後編 14

 静寂が室内を満たしていた。

 真新しいテーブルクロスの上には、冷めきった紅茶と乾ききった茶菓子が虚しく捨て置かれている。この場にいる誰もが、食事も飲み物も楽しめる気分ではなかった。当たり前だ。愛する夫と我が子から引き離され、こんなウサギ小屋のような部屋に押し込められていては、何をする気も起きやしない。背後に控える歩兵たちは、一言も喋ろうとしない。置物のようにご婦人方の後ろについて、控えているだけである。

 彼らは護衛ではなかった。この茶話室に見張りを効かせる、看守であった。ウィルソン大使夫人は、すっかりぬるくなった紅茶を彼らにぶっかけてやりたい衝動に駆られていたが、淑女としての最後のプライドで何とか理性を保っていた。大使夫人は、そもそも最初から今回の訪日に反対していた。あんな偏狭な極東の島国に行って、得られるものなど何もないと考えていた。あそこに住んでいるのは自分たちが世界で一番賢いと勘違いした、可哀そうな有色人種たちなのだ。古臭く、傲慢で、野蛮な連中だ。会談などやって何の意味がある。あんな奴らにわざわざ会いに行くよりも、コーンウォールの別荘にいる方がよっぽどアリスの為になるのに。いつもそうなのだ。夫は、サーの称号以外に何の取り柄もないあの男は、自分を紳士に見せるアイテムとして妻子を利用しているのだ。こんな所に来たくはなかったのに。こんなところに来てしまったから、この馬鹿げたクーデター騒ぎへ巻き込まれる羽目に陥ったというのに。

 ふいにスライド式のドアが開いて、若い歩兵が顔を覗かせた。黒髪に涼し気な目元をした女兵士だった。

 「ふ号発令!」

 女兵士の放った言葉に、茶話室内の歩兵たちは色めき立った。翻訳機器も身に着けておらず、外来語の知識も無いウィルソン夫人は元より、他の女性陣も何が起こったのかも分からず辺りを見回す他なかった。暫くして自らの装備を整えた歩兵たちは、女兵士一人を残して一斉に部屋を出て行った。

 静けさが戻ってくると、女兵士が扉に向かって手招きする。すると、大使夫人にとって聞き慣れたせわしない足音がした。

 ぱたぱたという、いつもは咎めてしまう大使令嬢にあるまじきその足音を放つのは。

 「お母様!」

 アリスの他に、いなかった。

 やおら立ち上がった夫人は、声をかけるのも忘れて、自らの胸に飛び込んできたアリスを受け止めた。

 「ふ号ってのは、何だ」

 茶話室の中に、もう一人見知らぬ男が入ってくる。東洋人なのにモーニングに身を包んだ、白髪の男である。

 「不規則事態発生のことだ。これを受けた部隊は直ちに所定の場所へ集合し、次の指示を待たねばならない」

 「便利な言葉だな」

 日本人同士の語らいなど、大使夫人には分からない。だが、二人が敵意を持っていないことは何となく察することが出来た。女兵士はこの状況で銃に手もかけず、穏やかな表情でいる。

 男が、銀色の腕時計に手をかけた。日本製のモバイル端末なのは、男が合成音混じりの翻訳された英語を喋り始めたことですぐに知れた。

 「遅くなって申し訳ない。お嬢さんをお届けに上がりました」

 礼節を感じさせる一礼。少なくともこの男は、欧州の礼節を心得ている。

 「…ご苦労でした。あなた方は、叛乱軍ではないようですね。何者です」

 問われても、男はすぐに返事をしなかった。女兵士をちらりと見たが、無言で顔を背けられてしまった。

 「ええ、ああ、何といいますか。理不尽な暴力が気に食わない一民間人と、それに協力してくれている自衛官です。各国要人のご婦人方がこの茶話室に集められていると聞きまして、参りました」

 「いち、民間人…?貴方は日本人でしょう。何故、そのような出で立ちをしているのです」

 ウィルソン夫人の目には、ナショナリズムの権化ともいうべき日本人がヨーロッパ風の格好をしているのは、異様な光景にしか映らなかった。妙に似合っているのが又、気に食わない。

 「ああ、その服装に関してはお気になさらず。私は、黄総統と個人的な友人関係にあるのです。総統はこちらにいらっしゃらないのでしょうか」

 いかに翻訳機を介し英語として発声されていても、黄の単語ぐらいは聞き取ることが出来る。予想外の大物の名前を聞きつけた為か、女兵士が老人に向き直る。そして驚かされたのはウィルソン夫人も同様だった。一体この男は何者なのか。何故アリスを助けたのか。どうして自衛軍兵士と行動を共にしているのか。自分たちにとって、敵であるのか味方であるのか。

 ウィルソン夫人には、判別が付けられなかった。この男のことを、どこまで信じて良いものか。

 「Mr.シュウは、着たいものを着る人なんですって。そこのサムライレディと一緒に、私を助けてくれたのよ」

 母の疑心を感じ取ったのか、淑女にあるまじき大声でアリスが訴えかける。

 「私とは、偶然知り合ったの。私の方から、退屈だったから、お話をしたの。その後、テロが起きて。ちょっとお話をしただけなのに、私のことを気にしてくれて、悪いサムライから助けてくれたの。本当よ」

 縋るような眼差しで、アリスはウィルソン夫人を見上げている。人懐っこい子ではあるがその分、人を見る目は鍛えさせたつもりである。そのアリスが、こうまで短期間で信頼を寄せる男性。

 「本当なのよ、お母様」

 ウィルソン夫人は、そっと、アリスの頭を撫でてやった。

「…アリス、よく無事でした。そうですね。貴女を助けてくれた方なのですね」

 それから、緊張した面持ちの日本人を、油断なく見据えた。

 「黄女史は何処へ連行されました。一度こちらにお戻りになったのですが、その後もう一度連れ出され、以降は存じません」

 「連れて…?」

 首を傾げた男は腕時計に手をかける。途端に男の声は日本語となった。本当に、嫌になるほど精巧な翻訳機能だ。つくづく日本人という奴は、こう言う妙なところに労力を注ぐ。 

 男は顔色を変えて、女兵士に何やら尋ねてる様子だった。その狼狽ぶりから、会話の内容は何となく想像がつく。いつの間にか、夫人のドレスに顔を埋もれさせていたアリスも、顔を上げて二人の会話に聞き入っていた。そういえばこの娘は、夫人が何度止めろと言っても懸命に日本語を勉強していたことを思い出した。気が付くと、これまで遠巻きに夫人と日本人たちのやり取りを聞いていた他のご婦人らも聞き耳を立てている。日本人たちが出て行ったら、彼らから質問攻めにあうのであろうとウィルソン夫人は想像し、アリスをぎゅうと抱え込んだ。

 何としても、この娘の安全だけは守らなくてはならない。

 日本人たちの話はまとまったようだった。切迫した男とは反対に、淡々とした表情で受け答えしていた女兵士だったが、強引に押し切られたらしい。

 男が再び、翻訳機器のスイッチを入れた。

 「どうやらこいつに心当たりがあるようです。自分らは黄閣下の様子を見てきます」

 それを聞くや否や、アリスは母の腕を振りほどこうとした。

 「私も一緒に行くわ!」

 絶対にこう言うと思ったのだ。もがくアリスを、ウィルソン夫人は抑え込む。老いた日本人は、急に険しい目つきとなる。

 「ダメだ。お母さんとここにいろ」

 「いやよ!Mr.シュウ、危ないことするつもりでしょう。私も行くんだから」

 「分かっているんなら、ここにいるんだ」

 「いや!行くったら行くの!」

 「アリス、およしなさい」

 珍しいことだった。アリスは、少なくともウィルソン夫人の前では素直で良い子だ。そう振舞うように躾けてきた。こうも我を張り、自らの意思を見せる姿は、夫人ですら初めて見たかもしれない。

 「Mr.シュウ、貴方は大事な友達よ。日本人とイギリス人とだって、歳が離れてたって何だって!その友達が無茶をしようとしているのに、ここで大人しくなんかしてられないわ!私も…」

 「いい加減にしろっ!」

 ウィルソン夫人の前に、大声を張り上げたのは、日本人の方だった。

 「大人のやることに嘴を挟むな。子供は引っ込んでろ!」

 眉尻を吊り上げて、額に青筋をひくつかせて、洋装の日本人は吠えた。一瞬、アリスが押し黙り、唇をわななかせた。それから、目から大粒の涙を溢れさせて、母の胸にまた埋もれた。

 ウィルソン夫人は、二人の日本人の顔を見た。女兵士は急な出来事に、そして英語でのやり取りに理解が追い付かず狼狽しているようだった。そして洋装の男は、歯を食いしばっていた。

 その瞳の色は、真っ黒な自己嫌悪の感情に彩られ、暗く沈んでいた。だが気丈にも頭を下げると。

 「ご無礼、失礼しました」

 と、一言言って踵を返した。

 そのまま革靴の甲高い音を立てて部屋を出ていく。慌てて女兵士が着いていく。ウィルソン夫人は何も言わずに、泣き濡れる娘の頭を撫でてやった。心の中で、あのMr.シュウとやらに感謝の念を送りながら。

 「ばか、ばか、ばか…」

 アリスが、小さな小さな声で、呟いていた。

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