後編 16

 遠藤は思い出す度に今でも肝を冷やしている。あの、軍服お披露目会で初めて出会った黄の眼光。あの目に睨まれただけで背筋が凍った。射竦められるとはまさにあの事だった。

 そんな黄が、涼子とああも対等な友人関係を築けたのだから、世の中不思議なものである。切欠は小さなことだった。お披露目会の後も度々官庁街へ遠藤を迎えに来る涼子と、黄はしょっちゅう顔を合わせていた。その内涼子が、自分の着こむ留袖をほれぼれとした眼差しで見つめている黄に気が付いた。

 中国と、その中核を成す漢民族の伝統文化は、幾度となく断絶している。際限ない王朝の移り変わりと、新政権による旧支配者層の根絶。異民族に征服されたことも一度や二度ではない。清国崩壊後の、世界大戦による混乱。更に共産党による統治と文化大革命。様々な要因が中国古来の文化様式を焼き尽くしてしまった。黄がよく着こんでいた漢民族様式の中国服も、過去の文献から再現されたものだった。それ故か黄は、過去の姿を色濃く残す和服に並々ならぬ興味を持っていたのである。

 ある日、涼子が黄の休暇に合わせて連れたち、着付け体験教室へ出かけて行った。当時急速に拡がっていた国風文化への回帰運動で、こうしたサービスは至る所開かれていた。そして意外にも、外国人に対してすらその門戸は開かれていた。遠藤が自宅に帰ってみると、着物姿の二人がまるで大昔からの大親友のように日本語で語らい、苺大福と月餅をほうじ茶で頂いていた。

 言葉を失っていた遠藤に、黄は咳ばらいをひとつして。

 「文化交流です。他意はありません」

 と、いつもの調子で言った。

 「何ですか、もっと素直になりなさい」

 涼子が横から、その凛とした頬を引っ張った。黄が顔を赤くして、涼子がころころと笑い、その光景を前にした遠藤は益々混乱し、眩暈すら覚えたものだったが、何度かそういったやり取りを見せつけられるにつれ嫌でも慣れた。

 子供が産まれた時も、真っ先に駆け付けたのが黄であった。日本での公務にかこつけて、ハイヤーで産婦人科に乗り付けたエピソードは合うたびに良い話の肴となった。黄が政界への出馬を志した後は会う回数も自然と減っていったが友情は揺るがなかった。いつしか遠藤自身も、黄のことを身内と思うようになっていた。

 「…わか、らない」

 壁に寄りかかり、鈴屋は兜を脱いでいた。短く切った黒髪は思いのほか艶やかで美しく、うっすらと汗で濡れているようだった。

 「何が、分からないんだ」

 「あんたという人間が、だ」

 黄とはまた異なる、極寒の視線が遠藤を凍えさせる。物事の善悪や吉凶など全て超越した、大きな機械の一部から放たれているような、そんな眼光である。

 「まるで矛盾の塊だ。着物を造りながら、洋服を着るのが志だという。日本の軍部にすら関わりながら、外国人と親しくし、助けようとする。何なんだ?本当にあんたは、活動家とか、思想家とか、そういった類の人種ではないのか?」

 「しつこいぞ!俺はそんなもんじゃない」

 「では、あんたは何者なんだ」

 何故自分は今、身の危険を感じているのだろう。本当のことを言えば、遠藤にはさっぱり理解できていなかった。だがここで答えを間違えれば、自分は殺されるのだということだけは嫌と言うほど実感していた。

 では何と答えれば良いのか。時間はない。平静を装ってはいるものの、シャツの中は冷や汗でぐっしょりだ。だが、大した答えも思いつかない。遠藤に出来ることと言えば、当たり前のことを。

 「俺は、俺なんだ!他に何がある!」

 当たり前に言うことだけであった。

 答えを聞いた鈴屋は一秒だけ間を置いて、それから兜を被りなおした。防毒面に覆われている訳でもないのに、その虚ろな表情の意味が、遠藤には分からなかった。

 同じ表情のまま、鈴屋は懐からゆっくりと拳銃を取り出した。


 ※


 頭上を巨大なイカが通り過ぎていく。それが立体映像の産物だと頭では分かっていても、乳白色の光沢と、爛々光る巨大な眼はあたかもその怪物が現実にこの空間を泳いでいるかのような錯覚を黄に与えている。

 出来ることなら、目の前の、腹心の部下だと思っていた男も立体映像であってくれると助かるのだが。

 「理由を、聞いてもよろしいか」

 問いかけに、ほくそ笑む林は北京語を用いて答えた。

 「それは貴女が一番よくご存じの筈です閣下。中原にもう一度覇道を取り戻さんがためです」

 周囲の歩兵たちはやり取りを止めようともしない。北京語が分かっているのか、それとも勝手にやれという態度の表れなのか。

 「貴女が総統に着任する前から状況は最悪でした。この世に唯一の国家にして周辺の蛮族を従える存在だったはずの中国は、とうに消え失せていた。五つにも六つにも分断され、蛮族どもが覇を唱え、我ら漢民族と対等だと思い始めていたのです」

 林の言動は中華思想、という奴である。

 世界の中心は漢民族率いる中国であり、その東西南北における者どもは全て亥荻蛮族の類である。故に漢民族はこれを統治するのが自明の理である。

 黄に言わせれば、とうの昔に破綻した思想である。中国大陸が漢民族以外に統治された実例など、歴史を辿ればざらにある。モンゴル帝国を始め、ツングース系の女真族が興した大清帝国などが良い例だ。彼らの国家は、中国大陸の枠組みを超えた世界の超大国として歴史に名を遺した程なのだ。

 「…昔気質の好漢と思い重用してきましたが、そのように前時代的な思想に嵌り込んでいたとは、気づけなかった私の落ち度ですね」

 「何とでも仰るが良かろう!列国に名を連ねているとはいえ今の中国は回教徒どもにすら軍事力では勝てぬ状況に追い込まれているのです。打破が必要なのです!統一が必要なのです!新たなる王道楽土を、東方にをば築くのです!」

 「その早道があの関東軍崩れに与することだというのですか。正気ですか」

 林の目の色に火が躍る。この程度の挑発で平静を保てなくなるような、ちんけな男だったのか。黄は自分の人を見る目の無さに絶望した。

 「こいつらはね、使えるのですよ。軍事力のみで漢字文化圏を統一できると本気で信じている、無邪気な奴らです。どうとでも操ることは出来ます」

 「その傲慢さこそが国を亡ぼすと、理解できないのですか。長城の外側を奪われたとはいえ我らは未だ中華十数億の民の命を預かっているのです。軽はずみな行動は慎みなさい」

 「蛮族に対する不必要な寛容こそが軽率だったのです!貴女の融和政策は間違っている。私ならば、中原を偉大に出来る」

 結局はこうなるのだ。黄は益々もって絶望した。誰もかれもが、玉座を欲しがる。奪いやすい所に権力が転がっていれば、躊躇いなく奪う。黄が総統に着任してから成したことの一つに、こうした貪欲過ぎる中華民族の性情を正すことも含まれていたのだが。

 遅きに失したのだ、何もかも。

 「それで林、貴方は今ここで私を弑すと」

 海水が揺らめく。気泡が弾ける。幻影のイカは、いつの間にかどこかへ消え失せていた。

 「そうです。後始末はこの鬼子どもがやってくれますのでご心配なく」

 「成るほど、では一思いに頼みます。即死でお願いしますよ。苦痛がだらだらと続くのはまっぴらです」

 渇いた音がした。

 少し遅れて、左肩に激痛がやってきた。

 林の手に、古めかしい拳銃が握られていた。

 「そうは参りません。中原をここまで衰退させた暗君の生涯を、一瞬で終わらせられますか。凌遅刑に処されないだけ有難いと思っていただきたいですな」

 あの銃の口径だのは恐らく日本国自衛軍の用いているものと同じなのだ。流れ弾に当たって、死んだということにしたいのだろうか。

そんな裏工作に今更何の意味があるというのだろうか。殺される側としては無駄な努力としか思えなかった。

 「次は右肩ですよ、閣下」

 この男はこんなに銃の腕前が上手かったのか。今日になるまで全く知らなかった。外見はいかにも文人然としているのに、人はつくづく見かけによらないものである。

 などと取るに足らぬ思考が纏まりもなく溢れ出てくるのは、脳が恐怖を麻痺させてしまおうとしている証左であろう。黄は命乞いでもしてやった方がそれらしい絵面になるかとも思ったが、こういう時に感情を無駄に発露することこそ中国人の悪癖だと常々説いていたのを思い出してやめた。首尾一貫した人物として生涯を終えたかった。

 それにしても、さっきまで殊勝なことを言っていた自衛軍兵士どもは、少しぐらい止めるとか遮るとかしてくれないのだろうか。立会人も兼ねているのだろうが、それにしても不人情に過ぎるというものだ。黄の知っている日本人と言うものは、もっと温かみのある人々だと思っていたのだが。

 真黒な西服を着こんだ、白髪頭の困り顔が朧げに思い浮かんだ。その傍らで、楚々として微笑む桜色の和服を着た女性の姿も並び立った。結局自分には、あんなふうに寄り添い合う伴侶など得られなかった。

 心残りと言えばその程度かと、黄は眼を閉じた。世界に闇の帳が降りる。海水が揺蕩う音。気泡が弾ける音。林と、歩兵たちの息遣い。これが自分の、最期の風景。

 何と虚しく、呆気ない。

 そこへ今度は、ごん、と。

 鈍い音がして、黄は眼を開けた。林が後頭部を押さえていた。足元を覆う白砂の上に、黒光りする革靴が転がっていた。

 「これ、は」

 マズルフラッシュがほとばしる。

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