三秒ルールは守らねばならぬ

吉岡梅

🐈三秒ルールは守らねばならぬ

 三秒ルールをご存じだろうか。食べ物を落とした場合に適用されるあの由緒あるルールの事だ。


 ヒトが食べ物を落とした場合、床や地面に着いてしまっても、落としたヒトが三秒以内に拾い上げればセーフ。まだ食べてもOK。しかし、拾い上げる前にネコが、その食べ物はネコの物になる。このスポーツマンシップに則ったルールが、時代を経てなお普遍的な評価をされているのは、ご存じの通りだ。


 三秒ルールは、ヒトとネコの間に交わされた太古からの盟約だ。もし盟約をたがえるような事になれば、武力行使もやむなし。我々より速く拾えぬのクセに、獲物を取り上げるとは言語道断。取り決めも守れぬ野蛮な輩にはきちんと遺憾の意を示さねばならぬ。


 しかし、我々も畜生ではない。いや、畜生ではあるが情けはある。まずはモフり制限を行い、顎の下以外をモフった場合には噛みつくという制裁行動に出るであろう。

 その時点で、きちんと自らの非を認め、はんぺん、もしくは、ちゅ~るを差し出せば制限を解除することも、やぶさかではない。


 ところが、今回は少々話が込み入っている。事件が起きたのは、私が入念な毛繕いを行っているときだ。我が同居人が、鼻歌を歌いながらキッチンの椅子に腰掛け、そして何かを落とした。私は、それを見逃すほど衰えてはいない。開戦の合図だ。


 しかし、今回彼女が落とした物は、食べ物では無かった。何やらきらきらと輝く青い指輪だ。我々の中にも青い瞳を持つ者は多いが、これほどの輝きを持つ者は見たことがない。私も少々驚いたが、一気に距離を詰めると、素早く左フックではたいた。私の勝ちだ。


 通常であればここで終わりだ。しかし今回はなぜか、私の一撃で横に跳ねた指輪を、同居人がいつにない素早さで追ったのだ。これは明らかなルール違反であり、挑戦だ。既に私は勝利しているのであるが、同居人の挑戦とあらば、いつでも受けて立つ用意がある。さっと身を踊らせて同居人を追い越すと、彼女が手を伸ばす前に必殺の右フックで、さらに指輪を弾き飛ばした。が、ここで手違いが起きた。弾き飛ばした指輪は、キッチンの床を滑り、そのまま冷蔵庫の下へと収まった。せっかくの獲物だが、これでは手を出せない。


 冷蔵庫の隙間に手を入れてみたものの、届きそうもない。残念だが諦めるより他にない。獲物は手元に残らなかったが、勝負には勝った。よしとしよう。そう結論付けて振り返ると、同居人が今までに見たこともないほど落胆していた。


 少々驚いたが、彼女にしてみれば、日に2度も同じ相手に無惨に負けた姿を晒しているのだ。無理も無かろう。それを恥じる心があれば、また他日に生かせる、ここは素知らぬふりをして一人にしてあげるのが紳士のと言うものだ。そう考え、彼女の横を通り過ぎようとすると、彼女はやおら立ち上がり、ばたばたとキッチンを飛び出して、猫じゃらしを手に直ぐに帰ってきた。


 なるほど。私を讃え、遊んでくれるのだろうと合点し、澄まし顔で待ちかまえていると、同居人は私の横を通り過ぎ、あろうことか、そのまま猫じゃらしを冷蔵庫の下に突っ込んだ。なんという事だ。

 私に負けた腹いせだろうか、同居人はごそごそと冷蔵庫の下をまさぐり、猫じゃらしを引き抜いた。哀れ猫じゃらしは埃まみれの無惨な姿に変わり果てていた。


 己の負けを潔く認めることもせず、私の好きなものベスト3に入る猫じゃらしを埃まみれにする報復に出るとは、恥を知らぬにも程がある。私は、四つん這いになって冷蔵庫の下を覗きこんでいる同居人のお尻に飛びかかったが、軽く振り払われてしまった。彼女はなおも猫じゃらしでゴソゴソと隙間をまさぐっている。


 もう好きにやらせるしかないだろう。私は同居人を放っておいて、部屋へと引き上げる事にした。キッチンを出る間際にちらりと目をやると、同居人はまだ必死になって冷蔵庫の下を覗いている。やれやれだ。


 そんなに私の指輪が欲しいのか。それとも、とうに三秒を過ぎているというのに、まだ所有権を主張するつもりなのだろうか。これだから礼儀を知らない若輩者は。

 若輩者と言えば、彼女は先日婚約をしたとはしゃいでいた。ヒトというのはな物で、つれあいを見つけるまでに20年以上もかかるという。我々が1年でこなすことをモタモタもじもじと、じれったい事このうえない。本当にした生き物である。


 私は伸びを一つすると、ゆっくりと同居人の所まで歩いていき、一声鳴いた。その声に気づいた彼女が振り返る。私は、優雅に冷蔵庫前のスペースへと入り込み、自慢のしっぽを隙間へと差し入れた。じめっとした不快な埃の感触がするが、それを堪えてしっぽを一振りすると、コロンコロンと音を立てて指輪が隙間から現れた。


 同居人が歓声を上げて指輪を拾い上げようとするが、それよりも速くさっと咥える。この指輪は私の物だ。ルールという物は、守らなければもはやルールではない。きっちりしなくてはいけないのだ。


 何やら騒ぎ立てている同居人の手をひょいひょいかわすと、冷蔵庫の上に飛び乗った。そして私は、一声鳴いた。アオ。


 同居人は、私の泣き声と共に口から離れて床に落ちた指輪を、今度こそ素早く拾い上げた。私の負けだ。ルールは守らねばならない。


 のろまな同居人は、ちゅ~るを手に私の名前を呼んでは手招きをしている。敗者にあからさまに情けをかけるとは、スポーツマンシップを履き違えた本当に愚かな者である。彼女は、私がお先に失礼するまでに、果たして一人前になるのだろうか。甚だ心配だ。


 だがしかし、同居人のあの笑顔。悪くはない。そしてちゅ~るから漂う芳醇な香り。もちろん悪くはない。よいものだ。たまには情けない敗者を演じてやろう。私はそう一人呟くと、のどを鳴らして冷蔵庫から降りた。

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