第6話 僕と彼女の15㎝

 三回戦。


 目の前には金髪の男――我那覇茂。


 ニヤニヤとこちらを挑発的に見つめ、口をゆがめている。


 しかし僕にはその顔の奥に、確かな動揺を感じずにはいられなかった。



 ――まさか、僕がこの場で、自分の前に立つとは思わなかったんだろうな。


 それもまさか、優勝候補をKOで打ち破って。



「おい、負け村ぁ」



 リングの中央で拳を合わせながら、茂が下唇を突き出した。



「生意気なツラしやがって……ぶっ殺してやる」



 今や僕には、その言葉の意味がよく理解できた。


 茂は追い詰められているのだ。


 これまで散々見下し、小突いて金を巻き上げてきた相手が、自分とこうして向かい合っている。


 なにがどうあっても、負けるわけにはいかない相手だ。僕なんかに負けたら、茂の今まで築き上げてきたものは脆くも崩れ去ってしまうだろう。


(気の毒だな)


 僕は本心からそう思った。


 そして、そう思った瞬間に、僕の復讐は終わっていた。散々な思いをさせられた相手だし、なぐ飛ばしてやりたいと思っていたけど――そりゃまぁ、できれば金も返して欲しいけど――もう、どうでもいい。目の前にいるのは、ただの対戦相手でしかなかった。


 リング中央からいったん下がったコーナーで、僕はちらりとギャラリーの方を見た。慧真が柵に手を突き、こちらを見ていた。



「大丈夫だよ、あなたは強い」



 僕は慧真がそう言った言葉を思い出した。それと同時に、慧真が15㎝の距離に顔を近づけたときの香りも蘇ってきた。


 ゴングが鳴った。


 僕は拳を目の前に上げ、足を左右に広げて踏みしめ、前に出た。


 * * *


「残念だったね」



 夕暮れの中を並んで歩きながら、慧真が控えめに言った。


 茂を1ラウンドで倒した後、次の準決勝で僕は負けた。威力のあるパンチを振り回すブルファイターを相手に、踏み込んでもめちゃくちゃに殴られ、結局反撃の契機がつかめず、判定負け。


 だがその相手も決勝で、ボクサータイプの相手に負けた。



「……そんなに甘くはなかったってことかなぁ」



 ため息と共にそう口にした僕の顔を、慧真は覗き込んだ。



「……なんだ、泣いてないのか」


「……泣かねぇよ」


「だって、職員室ではさ……」



 そこまで言って慧真は、あっ、という顔になって口をつぐみ、顏を背けた。



「……見てたの?」



 慧真は顔を逸らしたまま頷く。



「あの時、ちょうど別の用事で職員室にいて……」



 僕は逃げ出したいような気持ちになった。カツアゲから助けてもらっただけじゃなく、先生の前で泣いた顔まで見られてたなんて――


 ――と、僕はそこで思い当たった。



「もしかして、僕の特訓に付き合ってくれたのって……」


「うるさいな! なんでもいいでしょ!」



 慧真は怒ったように言って、足を速めて歩き出した。顔は背けているままだったが、その顔は赤くなっているように、僕には見えた。


 ――そっか。


 僕は彼女が練習中に言った言葉を思い返した。



「自分がするべきだと思うことをする、それを可能にするのが武術なんだって」



 彼女がするべきだと思ったことをして、僕は自分がするべきことをした。


 そう考えてみれば、あそこで僕が涙を流したことだって、そうするべきだったのかもしれない。


 「このまま終わりたくない」という気持ちがそうさせてくれたのだから。



 ――ああ、そうなんだ。


 ボクシング部は「隠れ蓑」なんかじゃなかった。


 それは僕の「するべきこと」だったんだ。


 例えこの結果、結局ボクシング部が潰れることになったとしても、僕はそれをするべきだったんだ――



「……やっぱり泣いてる?」



 何気なく夕陽へ目を向けていた僕の脇から、慧真が声をかけた。


 見ると、慧真が顔を近づけ、15㎝の距離から顏を覗き込んでいる。



「な、泣いてなんか……!」



 僕は目元をぬぐった。



「……いいよ。なにかを成し遂げたときには涙って、出るものだもん」



 慧真はそう言って笑った。夕陽がその顔を照らす様に僕は、見とれていたのかもしれない。



「ね、お腹減らない? なにか食べて帰ろう」



 そういって先を歩き出した彼女の背中を見て、僕はまたため息をついた。


 まったく、人をノック・アウトするのに、15㎝は充分すぎる距離だ。



<終わり>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノック・アウトに必要な距離 輝井永澄 @terry10x12th

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ