万物は素より生まれ素に還る。
アーテイル王国を出発して数時間経ち、日はついに傾きだした。レアオア山脈の中腹から始まった旅は、非常にゆっくりとではあるが順調に進んでいた。堅牢な防御壁の役割すら果たすレアオア山は旅人にとっては難所の一つであり、それは馬にとっても同じこと。道幅はやや広くなりはじめ、フレイとユーリは馬を労わって荷馬から降りて歩いていた。
「素敵です。いつも城から見ていたレアオア山が、こんなにも美しいなんて」
「これが鉱山だなんて信じられないでしょう? いまも地下では、民がピカクスを振って金銀や地下深くの魔石、鉱石を掘り出そうとしているんですよ」
「教科書で読んだことがあります。それに、城の窓からも、土と泥にまみれながらも笑顔で帰ってくる姿が見えますから……。アーテイルが豊かな国でよかったですね」
ユーリの言う教科書とは、恐らく学校で使っているものと同じなのだろう、とフレイは考えていた。アーテイルの建国の歴史やレアオア山の鉱石については、初等科で誰もが習うことだった。
「もう少し進んだら、荷馬を少し休憩させましょう」
「はい、フレイ。それと、敬語はいらないと先ほどから何度も――」
「ユーリがやめてくれたら、私もやめますよ」
ええと、それは少し恥ずかしくて……とユーリは言った。だがそれはフレイも同じ気持であった。いかんせん、年の近い友達も少ない環境にいたのだ。お互い口火を切ろうとして、しかし黙り込んだまま木漏れ日の射す道をゆったりと進んでいく。青々とした葉が風に揺られて鳴いていた。
その時だ。
「わぁ……!」
視界がパッと開き、流れる川と小さな滝が目に飛び込む。今にも消え入りそうなか細い声だったが、ユーリの感嘆の声はしっかりとフレイに届いていた。心から良かった、と安堵しながら、フレイはその笑みを隠すことなく先導を続けた。
そこはアーテイル城から奥深く進んだところに流れる川だ。緩やかな流れと広い川幅は周囲を見渡しやすく、また魔物の出現も多くない。冒険者たちの休息の場に最適であった。どうやらはじめの難所は無事に抜けたようだ。
「フレイ! 私、初めてここを訪れました! 話に聞いたことがあったけれど……」
「へぇ、本当に城の外を知らないんですね……」
フレイの問いに、ユーリはええ、と告げた。ふと、馬の足音がやむ。どうしたのかとフレイが振り返れば、彼女はその温かみを湛えた瞳でこちらをじっと見ていた。
「私と姫君は、同じ日に生まれた運命の子でした。王族に引き取られ、同じ教育を受けてきたのです。城の外に出る時も、外交や謁見などが主でしたから……。こうして旅に出ることができたのは、とっても嬉しいです。ありがとう、フレイ」
「あ……いや、その、よかった。喜んでくれると、嬉しいです。……ほら、荷馬の手綱をこちらへ。馬を休ませて、私たちも休憩しましょう」
まっすぐな感謝の言葉と思いに、フレイはつい恥ずかしくなって俯く。なんとか赤面を誤魔化そうとして、手綱を受け取るべくユーリに近づく。
が。
「おっ、わ、うわっ!」
「え、きゃっ!」
石の剥き出しになった地面につま先をひっかけて、フレイは盛大に前につんのめる。勿論その先にはユーリがいるわけで、フレイは覆いかぶさるようにぶつかって、そして――。
「……大丈夫?」
「は、い、なんとか……」
ぐるり、剣先を避けるように空中で体をねじり、ユーリを抱きかかえて倒れる。背中は痛むが、彼女に傷はないようだ。思わぬ事故であったが怪我なく済んでよかったとばかりに、フレイは小さくため息を吐く。……しかし、現状はもう少し複雑だ。
「あの、フレイ、離して……恥ずかしい……」
「え、うあっ、ごめん!」
革鎧越し、やや鍛えた胸元にユーリの体温が残る。二人はさっと離れ、お互い目を合わせる事の無いように俯いていた。川の流れるさらさらという音が僅かに響いて、二人の間に横たわっている。先に音を上げたのはフレイだった。
「あー……ごめん。気を付ける。それより、お腹減らない?」
「あ……! うん、大丈夫。私もお腹減ったけど……なにがあるの?」
簡単なものなら塩漬けの保存食が――フレイはそこまで口にして、たったいま交わされた二人の会話を思い出していた。まずい、随分馴れ馴れしい口ぶりだった。近衛騎士は王族直属、それがこんな態度では――。
フレイは失礼なことをしたかもしれないと不安に思いながらも、荷物から幾ばくかの食料を出してユーリに向き直った。
「さっきは失礼しました、その……」
「あっ、どうして敬語に戻すんですか! 折角おしゃべりができると思ったの……に……」
「――へ?」
フレイは間抜けな声を出して、食料を持ったまま固まった。ユーリはそんな彼の姿を見て、ぷっと吹き出す。フレイもそれに釣られて、川岸で二人は少しの間笑い合っていた。
「はーっ、あはは、ごめん、ユーリ。緊張してたんだ。お姫様と旅に出られるなんて、夢みたいだからさ……これから、よろしく」
「私は、あくまで身代わりですけどね。それでも城の外をこころゆくまで楽しめるのはまたとない機会ですから……危ないときは助けてくださいね、フレイ」
もちろんだよ。フレイはそう言って、彼女をじっと見つめた。翡翠の髪、翡翠の瞳、整った目鼻立ち……思わず見とれてしまうほどに、彼女の顔立ちは美しかった。
「あの……フレイ? そんなに見つめられると、ちょっと恥ずかしい……」
「えっ、あ、ごめん! つい――……」
「ううん、いいの。ね、ほら、食べよう? 私、こういうの初めてなの!」
「そっか、外でなんて普段食べないものね。じゃあ、火を……」
訓練と同じように、火口と火打石を取り出そうとして、あ、なら私が。とユーリは言葉を繋げる。ふう、と一息入れて、そっと手を地面に重ねた枝葉にかざした。
――意識は魔法の行使へスイッチし、想い描く力が体内のマナと魔法とを繋ぐ。
「『――血よ、肉よ、万物の素よ、我が創造に応えろ。
彼女の淑やかな声に応えるように、手のひらに収まる魔法陣が発光する。体から放出されたマナは色を変え始め、橙色の小さな種火となって手元に集まっていく。小片のようなそれはさらに集まってやがて少しずつ大きくなり、枝葉へと火を移した。
「『
彼女は笑顔で口を開く。種火の呪文は冒険者のみならず、魔法を扱える者であればだれもが習うモノだ。マナの吸収、変性、増大、放出という魔法の基本的なステップを学ぶために、この呪文は最適とされている。彼女はそれを鮮やかにやってのけた。
時刻はもう間もなく九つを告げるだろう、あたりはとっぷりと暗くなっていた。そのなかで焚き木にあたる彼女の頬が、美しく橙色に照らされている。フレイはつい彼女を追ってしまう視線に戸惑いながら、誤魔化すように言葉を返した。
「勿論! ユーリは凄いなぁ、魔法使いなのか。俺は魔法が使えないから尊敬するよ」
そうなの? 彼女がこちらを覗き込むように首を傾げる。
「うん、生まれつきでね」
保存食や干し肉を慣れた手つきで調理していく。といっても火にかけるとか、一口大にするという程度でそう立派なものではない。こういうのは雑な方がうまいもんだ、と言っていたウィルの言葉を、ふと思い出した。
「魔法が使えない……『炉』が無いってこと?」
フレイは小さく頷きながら、明るく揺らめく焚火をじっと見つめている。
「『炉』の有無は先天的なものだし、仕方ない。だから俺は、剣の腕を磨こうと思ったんだ。もう二度と、大切の人を目の前で失わない為に。全ての人を、この手で護るために」
それは強い決意だった。フレイは言葉の一端を噛み締めるように呟く。拳には自然と力がこもり、過去の記憶が奔流となって彼の脳裏に渦巻く。記憶によみがえる、十年前の出来事。城内に響きあった金属音と悲鳴、力なく頬を撫でる母の手、背後から襲われ一刀のもとに切り伏せられたという父、幼心に焼き付いた大切な人の死という悪夢は、成長した今でも彼の心を苛んでいる。
ユーリは彼のその険しい表情に、どこか悲しさを湛えていることに気が付いていた。
「……私のことも、護ってくださいね」
少し離れていた距離をぐっと縮めるように、彼女はフレイの側へと身を寄せて言った。フレイはその言葉に一瞬たじろいで、しかし笑顔で返す。
「あたりまえだよ、ユーリ。俺はあなたの剣であり、盾なのだから」
「……ありがとう、フレイ」
過去を変えることは、出来ない。それは彼自身良く分かっていることだった。だからこそ、未来を護るために剣を振るおうと決めた。決して誰かを傷付けることなく、騎士として誇りを持て。父の、そしてウィルの言葉が、今も彼の心を支えていた。
――思いは少しずつ通じあって、優しく夜の帳に溶け込んでいく。ぱちり、ぱちぱち。焚き木の爆ぜる音が虚空にこだまして、闇はやがて深まっていく。
「そうだ、ユーリ、俺に魔法を教えてくれないかな」
「私がですか? でも、基本的なことや理論しか――」
「十分だよ、俺、剣ばっかりで魔法は殆ど……。そも行使できないから勉強もしてなくて」
「でも、こんないいものを貰っちゃったらなぁ……」
そう言うと、フレイは懐から包みを引き出した。小さくても貴重な、ルビーの魔石だ。薪のそばでじっと見つめると、どこか吸い込まれてしまいそうな妖しさがある。
「ふふ、そうですね。では――基礎からやりましょう。そもそも人には『マナの器』と『炉』があって、大きさは人それぞれ。器の許容量以上に水が入ることがないのと同じです。しかし、魔石という貯蔵庫があるからこそ、時に莫大なマナを要求する魔法ですら行使できる――マナが炉に注がれ、神語でその性質を変性させることで魔法が――」
人差し指を立てて、少し得意げに話す彼女。フレイは真剣に話を聞く傍らで、どうかこの旅が少しでも長く続くようにと願っていた。
二人の冒険は、まだ始まったばかりだ。
白百合物語 落花 @selgame
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