後編 15

扉の開いた先に広がっていたのは、水底の光景だった。

 蒼黒い水中の世界に、どこまでも続く白砂の大地。色とりどりの魚たちが周囲を回遊し、きらきらと輝いている。聞こえてくるのは気泡の弾ける幽かな音ばかり。

 無論、現実である筈が無い。実際この場に水など一滴も存在しておらず、立体映像と様々な演出装置により創り出された海底の光景に過ぎない。しかしあまりにも鮮明な景色は、竜宮にでも紛れ込んだかのような錯覚を黄に味わわせていた。

 「休息や静養の為に設けられた空間です。そのものずばり、竜宮の間などと呼ばれております。入り口はここ一つで、完全防音。監視装置もありません」

 背後から自分を連行してきた自衛軍兵士が、重苦しい口調で語り掛けてきた。黄は苦笑いを浮かべ、何とか答えてやる。

 「なるほど、辺りに知られず人ひとり殺すには丁度良いお部屋と言うことですね。お掃除が大変そうですが」

 「申し訳ありません」

 「謝らないで下さい。惨めさが増します」

 兵士は更に堅苦しく一礼した。

 ながと、バラクの邂逅と浮島への接近を聞かされた後に、何故か黄は一人茶話室へと移された。抵抗など出来る筈もなかった。全ての護衛も装備も奪われていた。暫くの間待たされた後に再び引っ立てられ、連れてこられたのがこの竜宮だ。その時点で、叛乱軍が自分を処分しようとしているのは察しがついていた。

 村上の言う東洋同盟体制の発足にあたり、軍事行動は必要不可欠だ。戦火をどこまで広げるつもりなのかは知らないが、少なくとも東アジア全体が恭順せぬ限り終わることはあるまい。その為に東アジア諸国をまずどうする必要があるか。決まっている、一つしか思い浮かばない。あらゆる方法で社会情勢の混乱を図るのだ。敵国に政情不安を起こすのは戦争の定石だ。多民族国家の多い東洋諸国は、各々決して一枚岩では無い。

 そして、指導者の喪失ほど国家を混乱に陥れる事態など、そうそう無い。

 「それで?私はどのような理由でもって殺されるのですか」

 なるべく淡々とした態度を黄は兵士に取る。どのような事態になっても、為政者が取り乱すのは愚の骨頂である。

 「欧米列強、並びにロシア社会主義連邦と密通し、内蒙古に再び進駐しようとした事実が発覚した為です」

 「あんな草っ原を我々が今更欲しがると思いますか?現在の中華民族は、長城の内側だけあれば事足りているのですよ」

 「承知しております。自分としては、甚だ不愉快な状況でありますが、任務でありますので。必ず、閣下の命は無駄にはしないとお約束いたします」

 何とも勝手な言い草。黄の頬に冷笑がこみ上げる。

 「…つくづく、変わりませんねあなた方は。あとから手を合わせて自己満足すれば、人の命などどう扱っても良いと仰る」

 「返す言葉もございません」

 それでいて、この状況でありながら歩兵は自分に対し素直に頭を下げてくる。しかも本心からである。本当に、島国の人間は訳が分からないと黄はかぶりを振るう。

 「我々は軍人です。サキモリなのです。上官の命令に従わねば、立つ瀬が無いのです」

 「存じています。意地悪を言って申し訳ありませんでした」

 そうまで言われて、深々と礼を続けていた歩兵はすっと顔をあげた。

 「それにこれは、中国側の要求でもあるのです」

 「…ほほう」

 深海の景色が揺らめいた。開け放たれた自動扉から、ゆったりとした胡服を着こんだ男が現れた。腫れ上がった顔が痛々しく、表情は剣呑そのものだった。男は歩兵らに蠅か何かを見やるような視線を送ると、眉根を顰める黄に、不敵な笑みを浮かべた。

 「総統閣下」

 両手に袖を通しての恭しい一礼。絵に描いたような中国式儀礼。その男は、黄が旧友への使いにやった人物に他ならなかった。

 「今更形式ばらずとも結構です、林次官」

 中国文官、林は歯を剥いて笑った。


 ※


 「足音を立てるなよ」

 つかつかと歩む遠藤に、鈴屋が声をかける。アリスを置いて部屋を出たこの老人は、年齢を一切感じさせないしっかりとした歩みでどこまでも突き進んでいた。

 「あんたのはいている革靴、良いものなんだろうが足音が五月蠅いんだ。そんなんじゃすぐに気取られるぞ」

 遠藤は返事をしない。歩みを止めようともしない。どこへ行こうとしているのかは知らないが。

 「別にあんたのしたことは間違いじゃない。あの茶話室は安全だ、子供をこれ以上、こんなゴタゴタに巻き込むことは無い」

 「少し、黙っていてくれないか!」

 振り返りざま、口角泡を飛ばして老人は怒鳴る。だがその声は、今日幾度となく聞いたこの老人の一喝の中で最も虚しいものだった。

 白けた顔をしている鈴屋を見て我に返ったのか、遠藤は年甲斐もなく顔を赤らめて頭を抱えてしまった。

 「いや、すまん。お前さんに怒鳴ることじゃなかった。ただ、何というか、あの子にもっとマシな言い方ができなかった自分が苛つくやら腹立たしいやらで…」

 何故か、鈴屋は安堵を覚えていた。ここまで人間離れした行動力と気迫をたぎらせていた遠藤が、人間らしく狼狽ている姿に不思議とほっとしたのだ。この男は鋼か何かで出来ているわけではなく、自分と同じ、人間なのである。

 「気にしないでくれ。誰にでもそういうことはある。それよりも、行くんだろう」

 「あ、ああそうだ。黄だ。あのおっかない姐さんの所に行かにゃならん。さっき言ってた、心当たりってのは確かなのか?」

 「まあな。手はず通りなら行先は一つしかない。そう離れていない筈だ」

 「分かった。急ごう」

 かくして休息も早々に鈴屋は歩き出した。だがこうなってはもう遠藤も小休止などしていられない。何しろ、黄は今や数少ない遠藤の、そして涼子の昔馴染みなのである。例によって年寄りには辛い鈴屋の行軍速度であったが、今度こそ遠藤は出遅れまいと懸命に足を動かしていた。

 「しかしあんた、行ってどうする気なんだ」

 そんな遠藤へ、鈴屋は無慈悲にも会話を求めてくる。

 「ど、どうするとは、なんだ」

 「黄は殺されるんだぞ。助けるのか」

 「そうか、ころされ…」

 早速、老人の足が止まった。

 「助け出す気なのか?無理な話だぞ」

 「どういうことだそれは!」

 そして、拍車をかけられたかのように走り出し、鈴屋に追いつくやその襟首を引っ張った。勿論、鈴屋はびくともしなかったが。

 「そうだ、黄美鈴総統はこのまま故人になってもらう手はずだ」

 「馬鹿な!」

 正面に回るや否や遠藤は鈴屋の両肩を掴みにかかった。鈴屋は淡々とした表情を浮かべて、動転する遠藤の成すがままにしていた。

 「あんたたちは東洋同盟とやらをおっ立てるんじゃなかったのか!黄の協力は必要だろうに!」

 「落ち着け、まだ時間はある」

 「これが落ち着いていられるか!」

 「いいから、聞いているのは私だ」

 そこまで言われて遠藤はようやく、鈴屋の目の色に気が付いた。先ほど、あの破廉恥漢を黙らせたときに見せた、あの目が、今度は間違いなく遠藤に向けられていた。

「黄のことを聞きたい。あんた、中国総統とどういう関係なんだ」

遠藤は大きく息を吐いた。

 「あれは、女房が、友達だったんだ」

 「あんたの奥さんは中国人か」

 「いいや、日本人だ」

 どこまでも平然とし、当たり前のことを聞いていると言わんばかりの鈴屋。だがその裏には明白に、詰問の空気が漂っていた。

 「だから、そこが分からないと言っているんだ」

 目をしばたかせる遠藤。この期に及んで二人の歯車は全く噛み合っていない。

 「あんたの奥さんは、外交官か何かだったのか」

 「専業、主婦だ」

 「どうして服屋の主婦と一国家の元首が友達になれるんだ」

 透き通った声色は、回答次第で遠藤の処遇をどうするのかまざまざと語っていた。鈴屋の豹変に、遠藤は少なからず動揺していた。

 「うん、そうだ。そう、思うよな」

 だがそれを悟られる訳にもいかなかった。少しの感情の変化も、この女に今見せるのは危険だと遠藤は本能的に察知していた。遠藤は日常でするように、こくこくと首を意味もなく縦に振って見せた。白髪頭が非常灯に照らされて揺れる。

 「俺は、ああ、服屋だといったな。デザイナー、いや、お前さんには意匠図案家と言った方が伝わるだろうか。とにかく、服の形を考えることを生業にしてきたんだ」

 「それはさっき聞いた」

 「主に、公務員の制服を造っていた」

 本当に驚愕すると、人間は真実目が点になるのだということを、遠藤は初めて知った。

 「…何だと?」

 「お前さんの着ているその服も、元はと言えば俺が考えた」

 暗緑をした軍服の襟を、鈴屋は掴んだ。

 暫くの間何かを考え込んでいたが、だがすぐに至極当然な結論に達したようだった。

 「それと黄と何の関係がある」

 「だから、あの人は昔から総統だったわけじゃないんだ。昔は武官だか外交官だかやっていて、しょっちゅう日本に来ていたんだよ」

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