようやくろうされたとあって、前評判も異様に高かった。

 更に、かん役は若手一の出世頭ふじわらのゆきなり、その人事を取り決めたのは、当代一の大貴族藤原道長。

 一見、だれもがうらやむきようぐうだ。もし何らかの形で失敗することがあっても、よほどのことがないかぎり、しつきやくに至るようなことはないだろう。それほどの後見を得ているのだ。

「あいつはもともと素直でだ。それに晴明仕込みで根性がある。上の立場から見たら、なかなか見所があると思われる」

 彰子はだまったままうなずいた。物の怪は前足を器用に組んだ。

「ところがだ、同年代とか、少し上の連中から見ると、面白くないんだ、これが。自分たちよりはるかにめぐまれてる、先々も明るいだろう。それでもな、根が真面目で仕事もいつしようけんめいだから、まだよかったんだが…」

 ふと、物の怪は言い差した。昌浩の背中と彰子の瞳をこうに見やって、そっと息をつく。

「やれ病気だなんだで、出仕休みまくっただろ。…あれで、一気に心証が悪くなった」

 彰子がはっと息をんだ。みはられた目にどうようの色が浮かび、青ざめていく。

「ああ、お前は気にするな。晴明の命令でもあったし、昌浩自身が決めたことだ。最初からかくの上だからな。それに、出てくるたびに、ほんとに体悪くした顔してたからな、役職についてる上の連中の評価は変わらない。ただ、下のやつらがなぁ、不満があるようで」

 思わず口元を手でおおう彰子のひざ尻尾しつぽであやすようにして、物の怪はため息混じりに結んだ。

「こいつも、だいだいでは当たり前だが、術を使ったりすることもないし。あやかしがいても害がなけりゃ放っておくたちだし、雑役ばかりやってるから、実力を披露することもない」

 だから、若い者たちは昌浩を軽んじる。過大評価だったとして、自分たちの認識を改めているようだった。

 中でもけんちよなのが、あの藤原敏次だ。彼は藤原一門の中でも中流の家に生まれ、どれほどがんっても目を見張るような出世は望めない立場にあった。

 ゆえに敏次は、ほかの省庁ではなく、陰陽りように所属して陰陽師になることを目指した。有能な陰陽師は、上流貴族にちようようされる。そうやってうしだてを得れば、将来あんたいだろう。

 藤原道長に絶大なしんらいを寄せられる、あの安倍晴明のように。

 彰子は痛みをこらえるような顔で昌浩の背を見つめた。突っ伏したまま動かない昌浩の姿。彼が重責を背負い、命がけで都のために戦い、誰よりも自分をおもってまもってくれたことを、知っている。

 膝の上でころもをぎゅっとにぎめる彰子の手をぽんと叩いて、物の怪は首をった。

「だから、お前は気にするな。そんな顔をさせたとあっては、昌浩に俺がどやされる。晴明のかみなりも落ちてくるな。昌浩のごうなんぞ痛くもかゆくもないが、晴明の怒りを買うのは、ちょっとなぁ、いやだなぁ」

 本気らしい物の怪に、彰子はしようかべた。気をつかってくれているのだ。

 すると、それまで微動だにしなかった昌浩が、その体勢のまま低く唸った。

「………余計なことをき込まんでよろしい」

 物の怪は長い耳をそよがせた。夕焼けの瞳で昌浩のえりあしながめやる。

「別に、誰にどう思われたって、いいさ。それで俺の命がどうこうとか、そういうことになるわけじゃなし。休んだのは事実だから、これからばんかいする。ただ……」

 昌浩は、そこでふつりと押し黙った。本当のことが言えないのは、やっぱり少しだけ、つらい。それで「七光り」と言われて、さげすんだような目で見られるのは、胸が痛くなる。

 自分がきらいではない相手から向けられる悪意というものは、相当にきついものがあるのだ。

 それを聞いた彰子は、おどろいたように目を瞠った。

「昌浩、その陰陽寮の人たちのこと、おこってないの?」

 ここで昌浩は、初めてかたしに振り返った。のない、堪えた顔をしている。

「怒る理由なんて、ないだろう?」

 彼らの感情は、当然のものだ。だから、認識をもう一度改めてもらうべく、頑張ろうと思うのだ。

 確かに最初はじんだと思った。休むたびに険しくなっていった陰陽寮の若手たちの顔。入寮した当初は親切にしてくれていた者たちも、最近は必要最低限の言葉しかかけてこない。なにも知らないくせにと怒ったこともある。

 でも、彼らの立場に立って考えてみたら、彼らの言い分にも一理あるのだ。

「いや確かに、敏次殿どのは、最近なんだかとっても俺のこと敵対視してるみたいなんだけどさ」

 うつとうしいのか烏帽子を取って、いつものようにまげをといて首の後ろでくくる。それから簀子すのこに出てきて、昌浩は彰子と物の怪の間によいしょとこしを落とした。

 十一月の昼下がりは、風は冷たいがきんとんだ空気の中に日がして、寒いのさえ気にしなければさわやかだ。

「俺だって、出てきたばっかりの新人がひょいひょい休んでたら、頭にくると思うんだよねぇ。それなのに行成様やら大臣おとど様には目をかけてもらってるし。この間なんか、行成様に『将来有望な陰陽師』だなんて言われちゃったよ。従者のかい禁厭まじないをしてくれってさ。参ったね」

 努めて明るい口調で言って、昌浩は笑う。だが、すぐにそのみは引っ込んだ。

 少しだけ、辛いなと思うときは確かにある。それを考えたらきりがないし、大切なのはそこではない。それもわかっている。

 でも、と昌浩はわずかに痛みをかかえる目をした。

「七光りをかさに着てるつもりはないのに、どうしても言われるんだなぁと思うと、しんどいかなぁ」

 昌浩はそのままうつむいて、重い息をいた。

 誰かにめて欲しいと思ったことはない。自分で選んでやっていることだから。ものがいつもとなりにいる、最近では六合もついてくれている。晴明もきわどいところでは必ず力を貸してくれて、なにより彰子が無事で、隣にいて笑ってくれる。それだけでじゆうぶんだと、思うのに。

 自分の意思だけではどうしようもできない部分で、胸が重くなる。

 物の怪がどうしたものかと思案していると、彰子が手をのばして昌浩の頭をよしよしと撫でた。まるで、子供をあやす母親のようだ。

 うつむいている昌浩の顔を下からのぞき込んだ物の怪は、一度目をしばたたかせてもの言いたげな顔をすると、そのままくるりと後ろを向いて、首の辺りをわしゃわしゃとき回す。

 昌浩はばつの悪そうな顔をしていた。弱音を吐いたことをじているようだ。が、同時にほっとしたような、形容の難しいかすかな笑みを口元に乗せている。

「………だいじよう?」

 そうっとたずねる彰子に、昌浩はうつむいたままひとつ頷いた。

「…うん」

 それから顔を上げて、目を細める。

「なんてこと、ないさ」

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