7の病気

諸根いつみ

第1話

自殺恐怖

 あ、はい、ここには両親に勧められて来ました……わたしは、心療内科に行くって言ったんですけど……母が、別の病気かもしれないからって、ここに……母は、わたしが変になったって、認めたくないみたいなんです……なんか、心療内科とかに、偏見を持ってるみたいで……あ、外で待ってる母に聞こえてるかもしれませんよね……あ、大丈夫ですか。そうですよね、外に話し声が漏れるわけありませんよね……

 やっぱり、わたしは心の病気だと思うんです……もっと早く病院に行けばよかったんですけど……外に出るだけでも、結構大変なので……ここに来るにも、母と一緒に車でないと、来られませんでしたし……前は大学に通ってたんですけど……ずっとひきこもってしまって、両親には迷惑をかけてしまっています……

 あ、はい、前は、都内の女子大に通ってました……ごく普通に、大学に行ってました。毎日電車に乗って……家から、一時間半、くらいでした。いつも満員の電車に乗って……駅って、ほんとにたくさんの人がいますよね……

 前から、たまにあったことなんです……あったというか、ぼんやりとしたことなので、どのくらいの頻度とか、よく分からないですけど……とにかく、突然始まったことじゃないのは確かです……

 大学から帰る時は、行きよりも駅は空いていました……いつもそんな感じでした。あまり遊び回ったりとかは、してなかったので……夕方頃、いつも大体同じ時間に、同じ駅のホームに立っていました。

 電車が来るのを待っていると、想像上の別の自分が、少し離れたところに立っているんです……わたしは、それを斜め後ろから見ています……想像上の自分は、電車が来ると、ぽん、と電車の前に飛び込んでしまうんです……もちろん、想像上の自分なので、実際は全然動かず、普通に電車に乗ります。

 別に、なんとも思っていなかったんです……だって、想像上の自分がなにをしようと、それはその時の自分の気まぐれというか……ちょっとした疲れとか?そういうものが勝手に作っている幻みたいなものなので……気にしていませんでした。

 でも、それが毎日のことになっていって……ホームで電車を待っていると、必ず想像上の自分が、電車の前に飛び込むんです。それで想像上の自分は消えます。次に現れるのは、次の日の電車を待っているホームの上です……

 だんだん、こわくなってきて……電車を待つたびに、電車の前に飛び込む想像をしている自分のことが……朝の慌ただしくて人がいっぱいいる時は大丈夫なんですけど……本当は、自分は自殺したがっているんじゃないかな、自分でも気付かない無意識のうちに、死にたいと思っているから、そんな想像をしてしまうんじゃないかな、そんなことを考えるようになったんです……

 でも、死にたいと思う理由なんて、一つも思いつかないんです……もちろん、嫌だなと思うこともあるけど……それは、生きていて当然のことだし……取り立てて悩みと呼べるようなこともなかったんです。のんきな話ですけど……家庭内にも問題はなかったし、希望する大学にも行けたし、友達ともうまくやっていたし、彼氏もいたし……

 そうです、彼氏にだけは、このことを相談したんです……こんなことを言っても、変だと思われるだけだと思って、誰にも言わないでいたんですけど……ある日の夜、どうしても寝付けなくて……気が付くと、ホームの光景が目の前に浮かんで……今にも自分が、走ってくる電車に飛び込もうとしている場面が浮かぶんです……その想像があまりに真に迫っていて、本当に死んでしまうような気がしてきてしまって……馬鹿だと思うんですけど。こわくなって、夜中なのに、彼氏に電話をしてしまったんです。

 彼はそれまで眠っていたような声でしたけど、ちゃんとわたしの話を聞いてくれました。ほとんど涙声になっているわたしのことを慰めてくれました。

「落ちつけよ大丈夫だよ、ずっと電話つないでてもいいから」

 そう言ってくれました。

 でも、彼はわたしがこわい夢を見たのだと思ったみたいです。実際にあることなのだと、何度か説明しました。そうしたら、彼は元気付けるように言いました。

「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ。ほら、テストが近いって言ってたじゃん。それのせいだよ。それを頑張って乗り越えれば大丈夫だって」

 そんなことを言ってくれました。

 彼は、根が明るい人なのです。わたしがなにかで落ち込んでいると、いつもそうやって励ましてくれました。今は、誰かもっと良い人と、楽しくしていればいいんですけど……

 彼の言葉を聞くと落ち着いて、その日は眠ることができたんですが……でも、やっぱり考えてしまって。それで、前から思っていたことを思い出してきたんです。意識していなかったぼんやりとした考えが、意識の上にのぼってきたというか……

 小学生の時、四階の教室のベランダから、ずっと下を見ていたり……中学生の時、遊んでいて道路に飛び出した小さな男の子が、危うく車に跳ねられそうになったのを見て、ぞくぞくしたり……わたしは、子供の頃から、心の奥底では死にたがっていたんです。

 そのことに気付いてしまってから、災害で死者が出たとかいうニュースを見ると、そこで亡くなった人をうらやましく思っている自分にも気付きました。とんでもないことなんですけど……自然の猛威に命を奪われることが、とても美しいことのように思えたんです。なぜあの人たちはあそこにいて不運にも命を落として、なぜわたしはここで普通に生きているんだろうと……土砂災害のニュースを見れば、自分が泥の中に首まで埋まって、動けないでいる場面が思い浮かびました。台風で増水した川に人が流されたというニュースを見れば、濁流に溺れる自分の姿が思い浮かびました。そして冷静に、その時の恐怖を想像しているんです。きっとすさまじい恐怖だろうけど、きっと乗り越えて楽になれる、たいしたことないんだ、という気がしました。

 わたしは、夜に自分の部屋で一人、なぜそんな風に思ってしまうのか、真剣に考えました。原因が分かれば、対処法も分かるかと思ったんです。でも、自分が死にたいと思う理由なんて、やっぱり思い付きませんでした……わたしは、自分がどれだけ恵まれているか、分かっているつもりです。世の中には、生きることで精いっぱいの人だっているのに……わたしは、自分が不幸だと思ったことなんてありません。わたしは幸せなんです。なのにどうしてなんだろう……

 でも、考えてみれば、訳の分からない理由で自殺した有名な人って、結構いますよね……特に文豪とか……わたしは、自殺した文豪の作品を読み漁りました。そして自分なりに、一つの結論のようなものに達しました。

 自殺しやすい体質の人が存在するということです。もしかしたら、わたしもそうなんじゃないかと……そういう人は、特に理由などなくても、ある日突然、自ら命を絶ってしまうのかもしれません……

 そう結論付けてしまうと、なんだか気が楽になりました。自覚しているのとしていないとでは、大きな違いのように思えました。もしかしたら、自覚したことによって、悪いことは防止されるんじゃないかとも思いました。

 わたしは、なるべく気にしないように、毎日を楽しく過ごすように努力しました。彼氏や友達と遊んだり、わざとバイトで忙しくしたりしました。でも、あいかわらず、空いている駅のホームは恐怖でした。想像上の自分が、いつも通りの行動をするのです……

 ある時、わたしは大学で課題を提出して、少し遅れて学食へ行きました。いつもそこで友達と一緒に昼食を食べていました。友達たちのテーブルに近付こうとすると、駅のホームという言葉が聞こえて、思わずわたしは立ち止まりました。

 わたしがすぐそばにいることに気付かず、友達たちがわたしの話をしていました。わたしがちょうど柱の陰に隠れるような形になっていたのだと思います。

「駅のホームがこわいとか言ってたよね」

「電車がこわいじゃなかったっけ?」

「なにそれ、そんなこと言ってたの?なんで?」

「知らなーい、訊いても教えてくんなかった。微妙に笑ってごまかしてさ」

「もしかして霊感とか?」

「やだあ」

「でもあの子そういうこと言い出しそうじゃない?」

「わかるー。実は見えるの……とか言いそうじゃない?」

「はっきり言って、ちょっと暗いよね」

「だよねー。こわいとか言うのもさ、か弱いのアピールしたいのかな?」

「かわい子ぶってるってこと?」

「暗くてかわい子ぶってるとか」

「どんなキャラだよ。ウケる」

 そんな会話を聞いてしまって、わたしは凍りついたようになっていましたが、やっとの思いでその場を離れました。あとになって、その話をしていた友達たちに、今日学食来なかったね、と話しかけられましたが、課題が長引いちゃって、と言い訳したほかはなにも言いませんでした。

 わたしは落ち込んでしまいました……一人でカフェに座って、女の友情のもろさを思って悲しみに浸っていました。

 その時、突然地面が揺れました。地震だ、と思った時に、この揺れは大変なことになるかもしれない、と思いました。

 そういう時、すぐに外に飛び出してはいけない、ということは知識として知っていました。机の下にもぐるとか、頭を守るようにしなければいけないと、分かっていました。

 でも、わたしはなにを考える間もなく、外に飛び出していました。外では、地面に人がうずくまっていました。わたしはふらつきながら、カフェの前の道で足を踏ん張りました。

 その時、上から看板が落ちてきて……わたしのすぐ横に、すごい音を立てて落ちました。悲鳴を上げてうずくまった時に、揺れが収まりました。

 近くにいたスーツ姿の男性が、大丈夫か、と声をかけてくれました。わたしは地面に座り込んだまま震えて、なにも答えられませんでした。もう少しで、看板が直撃するところでした。もしそうなっていたら、死んでいたと思います。恐ろしくて、わたしはずっと震えていました。

 わたしは、外に飛び出したことを後悔しました。もう絶対に危ないことはしないと誓いました。しかし、夜になって眠ろうと布団に入ると、わたしが道に立っている姿が思い浮かびます。わたしの上に看板が落ちてきます。鋭い角がわたしの頭に突き刺さって、鮮やかな血が吹き上がります。その光景を思い浮かべると、すーっと体が軽くなるような、柔らかいけれど圧倒的な快感がわたしを包みました。

 わたしはがばと起き上がって、自分を抱きしめて震えました。わたしが死ぬところを想像すると、すぐにでも立ち上がって、ベランダから飛び降りてしまいたくなりました。その時のわたしの家はマンションの十一階だったので、落ちたらまず助かりません。今は団地の一階に住んでいます。両親がわたしのために引っ越してくれたんです……

 わたしは必死に別のことを考えて、ベランダを意識の外から締め出しました。わたしは死にたくなかったんです。信じていただけないかもしれませんが、死にたくないんです。これは本当です。だから、死にたいという衝動が湧きあがってきた時、胸の底が凍るような恐怖を感じたんです……

 それからのことは、正直、よく覚えていません……多分、必死にいつも通りに大学に通ったり、バイトに行ったりしていたんだと思います。

 そんな風に頑張り続けていられたら、もし何事も起こらなかったら、こんな風にはなっていなかったんじゃないかと……ひきこもらずに済んでいたんじゃないかと、思うこともあります。もし、何事も起こらなかったら……

 あの日、大学からの帰り、いつものホームに立っていました。なんだか疲れていたような記憶はあります。想像上の自分は見えませんでした。いつも想像上の自分が立っている定位置に、別の人が立っていたからです。

 細身の女の人でした。上品なスーツを着ていて、仕事帰りのOLさんに見えました。

 もちろん、実際に存在する人です。想像上の人ではありません。しかし、その人が想像上の自分がいつもいる同じ位置にいるので、わたしは思わず、その女の人を、斜め後ろからじっと見つめてしまっていました。

 もうすぐ電車が来るという時、ふいに女の人が周りを見回しました。その動きは、あまりにも突然過ぎるように思えました。そして、わたしはその女の人と、目が合ってしまいました。

 綺麗な人でした。目が合うと、女の人はわたしに向かって微笑み、走ってくる電車の前に飛び込んでしまいました。

 そのあとのことは、よく覚えていません……きっと、すごい音がしたでしょうし、すごい騒ぎになったでしょうし……多分、わたしは自分で家に帰れたのだと思います。取り乱したような記憶もないので……

 わたしには、なぜあの女の人が電車に飛び込んだのか、なぜあの位置から飛び込んだのか、なぜ最期にわたしに微笑んだのか、分かりません。わたしは驚きませんでした。なぜか、すごく予想通りのことが起きたような気もしました。恐ろしいことですけど……ただ、わたしはあの時、あの女の人に引き込まれて、わたしの中のなにかも、一緒に飛び込んでしまったような気がするんです……あの時、一緒に飛び込んでしまったような錯覚もありました……でも、それが錯覚だと気付いて、わたしは正直、とてもがっかりしました……

 わたしはあの女の人が、とてもうらやましかったんです……あんな風に、微笑んで死んでいけるのが……それが、なにかのために苦しみぬいた結果だとしても、なにかに突き動かされた結果だとしても……

 それから、わたしは家に閉じこもって出なくなりました……彼氏から電話があっても、無視し続けました……とてもつらかったですけど……

 あの日以来、想像上の自分の姿が、とてもはっきり見えるようになってしまったんです……車を見れば、その前に飛び出す自分が……マンションを見れば、最上階から飛び降りる自分が……海を見れば、飛び込んで浮かんでこない自分が……だからなにも見ないように、家にこもるしかなかったんです。包丁とかフォークとかも、危ないんですけど……

 少しすれば、また出られるという気持ちもありました。時間が経って、あの女の人の顔を忘れられれば……記憶が薄れるまでの、少しの辛抱なんだと……

 でも、もう今では、外に出られないのが、記憶が薄れないせいなのか、自分の中の根本的な問題のせいなのか、分からなくなってきました。頑張れば、普通に生活することもできるのかもしれません。学校に行ったり、仕事をしたり……でも、ふとある瞬間に、死にたくなってしまったらどうするんだろう、って……ふ、と飛び込んでしまったら、その瞬間のわたしは、未来のわたしと、過去のわたしと、わたしの両親に責任が取れるのかな、と……

 もうこんなにつらいんだったら、いっそ死んでしまおう、と思ったこともあります。でも、痛いのも、苦しいのも嫌なんです……当たり前だと、思ってくれますか?それ以前に、わたしは死にたくないんです。それに、わたしは健康なんです。大きな病気ひとつしたことない、五体満足の、まだ若い女なんです……ただ、楽しく生きたい、いえ、普通に生きたいだけなんです。でも、どうしてこんなにつらいんでしょうか……こんなわたし、もう死んでしまったほうがいいですよね……でも、死にたくないんです……どうしたらいいでしょうか?


 カワイイ恐怖症

 俺、ついこの間就職が決まりましてね。事務職なんすけど、今、張り切って新しい仕事に励んでる日々なんですよ。だから、別に問題はないんすけどね。まあちょっと、わずらわしいこともあるっちゃあるっていう程度で。前働いてたとこの親方が、親戚の子供がここの病院で頭の病気が治ったって言うから、まあちょっと来てみたってとこなんですけどね。なんでも治してくれるんでしょう?あ、そういうわけではない?まあそうっすよね。そんな都合のいいことはないっすよね。

 まあたいしたことはないんすけど、ここで話したことは全部秘密ってことでいいんすよね?まあ、そうじゃないと困りますって。なにも疑ってるわけじゃないすけど、俺も働いて、弟と妹を食わしてかなきゃならないんで。やっと決まった就職だし、フリーターに戻る気はないんでね。

 フリーターになったのも、全部意気地なしの親父が悪いんですよ。ろくに働きもしない役立たずで。おかげで母親は働き過ぎで体を壊して死にましたよ。まあ親父もそのうち死んで、清々しましたけどね。

 それで俺と弟と妹は、ばあちゃんの家に引き取られたわけですが。俺は国立大を出て、なんでもいいから給料の高い仕事に就いて、弟と妹を養ってくつもりだったんすよ。でも、どうしたって国立大なんかは入れる頭がなかったってことです。母親が作ってくれた貯金と高校の時のバイト代で、国立大ならなんとかは入れるはずだったんすけどね。まあ、結局高校卒業だけさせてもらって、そっからフリーター生活ですよ。

 母親と俺の貯金とばあちゃんの年金と畑と、それだけじゃ弟と妹を大学に入れられないんで、朝から晩まで働きましたよ。昼間は焼肉屋で働いて、夜は交通整備とか。客とトラぶって焼肉屋を辞めたあとは、ゴミ回収やら引越し屋やら。居酒屋もきつかったなあ。新聞配達はやりたかったんすけど人が足りてるとかで断られたんすよね、高収入だったのに。

 まあ肉体労働がどうしても多くなるんで、常に疲れてるわけですよ。働いてるか寝てるかの生活、ほんと一時期はそんなでしたからね。もうとにかく疲れてどうしようもない時は、変な幻を見たこともありますけど、今日はその話をしに来たわけじゃないんだ。

 なんか、ある時期から、妙にチラシとかに目が行くようになったんすよ。とにかく疲れてるから、チラシなんて見てる暇があったら寝たいくらいなんすけど、ばあちゃんがチラシを見るから、こたつの上に放り出されてたりとかして、ついつい目に入って。新聞は取ってなかったんすけど、勝手に郵便受けに放り込まれる類の、どうでもいい学習塾の宣伝とか。学習塾なんか通わせる余裕ないっつの。あとは、どうでもいい地元のイベントの案内とか。まあそんな紙きれも、裏が空いてればメモやら落書き帳の代わりになるからいいんすけどね。でも、本当に役に立つ安売りバーゲンとかのチラシは、新聞に挟まってて届かないという悲しさ。新聞を頼む金も惜しかったんすよ。まあ、これからはそんな苦労もしませんけどね。

 で、そのチラシなんすけど。チラシには、まあ、たいてい絵が描いてあるわけですよ。まあへたくそな、イラストっつーもんが。別に今まで気にしたこともなかったんすけど、それが妙に目について。なんか、見てるとムカついてくるんすよ。胸の辺りがむかむかしてきて、目を背けたくなるっつーか。

 最初は全然気にしてなかったんです。そんなこと気にしてる暇もないし。ただ、なんか嫌なチラシがあるぜ、くらいなもんで。でも、一度気になるとなんか気になっちまうもんじゃないですか。放り出してあるチラシを見ると、どうしても絵に目が行くんですよ。間抜けな顔して鉛筆握ってる子供の絵とか、敬老会の広告の杖ついた老人とか、祭りの広告で意味もなく文字の間を走ってる猫とか。そんで、説明しがたい、いやーな気持ちになるんすよ。

 同じくらいの時期ですよ、猫がやたらと目につくようになって、猫が大嫌いになりました。交通整備してると、目の前を横切ったりするんですよ。あと、疲れ切って家に帰る時に、夜の道の端っこで、親猫と子猫が固まって、光る目でじっとこっちを見てるんですよ。思わず蹴散らしました。

 それに、赤ん坊。電車の中で赤ん坊連れてる母親は、いかがなもんなんですかね。結構いるんすよ。信じられないくらいうじゃうじゃいる。一つの車両に何人も赤ん坊がいたりするんですよ。どうしてもそれが無視できなくて。チラチラとベビーカーの中の赤ん坊を見ると、胸の中からいやーなものが湧き出てくるような気がするんですよ。でも、なぜか見るのをやめられないっていう。

 脈絡もなくいろんなものが気になりだして、これはどうしたもんかと思ったんですよ。無視できる程度の嫌な感じってのを、何度も感じてるうちに、無視できない嫌な感じになってきて。分かります?

 で、見ると嫌な感じがするものを思い出して並べてみたんすよ。そしたらすぐに分かりました。まあ明白っすね。

 こういうのもなんですけど……いやーな感じがするのは、全部カワイイものなんです。なんだって思うかもしんないですけど。なんか、俺はカワイイものが苦手になっちまったみたいなんです。

 だからなんだって話なんで、俺は今まで通りに仕事に駆けずり回りましたよ。でも、ふとした瞬間に、なにかを見つけてしまうんすよね。

 電車の中で、犬をかごに入れてるおばはんがいたりとか、クマのキーホルダーをバッグに付けてる女がいたりとかすると、憎しみに近いものを感じましたよ。笑えますけど。街のくだらない広告とか、カワイイ感じを目指してるものって、数えきれないくらいあるじゃないですか。そういうのがいちいち目に入って。

『クソッ、カワイイじゃねーか、あれもこれも!』

 って思って、いつもムカついてました。気にしてるとどんどんひどくなってきて、しまいには、紙切れに書いた点二つと曲がった線、まあ、ニコちゃんマークみたいな落書きさえもカワイく見えて、『クソッ』って思って破ったりとか。悪化してるのが自分でもほんとによく分かりました。

 そうそう、なんでもかんでもってわけじゃないんすよ。カワイイ女がいても、そりゃカワイイと思うだけで、嫌だなんて思わないすよ。むしろずっと見ていたいですね。カワイイ女は大好きです。

 あと、女の服とか、靴とか?アクセサリーとか、そんなのはよく分からないし、もともとカワイイとも思わない。

 あと、子供はビミョーなとこなんすよね。赤ん坊はだめ。でも、小学生の女の子を見ても、別になんともない。ちなみに俺はロリコンじゃないっす。そんなこと訊いてないか。二歳とか、三歳とかは、だめな時もあれば、そうじゃない時もあるみたいで。泣きわめいてる三歳児は別の意味で嫌ですけど、胸の底から湧いてくるような、あの独特の嫌悪感はないです。泣きわめいてる三歳児が好きな男なんて、そうそういないでしょ?でも、笑ってる三歳児はだめかもしれない。いやーな感じが湧いてきて、ほっぺたを指で突き破りたくなる。あ、もちろん冗談ですよ、冗談。

 まあそんな感じで、なにがだめかっつーのは、結構曖昧かもしれないけど。言っときますが、俺は弟と妹は世界一可愛いと思ってますよ。でも、弟と妹を嫌だと思うはずがないです。それとこれとは、全く別の話です。

 やっぱり、あの時の俺は働き過ぎて疲れてた……そう思いたいです。よく考えてみれば、あんなにがむしゃらにやんなくても、もっと計画的にしてれば、弟と妹を大学にやるくらいの貯金は、もうちょっと楽に貯まったかもしれない。でも俺は馬鹿だったから、理性のネジが飛ぶまでやっちゃったのかもしれないと……そう思うことにしてますよ。

 カワイイものが苦手っていう俺の性格は、どんどんひどくなってっちゃって。そんなくだらないことなんすけど、精神的に追い詰められてくのが、自分でもよく分かったんです。分かってたんだけど、苛立ってどうしようもなくなっちゃって、ある日とうとう、やっちゃったんです。

 仕事からの帰り道に、また猫を見つけちまったんですよ。暗い道端の植え込みのところにうずくまってて。よく見たら、毛もぼさぼさでなんか老いぼれみたいなんすよ。でも、目だけまん丸く光ってて、じっとこっちを見てるんすよ。もうそれだけでだめで。

 つかんでも全然抵抗しなかったから、やっぱり老いぼれだったんですよ。飼い猫がたまたま外に出てたのかもしれないです。飼い猫がすべて首輪してるとは限らないし。

 俺は老いぼれた猫をつかんで、高い高いするみたいに持ち上げました。街灯の下で見ると、なんか不思議そうな目で俺を見ているような気がしたもんですよ。

「おいなに見てるんだおい」

 とか俺は訳分かんないことをつぶやきながら、猫を地面に置いて、首に手をかけました。もうその時は、俺はこの猫を殺さなくちゃいけないっていう気になってたんです。

 両手で首を持って力を入れたら、ぽっきり、骨が折れる感触がしました。その直前に、老いぼれじゃないみたいなすごい暴れかたをしたのはびっくりしました。飛び出した舌と目で、ものすごい顔になってました。

 俺は慌てて手を放して立ち上がりましたよ。もうそいつは、猫じゃなくて、ただの気持ち悪い物体になってました。そう思ったら、すごく清々した気分になったんです。ひとつ、嫌なものをこの世から消したぞ、みたいな。

 それから、俺は暇を見つけては、猫を殺して回るようになりました。絞め殺すこともあったし、ナイフで喉を切ることもあった。残酷なやつだと思うでしょう。そうです、俺は残酷なやつです。殺すこと自体は好きじゃないんです。でも、殺したあとの爽快感が、ただひとつ、カワイイものにさいなまれ続けるイライラを消してくれたんです。唯一心の休まる時だと言ってもよかったですよ。

 特に、カワイイ猫ほど爽快感は増すんです。俺は長毛の白猫が特にだめでね。種類の名前とか全然分かんないけど。首輪をした猫も容赦なく殺しましたよ。飼い猫のほうが、カワイイやつが多かったし。

 死体はそのままにしてたんで、連続猫殺しとして事件になりました。死体は汚いし、死体になったことを確認すれば満足だったんで、見つからないように捨てたり隠したりするのが面倒だったんです。ニュースでも流れて、ちょっとこれは大事になったぞって思いましたね。まあ、見つからない自信はあったんですけど。夜中には誰も歩いてないような場所を選んでたし。

 正直、ほとんど罪悪感はなかったんです。俺はこんなにイライラしてんのに、それを晴らす手段があったら使って当然だろうと。赤ん坊を殺すよりは全然いいじゃん、とも思いました。もし、赤ん坊を殺せたら、その爽快感は猫の何倍もあったと思うし……もちろん、仮定の話っすよ?

 でも、その気晴らしは突然終わらせなくちゃなんなくなりました。ある日も、仕事帰りに猫を一匹殺してきたんです。そいつは結構元気がよくて、結局喉をナイフで裂いて殺したけど、手は思い切り噛まれるわ返り血はあびるわで、今までで一番手こずったやつだったんです。俺は疲れ果てて、帰ったら服を脱ぎ捨てて、そのまま寝ちまったんです。馬鹿ですよね。

 朝起きたら、噛まれた手には絆創膏が張ってありました。そんでもって、枕もとには、妹が血のついた俺の服とナイフを持って正座してたんです。

 その時中学生だった妹は、俺が猫殺しの犯人だってことに気付いちまったわけです。俺は観念して、言い訳じみた口調でなにもかも話したんです。それで妹が許してくれるはずもないのは分かってたけど。妹は優しいやつで、動物が好きなんです。

「分かった、もういい。兄ちゃんが言うことは信じるよ。でも、もう二度とこんなことしないで」

 妹は、目に涙をためながら言いましたよ。妹が俺の気持ちをどれだけ理解してくれたかは分からなかったけど、そう言われたら、やめるほかないじゃないですか。

 俺は悩みました。弟とばあちゃんはなにも知らないみたいだったけど、妹は口をきいてくれなくなりました。弟とばあちゃんはそんな妹の様子を不思議がってましたけど。

 俺は自分が情けなかったし、めちゃくちゃ後悔して、猫殺しをきっぱりやめました。でも、やっぱり仕事とかで街に出ると、カワイイものが目に突き刺すような感じで飛び込んできて、内臓がざわざわするような嫌な感じがするんです。

 俺はこいつを自力で治そうと思って、悩みに悩みましたよ。それで考え付いたのが、慣れてしまおうってことなんです。

 妹は、あまりファンシーなものを集めるような趣味はなかったから、家にはカワイイものがほとんどなかったんです。慣れてないのがいけないんじゃないかと思って、俺はカワイイものを手に入れる決心をしたんです。

 俺は、昼休みの間に、ファンシーショップに行きましたよ。笑われるかもしれないけど、俺は真剣でした。妹へのプレゼントを買うんだって顔をしてね。

 俺は、虫唾が走るようなデザインの、ひよこの形をした小さなぬいぐるみをポケットにねじ込んで店を出ました。まあ、万引きですよ。工事現場で働く男が、昼休みにファンシーショップでぬいぐるみを万引きしたんですよ。実はそれが人生で一度目の万引きでした。

 俺は、家に帰ると、こっそりそのぬいぐるみを取り出して、じっと眺めました。見れば見るほど、そのひよこが気に食わなくなってきて、タンスと壁の隙間にねじ込んでやりました。でも、ずっとそのひよこのことが気になっていて眠れず、ついには引っ張り出してハサミでずたずたにしました。少しすっきりしたけど、これじゃなんの解決にもならない、と思ってぐったりしました。

 俺はファンシーショップで何度も万引きをしました。ちっさなぬいぐるみがいっぱい置いてあったんで、それを全種類。家で眺めて、なんとか耐えられるように頑張ってましたよ。でも、同じ店で何度もやっていたのが悪かったんです。バレて、職場にも知られちまいました。当然、クビ。

 でも、親方がいい人でね。なんでそんなことしたのかって、根気強く聞いてきたんですよ。なんか、一筋縄じゃ行かない理由だって、分かっちゃってたみたいでね。

 妹のためだって嘘ついたんですけど、絶対違うって言いたそうな顔をしてて。ついに、全部話そうって気になっちゃいましたよ。そしたら、ここを紹介してくれたんです。なんでも治してくれる病院だって。あ、なんでもじゃありませんよね。

 実は、就職できたのも、親方のおかげみたいなもんなんです。親方の知り合いの伝手で、就職先を紹介してもらったんです。親方と飲んでたら、その知り合いの人もいて、仲良くなっちゃったもんでね。なんか、すべてが急にうまくいったようなもんなんですよ。

 就職してから、だんだんイラつくことも減ったんですよ。だから、別に病院に行かなくてもいいかと思ったんだけど、治るに越したことはないから。まあ、困ることといえば、職場の人たちが、馬鹿にしてくるんですよ。こういう、カバンに付けたぬいぐるみとかを。あ、これは万引きしたんじゃなくて、買ったもんですよ。やっぱり、慣れとかないと、いつまた変な風になって猫を殺したりとかするか分かんないからですよ。ごつい男が、仕事用のカバンにぬいぐるみ付けてるのは変だし、ふさわしくないというか、滑稽なのは分かってますよ。十分過ぎるほど分かってます。でも、これは俺にとって必要なんですよ。いつ自分が残酷な男に戻るか、分かんないんですよ?このぬいぐるみが、俺を押さえつけてくれてるような気がするんです。はい?あ、もちろん、家にはもっとありますよ、ファンシーなものが。慣れなくちゃいけないですからね。今ではだいぶ慣れてきたように思います。切り刻んだぬいぐるみの数も知れないですけど。妹も、俺の努力を分かってくれたみたいなんです。少しずつ、口をきいてくれるようにもなったし。貯金の目標額にも、もうすぐ届くんですよ。

 俺、思うんですよ。俺、実はカワイイものが好きなんじゃないかって……でも、カワイイものって、か弱さとか、守るべきものを表してることが多いじゃないですか。なんか、そういうものを守らなくちゃいけないとか、俺には守れないとか、そういう気持ちが強過ぎて、こんな変なことになっちゃったんじゃないかと……よく分かんないですけど。まあ、どうでもいいんですけどね。とにかく、職場の人たちを黙らせるにはどうしたらいいですかね?営業職じゃないんだし、カバンになに付けてたっていいじゃないですかねえ?机の上に私物置いてたって別にいいんだし、ぬいぐるみぐらい置いてもいいじゃないですか。どう思います?


 音楽がきこえない

 お話は聞いてますよね、僕のこと。警察の人に、ここに来るように言われたんです。絶対なにかの病気だからって。はい、涼道院警部という人が。えっと、恥ずかしながら、ストーカー行為で警察に厳重注意されてしまいまして。Aっていうバンド知ってます?知らないですよね。無理もないです。そんなに有名じゃないですから。Jロックファンなら、当然知ってるようなバンドなんですけどね。そのバンドのボーカルのUさんっていう人へのストーキングで……でも、これにはほんとに訳があるんですよ。ただ好きで待ち伏せしたり、自宅の場所を調べて押し掛けたりとかしたわけじゃないんですよ。もちろん、好きは好きですけど、ファンだからってストーカーするようなおかしいやつじゃないんですよ、僕。ほんとにつらくて、どうしようもなかったんです。もちろん、ストーカーだって自分で分かってるし、反省してます。もうしませんよ。でも、これには深い訳があるんですよ。聞いて下さい……

 警察の人に病気だって言われたけど、そんなこと自分で分かってます。耳鼻科には行きましたよ。何か所も行って、大きな病院にも行ったし。でも、原因が分からないんです。なにも問題はないって、どこに行っても同じことを言われます。ここでも同じことを言われるかもしれませんよね。警察の人に言われた手前、来るしかなかったんですけど、別に分からなかくたっていいですよ。もう諦めてるし。

 僕、音楽がきこえないんです。耳がきこえないっていう意味じゃないですよ。音楽だけがきこえないんです。メロディーとかリズムがある普通の音楽が流れてても、全くなにもきこえないんです。でも、周りの物音とか、話し声とかは普通に聞こえます。口笛とかはきこえる。あと、ライブではきこえるんですよ。多分、ライブになると原曲とは少し違うからだと思います。

 音楽がきこえないってことに気付いたあと、パニックになって友達に相談したら、不感症になったのか?とか訳の分からないことを言われたんですけど。なんか、不感症を、音楽がきこえないっていう風に表現してるような小説があるみたいで。その友達は、文学かぶれっていうか、変な本をいっつも読んでるようなやつだったんで。まあ、ふざけんなって答えましたけど。誰に言っても、まともに取り合ってくれませんでしたね。

 それは、ある日突然きこえなくなった、ってわけじゃないんです。最初は、ちょっとした違和感、みたいな。僕、音楽が好きなんです。学校でもウォークマンで音楽きいて、帰ってきてからもきいて、寝る時も必ずきいて。暇さえあれば音楽きいてるようなやつで。ギターもやってたんですよ。別にバンド組んだりしてたわけじゃないけど、小遣いを貯めて、エレキギターのセットをそろえて。ロックが好きなんです。母親には、なんでそんなうるさい音楽が好きになれるのか分からない、とか言われたけど。分かる人にしか分かんないんですよね。同じ感性を共有できる人じゃないと。共有できない人には絶対一生分からないんでしょうね。

 僕、Aっていうバンドが一番好きなんです。演奏がすごく上手くてコード感がいいし、Uさんの声もすごくいいし……僕、好きな曲はとことんききこむタイプなんで、とにかく何度も何度もきいて。特に、サードアルバムは何度フルできいたか分かんないです。何百回とか、そういうレベルじゃないかな。

 もうそんだけきいてると、全部覚えてるんですよ。ベースラインも覚えてるし、ここでこういうドラムのおかずで、とか。でも、不思議と僕が好きな曲って、ふとした瞬間に頭の中で流れたりしないんですよ。そんなずうずうしいことはしない。よくテレビで流れてるヒット曲とか、洋楽のポップソングとか、すごく頭に残っちゃって、ずっと頭の中で鳴ってる、みたいになることもあるんですけど。今でもたまにありますよ。聞こえないのに、頭の中で流れ始めるんです。全然好きな曲じゃないのに。僕、頭に残る曲は嫌いなんです。僕の好きな曲は全然頭に残らない。それで、何度きいても飽きないんです。頭に残るっていうのと、覚えるっていうのは、全然違うんですよ。覚えるっていうのは、思い出そうとすると、頭の中で再現できるってことなんです。頭に残るっていうのは、サビのメロディーだけがリピートするんです。それで、しばらくすると全然どんなメロディーだったか忘れたりする。でも、しばらくするとまた思い出して勝手に頭の中で流れるんですよ。

 ちょっと話がそれましたね。こんな話、まともに聞いてくれる人なんていないから、つい。えっと、音楽がきこえなくなってきた頃の話でしたよね。

 Aっていうバンドの曲をいつもみたいにきいてたら、なんか、ボーカルだけが遠くにきこえるような気がしたんです。やっぱりUさんの声が一番好きなんで、メロディーラインっていうか、ボーカルを一番集中してきいてたと思うんです。だから、ちょっとしたいつもと違うきこえ方にも敏感に気付いたのかな。

 ウォークマンできいてたんで、最初は、ちゃんとイヤホンが差さってないのかな、とか、耳に入れるとこのカバーが変な風にめくれてるのかな、とか思ったんですよ。でも、確認してみたらちゃんとなってるし。知らないうちにイコライザーが変わってるのかとも思ったけど、違うし。ウォークマンが壊れたんだと思って、パソコンとか、父親のステレオでもきいてみたんですよ。でも、同じなんですよ。なにできいても同じきこえ方をしてて。そんなことほとんどありえないんですけど、データ自体が壊れちゃったのかとも思って、また同じCDを買ってきいてみました。でも、また同じで。

 もうこれは自分の耳がおかしくなったんだな、と思って。音量を上げ過ぎないように気を付けてはいたつもりだったけど、寝る前とかも、いつも音楽きいてるから、耳が悪くなっても不思議じゃないと思いました。でも、低音がきこえないとか、高音がきこえないとかならともかく、ボーカルだけきこえにくいってどういうことだろうと思いましたけど。

 そのうち病院に行こうと思ったんですけど、――音楽好きにとっては、耳が悪いってかなりショックですからね――試験勉強とかで忙しくてなかなか行けなくて。その間も、勉強しながらだって音楽はきいてました。耳が悪くなろうがなにしようが、音楽きかないで済まそうなんてできないんですよ。もう音楽なしでは生きられない体になってるっていうか。それなのに、どんどん深刻なことになってきて……

 初めは、Aっていうバンドの曲だけ、ボーカルが少しきこえにくいかなっていう程度だったのが、だんだんひどくなってきて。次はギターがきこえにくくなってきたんです。なんか、ベースとドラムだけよくきこえる、みたいな状態になって。

 他のバンドの曲も変なきこえかたをするようになりました。ベースラインがすごく好きだった曲は、初めにベースがきこえにくくなったんです。それからだんだんほかのパートもきこえなくなってきて。

 ついには、Aっていうバンドの曲を流しても、なにもきこえなくなってしまったんです。ちゃんと再生されてるし、他の人にはちゃんときこえてるのに、僕にだけきこえないんです。周りの音はきこえるのに、再生されてる音楽は、全くの無音に感じて。なにかの間違いかと思ったけど、そうじゃないって気付いて、パニックになっちゃって……家族は、僕の言ってることがよく分からなかったみたいで、調子悪いなら寝てろとか言われるし、友達には冗談だと思われるし……もうどうしたらいいか分からなくて。

 ふとしたきっかけでまたきこえるようになるんじゃないかと思って、それまで以上にウォークマンを再生状態にしてイヤホンをしてました。でもAっていうバンドの曲はなにもきこえなくて……別のバンドの曲はきこえたんですけど、きいてるうちに、それもきこえなくなって。パニックになりながらききまくっているうちに、ウォークマンに入ってる全部の曲がきこえなくなってしまったんです。それで、僕は音楽がきこえなくなったんだ……って思いました。

 それから、やっと病院へ行きました。でも、さっきも言ったように、どこにも相手にしてもらえなくて……脳の検査もしたんですよ。でもなにも分からなかったし……精神科を紹介されたりもしたけど、なんだか馬鹿にされたような気がして、行きませんでした。

 それから、情けない話なんですけど、ほんとにショック過ぎて、熱を出して寝込んじゃったんです。まあ、学校に行く気にもならなかったから、それもよかったかもしれないけど。それで、ずっと部屋で寝てるうちに、頭の中で、音楽が流れ始めたんです。

 Aっていうバンドの曲で、ほんとに大好きで、ずっとききこんだ曲です。それが頭の中で、ものすごくリアルに、臨場感を持って大音量で流れてきたんです。

 頭の中で思い出して音楽を流すことはそれまでもありましたよ。普通に、誰でもすることですよね。でも、それとはまったくレベルの違う体験で……もう、圧倒されてしまって。

 衝撃でしばらくぼーっとしてたんですけど、もしかしたらほかの曲も、と思って、意識的に頭の中で曲を流そうとしました。

 そしたら、思った通り、同じように頭の中で曲が流れたんです。自分の中で音楽が再現されるっていうか。音楽プレーヤーが自分の中に入ったみたいなんです。

 自由に選曲して、僕は音楽をきき続けました。初めは、また音楽がきけたと思って、感動して泣きそうなくらいだったんですけど、そのうち疑問がわいてきました。

 ほんとに、この自分の中で流れてる音楽は、原曲と同じなんだろうか、って。もしかしたら、自分の中で勝手に変えちゃってるんじゃないかとか、なにか大切な要素が抜け落ちてるんじゃないかとか、その音楽を作った人の意図とはかけ離れたものになっちゃってるんじゃないかとか。

 でも、それを確かめるすべはないんだって、だって音楽がきこえなくなったから……って思ったんですけど、思いついたんです。

 譜面の勉強をして、自分の中に流れてる音楽を譜面に起こせばいいんじゃないかって。

 それで、バンドスコアとかと自分の書いたものと照らし合わせれば、自分の中で流れてる音楽が間違ってるか、合ってるか分かるんじゃないかと思ったんです。

 そのためには耳コピしなきゃならないわけですけど、ギターやってたから、多少はやったことあるし、それに、自分の弾くギターの音はきこえたんで、頭の中に鳴ってる音と、自分のギターで鳴らす音を照らし合わせていけば、なんとかできるんじゃないかと思ったんです。

 思い立つと元気が出てきて、必死に譜面の勉強を始めました。でもあれって難しいですね。かなり苦労したし、耳コピにさらに時間がかかりました。気が付くと夜通しやってたこともありますけど、疲れてくるとどんどん集中力がなくなって効率も悪くなるんです。でもきっぱり今日はやめて休もうって気にならなくて、汗かきながらだらだらやっちゃうっていう。

 でもそんなこんなで、何日もかけてやっと一曲譜面起こしに成功しました。これをあと何曲もやるかと思うと気が遠くなる感じでしたが、特に好きな曲だけは絶対譜面にしようと思いました。

 でも、実は本当に好きな曲が載ってるバンドスコアを持ってなかったんです。本当に好きな曲っていうのはAの曲なんですけど、Aのバンドスコアはちょっと古いものしか持ってなくて。

 そのうち最新のやつを買おうと思ったんですけど、譜面起こし作業をしてるうちに買っちゃうと、絶対誘惑に負けて見てしまうと思って、それじゃ意味がないので、作業が終わったあとに買おうと思いました。

 そして、アルバム一枚分くらいの譜面起こしが終了しました。僕はAの最新のバンドスコアを買おうと思って、ネットで調べたんです。

 そしたら、なんと最新のバンドスコアなんて発売されてないことを知ったんです……発売されてると思い込んでたのは、僕の勘違いだったんです。Aのバンドスコアは、僕が持ってるやつ一冊だけだったんです。

 ショック過ぎて部屋の床に倒れ込んで起きられませんでしたよ……今までの努力はなんだったんだろうって。

 でも、しばらくしたら、悶々としながらも新しい考えが浮かんできたんです。

 バンドスコアって、ちゃんとメンバーが監修してるのもあるけど、そうじゃないのは、結構間違ってることも普通にあるらしいんです。ネット上にある、誰が書いたか分からない譜面もそうですね。そういうのを見るより、メンバーに直接僕が書いた譜面を見てもらうほうが、余程確かだなって。

 僕は、Aのファンレターの宛先に、自分が書いた譜面をコピーして送ったんです。合ってるか合ってないかだけでいいから、返事をして下さいってお願いする文章も添えて。詳しく書くと、くどいかと思って書きませんでしたけど、今自分が重大な問題を抱えてて、この譜面が正しいかどうかはとても大切なことなんだということも書きました。

 でも、いくら待っても返事は来ませんでした。仕方ないですよね……そんな訳分からない、不審で不躾なものに返事してる暇なんてないですよね。

 でも、諦めきれなくて。それまで、ライブに行っても、入り待ちとか出待ちとかしたことなかったけど、行けるライブには全部行って、必ず入り待ちと出待ちをしました。

 それで、タイミングを見計らっては、コピーした譜面を渡そうとしたんです。車で危なかったり、他の人が邪魔になったりしたけど、何回目かのトライで、ようやくUさんに譜面と手紙を渡すことに成功したんです。

 でも、やっぱり返事は来ませんでした……渡せただけで、ちゃんと話せる暇なんてないし、忙しいのは分かってるけど……住所も電話番号もメールアドレスも書いたけど、なんにもなしです。

 ちゃんと話せば、絶対に譜面を見て、合ってるか合ってないかを言ってくれるという確信はあったんです。ちゃんと話す時間さえあれば……入り待ちと出待ちでは絶対にそんな時間は取れないと思ったんで、別の方法を考えることにしました。

 そっからの行動がまずかったって、警察の人には言われたんですけど……Uさんがよく行ってるって言ってた渋谷のバーに何時間もいて、Uさんが来ないかとひたすら待つのは別にストーカーじゃないと思うけど、事務所の前にずっと座って待ってるとか、出待ちからタクシーでUさんの乗った車を追いかけて打ち上げ先を突き止めて、終るまでずっと待ち、そっからまた尾行して自宅を突き止めるとかはさすがにやり過ぎだったと思います。

 とにかく、ちゃんと話を聞いてくれそうなタイミングをつかみたかったんですよ。打ち上げで飲んでる時とかじゃなくて、こんな僕なんかの話もちょっと聞いてみようかという気になってくれそうな時を……自宅に訪ねていく決心もつかなかったんですよ。突然話しかけたり、それ以上手紙を送りつけたりもしてないし。

 遠くから見て、タイミングを図ってただけなんですけど、ある日、事務所の前で警察の人に声をかけられて、警察署まで連れて行かれて、注意されてしまって……全部バレてたみたいです。Uさんが通報したんですかね。スタッフとかかな、分かんないですけど。

 警察で全部正直に話したので、そのことがもしUさんに伝われば、返事をしてくれるかもしれないと、かすかに期待してるんですけど……でも、こんなややこしい話、伝わりませんよね。伝わったとしても、ストーカーしちゃった頭のおかしいやつに返事なんてしてくれないか……

 あの、こんなこと突然言って驚かれるかもしれませんけど、この前、すごく嬉しいことがあったんですよ。僕、何度も、音楽がきこえないって言ったじゃないですか。実はそれ、嘘なんです。

 違います、話したことが全部嘘なわけじゃないですよ。てか、全部本当です。いえ、治ったってわけでもないんですよ。

 気付いたんですよ、この前。僕は、音楽がきこえないんじゃなくて、一度きいた音楽が自分の中に録音されてしまう体質になったらしいんです。

 なんで気付いたかっていうと、この前、Aのニューアルバムが発売されたんですよ。僕は胸が張り裂けるような気持ちでそれを買いました。結局きけないと思っても、買ってしまうのが本物のファンってものですよ。

 で、また張り裂けるような気持ちで、父親のステレオをこっそり借りてCDをかけたんです。この瞬間にこの耳が治れば、いや、治らなくても、とにかく新曲をかけて素晴らしいはずの音楽に浸って、気持ちだけでも新曲たちを祝そうっていう感じで。

 もうなんか泣きそうになってましたが、なんと、ちゃんときこえたんですよ!

 僕はもう頭をガツンと殴られたみたいに喜んで、必死にそのアルバムをききました。そして、リピートして二回目をきこうとしたら、もうなにもきこえなくなってたんです。

 で、もうその新曲たちは、一度きいただけなのに、頭の中で再生しようと思うと、実際にきいてるみたいに見事に再現されるんです。それで、僕は気付きました。一度目にきく音楽は、ちゃんときこえるってことに。

 それまでも、テレビとか街で流れてる音楽とか、初めてきくものはちゃんときこえてたはずなんですよ。でも、テレビはほとんど見ないし、悩んでたりとか、他のことに集中し過ぎて、きこえてることに気付かなかっただけだったんです。

 僕は、もう自分の中で流れる音楽が原曲と合ってるかどうかは気にしないことにしようと思いますよ。僕にとっては、自分の中できこえる音楽が全てだし。

 今、きいたことのないアーティストの音楽をききまくってるんですよ。新しい音楽がきけるってことにこれほど感謝したことはありません。気に入らなかったものは忘れていけばいいし、気に入ったものは思い出して自分の中できけばいいし。

 最近、それほど嫌な気持ちでもなくなってきたんですよ。初めてきく音楽をきいてると、なんだか、自分の中に溶けていくような気がするんですよ。なんていうのかな、なじんでいくっていうか。

 今でも時々、Aの曲を実際にプレーヤーで再生してみることがあるんです。なにもきこえないんですけど。でも、もしかしたら、自分の奥底っていうか、どこかではきこえてるんじゃないかなって思うこともあるんです。そうやってきくことによって、水をあげるみたいに、自分の中の音楽プレーヤーになにかを与えてるんじゃないかと。

 もしかしたら、音楽が自分の中になじみ過ぎたから、きこえなくなっちゃったんじゃないかと思う時もあります。初めにきこえなくなったのは、Aの曲でした。別の曲も、初めにきこえなくなったのは、好きなベースラインからでした。

 音楽って、外から自分の中に入れるものじゃないですか。直接、端子をつないで入れるわけじゃないけど。でも、外から中に入れるっていうことを超えた時には、音楽って、きこえるっていうことも超えちゃうのかな、と思います。

 てか、僕って音楽に選ばれた人間だと思うんですよ、はっきり言って。きこえなくなるほど、音楽と一体化した人間だと思うんです。僕はミュージシャンを目指そうかと思ってます。音楽がきこえないミュージシャン。こんなのどこにもいないでしょ?

 そういう訳なんで、別に僕は治ることは望んでないんです。警察の人から、ここは変な病気の人が集まるところだってききましたよ。いや、そんなにはっきりとは言ってなかったけど、明らかにそんな口振りでしたけど。もし、そんな変な症例を集めた本とか出すようなことがあったら、僕の話も使っていいですよ。でも、売り上げの何パーセントかは、お願いしますね。


 昨日がこわい

 あの、会社にアルバイトしてたことがバレてしまいまして……副業禁止の規定を破ったわたしが悪いし、バレたからにはすぐバイトを辞めたんですけど、職場での風当たりが強くなってしまって、もうどうしようって感じです。どこでどのくらいバイトしてたかも知られてしまったので、それでより一層、変な目で見られるようになってしまって。別に、変なバイトをしてたわけじゃないんですよ。カラオケボックスと、宅配サービスです。宅配って、主婦とか、女性も結構多く働いてるんですよ。でも、勤務時間が。全く休みの日がなかったので。それで、会社の人から、給料は十分払ってるはずなのに、どうしてそこまでお金が必要なのかと。副業をして会社の仕事がおろそかになってはもちろん困るから、副業を禁止してるわけだけど、君の場合は、おろそかになるどころか、過労で倒れかねない、と言われて。難病の家族でもいるのか、とか、やむを得ない借金返済でもあるのか、とか同情っぽいことを言ってくる人もいたんですが、とんでもなくお金のかかる趣味でもあるのか、とか、悪い男に貢いでるのか、とか、貯金して会社を辞めるつもりなのか、とか変なうわさもされるようになってしまって。わたしがなにも言わないので、ますますわたしの目の前でおっぴらにうわさされるような感じです。説明できることならしたいですけど、絶対みんな信じてくれないというか、変な目で見るし、よく分かってくれないと思うし、下手したら今の立場に関わるかもしれないし……そうなる前になんとかしようと思って、自分で調べて、ここに来たんです。

 わたしは、お金を稼ぎたくてバイトをしてたわけじゃないんです。お金は貯まっていく一方で、使うあてもないんです。もちろん、あって困るわけじゃないし、別にいいんですけど。でも、結婚資金とか、子供のために、って思っても、現実味がないんですよねえ、残念ながら。わたし結婚できるのかなあ。すみません、どうでもいいですよね。

 わたしってほんとにお金をあまり使わないんですよ。ブランドものとか、高級な服とかも興味ないですし、旅行も一緒に行く人がいないからしないし、コンサートとか舞台を観に行ったりもしないし、そもそも仕事以外であまり出かけないし、趣味と言えば、図書館から借りてきた本を読んだり、テレビで映画を観たりするくらいで。

 でも、会社の仕事と二つのバイトで、全く休みのないようにしていたのは、わざとそうしていたんです。ボランティアをするとか、別の手もあったと思うんですが、どうしても、働くのが一番手っ取り早かったんです、忙しくするためには。

 毎日を忙しくしていれば、余計なことを考える暇もなくなると思いまして。思った通り、休みなく働いていれば、精神的にすごく楽でした。今は、休みの日には、ずっと本を読んだり映画を観たりして、なるべくフィクションの世界に集中するようにしています。でも、やっぱり、ふと本を置きたくなる瞬間はあるし、リラックスしてしまうと、勝手に頭がいろいろなことを考えてしまうので……

 余計なこととか、いろいろなことっていうのは、別に特別なことじゃなくて、ただ、昨日のことを思い出すだけなんです。まあ、昨日とか、一昨日とか、一週間前とか、ですけど。そういう風に、終わった日のことを思い出すのが、すごく嫌いなんです……変ですよね。でも、ずっとそうだったわけではないんですよ。きっかけ、みたいなものがあって。数か月前に、高校の同窓会があったんです。その時に、気付いたんです。

 同窓会に行ったら、久しぶりに会った友達は、みんなすごく変わってしまったように見えました。悪い意味じゃないんですよ。冴えなかったクラスメイトが、すごい美人になってたり、高校の時はよく遊んだけど、遠くの大学に行ってしまってずっと会っていなかった友達が、夢を叶えて生き生きしてたり。そういうのを見て、よかったな、って素直に嬉しかったですけど、でも、みんな変わったと思って、なんだか、話すのも緊張しちゃいました。変わるのは当然なんですけどね。何年も会ってないんだし、結婚したり子供が生まれたりしてる人も多いし、そういうことって、すごく人間に影響を与えると思いますし。

 それで、ちょっと居心地悪くも感じてたんですけど、でも、まあ思い出話なんかをしますよね。そうしたら、なんだかすごくもやもやした気持ちになってしまって。

「なんか今日はあんまり話さないんだね。高校の時はあんなにおしゃべりだったのに」

 って言われてしまいました。わたしは笑ってごまかして、

「学生の時のことを思い出すって、結構照れるね。恥ずかしい思い出ばっかだからさ」

 っていうことを言いました。そうしたらみんな笑って、例えばどういうこと?って訊いてきたので、わたしは仕方なく話しました。学生の時のエピソードは次々と出てきて、平気な顔で話しているつもりだったんですけど、話しながら、内心では胸が張り裂けそうになっていました。自分の話していることが、すごくくだらないのに、すごく恥ずかしいエピソードみたいに思えたんです。

 でも、わたしの話を聞いているみんなの顔を見ていると、愛想笑いみたいな表情が浮かんでいるだけで、面白そうでもないし、恥ずかしそうでもないんです。

「ねえ最悪でしょ?」

 とわたしは話し終わりに言ったんですけど、みんなは不思議そうな顔をしていました。

「最悪ってほどじゃないじゃない。みんな、同じようなことあったよねえ?」

「そうそう。あの頃はみんな同じことを考えてたのかもね」

 そんなことを言って、なぜわたしがそこまで熱くなるのか分からないっていう顔をしていました。

 せっかく久しぶりに友達に会えたのに、なんだかもやもやとした同窓会だったんですけど、帰って来てから、よく考えてみたんです。そうしたら、わたしの学生時代の思い出は、嫌なこととか、思い出すとくすぐったいことしかないということに気付いたんです。それまで、わざわざ思い出を振り返るということをしてこなかったから、気付かなかったんです。楽しいことなんて、一つも思い浮かびませんでした。

 わたしは頭を抱えて考えてしまいました。楽しい思い出だって、絶対にあるはずなんです。わたしは、高校の時、たくさん気の合う友達がいたし、部活はやりがいがあったし、悩みと言えば、彼氏のいる共学の友達がうらやましいとか、そんな程度しかなかったはずなんです。

 修学旅行のことを思い出してみました。体育祭のことも、部活の吹奏楽のコンクールのことを思い出してみました。どれも、その時のわたしが楽しいと感じていたという事実は覚えています。でも、今の自分の、恥ずかしいという気持ちが、その思い出を覆ってしまっているんです。わたしは、昔の自分が恥ずかしかったんです。子供の自分、未熟な自分が、その存在に耐えられないくらい恥ずかしかったんです。ですから、思い出すと心が温かくなるような思い出は、一切なかったんです。

 わたしは急に暗い気持ちになって落ち込みました。だって、自分の後ろには灰色の道しかないように見えたからです。灰色の道を歩いてきた、幼稚な自分から続いている今の自分は、一体なんなんだろうとも思いました。

 暗い気持ちになると、どんどん沈んでいってしまうタイプなので、わたしは高校の時の思い出を、引っくり返すように思い出していったんです。ひとつひとつ、細かいところまで思い出そうとしてみました。それはつらい作業と言ってもよかったですけど、自分ではとめることができずに、舐めるように記憶を洗っていきました。

 そうしてわたしは頭の中で、修学旅行で行った、沖縄の海岸を歩いていました。自由時間に、友達数人と夕方の海辺に出ていたんです。すぐ近くに、宿泊していたホテルがあって、ほとんどホテルの庭のような位置に、美しい海を臨む砂浜があったんです。

 わたしは、友達と一緒にはしゃいでいました。少し離れたところに、別のクラスの子たちもいましたが、気になりませんでしたし、近くには他に誰もいないと思っていました。

 でも、足首まで海に入っている時に、自分たち以外の人がいることに気付いたんです。その子は、同じクラスの子でした。その子は、海岸と道路を隔てる、草の生えた斜面に寄りかかっていました。その子の近くには誰もいなくて一人で、腕を組んでいました。その気取ったようなポーズを見て、少しだけ不快になったことを、はっきりと思い出しました。

 その子は、普段からクラスでちょっと浮いていたんです。色白で、よく見れば綺麗な顔をしていたんですけど、いつも妙に大人びた、見下したような態度だったので、あまり好かれていませんでした。

 その時も、一緒にいる人がいなくて、ああして一人で立っていたんだと思います。わたしは普段、その子と話すこともないし、あの海岸で遊んでいた時も、その子の存在を忘れていたんです。でも、ああして立っている姿を見て、あの子が自分を見ているような気がして、嫌な気持ちになったんです。実際、遊んでいるわたしたちを見ていたのかもしれないし、そうではなくて、海を見ていたのかもしれません。

 その時、わたしたちの誰も、その子に声はかけませんでしたし、その子も、わたしたちに話しかけてくることはありませんでした。完全に、お互い無視していたと言っていいと思います。その時は、そうするのが当たり前だったんです。だから、すぐにそんなことがあったことも、その子の存在すらも、ずっと忘れていたんです。

 多分、その子は同窓会には来ていなかったんだと思います。都合により、来られなかった人も何人かいたと幹事の子が言っていたので、きっとその中の一人だったんでしょう。わたしがその子のことを思い出したのは、一人で記憶を掻き出すようにしていた時でした。同窓会でも、誰もその子のことを口にしなかったんです。わたしが聞き逃していたという可能性もありますけど。

 とにかく、その子のこのことを思い出してから、わたしの記憶の中の場面の片隅に、かなりあの子が混じっていることに気付きました。体育祭の全員参加クラス対抗リレーの時、わたしはあの子にバトンを渡した、とか、英語のクラスが一緒で、あの子はネイティブのような発音で教科書を読んでいた、とか、そういうことならまだいいんですけど、休み時間に友達としゃべって盛り上がっていたら、近くの席に座っていたあの子は、読んでいた本から目を上げてわたしをにらんだ、とか、教室でお弁当を食べている時、あの子は外を眺めるふりをしてわたしを見ていたんだ、とか、そんな変なことまで思い出してしまって、気味が悪くなってしまいました。あの大人っぽい目が、わたしは嫌いだったんです。ただ感じが悪いだけじゃなくて、わたしたちには違うものが見えているような、冷たい目だったってことを、思い出したんです。それで、思ったんですよ。わたしの思い出の楽しさが全部抜けてしまったのは、あの子のせいなんじゃないかって。あの子があんなふうに軽蔑してわたしを見ていたから、大人になったわたしも、あの子の視線を思い出して、子供の頃の自分を軽蔑するようになってしまったんじゃないか、と。

 変な考えだということは自分で分かっています。その子のことは、やっと思い出しただけで、忘れていたわけですし。顔は思い出しても、名前はなかなか出てこなかったくらいでした。

 それきり、忘れてしまえば済むと思いました。思い出にずっと浸ってばかりもいられないし、学生時代のことを思い出しても楽しくないと言ったって、これからもずっと日々は続いていくわけですし。考えないように、と思ったんですけど、何日かしたあとに、またふとした瞬間にあの子のことを思い出してしまって。今のわたしをあの子はどんな目で見るんだろう、って、ただそういうことなんですけど。あの子も普通に大人になってるはずですけど、わたしには大人になったあの子の姿が想像できなくて、高校の制服を着た姿だけが思い浮かぶんです。その子が、今のわたしを軽蔑する目を想像して、嫌な気分になるんです。

 常にそんなことを考えているわけではないですよ。でも、仕事が終わって家に帰って来て寝る前とか、休みの日に、次の仕事の準備をしている時なんかに、ふと想像してしまうんです。今日のわたしを見ているあの子を。必ず、あの子はわたしを軽蔑のまなざしで見ているんです……

 それから、寝る前には、その一日を振り返る習慣が付いたんです。今日は、自分は上手く立ち回れたかと。それまで、帰ってきたらすぐにおやすみモードで、考えることなんてしなかったんですけど。そういう風にその日一日を振り返ってみると、いろいろな粗が見えてくるような気がしました。

 もっとあの人とは突っ込んだ話ができたんじゃないか、とか、もっと愛想良くしたほうがよかったんじゃないか、とか、あの人は怒ってなかったみたいに見えたけど、本当は怒ってたんじゃないか、とか、もっとああいう風に言えばよかった、もっと早く気付いてあれをやっとけばよかった、とか、昼ご飯を食べ過ぎたから太るかも、とか……

 どうでもいいことかもしれません。気にしなければいいことも多かったし、これから気を付けようとか、これからも頑張るとか、そう思えばいいことばかりなんです。でも、こんなんじゃあの子にまたあの軽蔑した目で見られると思って、落ち込んでしまうんです。

 でも、仕事をしている間とか、昼間、なにかをしている時は、あの子のことを考える余裕なんてありません。たいてい、寝る前の一日を振り返る時、あの子の目が思い浮かんで、こんなんじゃだめだっていう気になるんです。

 それから、だんだんそういう思いが強くなってきた気がして……なにか、自分はとんでもない失敗をしたんじゃないか、それに気付いてないだけで、なにか重大なことをほったらかして帰って来てしまったんじゃないか、とか……そんなことを考えながら寝てしまうせいだと思うんですけど、嫌な夢を見ることも多くなりました。会社とか、いつも通っている道とかが、夢の中に出てくるんです。そこに、わたしは現実と同じようにいるわけなんですけど、景色が、灰をかぶったような色なんです。そして他に誰もいなくて、しーんとしていて、わたしは、立ち並んでいるビルはすべて廃墟だ、と悟るんです。わたしは、なにかの間違いでここに来てしまったんだけど、帰ることができずに、いつも通りの日々が始まるのを待っているんです……

 会社で、仕事をしている夢を見ることもあります。わたしは、会議の準備をしていて、バインダーに挟むために、資料に穴をあけています。次々とあけていくんですけど、気が付くと、紙の真ん中とか、とんでもないところに穴があいているんです。新しくコピーして、また穴をあけるんですけど、気が付くと、文字の中、図表の中に穴のあいた資料が積み重なっていて、わたしは慌ててそれをゴミ箱に詰め込んで、時計を見上げます。会議の始まる時間が迫っていて、わたしはまたコピー機へ向かって走ります……

 もともとあまり夢を見ない性質なので、変な夢を見ただけで結構堪えました。余計なことを考えるのがいけないと思って、気にしないようにしようと思ったんですけど、どうしても一日を振り返っては、ありもしない自分のミスとか、他の人の気分を害したんじゃないかという思い込みで、落ち込んでしまうんです。

 でもある時、後輩の子がミスをしてしまって、遅くまで残業をしていたんです。疲れて帰ってきたら、すぐにぐっすりと眠れて、夢も見ませんでした。それで、ああ、余計なことを考える暇をなくせばいいのか、と思って。

 初めは、ジムに通い始めたんです。仕事帰りにランニングマシーンで走ってたんですけど、最初から無理をし過ぎて、膝を痛めてしまいました。やっぱり、こんなんじゃあの子に軽蔑されると思って、また嫌な気持ちになりましたね。

 職場の人とよく飲みに出るようにもなったんですけど、みんなが遅くまで出ていられるわけじゃないですからね。仕方なく、ネットカフェで漫画を読んでから深夜に帰宅することもあったんですけど、これじゃただ家に帰りたくない人みたいだし、別に疲れないし、わたしはなにをしてるんだろうって思って。当たり前なんですけど。そんなことをするぐらいならちゃんとまっすぐ家に帰って、資格の勉強でもしようかと思ったんですけど、目的もない勉強だから集中できなくて、結局いつもの一日を振り返ることをやってしまうんです。

 そんな日々が続いているうちに、頭の中のごちゃごちゃしたもの、妄想というか、そういうものが、大きくなっていってしまっているような気がしました。

 なんだか、自分が日々、大きな荒波の中をくぐり抜けているような気がするんです。実際はそんなことはないんですけど。仕事で毎日危険な目に遭っているわけでもなければ、心配しなきゃいけないような家族もいないし、多少は煩わしいことはあるにしても、それほど人間関係で悩んでいるわけでもないし。でも、たいしたことのない出来事の組み合わせが、なんだかすごく重大な問題を形作っているような気がするんです。それがなにかは、よく分からないんですけど。

 なにかが、自分を傷付けようとしている、みたいな。回転のこぎりがすぐ近くで回っているのに、それに気付けないでいる、みたいな。

 毎晩、そんな昼間の出来事の中に潜んだ恐怖みたいなものを感じて、ああ、明日もこんな世界に飛び込んでいかなけりゃいけないのかと……変にこわくなってしまって。明日は無事に過ごせるんだろうかと、そんなことも考えて。朝起きれば、時間に追われて、そんなことを考えていたことも忘れるんですけど、夜に落ち着いて考えると、そんなネガティブなことばかりが思い浮かぶんです。

 そんな状態なので、やっぱりなにか対策を打とうっていう気になってしまったんです。それでたどり着いたのが、アルバイトをするっていうことでした。

 もちろん、会社の規定は知ってましたし、それを破るのはまずいって、分かっていました。でも、他の方法はもう試して失敗してるし、それしかないような気がしたんです。

 それに、ネットで調べたら、ちゃんと気を付ければ、会社にバレることはないって書いてありました。書かれていることを読んだら納得できたし、バレなければいいか、っていう気になってしまったんです。

 思い立ったらすぐに、地元のカラオケ店の面接を受けて、採用されました。地元なら職場の人も絶対に来ないだろうし、カラオケ店はなんとなく、夜中でもこわくないような気がしたんです。

 会社が終わったあと、カラオケ店に行って働くのは、さすがに疲れました。わたしだって疲れるのは好きではないんですが、安心して熟睡できることのほうが大事でした。それに、眠くても頑張れる自信はあったんです。わたしは体力に自信があるというほどではないですけど、仕事は大事に思っていて、やる気もありましたから。

 バイトを始めてからは、精神的安息の日々でした。週七日、一つのバイトを入れるわけにはいかなかったので、休日には宅配のバイトを始めました。

 わたしは、どの仕事も、おろそかにしないように頑張っていたつもりです。バイトだって、わたしがいなければバイトの職場に迷惑をかけると思って、なんとかこなしていました。

 バレたあとに、職場の人から、どうしてそこまで頑張れたのか、と言われました。確かに、疲れてどうしようもない時もあったし、なにかトラブルがあったり、慣れないバイトでクレームを付けられたりもしましたが、対応しているその時はいいんです。あとになって、そのことを思い返している時間がつらいんです。必ず頭の中に、軽蔑のまなざしをしたあの子がいるので……過ぎた時間を思い返している暇があるなら、その時の時間を必死に過ごしているほうがいいんです。

 でも、かなり無茶をしてしまっていたので、考えないといけないことを考える時間さえも、なくなっていたんです。

 休日の夕方、宅配のバイトが終わったあとに家で爆睡していたら、会社から電話がかかってきて、副業がバレたことを知りました。

 副業がバレないための対策のことをすっかり忘れていたんです。猛烈に謝って、バイトを辞めたら、厳重注意で済みましたけど、気持ちと雰囲気的に居づらくなるし、また余計なことを考える時間ができてしまうし、どうしようって感じです。全部自分が悪いんですけどね……

 本当に馬鹿だと思います。自分の気持ちとか、行動を客観的に思い出してみると、ほんとに馬鹿だと思います。今この瞬間はまだ大丈夫なんですよ。でも、また夜になると、あの子の目を思い出したり、自分の言動の粗探しをしたり、自分に対してみんなが気を悪くしているような気がしたり……それで、明日が来るのがこわくなって……

 やっぱりわたしはなにかの病気ですか?このまま我慢していれば、職場のうわさも静まっていくとは思うんですけど、できれば、早いうちに治したいんですけど……またなにかあって、職場に迷惑かけるといけないし、できれば自信を持って、信頼回復に努められるようになりたいんですけど……

 もしかしたら、今、実際のあの子に会ったら、なにか変るんじゃないかと思ったこともあります。でも、こわいじゃないですか。どうこわいのかは、よく分からないですけど……やっぱりわたしは病気ですよね?


 雲上人

 今日はとってもいいお天気ですね。これから少しずつ暖かくなってくるでしょうし、毎日が楽しみですね。でも、ここは地下で窓がないでしょう。先生は一日ずっとここにいらっしゃるわけですか?それはちょっと残念ですね。そうですか。そうおっしゃるなら安心しました。

 私は保育士をしていまして、子供たちと外で遊ぶ毎日を送っておりますから、日の光の当たらない場所ではさぞ気詰まりだろうと思ってしまうのです。保育士の仕事は、大変なこともありますけど、子供たちと触れ合っていると、こんな幸せな生活ができて、私はなんて幸運なのだろうと思います。

 そうですね、ここには弟に勧められて来ました。弟は、私などと違って、とてもしっかりした、立派な男です。弟はいつも、私は気が弱過ぎると言って、心配してくれているんです。ちょっとその心配が過剰なくらいなんでしょうね。もうどちらが兄で弟か、分からないくらいです。

 弟に、保育園にいるお子さんのことを話したんです。本当は、お預かりしているお子さんのことを外部の者に話すのはよくないことだとは分かっているのですけど、とても心温まる話をちょっと弟に聞かせてあげたいと思い、話してしまったんです。

 弟に熱心に勧められてここに来たのですから、先生にも話してしまいますね。その男の子と私はとても仲良しでした。その子は、砂場などで一人遊びをしていることが多かったので、私が声をかけましたら、すっかり私のことを好きになってくれたみたいなのです。

 その子は、少し体が小さくて、笑顔がとても素敵な男の子です。暇を見つけてはわたしのところへやってきて、いろいろなお話をしてくれたんです。よく言っていたのは、お空の上にお母さんがいる、ということです。

 実は、その子はお産の時にお母さんを亡くしていて、お父さんとおじいちゃんとおばあちゃんに育てられていたんです。そのご家族のどなたかが、お母さんはお空の上にいるんだよ、と言っていたのかもしれません。

 私は、そうか、じゃあ、いつでも一緒だね、お空はいつもそこにあるからね、と言いました。男の子は嬉しそうに、

「そうだよ。いつもみまもって(、、、、、)るんだって。みまもって(、、、、、)」

 と繰り返していました。私は微笑みながら、目頭が熱くなってしまいました。

 その子は、よく空を見上げていました。一人で砂場に座って上を見上げているので、ほらほら、砂だらけになっちゃってるよ、と慌てて駆け寄ったら、今、雲の上にお母さんがいた、というんです。

「そこにね、お母さんがいたの。ぼくをみて、てをふったんだよ」

 そう言ったんです。

「そうなの。よかったね。でも、お着替えをしなくちゃ。こんなに砂だらけだから」

 私はそう言ってそれ以上訊きませんでしたが、訊いていれば、まだなにかほかに話してくれたかもしれません。

 その子のお迎えは、おじいちゃんやおばあちゃんがいらっしゃることもあれば、お父さんがいらっしゃることもありました。おじいちゃんとおばあちゃんはご高齢なようで、いつも杖をついていらっしゃいました。ですので、毎日送り迎えをするというわけにはいかなかったようです。お父さんがお迎えにいらっしゃる時は、どうしても時間が遅くなってしまいました。それでも、お父さんのお仕事が早く終わる日にお迎えにいらしていたのだと思うのですが、他の子供たちが帰ってしまったあと、その子が最後まで残っていることもありました。お父さんは、スーツを着た、礼儀正しい方で、遅くなって申し訳ないと、いつも仰っていました。その子はお迎えが来ると、とても嬉しそうな笑顔を見せて帰っていくので、いつも微笑ましく思いながら見送っていました。

 そんなお迎えが来るまでの時間、昼間のにぎやかさとは打って変わって静かになったお遊戯室で、その子は、窓から暗い空を見上げていました。晴れた日には、星がきれいに見えましたから、きれいな星に見とれているのかと思い、私はまた微笑ましく思いながら隣に座りました。

 しかし、その子は予想とは違って、残念そうな顔をしていました。

「よるはお空がみえないね」

 そう言いました。

 私は、

「そんなことないよ。真っ暗でも、よーく見れば、お空は見えるよ。ほら、今日は星が見えるし」

 私は指差しましたが、その子は、興味を示しませんでした。

「お母さんはね、雲の上にいるんだよ。だからね、雲がないと、いるかどうか、わかんなくなっちゃうの」

 その子が深刻な顔で言うので、思わず、適切とは言い難いことを訊いてしまいました。

「じゃあ、雲のない晴れた日は、お母さんはどこにいるか、わかんなくなっちゃうの?」

「そうだよ。そういうときは、おでかけしてるんだよ。でも、すぐにもどってくるから、だいじょうぶなんだ」

 そう言ったその子の笑顔を見て、なるほど、この子は大丈夫だ、この子はこの子なりのルールのある世界に住んでいるのだから、余計なことは言うまい、と思いました。

 その後も、その子は一貫した態度を取り続けて、私にお話をしてくれました。私も、その子のお話を聞くのが大好きになっていました。

「せんせい、あの雲をみて。あのうえを、お母さんがあるいてるんだよ」

 そう言って指差した雲は、薄く筆で刷いたような平たい雲で、確かに、空に浮かんだ壮麗な床のようにも見えました。

「ねえ、あそこから、もうちょっとでお母さんのおうちがみえそうなの」

 そう言った時の雲は、もくもくと高く幾層にも連なっていて、少し角度を変えて見ることができれば、その峰の陰から、全く違う景色が見られそうな気がしました。

 その子の言うことは、不思議と感覚的に納得できることばかりでした。その子の感性に、なにか私の中に合うものがあったのかもしれません。

 そして、その子と話すうち、この子は、雲がとても好きなんじゃないか、と思い始めました。それは、お母さんが雲の上に住んでいると思っているからなのか、雲が好きだから、お母さんが雲の上に住んでいるという考えを深めたのか、よく分かりませんでした。

 それから、私自身も、よく空を見上げるようになりました。仕事から離れている時も、あの子のことを思い出しては空を見上げ、雲を注視するようになったんです。そうしているうちに、私も雲が好きになってきました。片時も同じでない形、一度見たら二度と戻らない景色、色を吸収するようだったり、跳ね返すようだったり。時間とともに変化し、風と光の中に溶けていく様が、とても美しく思えました。

 そんな風に、いつか必ず消え去っていくものなのに、短い時間ですが、本当に壮大な景色を描くこともあります。広く延びて空に浮かんだものは、巨大な地平かと見紛うような雲でした。夕暮れの光と相まって、芸術家が描いたか、本当にそこに別の世界が存在しているような複雑な色を持って、何層にもなりながら、果てしなく見える限りのところまで続いているんです。それが、風と塵ばかりの空だとは到底思えませんでした。あんなに雄大なものが、すぐ見える身近な場所に存在していたなんて、信じられない気持ちでした。その雲の向こうに、見えそうで決して見えない襞の陰に、なにか美しいもの、決して知ることのない大切なものが隠れていると考えても、不自然ではないような気がしました。

 しかし、その子が言うのは、雲の美しさに魅せられたばかりのことではないようでした。

 その子は、お母さんが雲の上から話しかけてくる、と言いました。

「お母さんがね、もっとおともだちとあそびなさいって。ぼくのことを、しんぱいしてるって」

 それは、いかにも、本当にお母さんが言ったことのように思えました。でもそんなはずはないので、その子はもっと友達と遊びたいのだと思い、子供たちの輪に入れるよう、今まで以上に気を付けるようにしたのですが、どうにもなじみ切れず、一人遊びに戻ってしまうことが多くあるようでした。

 私は慎重に、なになにくんとなになにちゃんと一緒に遊ばない?と声をかけましたが、その子は全くこちらの心配を気にしていないように見えました。

「おすなばよりも、おえかきのほうがいいんだもん」

 そう言いましたが、その子が砂場遊びが好きなことは知っていました。誰かうまくいっていない友達でもいるのかと、別の子の名前を挙げてみたりもしたのですが、鈍い反応しか返ってきませんでした。

「お母さんはね、おともだちともっとあそびなさいっていうけど、ぼく、いまはおえかきがしたいんだもん」

 私は、どう受け取っていいか、分からなくなってしまいました。

 そのほかにも、こんなことも言っていました。

「お母さんがね、しあわせになって、ってお父さんに言って、って言うの。せんせい、お父さんはいま、しあわせじゃないのかなあ?」

 私はそれを聞いて驚きました。

「そんなことないよ。お母さんは、お父さんに、ずっと幸せでいてほしいんだよ。きっと、そういうことが言いたかったんじゃないかな?」

 そう言うと、その子は納得したようにうなずき、嬉しそうにしましたが、さっきの発言が、小さな男の子の頭で考えだせるものなのか、私は疑問に思いました。ドラマかなにかで聞いたという可能性もありますが、あんなに状況に合った形で、自然に口に出せるものなのか、できたとしても、本当にその意味を理解していなければ言えないと思います。私には、私の言葉を聞いたあとの嬉しそうな表情が、演技だとは思えませんでした。

 私は、本当にその子にはお母さんの言葉が聞こえているのではないか、と思うようになりました。

「お父さんに、お母さんが言ってたことを言ったらね、すごくびっくりしてた。お父さん、めだまやきおとしちゃったくらい。でね、じゃあ、お母さんに、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなげんきにしてるよって言ってって言われたんだけど、お母さんには、ぼくの言ってることはきこえてないみたいなの。でもだいじょうぶなんだ。ぼくのかおはみえてるから、言いたいことも、ちゃんとわかってくれるよね」

 そんなことを言っても、私は力強くうなずきました。単なる想像だとしたら、お母さんに、こちらから言うことだけが届かないというのは、少し変な気がしました。本当に、なんらかの不思議な力が働いて、お母さんの言うことだけが、その子に届くようになったのかもしれません。

 弟に初めてその子のことを話したのは、その頃でした。弟も私も、正月休みで実家に帰っていました。久しぶりに会ったので、話が弾んで、両親が寝静まったあとも、二人で飲んでいました。その時に、あの子のことを話そう、という気になってしまったんです。

「その子には、お母さんの声が聞こえているんだよ」

 そう言った私は、心温まる話として受け取ってくれるものだとばかり思っていました。しかし、弟は険しい顔をしていました。

「死んだ人の声が聞こえるわけがないだろう。その子のたわいない妄想を真に受けてるのか?大丈夫かよ、兄貴」

 そんなことを言うのです。

 私は、自分の考えを弟に話して聞かせました。全部がその子の嘘だとしたら、大人をからかっているとしか思えないような言動もあります。正直、私にはあの子がそういう子だとは思えませんでした。あの子が、とても頭のよくて、演技力もある子だと考えるよりは、あの子の言っていることをそのまま信じるほうが、ずっと容易いことに思えたのです。

 しかし、弟は浮かない顔のままでした。

「子供の妄想を信じ込むなんて変だよ。母親のいないその子がかわいそうで感情移入しちゃうのは分かるけど、いくらなんでもおかしいって」

 そんなことを言うので、私は少しだけ傷付きました。

 気持ちが顔に出てしまったのか、弟は付け足すように、

「兄貴は優し過ぎるんだよ」

 と言いましたが。

 私は、弟も納得するような話を得ようと、その子の話に耳を傾け続けました。しかし、季節が来て、その子は保育園を出て、小学生になってしまいました。もう何度も子供たちを送り出して慣れているはずでしたが、私は、あの子と離れるのを寂しく思いました。卒園式では、あの子は嬉しそうなお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんに囲まれて、同じく嬉しそうにしていましたが。

 卒園した子が保育園を訪ねることなど、めったにありません。あの子もあれ以来、一度も姿を見かけたことすらありません。

 しかし、空を見上げる私の癖は治りませんでした。やはり、雲とは美しいものです。そのことに気付いてしまったからでしょうか。私は、仕事帰りや休日に、ふと空を見上げては、雲に目を奪われることが多くありました。

 そして、あの子のお母さんが住んでいるというのなら、そこはどんなところだろう、と想像するようになりました。そこにはたった一軒だけ家が建っていて、そこにお母さんは住んでいるのでしょうか。私には、とてもそうは思えませんでした。雲はとても大きいこともあるし、そんな広いところに一人で住んでいたら、きっと寂しいでしょう。あの子を産むために亡くなってしまったお母さんが、そんな寂しい思いをしなければいけないなんてことは、あるはずがないと思いました。

 ということは、雲の上にはたくさんの人が住んでいるはずです。多分、もう亡くなってしまった人たちなのでしょう。でも、雲の上にも限りがありそうなので、亡くなった人が全部雲の上に行ったら、はみ出してしまいそうです。私は、残された誰かを強く思う人たちだけが、雲の上にいるのではないかと思いました。それ以外の人たちは、違うどこかへ行ってしまうのかもしれません。

 私は、雲の上には国がある、という考えをするようになりました。地上の誰かを強く思う人々だけの国です。でも、動物もいるのではないか、という気もしました。動物にも、残された者を思う気持ちは、あるんじゃないでしょうか。

 私は、その国がちらりと見えたりしないだろうかと、雲に目を凝らすようになりました。しかし、ちっとも見えません。見えるような気がして、あとちょっとだけ風が吹いて、雲が動けば、その盛り上がった雲の陰に建つ家が見える、と思っても、思う通りに風が吹いてくれたためしはないのでした。

 私は、空が暗くなっていくたびに、心の中で雲に問いかけました。なぜ本当の姿を見せてくれないんだと、一目見られただけで、私は幸せになれるのに、と、そんなようなことをです。私は、雲の国を見たくてたまりませんでした。きっと、そこは素晴らしく美しい世界だと思えたからです。

 暗い空に、そんな祈りにも似たようなことを問いかけ続けて、何カ月も経ちました。ある日、近所のスーパーに買い物に行った帰り道に、向こうから杖をついたおじいさんが歩いてくるのが見えました。すれ違う前に、おじいさんは驚いたように上を見上げて、それから私を見たんです。

 まるで、上から、私に向かってなにか言う声でも聞こえたかのように見えました。私は、目が合ってしまったおじいさんに思わず、

「どうかされましたか?」

 と声をかけていました。

 おじいさんは首を振って、なにも言わずに行ってしまいました。非常に気になりましたが、追いかけて問い詰めるわけにもいきませんので、そのまま家に帰りました。

 夕日が沈みかけている、夕方と夜の間のような時間に、また家の窓から空を見上げました。ぼんやりと、綿のような雲の姿が見えていました。すると突然、声が聞こえてきたんです。

『あなたにわたしが見えるのですか?』

 私には、それが雲の上の人の声だということが分かりました。男なのか、女なのか、どんな人なのかは分かりません。もしかしたら、あの子のお母さんかもしれません。

 私はとっさに、

「見えます!見えますよ!」

 と叫んでいました。実際、見えていたのはなんの変哲もない雲だけでしたが、そう言わないと、この繋がりが絶ち切れてしまうように思えたからです。

『あなたは、他の人とは少し違っている……まるで、わたしたちのようです』

 わたしの声が聞こえたかどうかは分かりませんが、その声は、そう言いました。

「それはどういうことですか?わたしの声が聞こえますか?」

 私は雲の上に呼びかけましたが、それ以上の言葉は返ってきませんでした。それでも、私は嬉しくて、興奮のあまり、その日は眠れませんでした。

 私は、その声の主を、心の中で、雲上人と呼ぶようになりました。雲上人とは、身分の高い人を意味する言葉らしいですが、純粋に、雲の上に住む人を指す言葉として、それが一番適切なような気がしたからです。

 私は、雲上人の言葉が心に残って離れませんでした。私は、雲上人の言葉の意味を考え続けました。わたしが雲上人に似ているとしたら、それはどういうことなのだろうと。

 雲上人が、すでに亡くなった人なのだとしたら、私は亡くなった人に近いということでしょうか。もうすぐ私は死ぬのか、とも考えました。でも、雲上人が亡くなった人だという考えは、私が勝手に作ったものです。もしかしたら、あの子のお母さんのように、亡くなった人もいれば、もともと雲の上に住んでいる人もいるのかもしれません。極楽では花から人が生まれるといいます。そのようにして生まれるのかもしれません。

 そう考えたら、もしかしたら、本当ならば、私は雲の上に生まれるはずだったのではないか、とふと思いました。なにかの間違いで、雲の上に生まれるはずが、地上に生まれてしまったのではないかと。本当は私は雲上人なのだ、だから、こんなに雲に惹かれるのだ、そうでないと他に説明がつかない、と。

 そのことを、弟に電話して話しました。そうしたら弟は、

「大丈夫?幻聴があるなら病気かもしれない」

 そう言って、いくつか立て続けに病名を挙げました。私は、そういうことではないと一生懸命に説明しましたが、聞いてくれませんでした。

「絶対に病院に行ったほうがいいって。ストレスあるんじゃないの?つらかったら仕事休めよ。なかなか簡単にそういうわけにはいかないだろうけど」

 そう言って、病院を探しておくから、と言って切ってしまいました。

 弟さえも私の話に耳を傾けてくれないので、誰に言っても仕方ないと思い、一人で雲の上のことばかり考えるようになりました。もちろん、仕事に影響があるほどではありませんが、時間がある時は、雲の見える時間を惜しんで、空を見上げていました。雲一つない晴れた日もまれにあって、そういう日は少し残念な気持ちになることもありますが、あの子が言ったように、どこかへ出かけていると思えば、それもまたいいような気もしました。

 再びあの声が聞こえることはありませんでしたが、雲を見上げていると、やっぱり自分は、あの上にいるべき人間だったのではないかという思いがぬぐい切れませんでした。私にとって、雲が地平そのもので、そこになにかが存在しているということは、まぎれもない事実だったからです。でも、私は現にこの地上で生まれ、生きていくしかないので、そう考えても仕方ないと思いました。

 そしてある日、出勤するため、保育園までの道を歩きながら空を見ると、雲が妙な動きをしたんです。鮃がひれを動かすような、と言いますか、いいえむしろ、百足が足を動かすような、と言ったほうがいいかもしれません。一瞬のことでしたので、見間違いかとも思い、足を止めて目を凝らしました。そうすると、また同じように動いたんです。断じて、風の具合とか、目の迷いではありませんでした。

 私は、雲がそんな不気味な動きをするとは思ってもみなかったので、とても不安になりました。誰かに話す勇気もわかず、一人で考え込んでいました。なにか、空の上で異変が起きているのかもしれない、あの子のお母さんは大丈夫だろうかと、しても仕方のない心配だけが膨らみました。

 夕暮れの空をまた見上げていると、今度は、雲がスライドするように素早く動きました。強い風で、雲が速く動くことはありますが、そんなものではありませんでした。一瞬にして何メートルも動いて静止するなんて、自然な動きとは思えません。まるで誰かがチェスの駒を動かしたような感じでした。私は、やはり尋常ではないことが起きていると思いました。雲からのメッセージを受け取れる数少ない地上の人間である私に、なにかを伝えようとしているのかもしれない、私になにかできることはないのかと、考え続けました。でも、そんなことがあるはずもありません。地上と空では、お互い見ることはできても、触れ合うことは叶いません。近くて遠い世界なのです。ブラックホールに吸い込まれる宇宙船を見ることはできても、お互いの時間の速度は全く隔たっているみたいなものです。

 雲を見て、こんなに心をかき乱されるのは初めてでした。ただその美しさに感嘆できていればよかったのです。でもそういうわけにはいかなくなって、私は後悔しました。空など見上げるべきではなかった、雲の美しさになんか気付かなければよかった、そもそもあの子に構うのではなかったと、そんなことまで思ってしまいました。

 私は空を見上げるのをやめ、忘れようとしました。でも、一週間もすれば、そんなことは無理だと分かりました。

 私は、それからも奇妙な動きを繰り返す雲を見つめて、もどかしい思いに駆られました。そして、どうしても雲の上に行きたいと思うようになりました。私はもともと雲上人なのですから、そう思うのも当然だと思います。

 私は、時間の感覚もなくなるほどおろおろしてから、自ら命を絶って雲の上に行くことを考えました。死ねば必ず雲の上に行けるという保証はありませんが、自信はありました。雲上人としての資格はあると、私ほどの思いがあれば、雲の上に行けると思いました。

 私は、ボールのように、地面に強く打ちつけられて高く飛び上がるイメージがあったので、高いマンションの最上階の廊下から飛び降りようと思いました。上がって下を覗き込んだのはいいのですが、どうしても、手すりを乗り越えるために脚を上げることができませんでした。下を見れば足がすくみ、目をつぶって思い切ろうとしても、どうしても体が動いてくれません。私は自分に失望しながらマンションをあとにしました。

 飛び降りることは諦め、楽そうな方法で死のうと思い、私は酒で市販の睡眠薬を大量に飲み、頭から袋をかぶってベッドに横になりました。最低限以上の迷惑を周りにかけたくなかったことと、せめて最初に発見するのは弟がいいという私のわがままで、実行に移す寸前に、弟にメールをしました。死ぬ理由と、死んだ私を発見してほしいということを書いて送信しました。

 気絶したのはいいのですが、袋の口から空気が入ってしまったようです。弟は仕事で忙しくしているから、メールに気付くのも遅くなると思ったのですが、案外早く弟が気付き、急いで駆け付けてくれたことも、失敗の原因だったようです。

 私は、病院で目覚めた時、思い通りにならなかった残念さが全身に染みわたるのを感じました。でも、両親と弟を悲しませたことを心苦しくも感じました。

 気を失って目覚める間はあっと言う間でした。いわゆる臨死体験に似たものなど一切ありませんでしたし、雲の上に行ける予感なども全くありませんでした。私は、死んでも果たして雲の上に行けるものなのかどうか、怪しく思うようになりました。

 私はしばらく休養したあと、勤める保育園を替わりました。引っ越しもして、今は違う街で暮らしています。なぜか、雲の異変もぱったり見なくなりました。空を見上げることは、やめられないでいるのですが。

 雲の上の異変は解決したということなのでしょうか、それとも、私が正しくない方法を取ろうとしてしまったから、私にメッセージを送るのをやめてしまったのでしょうか。私には分かりません。私は、今でも待っているんです。いつか聞こえたあの声が、もう一度聞こえることを。

 だから、もう死のうなどとは思っていません。先生からも、そう言って弟を安心させてやってくれませんか。弟は、もう私の言うことを信用してくれないみたいなのです。一度やってしまったことの罪は、大きいですね。

 そうですね、もう一度雲からの声が聞こえたら……それで死ねと言われたら、自分がどうするかは、まだ分かりません。その時になってみないと。

 でも、雲上人が私に命令することなどは、ないように思います。雲は、ただ空にあるだけです。世界がただあるだけのように。私も雲上人ですが、雲の世界のためになにかをしなければいけないという使命はない、と思うようになったんです。地上に住む人みんなが、地上の世界のためになにかをしているわけではないでしょう。人々のために、と思って働いても、その結果、世界を壊すことに加担していたりする……

 私は、この世界のために、子供たちが健全な心を持ってくれるように努力するだけです。そして、雲には焦がれるだけにしてこうと思っていますよ。間違って地上に生まれてしまっても、生まれ直せるわけではないですからね。

 そうですね、間違って生まれてしまったという思いは、消えることはないと思います。このつらさは誰にも分かってもらえないでしょう。でもいいんです。私は十分幸せですから。とっても幸福です。ですから先生、弟にそう伝えていただけませんか?


 醜人嫌悪症

 もういいよお、こんなことになっちゃったし、別にいいよ、治んなくたって。もう疲れた。もうしばらく誰にも会いたくない。別の医者に無理矢理来させられたから先生には話すけど、先生に全部話したら、しばらく誰とも話さないでひきこもりたい。

 これでもあたし、美容形成外科病院の院長の愛人だったこともあるんだけど、美容整形なんて、結局全然役に立たないんだよ。キャバクラで働いてた時に院長と知り合って、愛人になってから頑張って美容整形の勧誘とかやってたんだけど、本当に整形が必要な人なんて、絶対勧誘に乗ってくれないんだよ。院長からは、勧誘なんてそんなことしなくていいって、余計なことするなって言われたけど、したくてしてたの。まあ、本来愛人がすることじゃないもんね。でも、好きでしてたんだけど、結局無駄なことなんだって分かった。

 たいていの美容整形なんて、ちょっとだけブスな女が、ちょっとだけましになるためにやるもんなんだよ。勧誘してて、それが初めて分かった。芸能人とかなら分かるけど、一般人でどういう人が整形してるかなんて考えたことなかったし。結局、あたしは夢見てたんだよね。整形手術って、超不細工な人を超美人にするものなんだって思ってた。実際そんなことめったにないよ。そんなこと信じてたなんてバカだよね。

 あたしが勧誘して本当に手術を受けさせたかった人たちは、もう完全に諦めてるか、自分が醜いってことにも気付いてないみたいな人たちだった。そもそも鏡なんて見ないんだろうね。てか、声かけた人たちの大半が男だし。そんなんだから、あたしの勧誘はほとんど成功しなかったんだけど。

 なんでそんな人たちに整形させようとしてたかっていうと、あたし、醜い人が大嫌いなの。じゃあ自分はどうなんだって話だけど、あたしは全然美人じゃないよ。まあ十人並みっていうか、人のことをどうこう言える顔じゃないのは分かってるけど。あたしが言いたい醜さっていうのは、そういうことじゃないんだよ。別にブスの顔なんて絶対見たくないとか、そういうことを言ってんじゃないの。普通にその辺にいるブスなんてどうでもいいの。ごめんね、性格悪いこと言って。先生の顔は超綺麗だと思うよ。

 でもね、この世の中には、ブスとかいうレベルじゃない醜さの人もいるわけ。あたしはね、何年か前に、そのことを思い知ったの。

 まあ高校の時いろいろあって、何度か警察に補導されたりとかして、警察と保安員とかいう人と家族に油をしぼられたわけ。無視しようとしたけど、親に無理矢理、ボランティアをして来いとか言われて、よく分かんない施設に放り込まれて。もう悪い仲間がいる学校には行くなとか、社会に対して償いをしろとか、根性をたたき直してもらってこいとか、さんざん言われたけど。

 その施設は、いろんな障害を抱えた人の職業訓練施設とか言ってた気がするけど、高齢の人もいたし、ほんとに働けんの?って人もいて、本当は単に働けない人の面倒を見てるだけだったんじゃって疑ってる。あたしはそこの汚い物置みたいな部屋に泊まりこみさせられて、一か月も入所者の世話をやらされた。

 あの日々を思い出しただけで虫酸が走る。入所者は男ばっかりで、若い人からよぼよぼのじいさんまでいた。明らかに知能とか体に障害がある人もいれば、一見普通で、なんの問題を抱えてんのか分かんない人もいた。いろんな人がごたまぜに集団生活してて、そこが正確にどんな名前の施設だったのか覚えてない。国とか自治体がやってんのか民間がやってんのかも知らないし、そんなこと興味もなかったけど。

 とにかくあたしは嫌々、掃除したり洗濯したり布団干したり給仕したり、召使みたいな仕事ばっかりやってた。こわいクソばばあが監視役みたいにあたしに付いて、いろいろ命令したり、あたしがやった仕事にケチ付けたりすんの。ずっとあんな入所者のやつらの世話してて、ストレスたまってたんじゃないの。あたしはていのいいサンドバックみたいな。でも、逃げ出そうにも、お金もケータイも取り上げられてて、なんとか友達のとこに行ったとしても、絶対親に見つかるし。とりあえず言う通りにして、ちょっと反省したフリして、帰ったらまた好きにするつもりで、しばらく我慢しようと思ったんだけど。

 あんなクソばばあなんかどうでもよかったんだよ。あんな性悪女どこにでもいるし。もっと嫌だったのは、入所者の野郎どもだよ。最初から嫌で、なるべく顔合わせないように頑張ってはいたんだけどね。だって、みんな暗いし、気持ち悪い臭いさせてるやつとかもいるし、イケメンなんて一人もいないんだもん。でも、給仕の時は嫌でも顔合わせなきゃなんなくて。クソばばあは、あたしにおっきいお盆持たせて、十数人の入所者の野郎ども全員の食事を運ばせて、お茶もあたし一人で淹れて回るように命令したんだよ。あたしは内心超ムカつきながら、乱暴に食器置いて、ぬるくて手にかかっても熱くないのをいいことに、お茶も盛大にこぼしながら一人一人の前にガン!って音立てて置いてった。あれはちょっと楽しかったかも。

 でもやっぱそんなことしてると文句言われて。ほとんどの人はおびえたみたいになにも言わないんだけど、なんでその施設にいたのか分かんない元気そうなおっさんで、真っ黒な大豆みたいな顔してて、横長の鼻の穴からいっつも鼻毛が束になって出てる不潔親父が、

「なんだそんのおおおは?」

 みたいなデカい声を出したの。なんか、なんだその置きかたは、って言ったらしいってことは分かったけど、ちゃんと言葉になってなかった。てか、そういう人っているんだよね。別に言語中枢とか舌が変なんじゃなくて、ちゃんと言葉を発して相手に伝えるっていうことが分かってないんだと思うよ。自分の意思くらいちゃんと言葉にしなくても伝わるって思いこんでるバカってそこらへんにごろごろしてるんだよねえ。そういうのって、仮にそれでなに言いたいか分かったとしても、すごいムカつく。みんな俳優とか小説の登場人物みたいにしゃべろとは言わないけどさ、言葉を発するっていう人間の基本的機能ぐらいちゃんと理解してほしいよね、まったく。

 で、あたしはより一層ムカついて、

「はあ?黙っとけクソ親父?」

 って怒鳴って湯呑を置き続けた。まだそのクソ親父はなんかわめいてたけど無視した。

 それから、枯れ木みたいに痩せて、顔が乾燥で白く粉ふいてて、もじゃもじゃの白髪交じりの髪にフケがいっぱい付いてて、ジャージの肩も白くフケだらけになってるおっさんが、じろじろあたしの体を変な目で見てるから、

「なに見てんだよ目ん玉潰すぞおらあ?」

 って言って目逸らさせた。そしたら、その二人の親父から嫌がらせを受けるようになっっちゃったんだ。

 食器を片付けるのもあたし一人でやらされてて、食器を積み重ねてお盆に乗っけてくんだけど、大豆顔クソ親父の湯呑の周りとか箸の全体とかに、べったり鼻くそとか鼻水とかよだれとかが付いてて、気付かないで触ったあたしの手に付いたわけ。

 あたしはすぐにそれが嫌がらせだって分かってキレて、大豆顔鼻毛クソ親父の顔面に中身の残った味噌汁のお椀を投げつけたんだけど、すぐに大豆顔鼻毛クソ親父がわめいて、他のクソ野郎どもも騒ぎ始めて、クソばばあが飛んできて、ろくに事情を話す隙も与えられないまま説教されてその日はお終い。

 それからも懲りずに同じ嫌がらせは続いて、大豆顔鼻毛クソ親父が指示したのか、他のクソ野郎どもの食器も同じようなことになってた。あたしはクソばばあにゴム手袋かビニール袋を要求したけど一蹴されたし、ムカつくあまりに食器を落として割って叱られるし、散々だった。

 それから、あのフケまみれクソ親父からも違う嫌がらせをされた。洗濯もあたしの仕事だったけど、洗濯物は一か所に集められてて、まとめて洗濯機に放り込むだけだったんだけど、いつも通りにカゴごと抱えて放り込もうとしたら、洗濯物の山の一番上に、半分裏返って中を見せつけるように乗ったパンツがあった。中にはべったり白い汚れが付いてて、衣類には全員名前を書くことになってたんだけど、あのフケまみれクソ親父の名前が堂々と書かれたタグが丸見えになってた。

 あたしはこれは絶対嫌がらせだと思ってキレて、フケまみれクソ親父のところへ行って、自分でパンツを洗えって怒鳴ったんだけど、そこにまたクソばばあが登場して、洗濯はお前の仕事だからお前が手洗いしろって言ったんだよ!あたしは拒否したんだけど、あのクソばばあは、いつもは自分がやってるんだから手伝いに来てるあたしがやるのは当然だとか言って、あたしをフケまみれクソ親父のパンツと一緒にきったないシャワールームに閉じ込めた。あたしは泣きながらフケまみれクソ親父のパンツを洗ったよ。フケまみれクソ親父は、こうなるのが分かっててやったんだよ。クソばばあがあたしを嫌ってて、絶対にあたしにやらせるってことも分かってたんだろうね。ほんとに悔しかった。

 まだ悔しくて泣きながら洗濯物を干している時に、あたしに話しかけてくる人がいたの。そいつは、醜男ぞろいの入所者の野郎どもの中でも特にひどい外見をしてた。

 顔が殴られたみたいに変形してて、片目はほとんどふさがってたし、赤っぽい肌はいつも濡れたみたいに肌の油で光ってて、クレーターみたいな毛穴からひげが針金みたいに出てたし、片足の膝から下がなくて、松葉杖をついてた。余ったズボンを輪ゴムで縛ってるのがなんかの冗談みたいだった。顔は、醜さに汚染されたみたいで、若いのか年いってるのかもよく分からなかった。

 そいつは、泣いてるあたしの後ろから、

「なにかあったのかい?」

 とか言ってきた。声を聞く限りでは、おっさんっていうほどの年でもないような気がしたんだけど、顔を見るとほんとに年齢不詳。

 あたしは、

「うっせえよ、片足。どっか行け」

 って追い払おうとしたんだけど、片足は口角を引っ張り上げて、後退した歯茎に生えた黄色くて細くて気持ち悪い歯を出した。あの表情は、多分笑ったんだと思う。

「いつも俺たちの洗濯物を干したり、ご飯を運んでくれたり世話をしてくれて、ありがとね。意地悪をしてくる人がいても、気にしちゃだめだよ」

 片足はそう言って、松葉杖を使って危なっかしく去って行った。胃でも悪いのか、片足がしゃべる時に吹きかけてくる息はすごく臭かったけど、そんなことを言われるとは思わなかったし、本当に久しぶりに聞いた優しい言葉だったから、正直嬉しかったんだ。

 それからも片足は、あたしがいじめられてつらい時にタイミングよく、あたしに話しかけてきた。あたしは誰でもいいから、愚痴を聞いてくれる人が欲しかったから、ちょうどよかったんだ。片足はあたしの話を相槌をうちながら聞いてくれたし。そのうち自然に、片足は自分のことも話し始めた。子供の頃に義理の父親に暴力を振るわれて、顔が変形しちゃったってこととか、工場で働いてた時に事故に遭って、片足を失くしたってこととか。つらい目に遭うのには慣れてるけど、自分が不幸だと思ったことはない、こうしてちゃんと生きていられてるし、家族はいないけど、一人だけでいるわけじゃないし、自分は結構恵まれてるって思ってる、とか言ってた。あたしは、こいつは結構いいやつなんじゃないかと思い始めてた。口臭はきつかったけど。

 でもある日、あたしが男子トイレの掃除をしていたら、後ろから片足が声をかけてきて。

「ありがとうね、トイレ掃除までしてもらって」

 とかはまあいいんだけど、なんて良い娘さんなんだろうとか、なんで誰もご褒美をあげようとしないんだろうとか、うるさいくらいだったから、

「トイレ掃除なんかさっさと終わらせたいから話しかけられると邪魔。ちょっとどっか行ってくれる」

 って言ったら、

「じゃあ手伝うよ」

 とか言い始めて。

「いいよ。どっか行ってよ」

 って言ったんだけど、無理矢理トイレの個室に入ってきて、あたしの隣に座ろうとしたの。あたしの肩に着いた手は、次の瞬間にはあたしのお尻に移動してた。

 触んなよ!って言って、あたしは手を払いのけたんだけど、

「やっぱりお前も俺を遠ざけるんだな。せっかく親切にしてやったのに。俺を拒んだら、お前が大豆顔鼻毛クソ親父とフケまみれクソ親父と呼んでるあの二人のお茶に雑巾を絞った水を入れてることをあのクソばばあに言いつけるぞ。俺があの小娘を痛めつけたほうがいいって言ったら、あのクソばばあは俺の言う通りにするぞ。俺はあのクソばばあに純情の仮面をかぶって奉仕してやってるから、なんでも思い通りにできるんだ。俺に意地悪をするやつは、ばばあにいじめ抜かれて出て行くんだ。ここでは俺が王様なんだよ。今までのいじめなんかよりもっとひどいことをお前にしてやる」

 片足はそう言いながら、あたしの体の至る所をまさぐった。今までとは全然違うしゃべり方になってた。

 あたしは悲鳴を上げて、片足を突き飛ばして施設から逃げた。近くの交番に駆け込んで、家に帰してくれって、泣いて頼んだ。だって帰るお金もなかったから。

 親が交番に呼ばれて、「こっちから迎えに行くまで施設で大人しくしてろって言っただろ!」って怒鳴られたけど、泣いて謝って許してもらった。なにがあったかは誰にも話さなかった。話してもどうしようもないと思ったし、あそこから出られただけで本当にほっとしたから。

 そんなことがあってあたしは、外見が醜い人は、心も醜いって考えるようになった。正直、片足のことはいいやつだと思ってたから、ショックだった。片足の醜い外見のほうを信じて、遠ざければよかったって思った。

 あたしは、あの施設でのことは忘れようって思った。キャバクラで働き始めて、親を振り切って家を出た。でも、あの片足の顔が忘れられなかった。家に帰って疲れて寝ようとする時とかに、あの変形した顔がはっきり目に浮かんで、なかなか消えてくれなかった。レイプされたわけでもないのに、そんなふうになっちゃって、繊細な女の子みたいでバカみたいって思ったけど、目に焼きついちゃったのは、片足が底抜けに醜かったからだって思って、より一層醜さが憎くなった。

 キャバクラに来るお客さんでも、醜男だと嫌な気持ちになった。逆に、イケメンだとほっとして、肩の力が抜けるみたいな気持ちがした。なんか、その気持ちが顔に出ちゃってたみたいで、分かりやす過ぎるって注意されたりもしたけど。

 お店に来た美容整形外科病院の院長は、年齢的には立派なおっさんだけど、全然おっさんっていう感じがしない、超美形だった。かといってきつい香水の匂いがするとかそんなこともないし、落ち着いた大人の男っていう感じがして、すぐにいいなって思っちゃった。向こうもそう思われたことにすぐ気付いてたみたい。

「先生も整形してるんですかあ?」

 なんてあたしが言っても笑って、

「よく言われるけど、俺はしてないんだよ。自分じゃ手術できないだろ?」

 とか言ってた。

 あたしは思わず、熱心に美容整形について教えてもらおうとしちゃってた。院長がタイプだったってこともあるけど、醜さを憎む者として、整形に興味があったから。

「君、整形に興味があるの?君はとても綺麗だけどなあ」

 そう言われて、あたしはテキトーにごまかしたけど。綺麗って言ってくれたのは嬉しかったけど、それがお世辞だってことは分かってた。あたしは自分が美人じゃないってことは分かってる。同じお店の子たちを見てても、あたしより可愛い子がほとんどだった。でも、整形したいかって言われたら、考えたこともなかった。あたしはいつも、自分は美人だって思い込むようにしてたの。人と話す時、頭の片隅で、自分の顔に、綺麗な顔のイメージを張り付けるの。これ、他人に説明してもよく分かってもらえないんだけど、要するに思い込み。自分は美人だって思い込んでたほうが、他人と話してて楽しいし。それで間に合ってたから、整形したいなんて思ったこともなかった。

 あたしが整形に興味があったのは、自分がしたかったからじゃないの。世の中の醜い人が美しくなったら、もっと世界がよくなるんじゃないかって、そんな気がしたの。すごく漠然としたイメージでしかないんだけど、美男美女しかいない世界は、この世界よりもいいはずだって思った。美男美女の中にも優劣はつくわけだし、もしかしたら今の世界も、世代が替わっていくうちに淘汰されて、昔と比べたら美男美女ばかりの世界になってるのかもしれないけど。でも、時代が変わると美人の基準も変わるっていうから、そんなことないのかなあ。ずっと美人の基準が同じだったら、同じような顔の人ばかり子孫を残すのに有利になるから、だから基準は変わっていくのかな。でも、美男美女しか結婚できなかったら、とっくに不細工なんてこの世にいなくなってるよね。もしかしたら、昔はもっととんでもなく醜い人もいたのかもしれない、なんてことも考えるけど。そういう人は子供が残せなくて、今はもういなくなってる、とか。

 話が変な方向に行っちゃった。とにかく、あたしはちゃっかり院長の愛人に納まって、ついでに美容整形の普及のためにあたしなりに頑張ったの。あたしの思いは、美しい人を増やしたいっていうよりも、醜い人を減らしたいってことだった。でも、美容整形って、そういうものじゃないんだよね。さっきも言ったけど。あたしは自分の考えが甘かったってことに気付いて、がっかりしちゃった。

 あたしは、いろんなところで捕まえた醜男に整形を勧めて回ってたんだけど、それは、一番大嫌いな醜男たちとたくさん接触するってことだった。当たり前だよね。最初は必死で気にしなかったけど、あたしは自分を傷付けるようなとんでもなく無駄なことをしてるんじゃないかって気がしてきて、嫌になって、やめた。

 院長が買ってくれたマンションで、ずっと一人でぼーっとしてた。院長のおかげで、キャバクラで働かなくてもよくなったし、なんでも好きなものが買えて、なんでも好きなことができた。でも、なにもしたくなかった。だから、ぼーっとしてたの。

 その時目の前に浮かんだのが、あの片足の顔と、施設にいた入所者の野郎どもの顔と、あたしが自分から接触した数々の醜男たちの顔だった。その中のどれだけの人が悪人で、どれだけの人が普通の人で、善人だったか、本当のことは分からない。でも、あたしにはみんながみんな悪いやつに思えた。気が付くと、社会の奥底から、シロアリみたいに、なにか大切なものを蝕んで、あたしとかあたしの大切なものを奪っていく存在みたいに思えた。そんなの思い込みだって分かってるし、あんな男たちのことなんて忘れようと思ったけど、目に張り付いて消えてくれないの。院長のことが大好きになった時も、院長の顔が目に張り付いて消えないなんてことはなかったのに。

 あたしは、昼間にこのまま一人でいちゃだめだって思って、院長の紹介で、いろんな女の人と会って食事したりおしゃべりしたりした。ほとんどが院長の病院の患者さんで、すごい美人ばっかだった。まあ整形なんだけど。それでみんなお金持ち。大企業の社長の奥さんもいたし、有名なモデルさんとも遊んだ。なんでこんなに綺麗な人をいっぱい見てるのに、あたしなんかを愛人にしてくれてるの、って院長に訊いたら、俺にとっては君が美人、とか言ってたけど。まあ、今はこんなことになっちゃったわけだけどね。

 あたしは、そのいろんな女の人と遊んでる時、いつもみたいに、自分の顔に、綺麗な顔のイメージを張り付けようとしてた。自分は美人だって思い込むってことね。でも、なぜかうまくいかなかったの。自分の顔を思い浮かべようとしても、あいつら――醜男たちの顔が思い浮んだ。

 最初は、疲れてるんだって思った。今、あたしはこれまでの人生にないくらい幸せなはずだけど、小さなストレスが積み重なって、疲れてるんだって。いろいろあって頑張り過ぎたから、嫌な目に遭ったことを思い出しちゃうだけなんだって。

 でも、綺麗な女の人たちと遊べば遊ぶほど、記憶が鮮明によみがえって、とてつもなく醜い人もいるってことを思い出した。整形で手にしたまがい物だとしても、女の人たちは輝かしい美しさを持っていたのに、あの男たちは、あんなにも醜くて。

 あたしにとって、醜さは罪だった。許せないことだった。顔が醜いやつはどうせ心も醜いんだと思って、怒りが湧いた。あたしに優しくしてくれる美女たち、院長の愛人だからってちやほやしてくれる美女たちを見て、思い出してたの。

 あたしは鏡を見て、綺麗な女の人たちと自分を比べてみた。その間には残念ながら開きがあった。自分は、知り合いの美女たちと、あの醜男たちの間に位置する存在なんだと思った。まあ、美女寄りなのは確実だけど。

 でもやっぱりあたしだって綺麗になりたいから、きちんと化粧をして、鏡をじっと見て、それから目を閉じて、顔にきれいな顔のイメージを張り付けようとした。でも、思い浮かぶのは醜男の顔。あたしは深呼吸して、目を開いて鏡を見た。いつも通りの、ごく平凡な女の顔があった。

 あたしは鏡を見るのをやめて、出掛けた。また知り合いのモデルさんと遊ぶ約束があったから。でもなんだか、街を歩いていると、みんなあたしの顔を見ている気がしたんだよね。すごい美人かブスなら分かるけど、あたしは普通の顔のはずだし、メイクもそんなにケバくないはずなのに。

 そう思ったら、変なイメージが顔に張り付いてるのが分かった。あたしは、自分の顔が、あの大豆顔鼻毛クソ親父の顔になってるような気がした。

 道の端によって鏡を取り出して見たけど、もちろんいつも通りの自分の顔があった。なにも付いてないし、道行く人が目にとめる理由なんて全然ない顔。

 モデルさんとの待ち合わせ場所に着いて合流すると、一緒にクラブへ行った。モデルさんは、あたしの着てる服をほめて、最近買った服について話しだした。

 あたしは、にこにこしながら話しているモデルさんの綺麗に整った顔を見ていて、また自分の顔に変なイメージが張り付いているのに気付いた。自分の顔が、あのフケまみれクソ親父の顔になったみたいな気がした。

 結局あたしは、急にお腹が痛くなった、生理かも、と言ってトイレに行くフリをして、そのまま帰って来ちゃったの。これはまずいって、自分で分かったから。

 マンションの部屋に帰って来て、家政婦さんが磨き上げた洗面所の鏡を見た。青い顔した自分がいた。でも、目を逸らすと、あたしの顔は、片足の顔になってた。

 あたしは、こんな顔じゃ今晩院長に会えないって思った。自分がおかしくなっていくのがありありと分かったよ。あたしはもう嫌になって、叫びながら剃刀で自分の顔をめちゃくちゃにしてやった。

 あたしがこうしてミイラみたいな包帯巻きになってるのはそういうわけ。院長は一度お見舞いに来て、うちの病院で綺麗に治してやるって言ってくれたけど、顔がこわばってた。お見舞いに来てからなんの連絡もないし、絶対愛想つかされたね。狂った女なんて嫌だもんね、無理ないよ。

 もうこれで話し終わったから帰っていい?はあ疲れた。顔がズキズキする。休みたい。今日はまだあのマンションに帰るけど、顔が治ったらそのうち引っ越そう。院長の持ち物だもんね。これからどうすっかなあ。手切れ金いくらだろ……


 鋭敏感覚

 わたしもあなたと同じことを思ったことありますよ。自分は他人とは違うって。でもわたしの場合、他人から、あんた変だよって言われて、初めて変だってことに気付いたんですけどね。それまで、自分は普通で、みんなのほうが変だって思ってましたもん。

 あのねー、いつからだったかなあ。はっきり覚えてるのは、高校生の頃、みんな、わたしの話に顔をしかめるようになったのね。そのことに気付き始めたの。もしかしたら、なんでも話したくなっちゃう年頃だったのかもね。普通、大きくなってくうちに、自分のことを話すのは慎重になっていくものかもしれないけど、誰か自分に合った人に、本当に自分を理解してもらいたいっていう気持ちも強くなっていくんじゃないかなあ。その時はそんなこと考えなかったけど、心の奥底でそういう思いがあったのかもね。

 もうとにかく、話さずにはいられなくなったの。とにかく、タイミングとか会話の流れとか、この人とはまだあまり仲良くないとか、そんなこと一切考えないで、自分のことを話し始めるような。自分がいつも感じてることとか、しゃべりたくなっちゃうじゃん。女の子ってそういうものじゃないですか?そんなことないか。

 友達はね、わたしの話を笑って聞いてくれることもありましたよ。でも、なんか引かれてるような気もして。そんな時、友達との会話に同級生の男の子が入ってくることもあって、そんな時は、わたしはすかさずその男の子に向かって話し始めるんですよ。初めは笑って聞いてくれるんだけど、だんだん男の子の顔が引きつってくるの。あれはおかしいくらいだったなあ。

 なにを話したかっていうと、別にわたしにとっては普通のことなんですよ。あまり引かれなかった話としては、この部屋は暑いね、とか寒いね、とか。普通でしょ?わたしの行ってた高校は、教室にエアコンが付いてたんだけど、いつも温度設定が、冬は暑くて夏は寒いみたいなことになってたの。エアコンがついてない教室に入ると、冬はすごく寒くて夏は暑いじゃない?だから、最初にエアコンをつける人は、思い切った温度設定にしちゃうわけよ。それで、気が付くと効き過ぎちゃってるっていうわけ。すぐにうまい具合に調節すればいいんだけど、みんな面倒がってそのままになっちゃったり。それに男女同じ部屋にいると、女の子は寒がりで男の子は暑がりな人が多いから、意見が合わなくて、その辺も難しかったりするのよね。

 そういうわけで、エアコンが付いてるのに、あまり快適とは言い難い室温なことも多かったから、そのことを話題にしたわけ。でも、ただ暑いとか寒いとかだけじゃなくて、わたしは、どんなふうに汗が出るとか、どんな風に寒気がするとか、細かく話したの。

「薄い皮膚のちょっと下に熱い空気が溜まってるような感じがして、首とか脇の下から汗が出て、ブラウスについて濡れてちょっと冷たくなってるのが分かるの」

 とか、

「肩の周りと背中から胸にかけて、産毛が逆立つような感じがして、お腹もなんだかずしんと、毛の生えた石が中に入ったみたいに重いの」

 とか。

 別に、なにか役に立つことを言ってほしいとか、共感してほしいとか思って言ったわけじゃないんですよ。ただ、自分の感じたことを口に出してみたかっただけで。なんでそんな変な表現するの?とか言われたこともあったけど、別に変わった表現をしようとして言ったわけでもないし。もちろん、不思議ちゃんを演じてたわけでもないですよ。

 あと、この机の角がすごくざらざらする、とか。選択授業で別教室に移動するんですけど、古い机だけが集められた教室があったんですよ。いつもはつるつるしてて綺麗な机を使ってたんだけど、古い机は、落書きがあったり、コンパスの針かなんかで刺した跡があったり、縁がささくれ立ったりとかしてたのね。わたしはそういうささくれを恐る恐る指でなぞるのが癖だったの。そういう感覚も、いちいち友達に話してたなあ。

「このざらざら、小っちゃい穴がいっぱい空いてるような感じがするね。ウエハースの断面みたい。それで、ちょっと違う場所は、とげとげした針みたいな木の繊維が出ちゃってるよ。なんか、この机が苦しんでて、その苦しみが表に出ちゃってるみたいな感じ」

 とかね。

 そんなことをいちいち言うのは変だって、友達に言われたんですよ。でも、わたしとしては、なんでみんなはそういうことを話さないんだろうって思ってたんです。みんなだって、いろいろなものを触ったりとか、温度とか、風とか、いろいろなものを感じてるはずなのに、どうしてそれをまるでなにも感じてないみたいに無視できるんだろうって。もちろん、寒いとか暑いとか、風強いねとか、どっかに脚とか手をぶつけて痛いとか、そういうことはみんな話してましたよ。でも、わたしには、みんなが常に重要ななにかを無視し続けているように見えてたんです。わたしにとって、生活っていうのは、感覚の奔流だったの。わたしはそれを無視して、勉強とか恋愛とか学校行事とかファッションとか芸能人とかの話をする気にはなれなくて。

 その当時、わたしの話をちょっとだけ真剣に聞いてくれる人がいてね。クラスの男の子だったんだけど、わたしがなにを話しても、変な顔をしないで、「そうなんだ」とか、「それってどういう感じ?」とか言って、ちゃんと受け止めてくれる感じがしたのね。

 まあ、他にもそういう人はいたことはいたんだけど、みんなわたしの気を悪くさせないようにしてるんだなっていうのがありありと分かるような態度だったから。その男の子も同じように思ってたのかもしれないし、ちょっとだけ、気持ちを隠すのが上手いだけだったのかもしれないけど。

 わたしは話をきいてくれるのが嬉しかったから調子に乗って、いろんなことをその男の子に話しましたよ。

「男の子って、絶対に生理の感覚とか理解してくれないんだよねえ。当然だけど。ほとんどなにも意識してなくても、突然、ドロッていうのが出てきて、くすぐったいような、なんかやっちゃったていうような、絶対に顔に出ない程度の焦りみたいなのを感じるの。でも、ナプキンしてれば、すぐなかったことみたいになるの。ドロッて出た直後は、意識が股間に集中するんだけど、すぐにふわふわした曖昧な感覚になって、ぎゅっと足を閉じると、ちょっとだけナプキンの厚みを感じるから、それで安心するの。ごめんね、こんな話よりお互い分かる話のほうがいいよね。あのさ、さっきうんこしてきたんだけど、肛門には直接うんこが触れてるっていう感じってしなくない?なんか濡れてる感じはするけど。調子よくてつるんと出る時は、しっかり濡れてる感じがするんだよね。うんこ出す時に力むとさ、首と頭の間っていうか、うなじら辺からちょっとじわっと汗が出て、お腹を両手で押さえると、お腹のプ二プニした脂肪があったかくてさ、それで肛門がじわって開いて、突然現れたみたいにうんこが顔出すよね。肛門って自分で開こうと思っても開けないのに不思議だよね。力む時はやみくも力入れてる感じで、腹筋に力入れてるってことなんだろうけど、それが腸を動かして、結果的にうんこを動かしてることになるわけでしょ?よく分からないけど、うんこが肛門を動かしてるってことになるのかなあ?でさ、お腹にうんこがあっても、あるっていう感じはしないでしょ?それは腸に感覚がないからみたいだけど、もし感覚があったら、うんこのせいですごく痛くなっちゃうから、腸には感覚がないらしいね。そんなことはどうでもいいんだけど、それまで、便意っていう感覚だったものが、突然肛門を押し広げてうんことして出てくるわけでしょ。なんか不思議だよね。あと、話は変わるんだけど、お風呂に入ってる時ね、体洗うじゃん。わたし、ボディソープを手に付けてそのまま手でこすって洗ってるんだけど、肌って、つるつるしてるとことか、ざらざらしてるとことか、毛穴がプツプツしてるとことか、産毛がびっしり生えてるとことか、いろんなところがあるよね。それで、股の間も洗うんだけど、いつもは、毛をわしゃわしゃするだけで終わらせちゃうんだけど、ある時、ちゃんと奥のほうまで洗ってみようかなっていう気になって、指を割れ目の間に入れたのね。そしたら、じんじんするような気持ち悪い感覚がして、じわっと脇の下から汗が出てきたの。でも我慢してゆっくり撫でると、内側はほんとにひだみたいになってて、柔らかいの。でも、ちょっと下に行くと、すごい谷みたいになってて、奥は固く閉じてるのね。すごくじんじんして、小さい頃は触ってもなにも感じなかったから驚いたんだけど、これも成長したってことだなって思って、どうなってるのか、奥もちゃんと触ってみようと思ったの。最初はなんだか嫌な気がしたんだけど、ちょっとずつ、かすらせる程度に撫でてたら慣れてきて、だんだんじんじんするのも気持ち良くなってきたの。人差し指を寝かせるみたいにして上の方向にぎゅって押し付けたら、足がびくんってしたんだけど、それから奥のほうを開こうと思って撫でたけど、やっぱり開かなかったよ。ねえ、男の子はどういう感じなの?硬くなると気持ちいいの?それとも、出したくて気持ち悪いの?」

 そんなことを普通に放課後の教室で話してたんですけど、相手の彼の返事が、どんどん力ないものになっていくのが分かったのよ。でも、構わずに話し続けたんだけど、彼の顔はほとんど蒼白と言ってもいい感じになってたような気がするなあ。

 その次の日に学校に行ったら、なんだか、みんながわたしを見る目が変わってたの。友達は普通に話しかけてくれたけど、目だけが、どこかわたしじゃない他のものを見てるの。普段、よく話しかけてくれてた男の子たちは、わたしと目を合わせようともしないし、逆に、今までわたしに話しかけてこなかったタイプの男の子たちが、ニヤニヤしながら話しかけてくるようになって。

 それでわたしは、あの男の子が、わたしが話したことをみんなに教えたんだってことに気付いたの。わたしは別に、他の人に言っちゃダメなんて言ってないし、内緒話をしてるつもりはなかったから、彼は全然悪いことをしたわけじゃないんだけど、その時初めて、わたしの話は、みんなの態度を変えてしまうほどのものなんだなってことに気付いたのね。

 それからやっと、自分は他の人とはちょっと違うみたい、と思い始めたんです。だからって簡単に自分を変えられるわけもないって思ったけど。でも、やみくもに話したいことを話すのはやめることにしたの。もしかしたら、わたしの話を聞く人は、不快な思いをしているかもしれないって思ったから。やっとそういう考えにたどり着いたの。

 わたしは、友達にあれこれ話したい衝動を抑えて、休み時間もノートとか問題集に向かって、勉強するようになったの。勉強はやらなくてもまあまあできたほうだったんだけど、それしかやることもないし。

 でも、いつものことだったんだけど、参考書の内容より、紙の表面のかすかなざらつき感とか、シャーペンのグリップのぐにゃぐにゃした部分の弾力とか、シャーペンの芯がノートをこする、硬いけど繊細な、粉が飛ぶような感触のほうが、わたしにとっては重要だったのね。友達にはこの感覚のことを話せないって思うと、寂しかったなあ。

 話せないって思うと、余計に気になってしまうっていうのは不思議なものですね。それまでは、あくまで普通に過ごしていて、感じたことを口にしてただけだったんだけど、気が付くと、机の表面を指先で撫でてたり、自分の膝に爪を立ててたり、ボールペンで意味もなく手に落書きをしたりするようになってしまったの。家でも、自分の部屋で一人でいる時に、服の中に手を入れて乳首を弄んだり、歯を磨く時に舌の表面を歯ブラシで軽くこすってみたりしてました。

 意図的になにかの感覚を自分に与えて、それをじっと感じているんです。それ以上、どうもしないんだけど。なにかを感じるってことが、わたしにとってはなによりも重要で、それが生きてるっていうことみたいなものだったから。だって、テレビを見てても音楽を聴いてても、リモコンのボタンの間に挟まってる埃のかすかなふわふわとか、洗いざらしたクッションカバーの毛羽立ちのことが気になるんだから。

 それから気付いたことなんですけど、わたしは特に、指先の感覚に敏感みたいってこと。いつも自分の部屋の机の表面を触ってると、その日の湿度によって、なんだか感触が違うことに気付いたの。表面がちゃんとコーティングされた木の勉強机を使ってたんだけど、湿り気というか、なんとなく、硬ささえも違って感じたの。そんな違いが、ちょっと表面を指先でこすっただけでも分かったんですよ。もちろん、いろんな種類の紙をつまんでみれば、厚みの順に並べることも簡単にできたし、パソコンのキーボードをちょっと触れば、どのキーをよく使ってるかも一瞬で分かったし。でも、そういうことだけじゃないのよね。なんていうのかな……触れているものの表面と内側から、なにかが指先を通って自分の中に入ってくるような気がするっていうのかな。パワーとかエネルギーとか、そんな大げさなものではないんだけど。まあ、信じてもらえなくても別にいいの。

 ある時、わたしはちょっと風邪をひいてしまって。その時、自分の肌を触ってみたら、普段と全然違うっていうことが分かったのね。どこが違うかっていう説明はちょっと難しいんだけど、潤いと毛穴の具合と内側に流れてる血の流れっていうのかなあ。とにかく、いつもとは全然違っていたのは確かだった。

 体調が悪いと体の中の状態がいつもと違うのは当たり前だから、そんなこともあるって、なにも疑問に思わなかったのね。風邪は二、三日で治って、それからしばらくした時、夕食の時、母の手に偶然一瞬だけ触れたのね。そしたら、母の肌が、風邪をひいていた時のわたしの肌の感触とよく似ているように思えたの。わたしは思わず、「お母さん、風邪気味なの?」って訊いちゃってた。

 母は、実は昨日から体がだるいんだって言ったの。あんたの風邪が移ったのかもしれないけど、でも、どうして分かったの?って言ったんだけど、わたしは曖昧な返事でごまかした。

 もしかしたら、わたしの指先は、体調の変化を感じ取ることに使えるかもしれないって思ったの。その思い付きは、結果として、正しかったの。

 そのあと何年かしたあと、母の病気に気付いたから。わたしは、マッサージしてあげる、とか言って、よく母親の肌の状態に気を付けるようになったの。最初は、いきなりなに?とか言われてたけど、繰り返していくうちに習慣になって。毎日じゃなくて、思い出した時だけどね。うちには父親がいなくて、母は忙しく働いていたんだけど、病気になんてなってほしくなかったからね。肩をもむだけじゃ直接肌に触れるわけじゃないから分からないんだけど、首とか手ももんであげるって言って、肌に触れては、いつもの違うところはないかってチェックしたの。

 そうしていたから、母の病気にいち早く気付けて、本当によかったと思う。わたしが、ねえ、お母さん、病院に行ったほうがいいよって言った時には、驚いていたけど。だって、どういう風に言ったらいいか、上手い言い方が思いつかなくて。ちょっとずつ、肌の状態が変わっているのには気付いていたの。でも、取り立てて言うほどのこともないかと思ってたんだけど、日々変わっていって、その変化が大きくなっていったから。老化とかじゃないの。老化ではないって明らかに分かるのよ。信じられないっていうお顔をしてますけど、本当なんですよ。

 わたしは初めて、母に自分の感じていることを話して、大きな大学病院に行ってもらったの。母は、初期の甲状腺の病気でした。その後、適切な治療を受けて、治りましたけどね。

 母は、診断を受けた時に、自分が病気だったっていうことよりも、わたしの言ったことが本当だったことに衝撃を受けたみたいで、お医者さんに、わたしのことを話してしまったのね。そしたらなんと、そのお医者さんが、わたしに会ってみたいって言いだしたの。

 お忙しかったでしょうに、そのお医者さんは、わたしと会う時間を取ってくれたの。母は嬉々としてわたしを病院へ連れて行きましたよ。わたしに特別な能力があると思って、嬉しくなっちゃったみたいで。わたしは気が進まなかったんだけど、渋々病院へ行って、その先生と会いました。

 その先生は、痩せぎすのおじいさんでね、そっちこそ医者にかかったほうがいいんじゃないかっていう顔色をしてました。あとで話したら、それがもともとの顔色らしいんだけど。

 先生は、わたしにいろいろな質問をしたあと、わたしを別の部屋に連れて行きました。そこには、幅広い年齢の女性たちが何人か集まって、大人しく椅子に腰かけてたの。

「皆さん、この方が、お話した実習生です。少しご協力願います」

 先生はその女性たちへ向かってそんなことを言うと、一人一人に挨拶して、『診察』をしてもらえないかと、わたしに言いました。わたしは、先生がわたしの力を試そうとしてるんだって気付いたけど、どうしたらいいのか分からなかったし、とりあえず全員と握手することしかできなかったの。わたしもかなり戸惑っていたけど、女性たちのほうも、不思議そうな顔をしていた気がしたね。

 一通り握手しただけで、わたしはうつむいて立ち尽くしてしまったんだけど、先生が、どうだった、と尋ねてきて、わたしはためらいながら答えたの。そこのワンピースを着た若い女性が、母と同じような肌の感触がするって。

 先生は、わたしとさっきの部屋に移動して、わたしが指摘したあの若い女性も、甲状腺の病気なんだということを告げたの。それから先生は、

「君が望むなら、他にも自分の能力を試す実験をしてみてもいい。ただ私が思うのは、君が医学を勉強したら、人のためになる仕事が普通の医者以上にできるかもしれない、ということだ。もし君にその気があるなら、君は一世一代の名医になれる。そのための手伝いなら、私はなんだってやろう。具体的なことも考えてあるんだ」

 そう言って、付き合いのある大学の先生や学校の名前を出し始めて、学費を出してやってもいいとまで言いだしたの。

 わたしは突然そんなことを言われて、混乱しましたよ。母が病気だって分かった直後で、心配で胸がいっぱいだったし、そもそもわたしは高校で文系のクラスにいたんですよ。文系に進んだことにたいした理由はなかったけど、もちろん、医者になろうなんて今まで一度も思ったことなかったし。

 そう言ったんだけど、その後もその先生との付き合いは続いてしまったの。先生は母の主治医に納まって、なにかと親切に食事とか、生活習慣とかのアドバイスをしては母にありがたがられていたし、わたしにも、勉強の助言をしてやるとか、学校説明会があるだとか、今度自分の孫と遊んでみないかとか、なにかと理由をつけて連絡を入れてくるようになったの。そしていつも、医者という職業の素晴らしさを語り始めて、わたしに医者を目指すように勧めるの。母には、「娘さんには医者の素質があるように思うんですがねえ」とか言うにとどめるんだけど、わたしには、「どうして嫌なんだ?勉強さえすれば君は素晴らしい医者になれるのに。簡単なことだよ。なればいい。なりなさい。ならないとだめだ」っていう感じでした。

 先生は顔色が悪くて痩せていて、その不健康そうな外見のせいで、初めはちょっとこわいと思っていたし、あんまりしつこいから、ほんとに嫌だった。でも、時間が経つにつれて、人を助けたいっていう気持ちは人一倍強いんだなあと思ったの。それに、こわそうな顔に似合わず、孫を溺愛してるっていう話も知って、ちょっと警戒心が解けたのね。

 まあ、そのあともいろいろあったんだけど……何年も苦しい日々を過ごした結果、こうしてあなたの目の前に、わたしがいるっていうわけなの。先生の口車に乗せられて、医者になっちゃったわけ。

 わたしの専門は、精神科でもないし、外科でも内科でもないんです。わたしの専門は、『診断』。なんの病気か分からない人が、ここにたくさん来ます。わたしは、患者さんの皮膚を触っただけで、なんの病気か分かるの。病気じゃなかったとしても、その人になにが足りていないか、なんのバランスが崩れているのか、分かるのよ。それは、体の中の不調も、精神の不調も、両方なの。もちろん、診断をスムーズにするために、さっきみたいにいろいろ話してもらったわけだけど。それに、話すとすっきりするでしょ?そうでもない?

 なんでわたしのことを話したのかって?話したいからに決まってるじゃないですか。言ったでしょ、わたし、自分の感じてることをなんでもかんでも話したいんだって。患者さんなら、わたしの話を聞いてくれるし。高校生の頃から、それは変わってないの。もう何年経ってるんだって話だけど。人って変わらないものよねえ。

 それにねえ、わたし、他人の話を聞くのも好きなの。それは医者になってから気付いたんだけど。ここにはいろいろな方が来るんだけど、ちょっと二、三の症状を聞いて手を触れば、すぐに内科や外科や、他の専門の外来へ回すことのできる人が大半なの。でも時々、すごく面白い話をする人もいるのよ。苦しんでるのに、面白いなんて言っちゃだめね。でも、実際に面白いんだもの。ちょっと他では聞いたことのない、独特の症状を訴える方もいらっしゃるのね。あなたみたいに。わたしは、そういうお話を聞くのが大好きなの。そういうお話をする人には、自分のことも、より一層詳しく話したくなっちゃって。

 あ、診断?もちろん、あなたのこともすぐに診断してあげますよ。話が長くなってしまいましたね。さあ、手を出して。

 え?本当にそんなことで分かるのかって?あのね、必ず病名が付くかどうかは分からないけど、あなたの体のどこの調子が狂ってるのかは、必ず分かるの。心配しないで。はい、手。

 え?そうね、分かれば、処方箋を書いてあげますよ。場合によっては、他の先生を紹介するから、そっちへ行ってもらうけど。絶対信頼できる先生をたくさん知ってるからね。うーん、必ず治るとは言わないけど、でも、正確に診断してあげることは確かですよ。それに、たいていの病気は、進行を遅らせたり、症状を和らげたりできるのよ。不治の病なんて、そう多くはないの。それに、そういう病気はきちんと医師の間で知られてるから、ここに来るよりも前に発見されてるものなの。絶対に治らない新種の病気だったらどうするのかって?まあ確かに、あなたの場合は、心の奥底に問題があるような気もするから、そういうこともあるかもね。大丈夫、安心して。その時は、本当に快適な精神病院を紹介してあげるから。上手くいけば、そこで一生、国のお金で食べさせてもらえるわよ。本当になにもしないで、のほほんと暮らせて、追い出されることなんて絶対にないの。本当に、そういう楽園みたいな病院があるんですよ。誰かそこに入った人はいるのかって?それは他の患者さんのことだから言えないわ。ごめんなさい。

 なにをそんなに心配してるのよ。ほら、大丈夫だから、手を出して。

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7の病気 諸根いつみ @morone77

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