がまんしていた男

白居ミク

がまんしていた男

 ある過疎の村に医師がいた。名前は伏せる。誰かと同じ名前だったらその人に迷惑だろう。仮にYBとする。YBは「ヤブ」の意味だ。その名の通りヤブ医者として村人たちに知られていた。

 幸い近郊に大きな病院があって、腕利きの医師がいたので、村人たちは病気になるとまずそちらへ行き、YBの元へはその腕利き医師の処方箋通りの薬をくれと、どうともとらえ間違えようもないほどはっきりと要求した。

 一度村で子供が夜中に熱を出した時、YBは起きだして診てやると言ったのに、親は構わず車を出して大病院へと子供を連れて行った。このことは村で後々まで茶飲み話の種となった。

 YBは村人たちから面と向かって馬鹿にされており、YBも頭を下げて逆らわないようにしていた。


 YBには家族があった。妻は死んで久しかったが、子供が3人。一人は妻の親戚の子供で、身寄りをなくして引き取り手がなかったのを、YBが引き取ると言ったのである。おでこが広くて、むっつりと不機嫌で、およそかわいげのない子供であったが、YBの腰の低さにやがて懐いた。懐いてみると、それまで誰も気づかなかったのだが、すこぶる頭のいい子だった。YBの実子二人よりはるかに勉強ができて、遠くの腕利き医師は子供がなかったので、このでこっぱち君を養子にもらいたいと言ったが、でこっぱち君は断固拒否した。彼の夢は養父の跡を継いで村の医師になることだった。「あの子が医者になれば安心だ」と、村人たちは噂しあった。代わりに、一番下の妹が、「母親のいる方が行き届くだろう」という理由で、(内情は村は腕利き医師に返しきれない恩があったので、村の無言の圧力を受けて、)腕利き医師の元へ養子に行った。

 

 YBは何も思っていないわけではなかった。本来なら尊敬されるべき自分が馬鹿にされ、近郊の腕利き医師には当然のごとく目下扱いされ、妻に先立たれて家事に苦労しているのに、誰も「この娘をYBの後添えに・・・」と言い出さない。村にはYBの気に入る若くて美しい村娘が何人かいたが、娘本人も周りの大人も、みんな「この娘をYBに…。」と思いつくことなく嫁いでいった。持ち込まれるのは年を取って子供のいるようなたくましい出戻りとの縁談か(それも断ると縁談はぱたりと絶えた)、売れないと言って持て余している山のような傷み野菜ばかりだった。

 男は日々耐えていた。診察室でも村でも家でも。ある日診察室で散々なじられた後、馬鹿にしたような挨拶を受けつつ村のあぜ道を帰り、家で小学生の息子が自分の足をつかんで不機嫌そうにゆらゆらしながら「ご飯まだあ。」と言うので、「ごめんな。」と、もらった固くて枝分かれした大根を囲炉裏の火にかけてみそ汁にし、ご飯も炊こうと立ち上がった時、YBの中で何かが切れた。


 我に返ると、わが子は両目を突き刺されて死んでいた。

 記憶はあった。YBは子供に囲炉裏の串を突き立てた。子供はYBに何をされたかもわからず、逃げることも考えつかずに、痛い痛いと泣くばかりだった。もう一方も突き刺すと、出血多量でそのうち声も出さなくなって動かなくなったのだ。

 動かなくなっただけで、まだ死んでいないかもしれない。大病院に担ぎ込めばまだ助かるかもしれない。ここでは無理だ。輸血もできない。

 YBの脳が冷静に状況を分析した。

 しかし湧きあがったのは、後悔でも刑罰を恐れる気持でもなく、これでこの子から解放されたという、激しい喜びの念だった。血の匂いはすさまじかったが、YBは職業柄慣れていた。彼は浮きたつ心が高まっていくのを、血まみれの部屋でじっと座りながら感じていた。

 日が暮れていくのは、じっとしていても、窓から入る日が茜色になっていくのを見て分かった。YBはそれをじっと見つめて待ち受けた。

―もうすぐだ。もうすぐだ。

 しかしなかなかその時間にならなかった。

 YBは落ち着きを取り戻すと、囲炉裏の中にソダをくべて、火を燃え上がらせた。作りかけの味噌汁は、囲炉裏から下した。すぐそばには下の子の死体が丸くなっている。

 何もかもがあるべき状態に収まっているようにYBには思われた。彼はにっこりとほほ笑んだ。

「ただいまあ。」

 優秀なでこっぱち君が学生鞄を提げて帰ってきて、まず父の異常な目の輝きを見て不審に思い、弟が血まみれで倒れているのを見つけて驚きを通りこして頭が真っ白になり、体が動かなくなった。彼でなくてもそうなるであろうし、頭の良い彼でもそうなった。頭は良かったが、彼は心底深く養父を信頼し、愛していたのだ。

「お父さん、これは…。」

 一方養父は、いつも自分より高く評価されて目障りだった生さぬ仲の子供が手中にあるのを感じて、わが子の時とは違う大きくて鮮烈な炎が心に舞い踊るのを感じた。彼は血まみれの得物をつかむとーこの動作だけでもYBが犯人だと、でこっぱち君は事実をつなげてもよかったのに、彼は養父を信じぬいてその場を動こうとはしなかったー一方YBは何よりも気に入らなかったでこっぱち君のでこっぱちを見つめた。

「額か?」

 そして裂けそうな笑顔のままでこっぱち君にとびかかった。

 彼はほとんど苦しまなかった。心の傷む暇もなかった。ただ、村の希望は永久に失われた。



 事が済むとYBは空腹を感じた。

 食事は作りかけていたが、作り上げるのもよそうのも面倒な気がして、日が暮れたのをいいことに、谷の底へと落とした。鍋はガランガランと2回音を立てて谷底に落ちた。子供たちが腐り始めたら、死体も同じ場所に捨てるつもりだった。YBの自宅兼診療所は、崖の上に建っていた。普段はないがしろにされていると思うところだが、こんな時にはまことに便利な場所だった。

 YBは近所に一人暮らしの老人や二人暮らしの老夫婦が住んでいることを思い出し、闇に紛れて道なきところから窓をのぞいた。ちょうど老夫婦の家の支度ができているところだったので、窓から侵入しておばあさんを殺し、食事にありついた。そして好きなものだけを食い散らかして退散した。

 気分は爽快なはずだったが、ますます何もかもが急に面倒になる気がした。

 料理が面倒くさい、食器を洗うのが面倒くさい、顔を洗うのも歯を磨くのも布団を敷くのも横になって眠りにつくのも、そのせいで寝汗をかくのも億劫だった。唯一面倒くさくないのは人を殺すことだけだったが、これもそのために歩いて往復するのが嫌だった。彼はそれを老夫婦の家の食事がまずかったせいだと考え、重たい体を引きずって何とか家に帰った。

(向こうが来てくれたら一番良い。)

 YBは書斎の天井を眺めてそう結論に達した。老婆の遺体が発見されれば大勢が医者の所に様子を見に来るだろうから、待ち伏せには診療所が一番良い。


 老婆の遺体は見つかった。しかし見つけた老婆の夫が強硬に助かるかもしれないと主張して、譲らなかった。誰が見ても息がないのは明らかだったが、泣いて頼むので仕方なかった。かくして、老婆はYBのところではなく、大病院へと運ばれていった。

 包丁を手にして、診療所に潜んでいたYBは、救急車が遠ざかるのを聞くと、包丁を投げ出した。そして、村の消防団の一人の家に遠征に出かけた。老婆を運んで行った一人の家だ。奥さんもいない。小さな子供だけで、とても無防備だ。



 町の大病院の近くの小さな一軒家では、家主が寝静まっているときに大音量で電話が鳴った。

「急患です。もう死亡しているのは明らかなんですが、連れてきた人が先生を呼べって聞かなくて…。」

 それから先は聞かなくても分かったが、一応腕利き医師はその先を待った。

「村の人たちなんです。」

「すぐ行く。スピーカーにするから、症状を教えて。」

「心臓は完全停止です。心マをするまでもないです。死斑が出始めてます。原因は胸部を複数個所刺されていることによるものです。警察を呼ぶように言ったんですが…。」

「村にはYBさんいるでしょ。」

「先生がいいって。」

「10分で行くから。」

 もう服は話をしながら脱いでいた。彼はシャワーを手短に浴びた。ひどい寝汗をかいていて、気持ち悪かったのだ。そのままでもいいが、判断が狂ったり、うっかりひどい発言をすると困る。

(すごく嫌な夢だったなあ。)

 医師はシャワーを浴びながら寝苦しさの余韻を洗い流そうとした。こんなに嫌な気分になったのは久しぶりだ。内容は覚えていないが、いまだに悪寒がする。

 服を着替えて妻の方にうなずき、娘の顔を見に行った。

 娘は真夜中なので当然だがすやすやと寝ていた。寝顔を見ていると、「この子のためならなんだってできる」という気がした。そしてこの子が真夜中でもなんでも村人の頼みなら出かけなければならない理由だ。他の人間だったら、彼は研修医に任せて、「明日の朝診ると言いなさい」と言っただろう。

 5年前、子供ができなかった自分たち夫婦が、養子縁組の申請を出していると、風のうわさで村の人々が聞きつけたらしい。YBの子供を養子に出すという話を、なぜかYBではなく村長が持ってきた。医師は村人たちの計算高さと、YBに子供を手放させる決心をさせた圧力の恐ろしさに寒気がした。その時村長は、週に一度、村の方に出張に来てくれないかという要望も持ってきたが、YBの縄張りを侵すことになる。医師は断った。代わりに村の人々の急患なら、真夜中だろうと祝日だろうと、彼自身が診なければならない。むかつくことに、村人たちも、それが当然だと思っているようだった。それでも子供がいるという喜びは、何物も代えがたかった。


「刃物で刺したような傷だ。…残念ですが、もうすでにご臨終です。」

 医師は手を合わせた。

老婆の夫は泣き出した。が、そのことはすでに夫以外の誰の目にも明らかなことだった。周りは慰めた。そして老婆の夫は泣き崩れるとほぼ同時に犯人に怒り狂い始めた。これも周りはすでに予想していたのでなだめた。

 医師はその間に、来ていた警官を脇に呼んだ。

「僕は検視官じゃないから確かなことは言えないけど、あの傷は素人がやったように見えない。どの刺し傷もー刺し傷だとしてー太い動脈を刺している。ほら。」

 医師は自分の胸でどこを刺されたか見せた。

「そうなんですか…。」

 警察官はメモを取った。これがちゃんとした刑事などではなく、近くの交番のおまわりさんだということを、彼は知っていたので、不安を感じた。

「犯人つかまってないんですか?危ないですよ。こんな人がうろうろしているなんて…。村の人たちを守る処置はなされているんですか?」

「あの村にも警官がいますから。すでに連絡をしてあります。警戒してくれるでしょう。」

 医師はため息をついた。彼は知っていた。あの村の警察は人を捕まえるためではなく、法律は忘れて村人たちのもめ事をなあなあで解決するために存在している。役に立つとは思えない。しかしそれを言ってもこの交番のお巡りさんは気を悪くするだけで何か利益を生むとも思えない。



「みんなそろったか。山狩りを始める。」

 田んぼの作業用の懐中電灯を頭につけ、手に手にクワや鎌を持った男たちを前に、村長が無表情で言った。聞いている男たちも無表情である。

「ええか。犯人見つけても殺すんでねえぞ。それは警察の仕事だ。だけど危険人物だ。見つけたら半殺しにしろ。抵抗されて危ないからな。あとは駐在さんの仕事だ。」

 駐在さんは何も聞かなかったかのように、隅の方で知らんふりしていた。

「さあ、山のことよく知っている奴に続いて行け。犯人見つけたら、わしん所に知らせろ。」

 「山のことよく知っている奴」とは、普段は植林の管理をし、山歩きをして釣りや猟もする山男たちのことだった。今も猟銃を肩に担いでのっしのっしと歩き出し、三手に分かれた村の男たちが無言で後に続いた。子供たちを殺された消防団の若い父親が、山男と並ぶくらい先頭に立っていた。

「犯人捕まえたら、警察に知らせる前に教えてくれ。」

 彼は村長の脇を通り過ぎるときに顔を真っ赤にして涙をこらえながら言った。村長は重々しくうなずいた。当然そうするつもりだった。


 YBは診療所でそのざわめきを聞いて、山狩りが始まったなと思った。

 YBを無視して患者を腕利き医師に運んだ後、しばらくの間村人たちは寄り付かなくなる(たぶんYBがその事実を受け入れられるまでの間、待っているのだろう)ので、まだ何時間か安全だろうと思われた。この間に、どうやれば罪を逃れられるか、考えださなければならない。YBが犯人だと分かるのも、時間の問題だろう。

 疲れたYBは力を取り戻すため、でこっぱち君の死体のそばに寄り添って寝た。もう一人のわが子の遺体は谷底に落としたが、気に入らなくてしょうがなかったでこっぱち君の遺体は残しておいた。こうして死体に触ると、体に力が戻って、背筋がシャンとなる気がする。

(生きているときは気に入らなかったが、死んだら役に立つものだなあ。)

 YBはこの死体だけはいつまでも置いておきたいと思った。しかし死体は腐るものだ。

 YBは何とか体を起こすと、薬棚にホルマリンの瓶を探しに行った。標本の入っている大瓶が一つ見つかったが、当然それでは男子高校生一人の体を保存するには足りない。

(ホルマリンって、ホルムアルデヒド溶液だろう?薬品はたくさんあるのだから作って…。)

 YBははっとして薬棚を改めて見た。錠剤も粉も化学薬品も大瓶大箱で在庫がある。

 腕利き医者の処方箋通りの薬を出す薬剤師扱いされているので、薬だけはたくさんあった。

 YBは思いついた。村人全員が死んで無人の村になればよいのだ。



「明日だと?お前事態の大変さが分からんのか!」

 恫喝するお巡りさんを、腕利き医師は電話を奪い取って丁重に切った。

「頼みますよ。怒鳴ったりしたら、相手の態度が頑なになるでしょう。そんなの子供の態度と一緒ですよ。」

「警察の仕事ですよ。」

「だけど話されている相手は僕の紹介した相手なんですよ。」

「退役した軍人さんでしょ。」

「軍人なんですよ。警察ではなく。それに年上なんですから、もうちょっと敬意を払ってあげてください。」

「退官したんでしょ。」

 奪い取った受話器からガチャッと電話が切れる音がして、腕利き医師はお巡りさんをにらみつけた。確かに問題があって退官した人物だが、それを言わなければよかった。

「それでもこういうことに関してはすごく手配がうまいんです。きっと犯人の目星をつけてくれますよ。僕がお金を支払いますから。」

「お医者さんはお金持ってますからね。」

 警官はぼそっとつぶやいた。指図を受けたのが気に食わなかったのだ。私立探偵を雇うと言うのも気に入らなかった。

「それに私がよくても相手が気に入らないんじゃあ。」

「こんな時間だからですよ。3時だ。怒るのは当然です。明日朝一番でもう一度かけてあげてください。ね。かけてあげてくださいよ。僕がかけたんじゃ、民間人が首を突っ込むことになるから。ご存知でしょうが、あの村には僕の娘の父親が…。」

「分かってます。分かってます。」




 YBが毒ガスを作ったり、うきうきしながら飲み水に投げ込む毒を選んだりしているとき、YBが夕食を食べるために殺した老婆のお通夜の準備が行われていた。

 お葬式の采配を振るうのは、喪主の主婦と決まっている。そして(人が死んだとはいえ)葬式の段取りをつけ、物品を手配し、読経からもてなしから散会まで何一つ手落ちなく行えるかどうかで、主婦の腕は計られる。だから、どの主婦もこの時を心待ちにして、自分の腕を見せる時のために、心の中で葬式のシミュレーションを繰り返しているものなのである。(人が死ぬときのことだとはいえ死んでほしいというのとは少し違う。)いわば大舞台だった。(人が死んではいるが。)

 しかしこのときは死に方が死に方なので、誰も采配を振るおうとする者がいなかった。殺人鬼がうろうろしていると言うので、若い子供のいる家など、戸締りをしっかりして、山狩りに行った男手たちが戻ってくるまで、じっと息をひそめるつもりのようだった。来たのは近所の人たちと、駐在さんの夫婦だけである。駐在さんの奥さんが采配を振るった。この人は世話好きで、お見合いをまとめたりもするので、駐在さんと合わせて村の柱とみなされていた。

 男は葬式では邪魔なだけだが、老婆の連れ合いは、宙を見つめたままぼんやりと座り、見る人の気持ちが沈むという以外には、特に食べ物も要求しないし、女たちは助かっていた。葬式前の忙しい時に、「お茶」だの「食事」だの、挙句の果てに「酒」「肴」などと言われた日には、たまったものではないのである。

どうしていいかわからないように見えたし、実際どうしていいかわからないのだろう。家事など一切やらない亭主関白な老人だったので、まず明日の朝食から困るだろう。おいおい覚えるだろうが。と、駐在さんの奥さんは考えた。

(奥さんを世話した方がいいかしら。同じように身寄りのない生活に困ったおばあさんっていたかしら。なんたって家と畑はあるんだし。)

 忙しく考えながら、現場保全よりも葬式の段取りと家族の生活を優先させる駐在夫婦が、誰もやりたがらなかった殺害現場の片づけを進めていると(ふすまを取り払って葬儀会場になる予定なのだ)、奥さんの手が止まった。

(きゅうりの漬物だけがなくなってる。こっちは鮭が残っている。納豆は全部なくなっている…。)

「ねえあんた。YB先生って、白菜の漬物嫌いだったよね。」

「そうなのか?」

「納豆は好きで、鮭は嫌いだった。いつも持ってくと迷惑そうな顔するじゃない。」

「そうだったかね。」

「そうだったよ。先生どこにいるんだろ。来たっていいのに。」

「今は会わない方がいいんじゃないか。プライド高いからなあ。」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。ここにある食べ物、食べたの先生かもしれないよ。殺される前に、ここに来て食事していったのかも。犯人の顔見てるかも。あんた、ちょっと話聞いてきてよ。」

「いやだよ。山狩り行ってるんだから、手がかりなんて必要ないよ。」

「あんたじゃなかったら誰が行くの。」

 この期に及んでも、夫婦の頭に「先生が犯人かもしれない」という頭は思い浮かばなかった。まず使いに出された年寄りが殺され、戻ってこないのを心配して身に行った夫婦が次々にやられた。殺人犯がいるかもしれないと聞かされてやってきた山狩り部隊が団体で毒ガスにやられた。

 山歩きをしていて、毒ガスがどこにたまるのかご存じだろうか。自然発生する毒ガスはたいてい窪地など低いところにたまっている。一人が入って倒れ、事情が分からない連れの人たちが、助けよう、様子を見ようと次々にくぼ地に入り、かくして全員が毒ガスにやられるのである。仲間意識が強くて助け合いの精神の強い団体ほど、全滅しやすい。明暗を分けるのは、「毒ガスかもしれない」という認識と、「毒ガスなら装備が整うまで仲間は見殺しにするしかない」という決断力だ。

 村の人々は、窓から見て倒れている人がいれば、助けに入らずにはいられなかった。

 一度入ると、のたうち回って窒息死する。それを見て慌てて何人もが固まって入り、犠牲者を増やした。暗いので、銃か何かでやられたのかと考えたのである。

 YBは床下にいて、人が死んでいく様を聞いていた。村人が苦しむ音を、体中から吸収するように聞いていた。そして、一度も感じたことのない愛おしさを、村人に感じた。

(俺の思うとおりに殺されてくれるとは、なんてかわいい奴らだ。)

 YBは楽しさのほかに空しさも感じた。人が死ぬことが当たり前になってきたのだ。

(このままプロの殺し屋になれるかもしれないな。)

 そう思いながら、YBはなぜか急に、村に赴任してきたころのことを思い出した。YBは腕の良い医者ではなかった。しかし、腕がよくなくても、患者には分からない。同僚の医者にしかわからないし、同僚の医者だって注意していなければわかることではない。医者は愛想さえよければ、いつもニコニコしてそつがなく、「塩分を控えるように」「タバコをやめるように」などと相手に嫌われるようなことさえ言わなければ、たとえ診断をあやまって、患者を殺したとしても、むしろ「あの先生は手を尽くしてくださった」と、感謝されたりもするのである。

 赴任してきた当初、YBは3人ほど殺した。田舎の人に分かるわけないと思っていたが、もしかしたらばれていたのかもしれなかった。それで見下した扱いを受けていたのかもしれなかった。村人は一度信用した人物はとことん信じ続けるので人が良いように思われてはいるが、よそ者が一度信頼を失えば、100年たってもその信頼は取り戻せない。村では法律はゆるいかもしれない。しかしその代わりに、村掟と村八分と言うものがあるのである。疎外されれば出ていくほかなくなる。それでもYBは村に必要な人物だった。処方箋を書いてくれる医師がいなければ、薬が切れるたびに、山道を車で90分、走らなければならない。だからこそ村人は、愛情をつなぎとめるために、YBをいじめたのだ。今YBがこうして人を殺して、愛情を感じるように、村人たちもYBの心を傷つけることで、大事な家族を殺したYBを大目に見たのだ。

(もしかしたら俺は愛されていたのかもしれないな。)

 YBは初めて自分の立場をはっきりと理解した。しかし今さらどうしようもない。

(正直分かったからと言ってどうしようもないな。)

「火をかけろ!」

 村長のどなり声がした。診療所に入った人たちが出てこないので、業を煮やしたのだ。YBはそう来るだろうと思っていたので、床下に水と布団を用意しておいた。死んだと思われてから出ていくつもりだ。もう貯水槽に毒は投げ入れてあるから、明日の朝、いや、焼き打ちが終われば食事が始まるだろうから、その時にお茶を飲んだ全員が死ぬだろう。

 診療所が燃えても誰も飛び出してこなかったので、村の人々は「人殺しは火に囲まれて死んだのだ」と思った。燃える火の明かりで、谷底に死体が投げ込まれているらしいことも分かった。

 火が燃え上がり、煙が充満して毒ガスの心配がなくなり始めると、診療所の中で毒ガスに倒れた身内は、まだ生きているかもしれないと、村人たちは思い始めた。それに死体だったとしても、きれいなまま取り戻したい。死体が燃えてしまうと、お葬式の時に棺桶を出せないからだ。火は早々に消された。くすぶり続ける診療所から、燃え残った遺体を探しているところへ、村の女性たちがおにぎりと漬物を持ってきた。大きな薬缶に、沸かしたてのお茶も入っていた。



 村人は全員が死んだわけではなかった。しかし苦しむ人たちを見て、残った人々はお茶を捨て、慌てて大病院へ助けを呼び、救急車が付くのは1時間半後、病院に着くのはさらにい時間半後だと分かっていたので、運べる者を車に満載して向かった。避難所が体育館に設置されて、女子供が集められ、非常食しか飲んだり食べたりしてはいけないと命じられるのを、忍び寄ったYBは聞いた。毒を盛られて苦しむ人たちも、まだ息があり、殺しそこなった未練があったのだ。

(あいつらのとどめを刺しておきたいが、大病院に行ったら助かるだろうな。たくさんあるからって、弱い毒は使っちゃだめだな。)

 YBは焼け残った書斎の机に向かい、ひざ元にでこっぱち君の死体を置いて、窓から差し込む朝日の明かりで、「殺人日誌」をつけた。この異常な自分の心理を、研究者たちはありがたがって読むだろう。YBは丁寧に記録を付けた。そうしながらも、殺し損ねた人たちに意識は飛んだ。

(あんなに固まられちゃあいつらは殺せない。非常食しか食べないんじゃな。じゃあ、人殺しもこれで終わりか?)

 一応は体育館の水道にも、即効性のある毒を入れておくべきかもしれない。今救援が来たら、もうYBには何もできないし、一人でも生き残りがいたら、事情を説明して、YBがすべての犯人だと分かってしまうだろう。村人全員を殺せなかった時点で、自分は終わったのだ。

 YBは筆を止めて朝日を見つめた。

 もうどうすればいいのか分からない。昨日までの自分とはまるで別人だった。あまりにも変わりすぎて、本当に自分だとは思えなかった。しかし自分がもう終わりなのは分かっていたので、刑務所では見られないであろう朝日を見納めにきつく見つめた。

 誰か来る音がしたので、殺人日誌を振り捨てて、YBは用意しておいた薬を飲み、でこっぱち君の死体の隣に体を投げ出した。しばらくの間気を失える。YBが人殺しだと、悪く言われるのを聞かなくてよいのだ。その間に知り合いが誰もいない刑務所に、運んでもらえるだろう。願わくばそのまま死んで、生まれ変わってやり直したい気分だった。



 YBは目が覚めて自動的に牢屋の鉄格子を探したが、真っ白な壁と天井に囲まれた、病院の一室にいた。手錠もかけられてはいなかった。腕利き医師がいたが、警察やその他YBの魔の手から彼を守ろうとする屈強な男は見当たらなかった。どう見ても普通の女性の看護師が一人いるが、彼女も特に警戒しているようには見えなかった。優しい言葉をかけて、YBの血圧をチェックしてくれているだけだった。

「YBさん。つらいだろうが聞いてくれ。でこっぱち君は助からなかった。君の末の息子はまだ見つかっていないが、期待しない方がいいだろう。もちろん探してはいるが…。気を落とさないでくれ。ショックが大きいだろうが、家族はまた作れる。

 何よりもYBさんが無事でよかった。」

 YBは自分が犯人だと思われていないことを知って、口をぽかんと開けてその言葉を聞いた。

「しばらく一人になるといい。相談があれば言ってくれ。力になる。」

 腕利き医師はすまなそうに部屋を出て行った。

 ほっとするかと思いきや、YBは叫びだしたいほどの絶望に襲われた。

(それでは昔に戻るのだ!また頭を下げてばかにされながら生きていかなければならないのだ!)

 YBは自分には到底耐えられないことを知った。刑務所に入る方がまだよい。人殺しと言われて絞首台に上る方がまだ耐えられる。

 方法はある。ここでもだれか殺せばいいのだ。

 まず腕利き医師の顔が頭に浮かんだが、却下した。

(だめだ。いつも周りに誰かいる。止められたら殺せない。それにあいつは力もある。)

 腕利き医師の体格は、YBよりも大きかった。大病院の激務に耐えるだけあって、体も鍛えている。YBがとびかかっても、はじき返される。急所を狙おうにも、向こうも医者だ。

 脳裏に、腕利き医師に養子に出した自分の小さな娘が思い浮かんだ。

(そうだ。あの子にしよう。腕利き医師もかわいがっている。腕利き医師に与えるダメージは本人を殺すのと同じくらいだろう。きっと僕が犯人だと分かってもらえるだろう。)

 「わが子は殺してもよい」という変な人殺しの理屈が、YBの中では出来上がっていた。


病室を出て近くの看護師に「わが子の顔を見たい」と言うと、腕利き医師の養女がYBの実の子だという事情をよく知っている古株の看護師だったので、子供を殺されたばかりのYBに(殺したのはYBなのだが)、「ちょうど母親と着替えを届けに来ている。」と教えてくれた。

 YBは首尾よくわが子を見つけた。しかし腕利き医師と一緒にいたので、手を出せなかった。腕利き医師がわが子から離れるのを待っていたが、抱き上げたりしてなかなか離れようとはしなかった。待つ間にバタバタと警察が自分めがけて走ってくるのを見た。まだばれていないかもしれないが、ばれているとしたらあれは自分を捕まえに来たのだ。


YBはその場で包帯を切るためのはさみでのどをついて死んだ。





 人の役に立ち、評価されたいとは、誰もが思う。しかしそれができるのは、うまずたゆまず、努力を続ける人だけである。できない者が、暴力に走る。

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がまんしていた男 白居ミク @shiroi_miku

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