第9話 喪失の代償

 それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。

 それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。

 宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。

 それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。

 しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。

 市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。

 それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。


***


 男には記憶が無かった。

 いつの頃からかは覚えていないが、気が付いたら記憶を失っていた。男には一切の記憶が無かった。

 かと言って、困る事もあまり無く、やがて男は日雇いの道化師としてサーカスに身を寄せる事になった。

 親族が居たのか居ないのか、はたまた失ったショックで記憶を失ったのか、それすら定かではなかったが、男はこの生活に案外満足していた。

 男の唯一の私物の中に、女物のブローチがあった。

 銀の蔦が這うような意匠の施された土台に、真っ黒な宝石が嵌っている、簡素なブローチであった。

 サーカスの仲間達は、その宝石がきっと記憶の手がかりに違いないと、みな口々にそれを大事にするようにと言ってくれた。

 やがてサーカスの興行が大成功に終わると、男は一座の仲間入りを果たす事になった。

「記憶のない俺でも、ここは受け入れてくれる」

 その事は、男をひどく勇気付けてくれた。前向きになった男は、より一層、道化師として、玉乗りなんかの練習を目一杯にするようになっていった。

 男は、時折不思議な夢を見る事があった。夢には、いつも少女が出てくる。服装はドレスだったりワンピースだったりと様々だったが、そのどれもが真っ黒で、黒い帽子とヴェールを着けていた。

 その少女はいつも、男の私物であるあのブローチを胸に着けていて、薔薇のように美しい笑みを湛えて、男を見つめていた。

 そして、少女はいつも、男に誰か――恐らくは女性だろう、人と会わせようとするのだ。男はいつもそこで目を覚ます。

 しかし、男はその夢の事を、誰にも話す事は無かった。

 ある時、サーカスの控え室で男が出番を待っていると、一座の新入りである少女が、胸に着けているブローチに興味を示した。

「ねぇ、そのブローチ、女性用よね。どうして着けているの?」

「俺のお守りみたいな物なんだ。記憶は無いけど……俺の、数少ない私物でもあるんだ」

 それを説明すると、新入りの少女はブローチを見つめて、かすかな声で呟いた。

「それ、ダイヤモンドよ」

「ダイヤだって!?てっきり、黒曜石か何かかと思ってたんだけど……」

「あたしの家、宝石商だったから、分かるわ。それ、ダイヤモンドよ!ねぇ、それ、大事に扱ってあげてね!」

 記憶の手がかりになるかもしれないもの、と少女はそれだけ言って、幕から出て行った。

 その二人のやり取りを、支配人が聞いているなど、男にも少女にも、分からなかった。

 ある時、男は急な支配人からの呼び出しに応じた。自身を拾ってくれた一座の仲間は、男は大好きだったが、どうしてもこの支配人だけは、信用が置けなかった。

 というのも、金にがめつく、また売り上げ金額を一部を懐に無断で入れているという噂もあった上に、どうも女性を見る目付きがやたらと怪しかったのだ。

「えっと……支配人、私に何かご用でしょうか」

「君に用事があるのではない。私は、その宝石に用事があるのだよ」

 そう言って、支配人は持っていた杖で、男が着けていたブローチを指し示した。

「これ、ですか?」

「聞けばダイヤモンドだそうじゃないか!それは君なんかが持っているよりも、私のコレクションにした方が相応しい。そうだろう?」

「ですが……これは俺の数少ない私物でして……」

 支配人はムッとした顔をすると、肩を杖で叩きながらこう告げた。

「ここに居させられなくしても良いんだがねぇ」

「そんな!それは困ります!」

「なら、分かるだろう?ほら、早くそのブローチを渡したまえ」

 男は不承不承、そのブローチを外して支配人へと渡した。支配人はにわかに機嫌を良くして、もう戻って良いと告げた。

 数少ない、大切な私物を取られた悔しさから、男のまなじりに涙が滲んだ。その日の練習にも身が入らず、仲間達からはとても気遣われた、その事が、男には申し訳なく思えた。

 しかし、翌朝目を覚ますと、いつもブローチを置いてある場所に、ブローチがあったのである。

 男の喜びようといったら、それは筆舌に尽くしがたいほどであった。仲間達に、さっそくあった事を報告すると、仲間達は、あの支配人を一杯食わしてやったと、面白おかしく騒ぎ立てた。

 しかし、しばらくもしない内に支配人の元からブローチが消えた事が知れて、またブローチは男の手元から持ち去られてしまった。

 けれども、また翌日になると戻ってきているのである。支配人の怒りは、凄まじく、人を殺しかねんばかりの勢いで、男をなじり、怒鳴りつけ、サーカスから追い出すと決めてしまった。

 男はそれは困るとどうにか頼み込んだが、その甲斐も無く、間もなくサーカスをクビになってしまった。

 どうにか食べていけるだけの蓄えはあったけれど、それでは駄目だと、男は大道芸の真似事をし始めた。

 町から町へと渡り歩きながら、大道芸を披露し、日銭を稼ぐ。それだけの事だったが、不思議と男の芸は人を集め、食うにも寝るにも困らない額が、いつもきちんと集まるのだった。

 やがて男はいっぱしの大道芸人として、とある町へとやってきた。

 男はそこで、元居たサーカスの仲間達と再会し、そこで不思議な話を聞いた。

 その話というのは、男がクビになった後、支配人は少女が見えるという幻覚に悩まされた挙句、原因不明の病でこの世を去ってしまった事。そして新しく支配人となった男性が、自分を探しているという事。その二つだった。

 とにもかくにも、出会ったのだからその男性に会わねばならぬというわけで、男は、新しい支配人の居るテントへと案内された。

 新しい支配人となった男性は、男とそう年齢の変わらない青年だった。すらりと背が高く、女性に好かれそうな容貌をしていた。

「……あ、」

 男は、ひどい頭痛に見舞われ、ぐらりと世界が傾ぐような気さえした。その場に転げ回りたい衝動を何とか抑えて、うずくまった。

「大丈夫か!?」

 支配人が慌てて手を伸ばす。男はそれに見覚えがあった。

 そうだ。このブローチをくれた時と、変わらない手だった。男は、思い出した。

「…………俺を、探してくれていたのか?」

「そうだ、君を探していた。婚約者が亡くなってから、行方知れずになった君を、ずっと」

 ふと気が付くと、夢の中に出てくる少女が、新しい支配人となった男性の後ろで佇んでいた。

 薔薇のような微笑は変わらず。しかしその胸元にはブローチが無かった。男が持っているからだろう。

 そして、男は全てを思い出したのだった。

 男には、ある婚約者が居た事。そして、その女性にこのブローチを贈った事。やがて彼女は、暴漢に襲われ、亡くなった事。

 そして――男はこのブローチのために、婚約者が襲われた事を知って、絶望のために海へと身を投げた事すらも。

「君が、生きていてくれて良かった」

「……どうして」

 男の口からは、言葉が漏れていた。

「どうして、俺を探したりなんかしたんだ!!」

 ブローチを床へと投げ付けて、男は怒鳴った。

「俺は、俺は、こんな記憶を、思い出したかったわけじゃない!!違う、違う違う、違う!!どうして――どうして、忘れたままでいさせてくれなかったんだ……っ!」

 男の悲痛な叫びを聞いて、支配人は思わず後ずさった。そこにある荷物に、気が付かなかった。

 どん、とぶつかった弾みで、支配人と男の居るテントの支えがぐらりと傾いた。

 支配人が気が付いた時には既に遅く。男が支配人をかばって、テントの下敷きとなっていた。

「な、何故、どうして……」

 そう支配人は尋ねたが、男は打ち所が悪かったのか、もう既に事切れていた。

 支配人は、やり切れない思いを抱えながら、テントの柱や布を、仲間達の手を借りてどかしていった。

 しかし、どこを探しても、男が確かに床に投げ捨てたはずの、あのブローチだけが、どこにもなくなっていたのだった…。

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黒き薔薇 山路 桐生 @mine1925

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