後編 17

鉛玉が無数に宙を飛び交う。歩兵が有り得ない角度でのけぞって飛び上がる。床に倒れ込むと、立体映像の白砂と無数の泡が舞踊る。続けざま、海底の暗闇から小さな物が飛んできた。

 「瞑!」

 下手くそな北京語。聞き慣れた者でなければ、意味が分からない発音。それが証拠に林は訳も分からず狼狽えている。黄は咄嗟に、固く目を閉じた。

 ぱあんと甲高い炸裂音がした。瞼越しにも凄まじい閃光が部屋を覆いつくしたのだと分かった。再び銃声と、打撲音が飛び交う。

 「この外道っ」

 今度は日本語がした。年老いてはいるがやはり聞き慣れた男の声。黄は目を開ける。二人の歩兵が偽りの海底に転がっている。そして林が、黒服の男に羽交い絞めにされてじたばたと暴れていた。

 「大丈夫か、黄さん!」

 青筋を額に浮かべて喚き散らすその男は。

 「遠藤大人…」

 別の歩兵が、ゆらりと二人に近づく。遠藤は暴れる林を押さえるのに夢中である。少し華奢な体格をした歩兵は、手にした歩兵銃を振り上げて銃尻を叩きつけんとしている。

 「危ない、大人!」

 殴りつけた相手は、林だった。間抜けな悲鳴をひと声上げた後に、首ががっくりと項垂れる。遠藤は歩兵に向かって得意げに笑った。

 「どうだ!革靴だって役に立つだろうが、足音がうるさいだけじゃないんだぞ」

 「私が履く軍用静音草鞋を考えたあんたがそれを言うか遠藤さん。危ないから引っ込んでいろと言っただろう」

 「上手くいったからいいだろうが」

 軽口を叩き合っている。どういう間柄なのだろうか。尋ねようとする前に肩の痛みがぶり返してきた。思わず顔をしかめていると、歩兵が歩み寄ってきて手慣れた仕草で腰から止血帯と消毒薬を取り出した。

 「動かないでください黄総統。自分は中国語は喋れないので悪しからず」

 幸いなことに銃弾は肩を抜けているようだった。だが今この状況でこれ以上満足な治療が受けられる筈もない。いやさ、受けている暇などない。

 「貴官はどなたです。神薙大人の手によるお方ですか」

 驚いたことに、間近で見たその自衛軍歩兵はむくつけき体躯をしてはいるものの間違いなく女性であった。

 「いえ、自分は東洋同盟軍に属する者であります。が、故あってそこのへそ曲がりな老人に協力しております。そこの非力な老人は、一民間人の分際で旧友を助けたいなどと嘯きますので仕方がなく手を貸した次第です」

 「おい、老人老人と繰り返すな。気を悪くするぞ」

 「精々しておけ、どうせ今の内だ」

 軽くいなされて、洋装の老人は年甲斐もなく顔を赤くする。

「お、お前そんなに口の悪い奴だったか」

 「あんた相手だったらこれくらい言っても構うまいと判断したまでだ。文句あるか」

 「お止めなさい、貴方がた」

 肩ではなく頭が痛くなってきた。不意打ちとはいえ屈強な悪漢ども三人をのしてしまった連中の会話とは思えない。偽りの海底は静寂を取り戻し、また海流の穏やかな音だけが部屋を包み込む。

 「遠藤大人、何という無茶をなさるのです」

 黄は冠の顎紐を解き、ゆっくりと頭から外す。かんざしで留めた長い髪が露になる。年老いたのは遠藤だけの話ではない。あの頃に比べればしなやかさも失せて、鈍い銀色になってしまった自分の髪。

 あの頃、涼子の、無二の親友と無邪気に互いの国について語り合っていたあの頃。

 「すまん、いても立ってもいられず」

 「お黙りなさい。私は政治の場に立つ身です。何があっても覚悟の上。しかし貴方の身に何かあったら、私は涼子さんにどう申し開きをすれば良いのです。私は、わたしは」

 もう二度と、戻ることは出来ない。取り返しのつかない。あの頃。

 「わたしに、また一人友を失えというのですか、貴方は」

 それ以上喋ることが出来なくなったのは肩の痛みのせいだ。黄は周りにそうアピールするかの如く、悲痛な表情で撃たれた左肩を押さえた。それは、彼女が普段あまり好まぬ大げさな中国人らしい振舞だった。

 鈴屋が冷ややかな目で遠藤を見やる。

 頭をかいたのちに、遠藤はばつが悪そうに言った。

 「俺も、ここであんたを放っておいたら、涼子に何を言われるか分からないと思ったんですよ」

 「そんなことは分かっています!」

 こんな大声をあげたのなどいつ以来だろうか。

 「傷に障ります。落ち着いてください。そこのへそ曲がりにはあとでとっくり話してやるとして、今は閣下の身の安全です」

 「この浮島にいる限り安全な場所などありますまい。私を助けてどうするつもりだったのです」

 そう、状況は絶望的だった。呑気な遠藤大人は知る由もない事だが、依然この浮島は叛乱軍に制圧され列国もろくに手出しが出来ない状態にある。航空戦力に飽き足らず、ながとやバラクといった強大な海上戦力をも手に入れてしまった叛乱軍。日本本土ではどのような状況に陥っているのか、想像もつかない。

次に各超大国が打ってくる手も又問題だった。現在大量破壊兵器が使われないのは人質がいる為であって、必要になれば超大国は彼らをいつだって見捨てるだろう。衛星兵器や大陸間弾道弾などと仰々しいものを使う必要もない。この浮島にある全ての生命を皆殺しにする兵器など、どこの国もゴロゴロ持っているのだ。今や遅しと、その爪を研いでいるはずだ。

そして黄の言う通り、所詮は籠の鳥だった黄を開放しても、状況は何ら改善されないのだ。この浮島から出る術はない。航空機も船舶も全て叛乱軍に確保されているのだ。ましてや、現状の戦力で叛乱軍どもを駆逐するなど不可能に等しい。

「ここで助かっても無駄なこと。私は、もう、父や母や涼子さんの下へいくつもりでいましたのに…」

「詮無いことを仰らんでください」

革靴を履きなおした遠藤が、黄の所へやってきて腰を落とした。

髪はざんばらで、折角の上等なモーニングは汗や埃で汚れきっている。その上この絶望的な状況だ。だというのに、この老体の目からは未だ精気が衰えていなかった。

「神薙の奴がいます。あいつはまあ、人は悪いですが有能な奴です。きっといいようになります。もしもの時は、連中の親玉をひっとらえて賊どもに言うことを聞かせてやりましょうや」

黄は目をしばたかせた。

「よくも、よくもまあそんな壮語を言えるものですね遠藤大人は」

「あれの旦那をやっていたもんでしてね。あれは、妙に楽天家なところがありましたから。俺にも大なり小なりそれがうつっているんですよ」

そう言って手を差し伸べた。無意識に、黄はその手を取ってしまっていた。

「立って、行きましょうや。何ね、人間その気になればどうとでもなります」

それは全く根拠もなく非論理的であり、無責任とすらいえる励ましであった。だがしかし、それに縋ってしまいたくなるのが人間と言うものであった。黄は握った手を振りほどこうか逡巡した後に、深いため息をついて遠藤に立たせてもらった。歩兵に手渡された冠を被りなおす。

「明白了…それで、どうするのです」

「兎に角親玉に会いに行きたいんです。そいつに俺は、言ってやりたいことが山のようにあるんだ」

「どうやって行くのです」

至極当然な黄の疑問に、遠藤は言葉を詰まらせた。

「ああ、その、何でもそいつが連れてってくれるとかで」

「連れてって…?一介の兵士が、叛乱軍の頭目に貴方を会わせられるというのですか」

またしても当然な疑問を黄は口にする。ここに至るまで思いもしなかったのか、遠藤が女侍に困惑した表情を向ける。

当の女侍は、倒した二人の歩兵から通信機や武器弾薬を拝借している最中だった。

「一体、あの方も何者なのです」

「鈴屋、とか名乗っていましたが。まあ悪い奴じゃありません。協力してもらってます」

「ですから、それが有り得ないというのです。何故叛乱軍兵士が、人質にしたはずの一民間人にこうまで肩入れするのですか」

「それは、その…」

その場の流れで、とでも言い出しかねない遠藤に黄は苛立ちすら覚え始めていた。神薙の潜り込ませた間諜などというのならまだ理解できる。しかし、そうでないのならば何故、こうまで遠藤に彼女が尽力するのか。

「貴官、改めて聞きます。貴官はいずれかの工作員か何かですか」

鈴屋、と名乗った女兵士はぴたりとその指を止めた。

「お答えなさい。何故、この遠藤大人に協力するのですか」

鈴屋の透き通った眼差しと、黄の怜悧な眼光が絡まり合う。遠藤にとっても想定外の状況に、老人は皺に覆われた唇を震わせる。

「い、いや、ですからこいつは」

「総統閣下。少々面白いものをご覧に入れましょうか」

鈴屋が、横たわる歩兵の襟首を掴む。突然のことに老体二人は動けなかった。ぴくりとも動かない歩兵を引きずり立たせ、鈴屋は続ける。

「先ほど自分が行った銃撃は全て非殺傷性の軟質弾を装填したものです。この歩兵らは未だ生きています。こいつらが、我々の有効な手札となるのです」

鈴屋はそのまま、歩兵の防弾胴を剥ぎ取った。刺し子造りの軍服が剥き出しになる。更にその上着へ手をやるや否や。

「遠藤さんなら、この意味が分かるだろう」

思い切りよく引っぺがした。真っ白な肌着に覆われた、屈強な肉体があった。

黄には、意味が分からなかった。

「そ、れが何だというのですか…?」

だが、遠藤の顔色は違っていた。

頬を引きつらせ、目を剥いて、愕然とした表情で顔の筋肉を強張らせていた。

「何で、そいつらが」

鈴屋は、自分の防弾胴も脱ぎ捨てた。そのまま襟に手を伸ばし、自らの上半身も肌着姿にした。黄には相変わらず意味がさっぱり呑み込めなかった。

「おまえまで、なんで」

二人とも頑強な肉体で、全く同じ肌着を着ているとしか思えない。丸襟の、どこにでもある白い肌着姿だ。

「何でTシャツ着てるんだ、お前ら」

Tシャツ、ああそうだ、あの丸襟は確かにTシャツである。中国ですらどこにでも売られている、クルーネックのTシャツである。

「東洋同盟なんて、最初から嘘っぱちなんだよ」

鈴屋は、どこか遣りきれない顔をしていた。

泡の弾ける音が、聞こえる気がした。

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着物を着なくちゃいけない日本 えあじぇす @eajesu

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