離れ去る藍は、湧水の

二条空也

離れ去る藍は、湧水の

 空を覆う若葉に染められ、光は透明な水に碧を宿していた。淡い影は水面の近くに漂うばかりで、宵闇の囀りは未だ遠い。

 夜杜やとは足の甲まで水に浸しながら、ゆるりと一歩を踏み出した。さり、と磨かれた砂が足の下で鳴り、透明な水が僅かに曇る。骨までを貫くような冷たさに眉を寄せ、夜杜は立ち上る濁りを見下ろした。

 拒絶されているのだ。水に。透明な清らかさに。近づくなと、立ち去れと、そう告げられているのだ。砂を踏みにじり、歩き出す。足首に絡んで水が流れるが、立ち止まることはなかった。

 浅瀬は季節によって色を変える。春には桜を飲み込み、盛夏は空を映す鏡のごとく。秋にはくれない、冬には青ざめた白を溶かし込む。碧を宿すのは、この時期だけだった。

 春は遠く、夏が近く。生まれたばかりの葉を、刺し貫く光の降る、この時期だけのことだった。碧に揺れる水を殊のほか優しく見つめる瞳を思い出しながら、夜杜は浅瀬を歩み、やがて足を止めた。

 水の湧きいずる大岩の影。暗く、光の届かないその場所に、一人の女が眠っていた。黒髪が扇のように広がり、ゆらゆらと水に揺れている。

 ぱしゃ、と音を立てて傍らに膝を折り、夜杜は女の片手を水から攫いあげる。

「――蝶」

 女の手は、ほっそりとした指は、氷のように冷たかった。それを包み込んで温めるには、夜杜の手はもうすこしばかりちいさかった。

 先日、十二を数えたばかりの少年は、だからこそ指先に唇を寄せた。水の滴る指先に口付け、熱を与えながら呼びかける。

「蝶。蝶……」

 水滴を押し退け、瞼が開かれる。深く藍を重ねた黒色の瞳は、未だ夢に甘くまどろむものだった。

「……や、と?」

 花の蜜のように。とろ、と甘く蕩けながら女の声が夜杜を呼ぶ。じわじわと温められていく指先がくうと曲がり、夜杜の唇に、顎に、頬に触れ、ほうと息が吐き出されて行く。

「やと、やと……」

「蝶。よく、眠れた?」

「やと……。ああ、まだ、いてくれた……」

 ふるえる程の熱を瞳に宿して、女は夜杜に囁いた。水から離れた手が、夜杜の衣を握り締める。貝のような爪が震えていた。

「やと、やと……」

 吐息に乗せて女が囁く。碧の水に身を浸し。

「わたしの」

 その冷たさに、熱を奪われながら。

「わたしの、やと」

 微笑んで、囁く。女は、山神の娘と呼ばれ。夜杜はその供物として捧げられた、いのちだった。




 夜杜は物心がついた時には、もう蝶のものだった。

 記憶を探れば米俵や干した川魚と一緒にごろごろと寝かされていた気がするが、それが繰り返し囁かれた蝶の言葉による思いこみなのか、朧な己の本物の記憶なのか、判明する日は来ないに違いなかった。

 日照りが続いたか、川下で氾濫が度重なったか、口減らしか、他の理由があってのことか。捧げられた理由は蝶にも分からないのだと言う。

 ただ、捧げられたのだから、その時から夜杜は蝶のものであり。蝶は、夜杜の主なのだった。

「やと、やと」

 夜杜の主は長い眠りから覚めると、まず自らのことをしようとしない。濡れた着物を脱ぐことも、身を温めることも、髪を梳き乾かすことも。

 夜杜がもう随分幼い頃は、もたもたとしながら自分でしていたのを覚えているので、要するにこれは甘えているのだった。

 今も、濡れた髪をそのままに、手には櫛を持って縁側で脚を揺らしている。陽光にきらめく黒檀の瞳は、まだすこしばかり眠そうだった。

「やと、やと。櫛が寂しがっているわ」

「乾かさないと駄目だよ、蝶」

「なら、乾かして」

 乾いた布を手に寄って来た夜杜の腹に、蝶はそっと頭を預けながら囁いた。ぐりぐりと額を擦りつけてくる様は、夜杜に機嫌の良い猫を思わせる。

 屋敷に蝶が不在の間、いたわりに訪れるちいさな獣たちは、今は近くにもいないだろう。蝶がいるのなら、夜杜が寂しさを感じることはない。

 鳥の声ひとつ聞こえてこない。夜杜は、蝶のものだ。蝶が傍らにあるなら、その為だけの存在だ。その絶対を侵そうとするいのちなど、この場所にあろうはずもない。

 夜杜は蝶の頭を腕の中に抱くよう、濡れ髪に布を押し当てた。幸福に満ちた吐息が、夜杜の腕をくすぐる。

「あったかい……やと、やと。寂しかった……?」

「寂しかったよ。蝶が眠ってしまうから」

「……水が呼ぶの。私が、眠りたいのでは、ないのよ」

 拗ねた唇は、春に咲く桜の色をしている。冷たい水に抱かれてなお、花の色香はそこから失われることがない。蝶はずっとそうだった。

 夜杜がはじめて、蝶をうつくしいと思った時から、なにひとつ変わることなく。背を伸ばし、体を徐々に大きくしていく夜杜の視線の先で、なにも損なわれることはなく。

 水底に沈むことはない浅瀬の、暗い影の中で。時折、眠り続けた。ひとではないと、夜杜はそのたび、思い知る。ひとのかたちをした、夜杜とは違ういのち。

 山神の娘、と呼ばれるもの。

「眠っている間に、やとが……」

「蝶?」

「あまり、大きくなってしまって、いなくて……よかった……」

 蝶が眠る期間はまちまちで、時期にも特に決まりがない。ある夜にふっと姿を消してしまい、探せば決まってあの岩影に身を浸していて、その時が来るまで目を覚ますことはないのだった。

 目覚める時は、夜杜が起こしに行くのがいつからかの決まりごと。蝶の目覚める時というのが、夜杜にはなんとなく分かって、それを間違えたことはないのだった。起きる、その時を。目覚める、蝶だけが分からない。

「蝶は、俺が小さい方がいいの?」

 水を吸った布を髪から離し、夜杜は苛立ちを宿した声で問いかけた。蝶の瞳が、不安に揺れながら夜杜を見上げる。だって、と怖々響く声は、夜杜よりほんのすこし年上なだけの、少女めいた響きだった。

「やと、おおきくなったら、いなくなってしまうわ」

「……どこに?」

「ど、どこか……に?」

 ちいさく、あどけなく首を傾げて聞き返してくる夜杜の主は、根本的な所から勘違いをしている。夜杜は息を吐き、身を屈めて蝶と額を重ね合わせた。

 泣き濡れたような黒檀の瞳は、星のさざめく空より夜杜の心を震わせる。

「蝶。俺はどこへも行かない。俺は、蝶のものだよ。どこへも行かない」

「……行きたくなったり、するでしょう?」

「蝶、俺は、今更ひとと生きようとは思わないよ」

 繰り返す言葉を重ねれば、蝶の瞳に傷ついた影と、安堵の熱がとろりと広がっていく。蝶は、夜杜が、少年を供物として捧げたひとの元へ戻りたい、と願うことを恐れ。

 ひとを、恋しがることを恐れ。己だけを求めることを、喜んでいる。蝶、と呼び囁きながら、夜杜は生乾きの女の髪へ指を差し入れた。甘い花の匂いがする。

「だから、俺は早く、大きくなりたい。……もっと」

 ぐしゃりと、手の中で握りつぶした、花の。

「もっと、早く、大人になりたいよ。蝶」

 甘い蜜の匂いが、する。




 私の為に大人になってくれるのと嬉しそうにそわそわしたくせに、夜杜の身長が伸びたことを柱の傷で確かめて不安げな顔をする蝶は、めんどくさくてよく分からなくてものすごく可愛い。

 夏の盛りを前に花を寝静まらせた桜の木を背にそう息を吐けば、くすくすくす、と堪え切れない笑い声が夜杜の耳に触れて行く。

「それはね、夜杜。大人になって、やっぱり私より他のものが可愛いと思ったらどうしよう、と思っているのよ」

「……どうしてそう言えるんだ」

「昨日の夜、言いに来たもの」

 夜杜ったらね夜杜ったら私の為に大人になってくれるのですってああでも夜杜が大人になったら私の方が歳が下に見えてしまうようになるかも知れないしそうなったら夜杜が同じ年くらいのひとのこの方が良くなるかもしれないしどうしようやっぱりちいさなまま居てくれる方がかわいいのではないかしらどうしようでも大人、と言ってそわそわしたり落ち込んだり忙しそうだったわ、と告げ口されて、夜杜は大人びた微笑みで桜の木を振り返った。

 木の幹に背を預け、口元に手をあてて笑う少女に問いかける。

「それで、アンタはなんて?」

「こどもに手籠めにされるのと、大人に手籠めにされるのと、どちらでも好きな方を選べばいいじゃないの、って」

「……蝶はなんて?」

 この環境でなんであんなに可愛く育てたんだ、と思っている疲れ切った顔で、夜杜は少女に問いかけた。少女は濃い桜色の瞳を笑みに細めると、しばらくは考えていたけれど、と言った。

「夜杜ならどちらでもいいのですって」

「……いや、待て。手籠めはないだろ、手籠めは」

「そうよねぇ。蝶を手籠めにしているのは水であって、夜杜はそんなことしないものねぇ」

 自分でわざわざその言葉を選んで問うておいて、したら命がないと思え、とばかりの冷やかさで笑んでくるのが、この少女の性格の悪い所だった。

 千年も生きると意地が悪くなるものなのか、と呟く夜杜に、少女はどれだけ生きても年齢をとやかく言われるのは好きになれることではないわ、と笑った。

「私からすれば、夜杜なんて虫みたいな時間しか生きていないのだし」

「……虫」

「毛虫」

 にこ、と笑う少女は冬が終わると本体にわさわさついてくる毛虫がすごく嫌だから人里まで降りて殺虫剤を調達して来なさいな、と夜杜に告げて戻しちゃだめと蝶に泣かれたことがあるくらい、それを嫌っている。

「……機嫌が悪い八つ当たりは止めてくれないか」

「蝶の八つ当たりなら、平気で受ける癖に」

「蝶のすることなら受け入れる。当たり前だろ?」

 微笑んで言ってのける夜杜が、真実その通りにしていると知っているので、少女は深く溜息をついた。受け入れていない例外は、たったひとつ。水に抱かれる眠りのみ。

「……大人になりたいなら、蝶がそれを許したなら、あなたはすこしばかり急がないといけないわ。夜杜」

 砂粒ほどの羽虫を、このひとに寄っちゃいけないと手で追い払う夜杜を見据えながら、少女は溜息と共に呟いた。夜杜の瞳が、桜の少女を見て細められる。

 どういう、と先を促す声の響きは、やはり外見よりは随分大人びたものだった。

「どういうことだ」

「あなたがまるで普通のひとのように、一年でひとつ。歳を重ねることをして行かなければ、間に合わないと言っているのよ」

 あなた十を数えるまでもそうだったけれど、それを超えてから三年にひとつだって重ねていないでしょう、と呆れ声で囁く少女に、夜杜は素直に頷いた。

「あまり普通に成長すると、羽虫みたいにすぐ死ぬからやめた方がいい、と言ったのはそっちだろう」

「七つにもならないあなたが、まさかあんなに素直に言うことを聞いてしまうだなんて……。私だって、蝶だって、思わなかったのよ。それでも、あなたは蝶のものであるだけで、まだひとの子と呼べるものなのだから、不思議なこともあるものねぇ……」

 溜息をつきつき、じぃと見つめてくる少女がそう言うのだから、それは真実に違いなかった。だからこそ、目覚めた蝶は不安がったのだろう。

 夜杜がまだひとの子のままであったから。離れて行ってしまうのではないかと。ひとではない身であるからこそ。

 夜杜は、ひとであることになど未練はないし、そもそもそれに固執したこともなければ、感慨を覚えることもないというのに。

「さくら」

「あら。……あら、あら。なあに?」

 なにかしら、夜杜、と囁く少女は妖艶に笑んだが、それでいてあどけない喜びを宿していた。そのものの名でない呼称とはいえ、夜杜が呼びかけてくることはひどくすくない。

「どうやってひとから抜けたんだ?」

「私?」

「さくら以外に誰かいるのか。ここに」

 まだ見えないものでもいたか、と眉を寄せて視線を彷徨わせる夜杜に、少女はころころと喉を震わせて笑った。

「ああ、ああ。違うわ、夜杜。そんなことを聞かれたのは、はじめてで……」

「……元、ひとだと。そう言っていただろう?」

「そうよ。言った。言ったわ、夜杜。ちいさな夜杜。米俵と、干した野菜と川魚、いくつもの反物や、着物や……塩や、醤油や、酒と一緒に、一緒にこの森に捧げられたちいさな夜杜。あなたが話し始めた春の日に、蝶に手を引かれてやってきた春の日に……確かに私はそう言ったわ、夜杜。この森が、馥郁たる春に、包まれた、あの日に……」

 うっとりと歌い囁き、少女はさわりと木の葉を揺らして喜んだ。萌黄の。生まれ変わったばかりの、若葉に。刺し貫く強い光が透けて、少女と夜杜の足元を鮮やかな碧に染める。

 初夏の森は、どこもかしこも碧に染まる。水も地も、空を見上げる視界さえ。天の青まで届かずに、広がる碧に阻まれた。目のくらむような白は、青は、切れ切れにしか届かない。

「覚えていたのね、夜杜」

「……十も、二十も前のことだから、もう朧にしか思い出せないが」

「夜杜。時間を数えるのはいけないわ」

 ひんやりとした微笑みでぴしゃりと叱りつけ、少女はそうねと呟き首を傾げてみせた。

「わたしは特別、ひとから抜けたい、と言った訳ではないのよ、夜杜。ひとではない方と恋をしたい、と望んだの」

「恋仲の方が?」

「いるの。けれど、そうね。夜杜は会ったことのない方よ。これからも」

 なぜと問う前に、少女は柔らかに目を細めて夜杜を見た。

「だって、夜杜は蝶のものだもの。他の、ひとならぬいのちの、ものだもの。うっかり傾いでしまったら大変でしょう?」

「……蝶は」

「夜杜。水が蝶を呼ぶのは、蝶が呼ばれてしまうからよ。本能が求められてしまうだけ。だからあれは、蝶が求められている訳でも……蝶が望んだことでもありはしないわ。山神の娘、だなんて……呼ばれさえしなければ、もうすこし抗えていたものを。蝶は山に属するものではないし、神の娘でもありはしない。ただ、海のあやかしの血を引く、末裔であるだけだというのに……そんな風に呼ばれた為に、蝶はこの森に縛られてしまった」

 まあそのおかげで夜杜が捧げられたのだから、それを考えれば良かったのか、悪かったのか。首を傾げながらひとりごち、少女は訝しむ夜杜に、呆れ交じりの視線を投げかけた。

 桜の。ひとを惑わし狂わせ殺す、はなびら色の瞳だった。

「夜杜」

 足元に降り積もる、花弁の幻が見える。森の緑を覆い尽くし掻き消してしまうような、絢爛の春の。怒りが、見える。

「夜杜、夜杜」

 ころころと。いかにも可笑しげに笑いながら、目を細める少女の。囁く声は滑らかな春の宵。夕刻を引き連れる春嵐。ぞろぞろと肌を撫でては笑う、しっとりとした春の風。

「私は夜杜に期待しているのよ。水に眠りたがる蝶が、いずれ絡め取られてしまうことは誰もが分かっていたことだけれど……戻せもしないこの場所で、その腕に沈めるは傲慢というもの」

「戻す?」

「夜杜。蝶は海のいきものよ。山神の娘と呼び、この森に縛ってしまったのはひとの子の呪い」

 言い伝えや、伝説。神話というものの代わりに蔓延った情報という言葉が、私たちをそこかしこへ閉じ込めてしまった。少女は火の粉のような怒りを降り積もらせながら、喉を鳴らしてころころと笑う。

「巡る呪いが蝶を眠らせる。……いずれ水底に沈まされるでしょうよ。あれは海へ繋がらないただの水であるというのに、蝶を欲しがりすぎている。自分も海に戻れないから、海から陸へ上がったあやかしの末裔を抱いて、海になろうとしているの」

「嫌なのか」

「あなた、嫌ではないの。夜杜」

 水底に。沈み込み、眠る女を夢想する。扇のように広がった黒髪がうつくしく揺れ、熱を失った肌はそれでも瑞々しく白く、透き通って柔らかい。

 海から訪れたものの、末裔であるからか。水濡れる蝶を、夜杜はうつくしいと思う。それに。触れた手は冷たいだろう。考えて、夜杜は幸福に微笑んだ。

「水で眠る、つめたい蝶を……指先を、温めるのは嫌いじゃない」

「余裕ぶってると奪われるわよ」

「さくら。俺は蝶のものだよ」

 まるでもの分かりの悪い者に囁きかけるような、ゆったりとした口ぶりで夜杜は言った。

「俺は、蝶のものだ。ずっと。……これからも、ずっと、ずっと」

 それで、これから大人になるのだと。静かに告げる夜杜に、桜の木はざわりと若葉を揺らした。どことなく呆れたような音だった。




 初夏が盛夏へと移る頃、蝶はまた浅瀬で眠りについてしまった。ここ数年は一年の半分以上を眠っているから、それは特別異変とも思えることではなかったのだが。足首までを浸す水の冷たさに眉を寄せ、夜杜は蝶の元まで歩み寄る。

 水面から手を差しいれ、沈み込む頬を撫でれば、ぼんやりと瞼が持ち上げられた。女は瞬きをする。くちびるが、ゆっくりと動いた。立ち上る気泡が、音もなさず消える。水越しの視線が、夜杜に蕩けた。

『や、と』

 いくつか、空気をたちのぼらせて。蝶は目を覚ましきることなく、また水の中に眠りについてしまった。傍らに膝をつき、夜杜は広がる黒髪を一筋、握りこんで引きあげる。

 唇を滑らせれば、花の香がくゆり、消えて行く。蝶は秋になる頃に目覚め、雪の積もるより早く眠りに呼ばれ。その年は春が終わっても、目を覚ますことはなかった。




 二つの季節を水の中で眠った蝶は、あたたかな湯を使った後も夜杜と同じ熱を身に戻せなかった。どことなくだるそうに腹に顔を埋めてくる髪を、夜杜は丁寧に櫛で梳いて行く。

「よく眠れた? 蝶」

「やと……。やと、やと。花の時期には起こしてと、言ったのに」

「起こしたよ、蝶。……起こしには行ったんだよ」

 水嵩を増す浅瀬は、もう蝶を離す気がないのかも知れなかった。水面から、遠く。夜杜が腕を半ばまで沈めなければ、もうその頬に触れることすら叶わない。

 浅瀬は、この夏を過ぎ去ればもうそうとは呼べぬ場所へ変わるだろう。しんしんと音もなく、今も、水が深さを増している。蝶は視線を彷徨わせ、夜杜の胸に顔を伏せた。

「やと、やと。聞こえないの……寂しかった? やと」

「寂しかったよ。俺は蝶のものなのに」

 置き去りに眠られてしまうから。とても、寂しかったよ。髪を撫でながら囁けば、蝶の瞳があまやかに蕩ける。

 やと、やと、とたどたどしく呼びながら、蝶の瞳が夜杜を見つめた。濃い藍を幾度も重ねて、黒檀のひかりを宿す蝶の。揺れる瞳が、夜杜を見た。

「やとは、わたしの……。わたしの、やと?」

「そうだよ。俺は、蝶の。……俺は、蝶のものだよ」

 白い頬に手を滑らせれば、じわじわと移っていく体温に、蝶は心地よさげに息を吐く。櫛を置き、その手で背を抱き寄せて、夜杜は幾度も女の耳に吹き込んだ。俺は、蝶の、ものだよ。俺は。

 くすくすと笑いながら身をよじり、伸ばされた蝶の指先が、夜杜の頬に触れる。するすると肌を、指先が撫でて行く。

「眠っている間に、やとは、すこし大人になったのね……。身長も、伸びた?」

「伸びたよ。……残念そうな顔してる」

「だって。やとは、わたしのやと、なのに。大人になるやとも、身長が伸びるのも……ぜんぶ、ぜんぶ、わたしの、ものなのに。わたしの知らないところで、大人になって行ってしまうのですもの」

 もう次に眠らされて、起きたら、やとはすっかり大人になっているに違いないわ。拗ねた声で嘆く蝶の髪を片手で握り、引き寄せ、夜杜はそこへ恭しく口付けた。

 手を開けば生乾きの髪が束になって、ばらばらと零れ落ちて行く。水にゆらゆらと揺れるのも、乾き切らずに乱されるその様も。夜杜は、蝶をうつくしいと思う。うっすらと朱を刷くその目尻も。

「……やと」

「なに、蝶」

「やと、やとは……やとは……。大人になって行くのに、わたしが、傍に、いなくても、いいの……?」

 ようやく体温を戻した指先を、幾度も幾度も擦り合わせ組みかえながら。ためらい、怯えるような声で蝶は囁く。見つめていると、潤んだ瞳が揺れて、唇が尖らされる。

 この春も地を染め切った、桜の。ぐしゃぐしゃに乱され地に落とされた、花弁の色。

「私が、眠っていても、いいの……? やとは、だって、寂しいばかりで、やとは……」

「蝶?」

「……嫌、と。眠らないで、と……行かないで、と。言ってくれないの……」

 起こしに来てくれるけど、私が起きなかったら粘ってくれることはなかったに違いないわ、と拗ねる蝶に、夜杜は微笑みを深めるばかりでなにも告げなかった。ただ、髪を乱して握りこみ、耳元に口を寄せて静かに囁く。

「蝶。俺は蝶のものだよ」

「……やと。やと、ちがうの。わたしが聞きたいのは……!」

「俺も聞いてるよ、蝶。……ずっと、聞いてるよ」

 ふるえる女の唇に指先を乗せて、夜杜はやんわり微笑んだ。瞳を覗き込んだまま、吐息に口付ける。肌を掠めることもせず。揺れる瞳を重ねて、夜杜は静かに繰り返した。俺は、蝶のものだよ。

「やと……」

 朱に染まる目尻から、零れ落ちた涙が翅に変わる。床に落ちる前に、とうめいな、藍に染まる一羽の蝶となる。その名を宿したあやかしの。零れた心から、翅がうまれる。

 浮かび上がるそれに手を伸ばし、夜杜は離れ去る藍を握りつぶした。どこへ逃がしてやる気にもならない。うまれたものですら。一欠片でさえ。壊された翅は、夜杜の手の中、一滴に戻っていた。

 夜杜はてのひらに口付け、ひとしずくを飲み込む。花の香と。海の味が、した。




 さり、と踏み躙る足の下で砂が鳴った。冷たい水に眉を寄せながら、さり、さり、と音をさせ、夜杜は浅瀬を歩んで行く。

 とうめいな水は濁ることをしなかった。ただ、しばらくは砂の軋む音が聞こえ、それもやがて届かなくなった。

 深くなって行く水を眼下に見据え、夜杜は蝶の元へ歩んで行く。足取りを追って、水面が揺らめいた。水は濁らず、夜杜は足首までを濡らすこともなく、ひたひたとその上を歩んで行く。

 浅瀬はしばらく歩くと消えてしまい、あとは深い水場があるばかりだった。もう数年で、最後の浅瀬も消えるだろう。辿りついた岩影は暗く、夜がそこへ落とされているようだった。

 かつて水面の近くへ浮んでいた蝶の姿は、そこに見つけることができない。

 溜息をついて、夜杜は影に身を差しいれた。水面に跪き、その底を覗き込んで囁きかける。

「蝶。……蝶」

 ためらわず。切り裂くように水面に腕を沈めて行く。肩を濡らすまでまっすぐに腕を伸ばしても、水底に沈められた女まで届かない。

「蝶」

 指先は、うつくしく広がる髪にさえ絡まない。

「……蝶」

 されど、夜杜はやんわりと微笑んだ。こぷり、唇から吐き出された気泡が、夜杜の指先をくすぐって行く。ひらひらと、水を泳ぎ。舞い上がってくるとうめいな藍の翅が、夜杜にそれを知らせていた。

「おいで、蝶」

『……やと』

 開かれた瞼が、水底から視線を絡ませる。やと、やと。手を伸ばし呼ばれるたび、水面へ浮かび上がるとうめいな翅の数が増して行く。藍の淡い光に、水が満ちて行く。

 水面を踊る蛍の光のように。やわやわと、夜杜の傍で揺れている。やがて水底まで、ひかりに満ちる。浮んで来た指先をからめて、夜杜は蝶の体を水から奪いあげた。

「蝶」

 すがってくる体をきつく抱いて、夜杜は柔らかな声で問う。

「よく、眠れた?」

「やと、やと……! やとのいる所で、やとの、傍で……やとがいい。やとが、いい。わたし、やとが……!」

「うん。蝶……蝶、蝶。俺は蝶のものだよ」

 氷のように冷たい体を、夜杜は腕の中に閉じ込める。随分と年上の女に見えていたのに、泣きじゃくる蝶は少女のようだった。うつくしい夜杜の主。

「俺は蝶のものだよ……」

 万感をこめて囁く。水に濡れた頬を寄せて、蝶はゆるゆると瞬きをした。

「わたしの、やと」

「うん」

「わたしの、やと。やと、やと。……やと、わたしは……わたしは……」

 濡れた髪から滴る雫が、水底へ落ちて行く。

「わたしは? やと、やと……わたしは?」

 それを見送って、夜杜は蝶に微笑みかけた。額を重ねて、うん、と問いかける。

「蝶は? ……蝶は、なに?」

「やとは、わたしのやと、だから……だけど、わたしは? わたしは、やと、の……?」

「うん」

 その一言を。供物として与えられた日から、ずっと、待っていた。

「うん。そうだよ、蝶」

 微笑んで頬を撫で、夜杜は蝶の肩を水面へ押しやった。怯える体は、水底へ抱かれることなく浮かび上がる。瞬きをするその瞼に口付けて、夜杜は満ち足りた想いに息を吐きだした。

「俺のものだよ。俺のもの。……俺の、蝶」

「やと」

「俺の隣で眠ってくれる?」

 黒髪が水面に広がっている。それを乱して口元まで引き寄せれば、甘い花の香りがした。くすぐったそうに目を細め、蝶の指先が夜杜の頬に触れる。ほたり、指先から滴る雫が、水底まで落ちて行く。

「やとのものにしてくれるの……?」

「うん」

「うれしい」

 やと、やと、と幼く口ずさむ蝶に笑って、夜杜は水面に手をつき、そっと身を屈めた。水は夜杜を拒絶している。そのものになった蝶のことを、だからもう二度と、飲み込むことはないだろう。

 うつくしい、夜杜の主。ほたほたと涙を零し、藍の翅を生み出す蝶に、夜杜はやわりと口付けた。

 蜜のように、甘く。

 蝶の好む花の味がした。

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