第3話 僕の15㎝

「10㎝の隙間があれば、人を倒すのに十分な威力のパンチが打てる……元WBC世界スーパーライト級王者、浜田剛はそう言ったらしいよね」



 サンドバッグの前に立ち、慧真は言った。



「中国拳法には発勁っていうのがあるけど……ま、そこまで行かなくても、これだけの距離があれば威力のあるパンチを打つのは不可能じゃない」



 慧真はサンドバッグの前で腰を落とし、拳をサンドバッグから15㎝の距離に止めた。脱力した身体に、ゆっくりと息を吸い込み、そして――



「……フッ!」



 短く発せられた気合と共に、


 正確に言えば、彼女の足首が、膝が、腰が、肩が――身体の部位のそれぞれが、捻じるようにその力を伝え、銃弾の薬莢に点火するかのように、手首でその力が爆ぜる。


 打ち出された拳が、15㎝先の目標に突き刺さり、サンドバッグが跳ね上がった。



「……やっぱり、、ちゃんと」



 慧真がこちらを見て微笑む。



「撃ち方はわかったでしょ? じゃ、やってみて」



 僕は彼女と入れ替わりでサンドバッグに向かった。バンデージを巻いた拳を、15㎝手前に置く。彼女のやっていた通りに、腰を落として構え、足首から身体の各部位を、ひねるように――



 ぽすっ



 情けない音と共に、拳が目標に触れた。サンドバッグはまるで揺れていない。



「……ま、そんなもんだよね。中国拳法の人じゃないんだし、その構えで撃ってもね」



 慧真が苦笑いしながら言う。その表情は活き活きとしていて、クラスで見る顔とは別人のようだった。



「……なんだよ、からかってたのかよ」



 土台無理なら、なんのためにやってるんだ――そう文句を言おうとすると、彼女は首を横に振った。



「違うよ、そういうんじゃなくてさ。拳法じゃなくてボクシングでやった方がいいってこと」



 そういうと彼女はその場でファイティングポーズを取った。



「私は、ボクシングはやったことないけど……」



 そう言って慧真は息を吸い――



 ボシュッ!



 慧真の左ストレートが空を切り裂き、僕は思わず目を見張った。



「ダメだな、やっぱり慣れないや」



 十分だと思うけど――そう思っているところに、慧真が言葉をかぶせる。



「だけどキミならできるでしょ? 基本はさっきの突きと同じ。遠くの目標を殴るんじゃなく、全身を使って拳を撃ちだすの」


「拳を撃ちだす……」



 僕は慧真が先ほど見せた突きを――その身体を伝わった螺旋状の力を、思い浮かべた。足首から膝へ、膝から腰へ、腰からさらにその上へ――関節ごとに力を足し、束ねられた力を、腕へ、手首へ、拳へ。そこで、一気に――



 パァン!



 今度はサンドバッグの表面が、きれいな音を立てた。



「いいじゃん! やっぱりキミ、だね」


「見える……?」


「力の流れが見える人。思った通りだった。だからさ」



 彼女が僕に近づいた。



「……え!?」



 近い。


 それこそ15㎝の距離から、彼女が手を伸ばす。そしてその手が、僕の方へと伸び――



 ぱしぱしぱし。



 彼女が僕の肩を、腰を、背中を叩いた。



「身体にあってない動きをするから、せっかく力が見えるのにそれを活かせないのよ。もっと小さく、前傾で」



 彼女が叩く手によって、僕のファイティングポーズは矯正され、先ほどまでのオーソドックスな右構えから、拳を前に固め、足を狭くして身体を前にちぢこめたようなスタイルになった。



「かなり走り込んで身体もバランスよく締まってるし、ちゃんとやればあの金髪に負ける要素なんてないよ」


「あの金髪……茂に? 僕が?」


「うん。あなたは強い」



 にっこりと笑う慧真の顔が、一瞬ぼやけて滲んだ。僕は慌ててサンドバッグに向かい、それをごまかした。


 * * *


 家に帰り、僕は自分のベッドへ倒れ込んだ。


 普段使わない筋肉を酷使するトレーニングに、身体が疲れ果てている。ついでに言えば、女子とずっと二人でトレーニングという状況に、心までへとへとだった。


 うつ伏せに寝転がり、ふと目をあければ、そこには自分の右拳がある。



「15㎝……」



 僕は昼間のトレーニングを思い返していた。


 彼女の見せ、僕に教え込んでいる技術。彼女がこれまで、10数年をかけてその身に宿した功夫。


 ――なぜ、それを僕に教えてくれるのだろう――


 今更ながら、僕はその疑問に行き当たった。よく考えれば、昼間はそれを聞く余裕もなかったのだ。


 つい数日前まで、ろくに話したことさえなかった慧真。たまたま通りがかって、僕を助けてくれた。そして今日は、部室を訪れて――それはどう考えても、たまたまっていうわけじゃないだろう。


 彼女がどんな人なのか、僕はなにも知らなかった。


 小柄で、華奢で、教室ではいつもひとりで頬杖をついている。それで、武術の話をしているときはあんな風に朗らかに笑って――


 ふと、15㎝の距離に近づいた彼女の髪から薫る匂いを思い出し、僕は慌ててそれを脳から振り払った。

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