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都の一角、
寒さを
生者ではないということが、一見で認められた。
しばらく毛を逆立てていた鼠たちは、しかし
ただの
『……どこ…だ…』
青白い顔はげっそりとやつれはて、肉の
怨霊は、何かを探すようにのろのろと周囲を見回している。
『……あの……男…は…!』
うめいた
怨霊は、ふと耳をそばだてた。
風に乗って、輪の音が聞こえる。
やがて、従者と牛飼い
それまで規則正しく歩んでいた牛が、突然
従者は
「おい、どうした?」
従者は、牛の
「あ…あ…!」
声にならない声で何かを言おうとしている。手綱を
『………どこ…だ…!』
「あ…あやかし…!」
悲鳴を上げることもできずに、牛飼い童と従者は
やがて異変に気づいた彼らの主が、物見窓から顔を
「どうし…ひっ!」
怨霊の姿に気づいた男は、息を
貴族の顔を
『……
ぎりぎりと歯をきしらせて、怨霊は
『どこだ……!』
ぐわりと、
牛車に乗っていた貴族は、必死に目を閉じて耳をふさいだ。心臓の音だけがやけに大きかった。
やがて、貴族は怨霊が去ったことを知った。
「……た…助かった…」
ほうと息をつき、従者を呼ぶ。だが、返事がない。
青年貴族は
転げるように牛車を降りて、従者に
「ひっ…!」
彼はそのまま、夢の世界へ旅立った。
夜警に出ていた昌浩は、
「お、いたいた。おい孫よ」
「孫言うな!」
条件反射で
「なんか、
「妙なの? …まさか、
昌浩の顔に
──恐るべき闇が……
窮奇退治の折に
昌浩が毎晩のように夜の都に出ているのも、そのためだった。
「いーや、そんなおっかないのが出たら、都にいる仲間たち全員お前のところに押しかけてるって」
ふるふると首を
「……押しかけて、どうするんだよ」
「そりゃあもちろん、やっつけてもらうのさ」
昌浩は、思わず
妖に化け物退治を
「いいかげん慣れろよ、晴明の孫」
「孫言うな!」
冷静につっこんできた
「で、何が出たって?」
「すげぇ怨霊」
「怨霊?」
「そ、怨霊。ああ、ちなみに怨霊っていうのは
「………そーですね」
わざわざご
それを言ったら、そりゃあ
妖は
「あっちのほうで、ふたりと一
つい先日まで
神隠しの原因である異邦の妖異が
「うーん、実に
しかつめらしい顔で前足を器用に組んでみせる物の怪に、昌浩は
「緊張感ないなぁ。別にもっくんが心配することでもないじゃんよ」
「俺には関係ないが、お前の給料には関係するかもしれないだろうが。財政難になった場合、一番最初に
「うっ」
痛いところを突かれて、昌浩は
不本意ながら、勤務態度はよろしくないのだ。これから
「こ、これから
後ろ足で直立し、物の怪は昌浩の
「過去を捨てて未来に生きるか、いい心がけだなぁ」
「そういう問題なのかもっくん」
「おや、違うのかね? 晴明の孫や」
「孫言うな! まったく、物の怪の分際で!」
「物の怪にも五分の
きょほきょほと笑う物の怪の後ろ頭をべしんと引っぱたき、昌浩はその首根っこを
「────で、その
それまで昌浩と物の怪の舌戦を
「検非違使が来る前に、よろよろしながらどこかに消えたそうな。俺も直接見たわけじゃないからな」
その後のことは知らない。
昌浩は物の怪と顔を見合わせた。
人死にが出ているということは、その貴族が怨霊の
ううむと唸って考えこむ昌浩に、物の怪は同じように考えこみながら言った。
「それにしても、あれだなぁ」
「なに?」
「夏でもないのに
昌浩は目を丸くして物の怪を見つめたあとで、まぁ確かに、と
翌日出仕した昌浩は、昨夜怨霊に遭遇したのが藤原一門の
現在権力の頂点に立っているのは、左大臣藤原道長だ。そして、宮中の要職は、ほとんどを藤原一族が
「ほんと、政治って
苦いものを
「あんまり
「まぁね。どこかの
きわめて真面目な顔の昌浩に、物の怪は
「………そりゃー、安倍一門の陰陽師に、正面きって
物の怪の言葉に、昌浩は
陰陽師は、人を
人を呪わば穴ふたつという。死に至らしめるほど激しい呪いは、必ず我が身に
だが陰陽師には、その定義は当てはまらない。陰陽師は
生かすための術を自在に
物の怪は知っている。昌浩は、その気になれば一枚の
昔、若かりし
昌浩は物の怪をひょいと
「それはさておき、怨霊だよ」
ふと、数名の
昌浩は今、陰陽
真面目に仕事をこなしたおかげでできた空き時間だから
仕方なく立ち上がって、
「目的があるにしろ、そうでないにしろ、ほっといたら
でも、自分などが動くよりも、晴明や陰陽寮が動くほうが確かだし、早い気もする。
陰陽生たちは講義の合間なのだろう、書物を手にしてこちらに向かってくる。
余談だが、この先には物置となっている
一行の中にあまり会いたくない顔を見つけて、昌浩はそっと肩をすくめた。
人当たりの良い笑顔を
そういえば、と昌浩は思い出した。彼も藤原一門なのだった。
職場に
「あの、すみません。昨夜怨霊に
情報は集めておいたほうがいい。晴明が動くにしても、おそらく実質的な役回りは自分に
一行は足を止めて、それぞれの顔を見合わせる。
「確か、
「晴明様が、何か
「いえ、そういうわけでは…」
昌浩は
しまった、やはりその辺の通りすがりの貴族たちを
一瞬
心の中で頭を抱える昌浩に、敏次が一行の前に出てきて
敵意にも似た光。
昌浩の肩に乗っている
敏次は
「……昌浩
だが、と敏次は
「きみは、ただの
昌浩は、顔から表情というものを消した。それを見た物の怪が
周りの陰陽生たちが、さすがに昌浩の変化に気づいて敏次の背を
「身のほどをわきまえて、
そして彼は、
「そういつまでも、祖父と親の七光りが通用する世界ではないということを、そろそろ理解してもいい
昌浩の肩がぴくりと
敏次は昌浩の肩を軽く
「厳しいことを言うようだが、それが現実というものだよ」
その言葉を合図に、陰陽生たちは
簀子を
肩に乗ったままの物の怪は、
「………昌浩」
「なに」
返ってくる声音は、心なしか
「あの
「……だーめ」
わかってはいたし、自覚もあるつもりだった。
だが。
「…実際に言われると、きついなぁ」
七光りか。
「なんか、出仕はじめてから、今のが一番、…来たなぁ…」
物の怪は前足をのばして昌浩の
帰宅した昌浩は、
問うような
「……ちょっとな。落ち込んでるだけだ、あまり気にするな」
「どうして?」
尋ねられて、物の怪はひとしきり
物の怪はちらりと昌浩の様子をうかがい、声を潜めた。
「……ひとことで言うなら、やっかみだな」
昌浩は、大
更に、
一見、
「あいつはもともと素直で
彰子は
「ところがだ、同年代とか、少し上の連中から見ると、面白くないんだ、これが。自分たちより
ふと、物の怪は言い差した。昌浩の背中と彰子の瞳を
「やれ病気だなんだで、出仕休みまくっただろ。…あれで、一気に心証が悪くなった」
彰子がはっと息を
「ああ、お前は気にするな。晴明の命令でもあったし、昌浩自身が決めたことだ。最初から
思わず口元を手で
「こいつも、
だから、若い者たちは昌浩を軽んじる。過大評価だったとして、自分たちの認識を改めているようだった。
中でも
ゆえに敏次は、ほかの省庁ではなく、陰陽
藤原道長に絶大な
彰子は痛みを
膝の上で
「だから、お前は気にするな。そんな顔をさせたとあっては、昌浩に俺がどやされる。晴明の
本気らしい物の怪に、彰子は
すると、それまで微動だにしなかった昌浩が、その体勢のまま低く唸った。
「………余計なことを
物の怪は長い耳をそよがせた。夕焼けの瞳で昌浩の
「別に、誰にどう思われたって、いいさ。それで俺の命がどうこうとか、そういうことになるわけじゃなし。休んだのは事実だから、これから
昌浩は、そこでふつりと押し黙った。本当のことが言えないのは、やっぱり少しだけ、
自分が
それを聞いた彰子は、
「昌浩、その陰陽寮の人たちのこと、
ここで昌浩は、初めて
「怒る理由なんて、ないだろう?」
彼らの感情は、当然のものだ。だから、認識をもう一度改めてもらうべく、頑張ろうと思うのだ。
確かに最初は
でも、彼らの立場に立って考えてみたら、彼らの言い分にも一理あるのだ。
「いや確かに、敏次
十一月の昼下がりは、風は冷たいがきんと
「俺だって、出てきたばっかりの新人がひょいひょい休んでたら、頭にくると思うんだよねぇ。それなのに行成様やら
努めて明るい口調で言って、昌浩は笑う。だが、すぐにその
少しだけ、辛いなと思うときは確かにある。それを考えたらきりがないし、大切なのはそこではない。それもわかっている。
でも、と昌浩は
「七光りを
昌浩はそのままうつむいて、重い息を
誰かに
自分の意思だけではどうしようもできない部分で、胸が重くなる。
物の怪がどうしたものかと思案していると、彰子が手をのばして昌浩の頭をよしよしと撫でた。まるで、子供をあやす母親のようだ。
うつむいている昌浩の顔を下から
昌浩はばつの悪そうな顔をしていた。弱音を吐いたことを
「………
そうっと
「…うん」
それから顔を上げて、目を細める。
「なんてこと、ないさ」
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