第5話 ノック・アウトに必要な距離
そして迎えた大会の1回戦は、すでに2ラウンドを消化し、僕は相手に触れることも出来ていなかった。
たった一人のコーナーで息を整えながら、リングを挟んで対角線上のコーナーにいるその相手を見る。
鎌名学園ボクシング部、日下修一。僕と同じ2年生。
その後ろには、何人ものボクシング部員が並んで日下を応援していた。
「いいよいいよ! そのまま足使って!」
「相手は足無いから! 自分の距離で!」
教科書通りに綺麗なアウトボクシング。丁寧にジャブを突いて距離を固定され、僕はここまで何もできていない。
慧真とあれだけ練習した「15cm」のパンチも、相手に近づけなければ意味はない。もちろん、そのタイミングを掴む練習もしてきたはずなのだけど。
ゴングが鳴った。
僕は再び、リングの中央へ進み出る。ふと、後ろを振り返る。地方の学生ボクシングの大会なんて、ボクシング部員以外に見に来る奴は誰もいない。それは慧真も同じことで――
僕は気を取り直して、正面を見た。
日下は既にファイティング・ポーズを取っていた。その肌にうっすらと汗が浮かび、小刻みなリズムを刻んでいる。
――と、僕は自分の呼吸が乱れていないことに気が付いた。
日下は2ラウンドまで上げてきたリズムを維持しようと、ステップを踏みながら肩を揺らしている。
それに対して僕は、飽くまでもいつも通りだった。僕自身がそのことに気が付いて、驚くくらいに。
「……そうか、こういうことか」
ゴングが鳴った。
日下はそれまでと同じように、左回りに回りながらジャブを突いてくる。直線的で、硬い弾丸が目の前で爆ぜ、それがやんだらもうその場からいなくなる。
ああ、そういえば鎌名の日下って、優勝候補だって言われてたっけ――
僕は今更、他人事のようにそんなことを考えた。そして、考えながら日下の攻勢を見た。攻撃と移働が流れるように織り込まれた、きれいなヒット&アウェイ。リーチで劣る僕を、射程の中に入れようとしない。寄せては返し、返しては寄せる、その波、流れ。僕はその波の中に、半歩だけ前足をすり込ませた。
瞬間、僕の前に道が作られていた。
相手への身体へと至る、直線的で穏やかな、道。それはあまりにも間抜けで、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
後ろ足に力を込め、僕はその道を駆けた。踏み出した前足が、相手の踏みしめる足と足とのちょうど間に着地する。
――15㎝!
僕の身体は、相手の繰り出すパンチが及ぶ内側、身体と身体が触れ合う直前、15㎝の位置に肉薄していた。
まるでリングが縮んだかのように、いつの間にかそこにいる僕に、日下が慌てて距離を取ろうとする――その瞬間、リズムが崩れる。
僕は全身を回転させた。足首から膝へ、膝から腰へ、腰から肩へ、腕へ――螺旋状に練り上げられたエネルギーが、マグマのように駆け上る。そのマグマはそして、身体の前の据えられた拳へと至り――
――ドゴォ!
噴火したマグマが、日下の脇腹に炸裂した。
「ぐ……げぇぇ……」
声にならない声をあげ、日下は身体をくの字に折り曲げてふらふらと後退した。
僕の目の前には、「道」がぽっかりと開いたままだ。さらに足を踏み込み、僕はその道を駆ける。
再び、15㎝。
繰り出した逆の腕でのパンチが、だらしなく上がった相手の
振りぬいた腕の先から、日下がいなくなった。
糸の切れた人形のように、崩れ落ちて白目をむいた日下を見て、審判が慌てて試合を止めた。
その時、場内はどよめいていたのだと思う。
そりゃそうだ、優勝候補と言われた選手が、こんな手足の短い、貧相な相手に倒されたのだから。
僕はふぅ、と息をついて、リングを降りた。
「お見事」
少女の声が聞こえ、僕は驚いてその方向を見る。
体育館のギャラリーの柵にもたれるようにして、慧真が親指を立てていた。
――その時、ようやく僕の中に嬉しさがこみ上げてきた。
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