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仕事は大変だ。いや、仕事自体は
「………ことも、ある」
「うむうむ」
大量の書簡を
負け
「だって、もともと下級の貴族の
昌浩の横をぽてぽてと四足で歩きながら、物の怪は大きく
「だな。これが下手に
すると、その言葉を受けた昌浩は、もの言いたげな何ともいえない顔をした。
「………うん、そう思う」
物の怪は、長い耳をぴょんとのばして首をめぐらせ、昌浩を見上げた。こちらは何もかも見とおしたような目をしている。
夕焼け色の瞳をちらりと見下ろして、昌浩は困った顔で
「まぁ、仕方ないということだよ」
「まぁな」
そのとき、後方から昌浩を呼びとめる声がした。
「待ちたまえ」
昌浩と物の怪は、立ち止まり、目だけで
「…
物の怪の言葉に、昌浩は口の中でうんと返す。
渡殿を進んでくる足音を聞きながら、昌浩はそっと息を
「はい、何か
振りかえる昌浩に近づいてくるのは、三つ年上の
「ああやはり、晴明様の孫、の昌浩
晴明様の「孫」、に
昌浩の足元にちょこんと座っている物の怪は、むーんと低く
一方の昌浩は、ぴくりと
「はい、なにか?」
「いやね、昌浩殿は随分と病弱だという話なので、すぐにまた
昌浩が
それは別にいいのだが。
敏次は少し眉を寄せ、
「元服した以上は立派な成年だ。そうしょっちゅう体を
「
別の陰陽生が口を
不摂生といえば不摂生というのだろうが、単純な不摂生のほうがまだましなのではないかと思える。
「まったく、そんなことでは先が思いやられるよ。今はいいが…」
と、敏次は同僚の言葉を手を出して
「まぁ、
ふうと息をつきながら、敏次は昌浩を横目で見やった。
「きみも大変だね、あれほど
「そうですね」
昌浩はしみじみと同意した。彼の年の
本当のことだからけろりとしている昌浩を見ていた陰陽生たちは、
昌浩は平然としたものだが、足元の物の怪は
「…さきほど、
「藤壺、ですか?」
思わず問い返す昌浩に、敏次はにやりと笑ってつづける。
「ああ、先日、左大臣様の一の
「はぁ、そうですか」
敏次はふと物の怪のいる場所に視線を向けた。
「…陰陽生の中では、一番ましか」
半眼をすがめて首の辺りを後ろ足でわしゃわしゃと
敏次はちらちらと物の怪に視線を向けながらも、話をつづける。
「異常はないと申し上げたら、
「……はぁ」
何が言いたいんだろうか、この男は。
半ば
「いやまさか、女御の君の高貴な衣擦れを
「虫のことも、特に何かの兆しというわけではないと敏次が申し上げたら、女房殿を通じて『それは良かった』と、
昌浩は陰陽生たちの話を
「まぁ、それもこれも、この敏次が将来有望だと目されているからだろうが」
「あの女房殿、…ああそうそう、
同僚たちの賛辞を軽く受け流し、敏次はしかし首を
「いや、そんな
そして敏次は、書簡を
「きみも安倍の血筋を持つ者だ。努力次第ではこういう幸運に
「……そうですね」
頷く昌浩に、陰陽生が、ばかにしたような顔でぼそりと
「まぁ、お前は一生かけても、高貴な姫に声をかけてもらうことなんてできないだろうけどな」
昌浩は一度
「では、仕事がありますので」
「ああ、引き止めすまなかったね」
「いえ」
くるりと
「あれ、もっくん?」
昌浩は、見た。
何やら楽しそうに笑いさざめきながら
「じゃかあしいわ、この能無しえせ陰陽師っ!」
「…お見事」
その
敏次は頭を押さえながらも身を起こして、わけがわからないといった様子で辺りを見回している。蹴りをかましたのが物の怪だとは、さすがにわからなかったらしい。もっとも、気配をかろうじて感じられる程度では、それもまた当然か。
「行くぞっ」
明らかに
時間が来たので
昌浩の
「なにが、なぁにが、『努力次第ではこういう幸運に恵まれることもあるだろう』だっ! 貴様なんぞにそんなことを言われんでも、昌浩は
「いえいえ、まだまだ半人前の身ですから」
すました顔で言い返し、昌浩はやれやれと首を
「…女御の君、ねぇ。別に衣擦れを聞いてみたいとか思わないけどなぁ」
かりかりと後ろ頭を搔いて片目をすがめ、昌浩はうなった。
見下ろす昌浩の視線の先で、物の怪はひょんひょんと飛び
「どうせ
嫌味の対象だった昌浩よりも、横で聞いていただけの物の怪のほうが、当事者のように
そんなに怒らなくても、と
「お前のことだろうが、もっと怒らんかっ!」
昌浩はうーんと首をひねると、物の怪の首を
「あははは。だって、俺が言いたいこと、全部もっくんが言ってくれるからさぁ」
いまさら自分がいきり立つ必要もない気がする。それに。
「ひと月くらい前から嫌味が増えたけど、あの敏次殿、最初はすごく親切にしてくれてたからね。わからないこともいろいろと教えてもらったし。もっくんだって知ってるじゃん」
「それとこれとは別問題だっ! 数ヶ月前のことなんぞ、
昌浩は苦笑いするしかない。物の怪が怒ってくれるので、本当に腹が立たないのだ。少しは胸が重くなることもあるけれど、ここまで
物の怪の頭をぐしゃぐしゃと搔き回す。それから昌浩は、胸のあたりをそっと叩いた。
「敏次の
「いやー、別に、ねぇ」
「一生かかってもお目にかかれないっていうお
昌浩が
「お帰りなさい」
晴れやかに笑って昌浩を
「もっくんも。今日は早かったのね」
「おう」
応じる物の怪を廊下に降ろしながら、昌浩はほっとした顔で笑った。
「ただいま。
「今日は、
ああそうなんだ、と頷きかけて、昌浩は笑顔のままで固まった。
「……市?」
「ええ。路を覚えたから、次はひとりで買い物に行ってもいいって」
「……え」
その時、奥のほうから彼女を呼ぶ声がした。
「あら、露樹様が呼んでる。じゃあ、またあとで」
「あ、彰子、ちょっと」
彰子はぱたぱたと奥に消えていく。
思わずのばした手のやり場を失って、昌浩は
市だと? ちょっと待て母上、ひとりで市に買い物など、それはどう考えてもまずいだろう。
「やー、順応性の高いお姫様だなぁ。陰陽生の敏次たちに、この実態を見せてやりたいもんだねぇ」
「なにを
わめく昌浩を
先ほど昌浩を出迎えた少女。あまり大きな声では言えない
ゆえに、
当代一の大貴族の姫として育った彼女は、何不自由のない生活をしてきた。それが突然下級貴族の、その
非常に変わった姫だと、
「実に楽しそうに生活してるし、良かったじゃないか。どうせずーっとここにいることになるんだし、帰りたいと毎日泣かれるよりはよっぽどいいだろう?」
言い
「て、言ったって! 市だなんて、それもひとりで! …そ、そうだ、いざとなったら出仕取りやめて俺が
「こらこら、ついさっき嫌味を言われたばっかりだろうが。心配ないって、明るいうちならそうそう危険もないだろうし」
「でもっ、でもっ!」
頭を
「………六合」
呼ばれた六合は、音もなく昌浩の背後に
昌浩は、やおら六合に向き直ると、両手を合わせて言葉もなく
「────」
六合は、安倍晴明の配下、十二神将である。
できない、のだが。
ただひたすらに
「…………ついて、行こうか?」
彰子姫が、ひとりで市に行くような事態になったら。
昌浩は、半泣きの顔で、ぶんぶんと何度も
「お願い!」
「………わかった」
ほだされたというか、なんというか。
あの六合が、晴明以外の人間の言うことを聞いた。
「…すげー」
昌浩は肺が空になるほど盛大に息を
「良かった…」
我ながら、心配性だと思わないでもなかったが。
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