第8話 不実の勝敗

 それは持ち主に幸運を引き寄せる宝石。

 それは持ち主を絶頂へと登らせる宝石。

 宝石の名は「黒き薔薇」。15カラットはくだらないだろう、巨大なブラックダイヤモンドのブローチである。

 それは、飾り気のないブローチだ。ローズカットを施されたダイヤモンドの周りを、プラチナが蔦のように縁取っただけの、簡素な代物だ。

 しかしそのブローチは…否、ブラックダイヤモンドは、手にした者に莫大な富や栄光、あるいは幸福を与える宝石と言われていた。

 市場へ出る事はまず望めない。あるのは、裏での取引と駆け引き。そして争い。

 それらの血を吸収したかのごとき黒をまとって、そのブラックダイヤモンドは今尚どこかで美しく煌めいている―――。


***


 男は賭博師だった。ただの賭博師ではなく、時にはイカサマも行う人間であった。

 カードゲーム…特にポーカーにおけるそれは、誰にも見破れないほどの腕前を誇っていた。

 しかしそれは男だけの力で成り立っているイカサマではなかった。

 彼には、ポーカーによってとある男から強奪した宝石があった。黒い宝石が中心に嵌った、簡素なブローチだった。

 男にとっては何の意味も見出せないブローチだったが、元の持ち主がことさらにそれに執着していたのを知っていたので、それを奪っただけに過ぎなかった。

 その頃の男の手際は、ひどくお粗末なもので、小金を稼げれば良い方だった。稼げない日の方が多く、男は自身の力量に対して、ひどく苛立ちを覚えていた。

 ブローチは、その頃に手に入れた物だった。男にとっては売りさばけば大金になるだろうという程度の認識で、上手い事だまくらかして手に入れた物だった。

「それは、その宝石は、『黒き薔薇』なんだ!頼む、それだけは返してくれ!」

 必死に取り縋って泣く男を、足で蹴っ飛ばして手に入れた宝石の、あの煌きといったら!

 男はそれ以来、賭博…特にカードゲームにおいて、全戦全勝とは行かないまでも、最早海千山千といった有様であった。

 しかし、いつからか男には不可思議な幻惑が取り付いて離れなくなった。

 それは、少女の姿をしていた。黒い帽子に黒いヴェール。銀色で刺繍された文字は生憎男には読めなかったが、ともかく全身が真っ黒で、そのくせ肌だけがやけにとびきり白く、陶器のようであった。

 男はその少女が、どこに居ても何をしていても、うっそりと薔薇のように笑っているような気がしてならなかった。

 やがて、男が賭博場の中でそこそこの知名度を獲得し始めた時、少女は目の前に現れるようになった。それも、実体を伴って。

「御機嫌よう。新しい持ち主さん」

 少女はそう言って、黒いツーピースのスカートをふぅわりと持ち上げて見せた。

 長い黒髪がお辞儀とともにさらさら舞い降りて、それはさながら絹糸のようでもあった。

「アンタ誰よ。っつーか、ナニモン?」

「私は私よ。それは、あなたがよく知っていると思うわ」

 男はよく分からないなりに妙な納得をして、適当に少女をあしらう事にした。

「あっそう。まぁ、オレの商売邪魔しないってんなら、別に良いけど」

「あら、邪魔なんてしないわ。――お役に立ってみせているでしょう?」

 少女は顔をあげて、薔薇が開くかのようにうっとりと微笑んでみせた。男はその笑みに、言い知れない恐怖を覚えて、しかしそんな事はおくびにも出さずに少女へと向き直った。

「…アンタ、ナニモンなわけよ」

「さっきも言ったでしょう?私は私よ。『黒き薔薇』よ。それ以上でも以下でもないわ」

 男はこの少女を、狂人だと思った。実際、こんなキチガイめいた話に自分が遭遇するだなんて思っても居なかったし、そもそも男はそういった、幽霊やら伝説やらの類に一切、興味が無かったのである。

「あっそう。まぁ、好きにしたら?オレはこれから金稼ぎに行くけど、アンタどうすんの」

「私は私だもの。あなたが私を連れていくなら、ついて行くわ」

 まるで当然のように言い切る少女に、男は背筋を冷たい汗が這っていくのを感じていたが、しかし男はそのまま少女を放置して、賭博場へと足を向けた。

 前述の通り、男はブローチを手に入れてからというもの、ツキが巡りでもしたかのように賭博では勝ちを誇っていたので、男はその日も普通に賭博場へ足を踏み入れたのだった。

「アンタのご加護ってんなら、オレには本当に運の女神がついてるのかもな」

 らしくない事を独りごちてから、男はそれを嘲笑するかのように笑って、その日も大勝ちをした。

 イカサマはしたりしなかったりだが、大抵、イカサマをしようと、見破られる事はまず無かった。男の目配りや勘もあっただろう。だがしかし、そこにも恐らくはブローチの力が働いていたに違いなかった。

 もし、万が一イカサマが見破られたとしても、そういう時は負けているか、小額の賭け金の事が多く、大半は見逃されていたのである。

 やがて、男は増長しだした。自身にイカサマの才能があると、そう信じ込み始めたのである。

 ブローチをちらつかせて金を得る事、数百回。そのことごとくを男はポーカー勝負を行い、負かしてきたのだった。

 少女はそれを男の背後で、ひどく楽しそうにくすくすと笑って見つめていた。

 男の増長は日増しにひどくなっていき、仕舞いには、ブローチを相手に貸し出して尚、イカサマで勝つという事をやってのけるまでになった。

 少女はそれすら楽しいようで、男の背後でくすくす、いつも笑っていた。

 男には不気味で仕方が無かったが、しかし自身にはイカサマの才能があり、そして少女が自身の傍に居れば…いやひょっとすると居なくても勝負事に大負けする事も無いと高を括っていたから、放っておいた。

 ポーカーに使用するカードへ仕込まれたイカサマは、誰にも見抜く事など出来ないのだと、そう思い上がっていたのである。

 ある時、男はある女性に勝負を挑まれた。

 それは自身をイカサマ師としての腕が無い、と、見限った師の女性であった。

 女性は男にこう告げた。

「最近、羽振りが良いようじゃあないか。何かあったのかい?」

 男は例によってブローチの話をし、そしてそのブローチを賭けて、勝負をしないかと持ち掛けた。

 女性は笑ってその勝負を受けた。

 男の背後で、少女の笑い声がした。それは、男を嘲っているようにも聞こえて、男はぞっとした。

 単純なポーカー勝負。いつものように、イカサマをしようがしまいが、男には勝ちを約束されているのだと、誰より男自身が信じていた。

 勝負の最中、女性は笑いながらこう言った。

「アンタ、どうしようもないほど落ちぶれたねぇ」

 男はむっとして、そんな事があるかと言い返した。

 女性は、まぁ見ていりゃ分かるさと、そう言い返した。

 結果として、勝負は女性の大勝だった。男は一回も勝つ事の出来ないままに、かつての師に敗れ去った。

「…何でだ、オイ、何でだよ、『黒き薔薇』!! オレに勝利を約束するんじゃなかったのかよ!!」

 男は振り向いたが、もうそこには少女など佇んでいなかった。

「馬鹿だね、アンタ」

 女性はくつくつと笑いながら、静かに告げた。

「――宝石の力の事なんざ、忘れきっていた癖によく言うよ。借り物の力を実力だと思い上がって。だからアンタはいつまで経っても二流だって言うのさ」

 男はバラバラとカードを手から零しながら、机を叩いた。

「クソッ、クソッ、このアマ、ぶっ殺してやる…!!」

 振り上げた腕は、しかし女性に届く事なく取り押さえられた。

 賭博場から追い出され、河岸を変えた先々で、そのイカサマのことごとくを見破られ、追い出される日々。

 男は瞬く間に、あらゆる賭け事において得た金を失っていった。何もかもを取り上げられ、それでも賭博場へ足を向ける日々。

 足掻き続ける男には、払える物など一つも残っていなかった。それでも尚、何かに縋るように、何かを振り切るように、あらゆる賭博場へと足を向けた。

 もう男の背後に、少女の笑い声は、無いというのに。

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