第4話 届く距離、届かない距離

 ぜぇはぁ、ぜぇはぁ――



「ほら、息が乱れてる!」



 そ、そんなこと言ったって――


 何本目からのダッシュを終え、僕は走る速度を緩めながら心の中で反論した。



「常に一定のリズムで呼吸を保つことがあのパンチを使いこなす絶対条件よ! 相手はこちらのリズムの裏をかいてくるんだからね」



 そういって慧真はまた笛を吹く。僕はその笛の音を聞くと、身体に鞭を打ってまたダッシュを敢行した。


 * * *


 両の脇を身体の前側に締め、前傾姿勢で足を左右に踏みしめる。この姿勢だと、フットワークは上手く踏めない。



「牽制にもならないジャブなんて撃つだけ体力のムダよ。闘いの流れを目で見、耳で聞き、必要な拳を使うの」



 身体を揺らしながら、イメージの中の相手の影を追う。僕はいつものように、ジャブで突き放されて手の届くところへたどり着けない。


 くそっ――


 腕を大きく振るい、相手に思い切り殴りかかりたくなる。しかし、それをじっと我慢する。



「そう。拳をギャンブルにしてはだめ。すべての拳に、すべての歩に意味を込めて、確実な突きだけを撃つ」



 僕はイメージの中で相手のジャブに耐え、じっくりと距離を作っていった。ガードを目の前でしっかり上げ、脇を固めていれば、牽制のジャブなんか気にすることはないのだ。


 見ろ、そして感じろ――こちらに押し寄せる拳の中から、ルートを見つけ出す――硬く、柔らかく。慧真が何度も繰り返したその言葉を、反芻する。


 左足を半歩、前に出したその瞬間、は突然訪れた。


 ふっと、目の前が開けた気がした。自然と、足が前に出る。イメージの中にいる相手の身体まで、まるで扉が開いたかのように、一直線のルートが見える。



――ガクッ



 次の瞬間、僕はその場に膝をついていた。


 確かにけり出したはずの後ろの脚。しかし、前の脚は思った通りの場所へとたどり着けず、前につんのめって僕はマットに両手をついていた。



 はぁ、はぁ――



 途端に、先ほどまで意識もしていなかった呼吸の乱れが、一気に襲い掛かる。苦しい、空気が足りない――



「まだ身体に動きが染みついてないのね。脚がついていけなかった」



 慧真がタオルを投げてよこした。



「休憩にしましょう……今のタイミング、よかったよ」



 彼女もまた、ひとつ伸びをした。Tシャツに隠れた身体のラインが露になり、僕は慌てて目を逸らす。



「ん? どうかした?」


「あ、いや……」



 拳法の道場で育ったという彼女は、よい意味で粗雑なところがあった。しかし、本人にその自覚がないとはいえ、健康的に引き締まったその身体のラインを意識するな、という方が無理ってものだ。



「えっと、さ……なんでこんなこと、するの?」



 ごまかしたい一心で僕は、なにげなく質問を投げかけた。



「勝つためでしょ、それは」


「ん、えっと……」



 僕自身、深く意味を考えずに投げた質問だったけど、彼女の答えに対して「そういうことじゃない」という意識は強く働いた。



「僕が勝ったとしても……篠井さんが得するわけじゃないでしょ?」


「……」



 彼女は無言で僕に背を向けた。まずいことを言ったかな、と僕は思った。だって、ここまで手伝ってくれる人に「お前は得しないだろ」なんて、失礼と言えば失礼な言い草じゃないか。



「……自分がするべきだと思うことをする。それを可能にするのが武術なんだって」



 背中を向けたまま慧真が言った。



「あの時、巻村くんに声をかけたのも、そうするべきだと思ったから。それと同じだよ」


「……強いなぁ」


「そうかな? 巻村くんも同じじゃないの?」


「僕が?」



 慧真はこちらを振り向いた。その顔は少し、怒ったように口をとがらせていた。



「クラスのみんながさ……服買いに行ったり、カラオケ行ったりして遊んでるのに、巻村くんは黙々と走ってるじゃない? たったひとりのボクシング部なのに」


「……」



 僕は無言で汗をぬぐった。慧真は続ける。



「クラスのみんなのこと、嫌いじゃないけど……でも私はああいう中にはいるべきじゃない、って自分で思ってる。巻村くんは、自分がボクシングをするべきだって思ってるんじゃない?」


「……そんなんじゃない」



 僕が呟いた声は、慧真にも聞こえたようだった。不思議そうな顔をこちらに向けてくる。


 本当はわかっている。僕はただ、人と関わるのが怖いだけだ。


 だから、「あいつらと自分は違う」と必死になって、孤独なボクシング部員という格好の隠れ蓑で自分を正当化しているだけなのだ。



「じゃぁ、なんで……」



 慧真はそう言いかけて、そのままなにも言わなかった。


 僕は立ち上がった。息はだいぶ整っている。



「練習、続けよう」



 ――今度の大会で実績を出さなければ、その隠れ蓑を失うことになるんだから。


 慧真は何も言わず、タイマーのスイッチを押した。僕は拳を上げ、構えた。

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