窓の隔絶

アーモンドゼリー。

第1話

──欠伸あくびのようなからす嗄声させいが聞こえる。

その音響は、眠りから帰省したのだということを、男に気付かせてくれた。

外は橙色だいだいいろをぶちけたかのような薄暮はくぼである。

薄くかすみがかった意識の中、少しずつでも眼を開き、淡い真珠色しんじゅいろで固められた天井を眺める。

まばたきという些細な挙動によって現れる暗黒色が「その灰白色かいはくしょくい尽くさん」と覆い被さっているように感じられた。

その白と黒を、交互に、マジマジと、繰り返してる。

……そうしていると、ダンダンと意識がめていき、まばたきを交えながらも天井の一点を眺めるだけのことに飽きてきた。

呼吸を調節し、さて……起き上がろう……と決心したのであったが、今になって頭にうごめくモノ、すなわち疑問、すなわちココがドコであるのかという得体の知れない、云うなれば不安、更に云うなれば思い出すことさえもできぬという混乱が、ジワリジワリと脳味噌や心臓に浸透してきたのだ。

何かにかされるように、勢いよく上体を持ち上げる。

そして、四方八方にあるであろう焦燥しょうそうの種を見つけようと云わんばかりに、辺りをキョロンキョロンと反復して視渡した。

上下左右、四方八方に、首をグルンとひねらせる。

そうして目に入ったもの。

真珠色で統一された床、壁、天井を合わせた六面。

そのうちの一面に、オズオズと詰められるように収まった窓。

その窓の真反対に位置する、凜然りんぜんと立ちはだかる扉。

多少、ほこりがこびりつきながらも、テカテカと光り、天井に掴まっている蛍光灯。

床にほかされ、チラホラと縫い目がほころんでいる古タオル三枚。

確認できるものは、たったのコレッポッチであった。

それ以外には恐らく……物といった存在は無いであろう。

狭いながらも広々とした部屋の中央で、男はトンと居座っている。

これからどうしようか、ウゥン……ヱェト……などとうなりながら、思考を回転させていく。

何気ない様子で、肺の伸縮を確認するように深呼吸を行った後、折り曲げていた脚を伸ばして立ち上がり、ノソノソと扉に向かって歩き始めた。

その体は……羽根のように重く……なまりのように軽く……。

なんとも形容のしようがない……珍妙ちんみょうな感覚を帯びていた。

そのまま、重い脚を引きずるように扉へ近付き、外へ出ようとすがるが如く、ドアノブへ手を伸ばす。

そのまま、その球状の突起物をわしづかみにする。

そして生気なんかをぐ感覚で、左へ右へとひねり、魂を抜くのと同じ加減で、全力を以って引き抜く。

尋常の生命体であるなら、狂ったようにうめき声を発し、苦しみもがいた挙句に亡骸なきがらと化すような所業であろう。

しかし、そんな凄惨せいさんじみたことをしたとて、扉は微動びどうだにしなかった。

ヨロヨロと後ろ歩きをし、三歩か四歩ほど下がったところで、扉の全体像を細かく視認する。

すると、扉の下腹部辺りに、大学ノート型の四角い切り抜きと、それをめる形で蓋が取り付けられているのを見る つけた。

イヤ……留めると云っても、蓋と、口の上部とを、蝶番ちょうつがいか何かで固定し、パカンポコンと開閉できるように加工されているのみだ。

恐らく、外側に広がる空間から、男のいる部屋というコジンマリした空間へ、何か入れる為の構造になっているのだろう。

男は外の世界を知りたいがために、爪の堅さと指圧を用いて、差し入れ口を開けようとした。

然し、内側からでは予想以上に重く、堅く、非常に開けにくい。

次第に、指先が朱色へと染まっていく。

外的営力による鈍い痛みが覆う。

それでも、開けられるものだろうと何度も、何度も、試してはみたのだが、全くもって開く素振りを見せない。

その堅固けんごさは、恐らく、錠前じょうまえやらかんぬきやらが取り付けられているということだろう。

鈍くうずいている指を軽く覆い、赤みが引くのを待ちながら、何ともなく窓の外を覗いた。

すると、先刻までの濃い蜜柑みかん色は、侵食する藍色によって塗り替えられているところであった。

徐々に暗くなってくる。

蛍光灯の灯りが目立つ。

そのさびしさから、男の心まで儚さに塗りたくられてゆく。

指の痛みはいつの間にやら落ち着き、いつもの血色へと戻っていた。

何もせぬのは落ち着かん……と、男は殺風景な室内を改めて見回す。

束縛されたような空間で、自由を渇望している。

網膜に次々と映し出されていく事物の中で、古タオルの三兄弟が、男の興味をいた。

床に捨てられた三兄弟は、ボロボロで、お互いを寄せ合い、うずくまるようにしている。

男は青白い手を引き伸ばし、末っ子タオルをむんずと掴むと、途端にそのほころんだ体から、糸を一筋一筋、粗末に引き抜いていった。

ズルズル……ズルリズルリ……と、抜いた糸が溜まっていく。

時間が経つにつれて糸が積み重なり、末っ子のタオルは見るにえないと云えるほど、ボロボロの状態になっていった。

暫くの間は、他の兄弟と取り替えながら、抜き、捨て、また抜き、また捨てる、と飽きを感じることなく、ただただそれを繰り返すのみであった。

……どれほどの時間を、こうして過ごしたのであろうか。

見ると、三兄弟は全て、酷い有様ありさまになっている。

綻んでいた身体は、更に綻び、惨然さんぜんと放置されている。

それをやったのは自分である……と、男は彼らを支配征服した気になり、微かな優越感ゆうえつかんを覚えていた。

はらわたからほとばしる笑いに転げ回りながら、ふと男は窓の外を覗く。

外は既に漆黒世界であった。

点々と、微小に、あかりらしきものも見える。

……視て、男には、そのからす色の広がった世界が、笑いを潰すほどに、魅力的に感じられた。

意識を吸い取る闇の微笑であった。

ズット……ズット…………ほうけたように、その暗黒を凝視する。

……すると、不意に、差し入れ口の開くような音が聞こえた。

振り返ると、差し入れ口の隙間から、やや肌の白い、ふっくらとした腕が見えた。

お盆とおぼしき茶色い板と、その上には茶碗や皿、箸らしきものが乗っかっている。

夕食を持ってきてくれたに違いない。

気が付けば、胃がモゾモゾと物欲しそうにしている。

何が盛られているのだろうか……と、男はソウッと覗いた。

玄米に、ネギの味噌汁、モヤシの炒め物。

それらの各個が、指でつまめる程度にしか入っていない。

つつましいものである。

それでもなお、男は箸をつかみ、み殺す勢いで、目の前の餌食に喰らいついていった。

がいして美味とは言えないが、食道を通る感覚が心地良かった。

頬を持ち上げたまま、口を動かす。

顎は上下を繰り返し、舌は踊り狂う。

無意識のうちに喰い終える。

二、三……呼吸を整え、からの器と化した茶碗や皿などは乱雑に投げてた。

刹那の食の快楽におぼれる。

だが、それは所詮しょせん、「刹那」であった。

胃袋がえ立つように、以前のような空腹が再び襲い来る。

男の内臓は、天地反転の大騒ぎである。

喉は、厭世えんせいの鼓動に合わせ、空気の吸引と排出を繰り返している。

ほむらに焼かれるように、胃袋は熱い。

この燃えるような空腹と、束縛された自由を解き放ちたいという思いは、膨らむばかりであった。

足リナい……喰イタい……と、空腹に麻痺まひした脳は、煮え立つ渇望を吐き捨てる。

何かしらを喰ライ尽クスべく、猛禽類もうきんるいのような眼光で、眼に映る空間をくまなく眺め回していった。

然し、部屋内にある物と云えば、古タオル以外に特筆するようなものは無い。

その古タオルに関しても、糸がアチラコチラに散乱するばかりなのだ。

それでも男は、執拗に、何度も何度モ……部屋の中を、め潰すように眺め潰す。

すると男は、ある一点に意識を集中させた。

漆黒しっこくを映し出した窓であった。

ココから外へ出ればいい……との思考である。

男は窓へ駆け寄った。

窓の簡素な施錠せじょうを解き、四角い窓枠に手をかけ、右へ大きく滑らせる。

キャリリ……と、窓が音響を発した瞬間、突風が男の顔を叩いた。

然し、動じることはない。

風が通り過ぎると、黒々くろぐろとした世界が、眼前に広がった。

雲の一ツ二ツどころか、陸地すら見えはしない。

どうやら、この建物は、塔か何かの高層な建造物らしい。

それでも、男は躊躇ためらわない。

銀色の窓枠に足をかける。

真下は見えない。

だが、今までの世界は、男にとって狭いところでしかなかった。

視るまでもない。

意を決するいとまも作らず、男は窓から飛び降りた。

見知らぬ、闇とも三途とも分からぬ世界へ踏み出すように。

そして残されたのは月光のみだ────。

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