第五節

湿気と風土と小さな誤解 (3722字)

 こくこくうなづきながら、シン博士は長い長い改革のいきさつを詳細に振り返り語られたのだった。


 亮次すけつぐは思う。

(文献だけご覧になったのではあるまい。いつの間にか、聞き取り調査もなさっていたのか。一言お声を掛けてくだされば、喜んで力添え申し上げたのだがなあ。それにしても事細かな)


 虫姫も亮次も、今昔の暮らしに変化があったことは一通り耳にしている。老人の昔語りはそのような内容になりがちなものだ。だが、医家としての視点に立って整理された語り口には、隠されたつながりが掘り起こされるような、もっと言うならば、初めて見る景色の眼前に開けるがごとき感覚さえ受けるのだった。

 手先を頬に添えられて、うつむきかげんに虫姫は思いにふけっておられる。


「水の扱いは、なかなか興味深いのことです」

 機嫌よく、沈博士は語り続ける。

「日域は雨が多くて、常に湿っているの国だから、私は最初、処方が効きにくくなちゃて困たことあるね。暮らして一年くらいたつと、ははぁ、湿気多すぎですかと気がついて、処方を調整したら、もいちど、とても効くようになた」


 もちろん、虫姫は日域から出たことがないので、なかなか想像できない。

「唐土とはそんなにも湿り具合が違うものですか?」

「違いますね」

 沈博士はきっぱり断言する。この都の湿気が気になって、博士はわざわざ設えた二階にて寝起きしておられるそうだ。


「とにかく、日域は南溟に似てるのところがある。たしかに冬は寒いけれとも、夏はものすごく暑くて雨がザァザア降るね。だぁから廃屋を放っておくと、すぐに密林のようになちゃうでしょ? 草木生えまくるでしょ。唐土でもずっと南のあたりならそんな感じネ。中原とか、北の方はもう、またく、密林無いからね。びっしりの森は。私、船で太宰府から西海渡って難波津まで来たとき、びくりし続けたね。なぜこちらはこんなに、どぉこ見ても木が生えてますか。おとろいたネー」


 腕組みし、お顔を上げて目をつむり、懐かしそうに語っている。

「逆に、唐土の港、長江の流れ込むあたりは、海の色が黄色いのですよ。想像てきますか? 港を出て、一日船に乗ても、まぁだ黄色いね。やっと次の日に、海の水青くなります。そんなに、唐土からは土が流れている。百年河清を待つ、の言葉は事実ね。日域には、こういうの大河無いでしょ。向こう岸の見えない、大きすぎるの川ね。そういう大河が、あまり木の生えていない土地を削って、どんどん海に押し流していくですよ。いつか、海、埋まっちゃうのことになるかもだよ」


 笑いながら沈博士は続ける。

「まぁた話ずれてしまいましたが、日域は湿気が多い。だぁから、蚯蚓みみずとか多いでしょ。唐土のずっと北の人は、蚯蚓見たことないの人もいるからなぁ」

「それは、乾いているからですか?」

「うむ、乾いているし、寒いしね。畑で小麦を作るの地帯です。彼らに言わせると、歩いていて足もとに蚯蚓ニョロニョロいるの気持ち悪いそうだ。南の方は、田んぼでお米を作るの人たちね。たから、日域はいろいろの点で唐土の南にも似てるのところがある。例えば蛭」

「いやぁ」


 つい、虫姫様は変な声をあげてしまった。肩をすくめて身をよじっていらっしゃる。驚いた沈博士は、

「何ね? 虫姫様なのに蛭きらいか?」

「うう、長虫とか、ああいう長いものは苦手なんです」

「へえ? 毛虫も長いでショ? この前、お会いしたとき、蚕の話よろこんでしたね?」

「幼虫には足もあるし、適度な長さです。蛇、あれは長すぎます」

 きっぱりおっしゃる姫。


「わっからないねぇ。蛇は特に大切の薬になりますけどね。まあいい。蛭は、治療に使うでしょ。悪血を吸わせるの方法」

「うう、はい」

 これは姫も知っている。肩や腰に悪い血が溜まって苦しいとき、蛭に吸い付かせて悪血を除去する治療法だ。


「あれは唐土の水田地帯でおこないました。北で麦作るの地帯では、もともとやらなかた。面白いことに、吸い付かせた傷はなかなか止血できないね。これを見て、太古の本草家は考えたね。


〈 なるほどぉ、蛭には血を固めないの働き、あるに違いない 〉


 それで、蛭を乾かして刻んで、煎じて、痣とか血の滞りあるの人に飲ませたら、あら不思議、病気治ちゃたよ。えー、このように、物事の見た目に惑わされず、本質を追究するのことが、とても大事なのです」

 いたずらっぽく笑ってみせる沈博士。


「うぅ、そうですけど……」

 お株を奪われた感のある虫姫は、上目遣いに沈博士を見上げる。博士はかまわず、

「蛇もね、面白いの話多い」

 とっさに虫姫は機転を利かせて、

「そっ、そう言えば、兌隈丸様から聞いたお話ですけれど、蜥蜴とかげを開いて乾物にして、何かの薬にするのだとか」


 きょとんとされて、博士は聞き返す。

「とかげ。ああ、それは蛤蚧ごうかいでしょ。日域の言葉では、なんだけ?」

「ヤモリです」

 と、亮次。

「そう、ヤモリね。よく人家の壁に張り付いてるの蜥蜴の仲間。あれは、喘息に使うだたかな。滋養強壮にも効く。日域ではあまり用いないね」


 ここぞとばかり、姫は蜥蜴方面に話を引っ張る。

「兌隈丸様がおっしゃるには、南溟のさらに南の島には、人を飲むような大蜥蜴がいて、市場で、それを開きにした燻製が見られたそうです」

「おお、すごいですね! そこまでするかな。大蜥蜴の話は私も聞いたことある。ただ、何事も大きければいいというものでもない。唐土では使たこと無いんじゃないか。だから、地元の人がどう使てるか調ぺないと、正確にはなんとも言えないね。まあ、鶏肉のような味がするだろとは思う」

「鳥ですか!」

「うむ。蛇も蜥蜴も蛙も、みんな鶏肉ね。わにも」

「鰐……」

 兌隈丸の第二漂流にて触れられた鰐を思い出して、姫は南の島を想起する。


「新鮮な肉を良く焼いて食ぺれば、それは元気になるでしょ。生はいけませんけれとも」

「やはり焼かないといけないのですね、川魚と同じように」

「そう、生の肉はね、蒸し暑いの所では気をつけないと。いつの間にか黴だらけになたり、見えない虫も憑りつきます言われてるね。たから、煙で燻すはとても良いの方法」

「蒸し蒸しだけに虫に用心、ですね」


 珍しくもご冗談を口にされた虫姫様は、テヘ、小声をもらしてにこりとされた。その小首をかしげたご様子は、通事の亮次に、なにやら少し得した気分をもたらした。


 だが、沈博士には同音のもじりが通じにくかったのだろうか、一拍、考え込まれ、

「なにか、そおいうあれね、うん、虫姫様は口がうまいのことたからなあ」


「え」

 があん。棒で殴られるとこんな感じがするのだろうか。

「口がうまいだなんて……わた、私、なにか老師のお気に障ることでも……」


 お顔色が白くなりかける姫様に、慌てて釈明するのは亮次だった。

「いえいえ、誤解です、姫様、表現が豊かだとおっしゃりたいのですよ、博士は。ほら、老師! 前にも申し上げましたでしょう。〈 口がうまい 〉は悪口になりますよって。そういう場合は、語彙豊富とか、言の葉たくみとか、他にも言いようがありますので、ええと」

「あ……なあんだ」

 肩をすとんと落とし、姫はお顔色を取り戻した。


「唐土の方は、しばしばこのような、省略した言い方をされるのです。そしてしばしば、誤解が生じます」

 落ち着いた口調で語りながら、亮次は姫と博士の双方にうなづいて見せる。


 あたふたした雰囲気が目の前に突然広がり、どうしたの、とでも言いたげなお顔をされていた博士は、ようやく腑に落ちて、

「ああ、そかそか、悪かたなあ、まだまだ私、日域の言葉づかいに、ううん、慣れてないの問題ありますか。むつかしいねー。ふむ。……そうそう」


 やおら博士は作業台に向かい、並ぶ壺やら籠やらをガサゴソかき分けだした。

「あた、あった、これ、姫様にあげようと思てた。これはネ、私の国ては音楽家のお守りのよなものです」

 何かをつまんで姫様の目前へお示しになる。それは親指くらいの長さと太さの竹筒に見えて、その中央には小さな穴が開いている。


「これは、笛の一種でしょうか?」

「ううん、似てるけど、そうてはないネ。我が国土には、堅牢な竹に穴を掘る蜂、いるてすよ」

「蜂が、竹にですか」

「そう、面白いてしょ? 日域には、こおゆうの蜂はいないネ」

「うーん、竹筒の中に巣を作る蜂はあまたおりますが、わざわざ竹の横から穴を穿つ蜂がいるとは、聞いたことがありませぬ」

「ほら、この様子は笛や笙の穴に似てるネ? たから、演奏家のお守りになるのてす」

「ふぅむ、たしかに楽器のこしらえにそっくりです」

 虫の仕業と言われなければ匠のなした技かと思えるほど、穴は見事にその丸さを示している。


「東京開封府でぇは、この蜂を造笛蜂●●●ッ●●と呼んていました。なつかしいネ」

「ざおでぃーふぉ?」

 唐人の言葉にはいちいち上下する節がついていて難しい。

「ザウテッフォ、ね。こう言わないと意味、通らないネ」

「ゾーデェフン?」

「なーに言てるだか、アナタは。もちょと発音ちゃんとしなきゃたーめよ、そなこと言てちゃいけませんのことよ。分かる?」

 小さい声で、姫はボソッと答えてみる。

「……先生から言われたくないです」

「ううむ、小癪ネ」

 こうして今日も、どちらへ向かうか見当もつかぬ奇妙な、それでいて楽しげな問答は、いつまでもいつまでも続いていくのだった。

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虫愛づる姫君 巻の二 イワイノハジム @iwaino_hajimu

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