第3話 寝室

 ベティの表情が曇っていたのはほんのわずかの時間だった。笑顔がすぐに戻ったかと思うと、何か冗談を言って、くすくす笑いながらサイモンを送り出す。

 イギリスの子供たちは通常小学校を卒業するくらいまでは一人歩きをしない。小学校5年生、6年生でも親、ないしはベビーシッターが学校まで迎えに行くのが普通だ。

 結果として午後の3時半ぐらいには学校近辺の道は迎えの車で非常にこみ合うことになる。学校から家まで一人で帰ることもできない子供たちが、子供だけで話をつけて公園に遊びに行ったりなどということも6年生ぐらいまではないので、10歳ぐらいまでは、子供が遊びに行くのも親がついていくことになる。

 放課後の迎えの時間には、子供達がお互いの両親を引っ張り合い、お友達との遊び時間を確保しようと躍起になる。

 「ねえ、○○くんと遊びたいよー!」

 そんな一番忙しい時間帯にしかベティの予約を入れられなかったことを、マキカは申し訳なく思う。とはいえ、プロフェッショナルオーガナイザーのセッションを受けたいという妻の希望を叶えるために仕事の手を止めて、子供の迎えに行くのだから、サイモンは良い父親であり、良い夫ではありそうだった。




「それじゃあ、寝室、見せていただいてもいいですか?」

 ルバーブクランブルの最後の一口を食べ終え、マキカはベティを促す。

 ベティは大きく息を吸い込むと「覚悟はいいですか?」と尋ねた。

「覚悟はとうに出来ています!」

 マキカの前にトリシャが勢い込んで答えた。

「本当に?」

「本当です」

 マキカは微笑んで見せる。

 ベティは、えいやっとでも声を出しそうに弾みをつけて椅子から立ち上がると——突然、「本当に、本当に、本当ね?」と不安そうな顔つきでマキカに確認する。

「本当に、本当に、本当です。——私たちの仕事はクライアントさんがうまく片付けられない場所のお片づけを手伝うことですから。片付いていないお家だったら山ほど見ています」

「でも、私の寝室、本当にひどいの! 多分、あのレベルは初めてだと思う」

 ベティは顔をくしゃくしゃっとさせた。

「大丈夫です!」

「ダイジョーブだってば!」

 マキカの声とトリシャの声が重なった。




 寝室は、確かに散らかっていた。

 脱いだままの服が山のように積み上がっているのがまず目に入る。全体的に暗い感じを受けるのは、モダンな配色のせいだろうか。ライトグレーの壁が三方、それにベッドの頭方向にはオーバジーンパープルのフィーチャーウォール。(✳︎1)

 「おしゃれな色合いの部屋ですねー」

 トリシャが感心したように声をあげた。

「この色合いはファロウアンドボールかな? すっごく趣味がいい」(✳︎2)

 色の構成に気づくのはさすがにトリシャだ。最近はインテリアの勉強もしているらしい。

 フィーチャーウォールに似た紫色のカーテンはモダンなデザインで、片付きさえすればさぞかしすっきりとした、モダンな部屋なのだろうと思わせる。

 キングサイズのベッドはちょっと珍しいデザインだ。脚もヘッドボードもかなり鋭角的だ。

 ベッドメイキングはしてあるけれど、ベッドの上には雑多なものが積み上げられている。近くの床には、本、雑誌。それから空のペットボトル。それぞれかたまりになっているので、なるほど、なんとか片付けようとはしたのだろう。

「いつも片付けようと思うんだけど、どうしても手が止まっちゃうんです。今日も朝から他の家事の合間に片付けようと思ってたんだけれど……」

「うーん」

 マキカはしばらく部屋の中を歩き回った。床には様々なものの山。とはいえ歩き回ることはできる程度に床が見えてはいる。

「これは、私が今まで見てきた家の中ではそんなに散らかってるうちには入らないんですが……でもちょっと気になるなあ」

 マキカは作り付けのワードローブの前に立った。ワードローブのドアは開いたままだ。閉められないのだ。引き出しの外に靴下やストッキングがはみ出している。

「……開けてもいいですか?」

 同意を得てから引き出しを引くと、中は半分空だった。

 ——なるほど。

「ベティ、エアベッドか何か、予備の寝具あります?」(✳︎3)

 マキカはゆっくりと振り返る。

「え?」

「1週間ぐらい、このベッドじゃないベッドで眠ることができるかなあって」

「キャンプ用のエアベッドだったら……」

 目をパチパチさせてベティは首を傾げた。

「それじゃあ、ちょっと床にあるものを簡単に箱詰めしちゃってこのベッド、解体してみようかなあ。1週間ぐらいエアベッドでも大丈夫ですか? 」

「そ、それは大丈夫だと思うけど」

 ベティは戸惑ったようにマキカを見つめる。

「このベッド、どこかにしまえるところはありますか?」

「地下室か……最悪、全部解体したらこの部屋の隅でも置いておけるけれど」

「それじゃあ、ちょっとやってみましょう。あと、カーテンも、洗濯ついでにちょっと車の中にあるのと差し替えてみるといいかも」

 マキカの視線に応えてトリシャが頷いて部屋を出て行った。

「あ、あの、でもそれって?」

「ベッドとカーテンを差し替えて、とりあえず、1週間いつも通りにこの部屋を片付けようとしてみたらどうかしら。……多分、これで片付けやすくなると思うんです」

「でも——片付け方のヒントか何か」

 ベティは困惑したように目をパチパチさせた。

「えっとね、それよりも、まずこの部屋の雰囲気を変えた方が、いいかもしれない。——最初は」

 マキカは眉をひそめながら紫色の壁に目をやる。

「何かポスターがあったら、ここに貼るといいかも」

「えっと、それはどういう……?」

 ベティはまだ訝しげな顔だ。

「勘に過ぎないんだけれど」

 マキカはどう言えば良いのかちょっと困ったままで、金髪のふくよかな依頼人に目を合わせた。

「ベティ、この部屋、嫌いでしょう。本当は」






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(✳︎1)「オーバジーンパープルのフィーチャーウォール」

 Aubergine Purple 茄子色の紫 という意味です。

 フィーチャーウォールとは、部屋の中の壁の一部だけ、ないしは一面だけを濃いアクセント色で塗り、視線をそこに集める手法のこと。例えば、この場合のように、一方だけをはっきりと濃い色にすることによって、他の三方の壁が明るく見えるなどの利点があります。



(✳︎2) 「ファロウアンドボール」

 Farrow and Ball イギリスで1946年から、壁紙や壁用ペイントを製造している超高級ブランド。歴史的に古い時代の色や壁紙を再現する術には定評があり、貴族の屋敷の修復などに好んで使われる。現在日本で買おうとすると2.5ℓで1万7千円ほど。


(✳︎3)「エアベッド」

 中に空気を入れて膨らませて使用するベッド。キャンプの時などに使用するが、来客時にも使われる。

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